(ワートリ・迅嵐)
夏の夜も更ける頃、廊下を歩いていた。皆寝ているのか分からないが、玉狛支部の中はとても静かだった。
共用のシャワールームを出て一人、常夜灯のみ灯る廊下を進む。開いた窓からは流れる川の音が聞こえてくる。
立地のおかげもあって、真夏でもここは涼しい方だ。とはいえ暑いことにかわりはない。風呂上りともなれば尚のこと。乾かしたとはいえまだ湿っている髪をかきあげる。は、と息を吐けば「あっちぃ」という言葉が勝手に口から出て行った。
正直、Tシャツなんて脱いでしまいたいところだ。幸い今夜泊まっている女性陣は誰もいない。だったらいいのでは、という気持ちと、いやいやしかし、という気持ちがせめぎ合う。
些細な葛藤にさいなまれているうちに、自室の前に辿りつく。鍵はかけていない。
なにせ今日は嵐山が泊まりに来ている。
たまに一緒になった防衛任務の後、そのまま並んで帰ってきた。それに明日は二人とも非番だ。となれば何処かへ出かけようということになり、ならば泊まってく? となり、じゃあお言葉に甘えるか、と笑った嵐山の顔は容易く思い出せる。街灯と僅かな星明かりしかない閑静な道だったのに、やけにあの笑顔は眩しく光って見えた。時折目がくらむ様に思う。
「あらしやまー」と声をかけながら扉を開く。「戻ったけど」
アイスでも買いに行かない? と口に出したかった言葉は、部屋の中に見えた光景を前にすっ飛んで消えた。
暑いし風呂上りだし、ここはぼんち揚げじゃなくてアイスでしょ、とか。夜のコンビニに二人で、二人とも風呂上りで行くってなんかちょっと、あれだよな、とか。嵐山は先に風呂に入ったので、もうとっくに涼んでいるだろうけれど、とか。色々考えていた。
しかし問題は、その嵐山は、嵐山が、ベッドで横になっていることだった。あろうことか、パンツ一枚で。
一瞬で頭の中がまっしろけになる。その後で膨大な量の情報だとか思考だとか、なんともつかないあれやそれやだとかが、一斉に流れ込んでくる。
なにせ嵐山が自分のベッドに、下着一枚で寝そべって、更に目を閉じている。
これが他の誰か、例えば太刀川だとか、例えば遊真だとか、その他もろもろ男友達の誰かだったなら。そうだったなら、なんでもう寝てんのとか、なにちゃっかり人のベッドつかってくれちゃってんのとか、蹴っ飛ばして落としてやろうかなだとか、今のうちに要らぬ悪戯でもしてやるかなとか。そんなことを考えてお終いなところだ。結局は軽く頭を叩いて起こして、アイスを奢らせでもしようかという程度のことだ。
しかし記憶が正しければ、嵐山と自分はお付き合いをしているはずなのだ。
付き合うことになったまでの経緯は省略するが、一応しょっぱいこととかしんどいこととか、あれやこれやを含みながらも、小恥ずかしい思いをして嵐山の恋人の座を手に入れたはずだ。もしこれが妄想だったというなら今すぐその窓から川に身を投げて、二度と浮いてきたくない程だ。
息を吐き出しながら、瞬きをする。
もう一度改めて良く見る。何度見ようとも、どう見ても、白いシーツの上で嵐山が仰向けに寝ている現実は揺るがなかった。
結構睫毛が長い、だなんてことはとっくに知っている。ボーダー隊員だけあって体もしっかり鍛えていることも知っている。パンツ一枚で寝転がっていても、恥ずかしくなるような体つきはしていないことだって。
むしろ見ているこちらが恥ずかしい。いや、大浴場だとかで裸くらいは見慣れている。けれどそれとこれ、自分のベッドの上で寝ていることとでは、天と地ほども違う。あんまりだ。
部屋の敷居を跨ぎかけたところから、まるで動けない。いやはやこの展開は読み逃がしていた。読めていたなら、それはそれで動揺していただろうから、むしろ良かっただろうか。いやあまりよくもない。不意打ちは、とても悪い。不覚にもかなり動揺している。実力派エリートともあろうものが、だとかなんとか、頭の中をよぎっていく。
