(V3・百王)
気付けば目の前に、王馬が立っていた。
薄暗い室内。淡いモニターのひかり。赤い座席が等間隔にびっしりと並んでいる。
それが、王馬の背後に見えた。
それらが見えたのは、三度瞬きをしてからだ。あまりに王馬の笑顔が恐ろしかったので瞬きの後、視線を逸らした。その時に初めて見えた。
恐ろしいとはいったが、王馬の笑顔は無邪気そのものだった。初対面だったのなら、王馬小吉という存在について何も知らなかったなら、愛嬌のあって親しみやすそうなやつだ、くらいに思ったかもしれない。残念ながらこの笑顔の裏に何を隠しこんでいるのか、隙間から覗き見た後だった。
それに何か、今王馬がこれほど笑顔なことがおかしい、そんな気がした。
そしてアッと気付く。再び王馬へと視線を戻す。ばちりと目が合う。何を思っているのか読みやすそうに見せかけた、何も分からない紫の瞳と、目が合った。
相変わらず王馬は笑っていた。何か言葉をと、百田は考える。口を開こうとした瞬間、見計らったように何か、大きな箱を胸に押し付けられた。
「百田ちゃんお疲れー」
「うおっ」
若干の衝撃が体を襲う。
ぶつけるように渡しながら、あろうことか王馬は手を放した。反射的に手を差し出して、それを受け取る。かさりと箱の中身が音を立てた。途端、甘いにおいに包み込まれる。むせるほど甘ったるさの正体はポップコーンだった。キャラメル色のふわふわが、円柱型の箱にこんもりと詰め込まれている。
ポップコーン。薄暗い部屋。モニター。並ぶ座席。
映画館なのか、ここは。
問いかけるつもりで顔を上げれば、既に王馬は目の前から居なくなっていた。え、と行き場のない言葉が口の中でたまる。抱えるほどに大きなポップコーンの箱を持ちながら、呆然とする。
全く意味が分からない。そもそも俺は、と一瞬飛んでいた記憶をたぐる。
目を開けて、目の前に王馬が現れる。
その前。
きらきら光る、宙の色。
「百田ちゃんいつまで突っ立ってるの、こっち座ったら?」
記憶の海から呼び戻すように、王馬の軽快な声が聞こえた。
楽しくて楽しくて仕方がないという色をしている。良くないことでも起きそうで、反射的に眉をひそめた。
「だいたい」と文句の一つ、例えばここがどこかだとか、なんで王馬がだとか、なんだこのキャラメルポップコーンはだとか、飲み物はないのかよ、だとか。脳みその中をぐるりと流れ星のように色々な文句が過ぎ去っていく。
視線を上げれば、座席の一つにすぽりと収まった王馬が手を振っていた。
何故だか途端に全てがどうでもよくなってしまう。頭でも掻きたい気分だが、あいにく両手はふさがっている。
盛大にため息を吐き、大股にそちらへ寄る。大きな大きなスクリーンの前。すべての座席が空だというのに、一番前の真ん中に座っている王馬。そのとなりの席に腰を下ろす。どかりと、いささか投げやりに。
思い出したのだが、今更なにも気にすることなんてない。考えることもない。こいつも俺も、死んだのだ。
席についてもポップコーンを置く場所は見当たらない。ひじ掛けに小さなカップホルダーがついているのみだ。仕方がないので膝に乗せ、がさりと掴んで頬張る。ばりばりと音を立て、飲み込む。甘い。しぬほど甘い。せめて塩味と半々だったならよかったものを。これは誰の趣味なのか。王馬なのか。なんとも恨めしい。
「飲み物はないのかよ」ととなりを見れば、王馬は珍しく面食らった顔をしていた。首をかしげる。これも作った顔なのかと思ったが、どうも違うような気がした。
「百田ちゃんさ、となりに座る? この状況で」
何を考えてるんだか分からない、と言いたそうな表情に、反対側へ首をひねる。
百田と王馬の間には、肘置きしかない。少し傾けば、頭突きでも食らわせられそうだ。
「空けて座ったら他の奴の邪魔になるだろうが」
「あー、そうだね」
