今その時だけ過去のこと

(リイテツ)

 洒落たバーのカウンター席に座っていた。
 店内の照明は淡く、雰囲気のいい曲が掛かっている。出される酒も美味い。添えらえたつまみも美味い。他にも客の姿が見えるが、店の雰囲気に合った上品な客ばかりだ。実に良い空間だと思う。
 だから余計に、となりの席で伏している男の姿が異様に目に付いた。
「いいのかそれで、仮にも護衛だろ」とグラスを傾けながら、伏した頭に向け囁く。それに対する返事は舌足らずな「しらん」の一言だけだった。
 呆れてため息が出そうになる。
 この店のカウンター席の数は十。ここが一番端の席。そのとなりで伏しているこいつ、そして反対の端の席に護衛対象の二人。座っているのはこの四人だけだ。
 護衛対象の二人は、魔界の王と、天界の王だ。つまり自身と、このとなりの男の上司であり、護衛対象でもある。彼らはこちらの気も知らず、とても呑気に談笑しながら酒を飲んでいる。
 あれを王同士の密会とでも言えば格好はつくのだが、そんな大それたものでもない。ただ友人と飲みに来た以上の意味はないだろう。
 一応、様々な手続きの関係で天界へ来たまでは公務。それも夕方には終わり、その後お忍びで食事に出てきて今に至る。
 護衛など必要もないくらいだとも思う。魔王を害することが出来る人材も限られている。だが、仮にも王だ。公務の隙間で何かあっても困る。
 なので、出掛けるなら名ばかりでも護衛を付けろと進言した。そこまではよい。「それもそうだな」とあっさりと承諾されたかと思えば、相手方の護衛にこれが着いてきた。
 これ。となりで空のグラスを掴んだまま伏している男。
 着いてきたというよりは、王の勅命のため渋々引きずり出されてきたという様子のこの男。
 彼と旧知であることも間違いはない。戦場で会ったことも、今と似たような状況で会ったことも、他にも。それは上司も承知の事実で、だからか「お前らも積もる話があるだろ」と変な気を回され、こうして二人離れた席に追いやられていた。
 どちらかと言えば、向こう二人が気兼ねなく話したいからなのではないか。とも思わないでもない。こうして食事をしてのんびりと酒を飲む席というのは、彼らもまた久し振りのはずだ。いったい何年振りだろうか。それこそ何十年。懐かしむことも、これからのことも、話すことは山ほどあるだろ。
 だというのにだ、この男はこうして早々に酔い潰れていた。
 グラスを置き、胸ポケットから葉巻を取り出す。視線の先で栗色のくせ毛が、彼の呻きにあせてふわふわと揺れている。
 葉巻を口に咥え、空いた手でそのくせ毛に触れる。昔はもっとパサついていたなと思い起こせば、このところのこいつの呑気な生活が垣間見える。通りで鈍るわけだ。
「おい」と声をかければまた「しらぬ」と返事がある。
 今日会ってからというもの、知らん知らぬの言葉しか聞いていない。いったい何を根に持っているのだか知らないが、まるで他人かのように無視をする、視線を逸らす、知らんと話をぶった切る。
 唇の隙間から煙を吐き出し、視線を上げる。
 向こうの席で王二人が肩を寄せ合い、話し込んでいる姿が見えた。些か気掛かりなのは、魔王の方は随分酒が回っている様子だということだろうか。片や妖精王は平時と何も変わらない顔色でくすりと笑っている。彼が魔界に居た頃とは随分な違いだ。
「元気そうで良かったな」と何気なく零せば、今度はしらんとも返ってこなかった。代わりに寝息が聞こえてくる。流石に呆れた。名ばかりとはいえ護衛を任された身として、何か思うところはないのか。まあ本当に、名ばかりなのだが。
 改めてじとりと、栗色のくせ毛を見下ろす。
 昔と違わず高い位置でくくられた髪が背中にかかり、腰へと流れている。伏していると顔も見えず、昔となんら違わないように見える。いささか体の線が丸くなったか、というくらいだ。
 頬杖を付く。向こうでは王が談笑している。あそこまでは望んでいないが、それなりに話をすることを楽しみにしていた部分は、ある。何せこちらだって何十年振りだ。
 こどもの様に稚拙な無視を続けている姿は面白いが、こうも一辺倒だと飽きてくる。そして少しばかり、腹も立つ。
「折角だから俺達も昔話でもしよう」と勝手に決めた最後通告を出した。これも無視されたのならば、実力行使に出るとしよう。
 少し待つ。当然の様に寝息で済まされた。
 ならばいいかと束ねた髪の下に手を滑り込ませる。首根っこを掴むと無理矢理顔を上げさせた。
 うっすらと目を開け「んあ」と寝惚けた声をだすその顔に、ふっと紫煙を吹きかける。完全に不意打ちをだったため、男は盛大にむせた。
 むせながら「何するんじゃ!」と喚く。本日初めてしらん以外の言葉がでたなとにやにやとすれば、涙目になった男に思いきり睨みつけられた。その表情が昔のことを思い出させるようなものだった為、懐かしさに少し、油断をした。
 その隙を目聡く見付けられた、のだろう。急に襟を掴まれた。そしてぐっと、思い切り引き寄せられる。驚いて慌てて、カウンターに手を付く。引き寄せられた先で、何故か唇が触れ合った。
 酒の匂いがする吐息が笑う様に吹きかけられ、離れる。同時に襟も離された。
 呆気にとられていると、男がけらけらと笑った。
「ふははっ、仕返しじゃあ。鬼魔将ともあろう奴が油断したのう!」
 どうしてそうなる。
 確かに油断した。それは事実だ。だが、どうしてそうなった。知らん知らぬからどうしてそう。急に、記憶でも飛んだのか。
 たった一瞬でもつれきった思考回路を解きほぐしながら、ようやくのことで「どうしたんだ」と口から出す。
 その時にはもう男はカウンターに頬をすりつけ、目を閉じていた。「は、」と思わず声に出る。本当になんだというのだ。
 それ以上言葉も見つからない。かける言葉もなくただ栗色の髪を見下ろしていると、ふと視線を感じた。
 顔を上げた先で、酔いが醒めた様子の魔王と目が合った。