頭の中に浮かぶあれもそれも、予知なのかはたまた自分の妄想なのだかも判別できないくらいには動揺していた。一番平和的に見えたのは二人並んでアイスを買いに行くルートで、一番取り返しがつかなそうなのはトリガーを起動した嵐山に撃たれているルートだ。理想的なのは、このままごく普通に青少年らしくやらしー展開なるルートだが、ただの下心が見せている妄想の可能性も拭えない。最早何がなんだかさっぱりだ。
ぐるぐると目が回る様な心地に包まれ卒倒しそうになっていると、ぱちりと嵐山が目を開けた。「あ」と自分の口から勝手に声が出る。嵐山はくあと欠伸をし、体を起こした。
「迅? 遅かったな」
「えー、あー……そう?」
「すまない勝手に使わせてもらっていた」
「いやー、別に、いいんですけれども」
起き上がった嵐山が、ベッドの縁に移動する。そういえば、昨日は広報の仕事が忙しかったとか聞いていたな、とあまりに今更に思い出す。「眠かったなら全然、使ってくれていいよ」と、再びすっからかんになってしまった脳内が、勝手にいい感じの言葉を呟いた。嵐山はそれを聞くと照れくさそうにはにかんだ。あ、可愛い。じゃなくて。
ふと、ひんやりした風が正面から吹いてきた。それが風呂上りの体に妙に冷たく感じる。さっぱり気付かなかったが、いつの間にか窓が開けられていた。
「あ、窓を勝手に開けてしまったんだが、良かったか」
「いいけど、どして窓?」
「風呂上りだと暑くてな」
「それならクーラーつけてくれたら良かったのに」
「流石に人の部屋で勝手につけたら悪いだろ」
「はは、嵐山は律儀だな」
へらと笑った後、未だ下着一枚の嵐山から目を逸らすように「じゃ、点けますか」とクーラーのリモコンに手を伸ばす。ピという電子音の後、ゆっくり噴き出してくる冷風を逃がさないよう窓を閉める。「ありがとう」と笑う声が背中にかかった。
ひっそりと一度、深く息を吸う。それを吐出す。そして意を決し振り向く。
「ところでさ、嵐山」
「なんだ、迅」
「どうしてパンツ一丁なわけ」
風呂あがったぞ、と戻ってきた嵐山と入れ違った時、彼は確かハーフパンツとパーカー姿だった。ハーフパンツは自分が貸したもので、パーカーは嵐山が着てきたものだ。
それを指摘すると、嵐山は少し恥ずかしそうに眉尻を下げた。
「暑かったんだ」
「ああーなるほど」
ぽんと手を打って、そりゃそうかと納得する。少しばかり、おや何かおかしいようなとは思ったが「すまない直ぐに着る」と慌てて立ち上がった嵐山に、その思考がかき消される。男同士でパンツくらいどうということないはずなのに、ぐるりと目が泳ぐ。
「別に良いよ」と、慌てる嵐山を気遣うように声を掛けながら、これではパンツ一枚でも良いと言っているみたいじゃないか、なんて逆にこちらが焦る。
それはなんというか、下心があるみたいじゃないか。いや、実際あるのだけれど。無いはずがないのだけれど。幸い嵐山はそういう受け取り方はしなかったようだ。ベッドの縁に置かれていたパーカーを手繰り寄せている。
「それ着たら、アイスでも買いに行く?」と自分が発した言葉と「どうせ脱ぐなら着なくてもいいのか」というどこからか聞こえた言葉が重なったので、あまりに驚いた。
「え」という言葉が二人分重なっていた。
嵐山も驚いた顔で、こちらを見ていた。
たっぷり見つめ合うこと三秒間。嵐山の顔がさっと赤くなったのが見えたが、同様に自分の顔も赤くなっているだろうことが分かった。風呂上りとは別の意味で熱くなる。
え、まじで、という間抜けな言葉が口からぽろりと零れ出る。「泊まりに来るかって、そういう意味かと」と途切れ途切れに、嵐山が目を逸らしながら呟いた。ざあっと胸の内に色んな感情がわく。嬉しいだとか、純粋な下心とか、こんな風に言わせてしまって申し訳がないとか、あんまりな下心とか。
とにかく何か言わなくてはと、大きく息を吸い込む。
「アイス買いに行くか!」という嵐山の声と「アイス食べた後で勿論!」という自分の声が重なった。
やっぱり窓から飛び出して、川に身を投げてしまいたくなった。