途端に呆れた顔を見せ、王馬が脱力した。「百田ちゃんって、そういうやつだよねえ」と、とても馬鹿にした響きで言い、手を伸ばしてポップコーンをつまんだ。
しゃくしゃくと小さい口で咀嚼している。意地の悪い笑みを浮かべるときはあんなに開くのに、どういう構造をしているのだか。つい注視すれば、嫌そうな顔を向けられた。なんなのだ。あんなに嬉しそうに手を振ってこっちに呼んだくせに。
今度こそ後頭部をがりがりと掻く。座席に背を預け、大きなスクリーンを見上げる。近すぎて実に観辛い。何の場面だか全く分からないが、建物を背に空を飛ぶロボットが、重火器をぶっ放しているところだった。爽快感があって良い。しかし気のせいでなければどうにも、既視感がある。
「ところで王馬」
「なぁに、百田ちゃん」
「気色悪い声を出すんじゃねえ……、いや、他のやつはどうしたんだ」
みてないのか、と横を向くと、王馬の手の中にはジュースがあった。「おい、俺にもくれ」と言えば眉をしかめて「え、俺と関節キスしたいの……?」と言われるので失神しそうになる。
そもそもこのポップコーンも何処から出したのだか。食べて大丈夫だったのだろうか。だが王馬も食べていたし、そのジュースも飲んでいる。たぶん、大丈夫だろう。大丈夫じゃなくとも、これ以上どうなれるというのだか分からないから、きっとこれで良いに違いない。
「俺も見てないんだよね。それに俺もここに来てから言うほど時間経ってないし。時間感覚も怪しいから、自分で言っておいてだけど、信憑性はないかな」
「なんだそりゃ」
結局分からないってことか、と嘆息すればもの言いたげな王馬の視線が百田を見た。けれど目が合うとすぐに逸らされる。尖らせた唇でストローに吸い付いている。
いったいなんだというのか。呆然と顔上げ、スクリーンを見上げる。よりにもよって何故王馬と二人なのか。そう思うが、それも当然かと、少し勝手に納得する。
瞼の裏を、星明りが流れる。
最期に観た景色の色だ。となりに座る王馬の見たであろう最期の景色と比べたらとても、とてもではないが――。
息を、飲む。
そろりと幾度目かの視線を送ると、すぐに視線がかち合った。相変わらず人の動きに敏い。特に感情も何も乗らない、フラットな視線が返された。素なのかわざとなのか分からない笑みよりは、こちらの方がよほど安心するように思われた。
「なに」
「いや、あれ、この映画なんだ? なんかキーボによく似たやつが学園破壊してるように見えるんだけどよ」
「ああこれ? 現実の映像だと思うけど」
「へぇ……、ア?」
なんだと、と聞き返すように王馬を見る。
王馬は満面の笑みでこちらを見ていた。ああまたこいつのテリトリーに踏み込んでしまったらしい。仕方がないのでポップコーンをかじる。やはり飲み物が欲しかった。
「百田ちゃんの演技もずっと観てたよ」
「マジかよ……」
「思ったより上手くて驚いちゃったなあ」
「そうかよ」
「本人からのお墨付きなんだから、もっと喜んでくれてもいいのに」
「いや嬉しくねえよ」
「でもさ、あれだけ再現度高いってことは、百田ちゃんって思ったより俺のこと見ててくれたんだねー。あははははは照れちゃうなあ」
「あれはお前があんっなに分厚い辞書みたいな台本残したからに決まってんだろうが! なんだあの鈍器みてぇなやつ。全部覚えた俺の身にもなれよ!」
「うんうん、百田ちゃんが大嫌いな俺の真似、頑張ってるの面白かったよ」
まるで天真爛漫かのように装った笑みを向けられれば、急に声を荒げることに疲れてしまった。
肩から一気に力が抜ける。以前ならもっと、言い争いになっていたに違いない。これはどういう心境の変化なのかと思う。だが、それも仕方ないものをほんの少し、あの時、垣間見た。青白い、王馬の顔。
仕切りなおす気持ちで盛大にため息を吐き出し、王馬の手からジュースを奪い取る。
ずぞ、と吸うと炭酸が口いっぱいに広がりむせそうになった。ぎりぎり飲み込んで、息を吐く。しかし喉が潤って気分がいい。
呆けた顔の王馬の手に、ジュースのカップを戻す。珍しい顔をしているな、と思った。そんな素で驚いているような顔。まあ王馬も今更、表情を作っても仕方がないのかもしれないが。
「まっ、結局終一には見抜かれちまったけどな」
王馬の計画もすげぇと思ったけど、やっぱり終一はすげえよな。とにまっと笑えば、何故か口にポップコーンが飛び込んできた。勿論犯人は王馬だが。
これでもかと掴んだポップコーンを、百田の口にねじ込んでくる。何故だ。食べ物を粗末にするんじゃねえ、と言いたいが言えない。もごもがと間抜けな音が出るだけだ。
満足したのか王馬が満面の笑みで手を放した。息苦しいほどのポップコーンを咀嚼する。
王馬がスクリーンを見上げたので、つられて同じように顔を上げる。暗い空に銃弾を打ち続けていたキーボが、いつの間にか地面に降りていた。そしてその向こうに、最原たちの顔が見える。瓦礫の山。煙の上がる校舎。夜空。ついさっきまで見ていたような、もう何十年ぶりかにみたような、親しい顔。
ごくりと、口の中のものを飲み下す。
「これ仕組みは分からねえが、現実なんだろ。終一たちは大丈夫なのか」
「気になる?」
そう問われると、どうだろうかと腕を組む。
気にならないわけはない。だが託してきた身だ。
「まあ、あいつらなら大丈夫だろ。終一もハルマキもいるんだぜ」
笑えば王馬は「ふうん」とだけ言った。もっと茶化してくるかと思ったので、いささか拍子抜けする。まあいいかと、席を立つ。うし、と気合を入れる。振り向けば、王馬は少し戸惑ったような様子で、百田を見上げていた。
「先にいった奴らも、どっかに居るかもしれねえし、探しに行くか」
「見ていかないの?」
これ、と王馬の指がスクリーンをさす。
「おう」と答えれば、王馬は呆れていた。
一歩を踏み出す。
振り向いてみれば、相変わらずほかには誰も居ない。だがこの部屋の外ならどうだろか。
外へは出られるのだろうか。出られたとしても、どこに繋がっているのかは分からない。もしかすると扉一枚の向こうには、宇宙が広がっているかもしれない。そもそもここは既に宇宙なのかもしれない。そう考えると少し、わくわくした。
浮足立ちながらかかとを浮かせる。だが二歩目は大きく動かせず、近場を踏んだ。抱えたままの、このポップコーンはどうしようか。非常食として持っていた方がいいかもしれない。腹が減るのかすら、分からないが。
改めて片手に抱えなおし、三歩目を踏み出す。
絨毯の毛足を踏む間抜けな足音が、自らの者以外にも聞こえて驚いた。
振り向けばすぐそばに、王馬の姿があった。
「なんだ、来るのか?」
まさかついてくるとは思わなかったと、驚いていえば王馬は傷ついたふりをした。
「こんな何処ともわからなくて心細い場所に、一人置いてこうとするとか百田ちゃんひどいよね」
「ポップコーンだとかジュースを調達してくるほど、馴染んでる奴が何言ってんだよ」
「あれは俺も気付いたら持ってただけだから知らないよ」
「じゃあ俺のジュースはどこいったんだ」
「それは俺が飲んだよ!」
「てめぇ!」
大声を出して、すぐに脱力する。
はあ、と幾度目かの息を吐き出して歩き出す。王馬は横に並んでいる。楽しそうに頭の後ろで手を組んで、小さな体で百田の歩幅についてくる。
出口はあっさりと見つかった。一番後ろの席の横。ごく普通の扉。
真鍮の取手をつかむ。扉を押し開く最中「百田ちゃん」と呼ばれた。
「宇宙はどうだった?」
振り向けば王馬が顔を覗き込んでいた。
それに俺は、笑って答えた。
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