千日の無自覚

(P5主喜多)
 
  

「こんなことに君を呼び出してすまない」
 凡そ一ヶ月ぶりに会ったというのに、祐介は眉尻を下げていた。
 呼び出された先は、よくある居酒屋だ。安価で、何処にでもあるチェーン店。
 一応という程度の薄い壁で区切られた個室が今日の舞台だ。
 席は掘りごたつ。自分が座るのは入り口から一番遠い角。となりには祐介。その奥に男がもう三人。席は十個。
 個室であるというのに、あまりに騒がしい。今日が土曜日だということも関係あるだろうか。それにしたって騒がしい。壁越しにどこの誰とも知らない人の自己紹介がはっきりと漏れ聞こえてくる。今月から移動になりました――です。どうぞご指導ご鞭撻のほど。
 それが当然、うるさい。なので話しをする際には祐介が少し肩を寄せてくる。僅かに顔を近付けて、まるでこそりと秘密を打ち明けるように話をする。
 声が届きにくいからそうしているだけ、でもないらしい。すぐそばにみえる彼の顔には些か、申し訳ないという気持ちが滲んで居るように見える。
 ひそりと話す祐介が視線を下げると、彼のやたらと長い睫毛が影を作った。
 こんなこと、というのは合コンの席だった。
 五対五。それで十人席。向かいの席はまだ全て空いている。こちら側には男しか居ない。
 祐介の向こうに座る三人とは、先程初めて顔を合わせた。凡そ同い年であろう、と思われる。祐介と同じ大学だと聞いたが、それ以上のことは不明だ。その程度の自己紹介しか交わしていない。それでとくに不足がない。
 つまるところ、自分は数合わせに呼ばれたのだ。
 祐介の視線が、こちらへと向けられる。そろりと黒目が動いて、更に肩を寄せてくる。今度は声が届かないからではなく、本当にひそひそ話をするために。
 話始める前に、祐介は一つ溜息を吐いた。
「そもそも俺も合コンなど乗り気ではなかったのだが、会費は向こうが持つと言われては、抗い難かった」
「食事で釣られたのか。なるほどな、納得だ」
「すまない。バイトを始めたとはいえ、やはり絵を描く時間を取ろうと思うと満足にシフトが入れられなくてな」
「まあ、俺の分まで食事代持ってくれるっていうし。構わないけど。むしろ申し訳ないくらい」
「それは気にしなくていいだろう。ご覧の様だ」と祐介が顎で三人を示した。
 更に声を潜めて話し掛けられる。肩が触れる。
「詳しく知らないが、どうやら相手は有名な女子大生らしい。五対五と言うのは先方の指定で、彼らは三人。そして俺。あともう一人足らない。そこで彼女持ちで相手に興味を持たなそうな人材を俺に連れて来いといったんだ。中々無茶をいうだろう」
「あー」
 なるほどね、とおおよその事情を察した。向こうに見える三人は、どうしても勝率を下げたくないらしい。
「でも俺、彼女いないけど」
「それはそうなんだが。こんなことに付き合ってくれと頼める間柄の相手は、あとは竜司くらいしか思い当たらない。そうなると、君になるだろ」
「はは、なるほどね。ご指名頂き嬉しいよ」
「そう言ってくれると助かる」
 くすりと笑った祐介が、割りばしの袋を撫でた。箸はまだ割られていない。
 ふと指先を止めた祐介が「む、この紙は」などと言い出すのが可笑しい。相変わらずというか、あまり変わらないというか。漠然と安心する。
 箸袋を掴み上げる祐介の指先に、うっすらと絵の具が付着していた。ここへ来る前もきっと絵を描いていたんだろう。
 一度離れた肩を再び寄せて、すんと匂いを嗅ぐ。「なんだ」と怪訝そうだが不快ではない様子の祐介の視線が頬に刺さった。
「絵の具の匂い、するかなって」
「さあ、どうだろうか」
 箸袋を置いた手が、こちらに差し出される。改めてその袖口に鼻を寄せる。
 息を吸い込むと嗅ぎ慣れた匂いがした。「あ、久々」と笑えば「時間がなかったから着替えてこなかったんだ」という苦笑が返ってきた。
「気になるか?」
「これだけ寄らないと分からないし平気じゃないか? 俺は全然、祐介だなって感じだし」
「ふふ、なんだそれは」
 なんてやり取りをしていたら、奥の男子三人が騒々しく立ちあがった。
 慌てた拍子に誰かが机にぶつかったらしい。机が揺れ、詰まれていた小皿がカチャンと音を立てた。
 それから「遅れてごめんね」という高く可愛らしく整った声が聞こえた。個室の入り口に、女の子の姿が見える。
 どうやらこれでメンバーは揃ったらしい。祐介が期待のこもった眼差しで、飲み放題メニューをながめはじめた。アルコールの名前が並ぶメニュー表を見ると、もう二十歳になったんだったなと、今更なことを感じた。
 あれからもう三年だ。
 気付けばもう酒を飲むこともできる。煙草も吸おうと思えば吸える。
 十七歳だったころはすでに、過去のことだ。祐介や皆が戦友であり共犯者であった日々も。
 急に時の流れを感じた。
 目の前にはアルコール。埋まった十個の席に座る男女が、探り探りの自己紹介を交わしている。それを差し障りない程度に聞き流す。そして差し障りない程度の自己紹介を述べる。
 一様に着飾った女性陣の視線は、基本的に祐介に向いていた。なるほどそういう理由かと、祐介がタダ飯を餌にこの席へと呼び出された理由に納得した。
 会話の合間に、こそりと、祐介に話しかける。
「向こうの三人と祐介、どういう知り合いなわけ」
「なんだ気になるのか。今更だな」
「そうだけど。さっきの自己紹介聞いたら、学科が祐介と違ったから」 
「まあ、知り合いではないからな」
「え、知り合いじゃないの? それでどうやってこの席に呼ばれたんだ」
「大学内で、急に声をかけられた」
「……それ大丈夫?」
 なにか良くないあれ、なのではとこれまた大層今更に勘ぐる。祐介は心配性だなと苦笑した。
「同じ大学なのは本当だ。それと、この前コンクールに絵をだしただろう。その絵を相手方の女性が気に入ってくれたという話をされてな。そう言われると、まあ悪い気はしない」
「それほんと?」
「飯は本当だろ」
「まあね」
 割り箸を割る。いつの間にか取り分けられていたサラダを口に運ぶ。
 祐介がコンクールに出した絵は、自分も見に行った。その時賞を取っていたので、絵を気に行ったという話は本当のことかもしれない。
 ただその関係で雑誌の片隅に、絵だけでなく本人の写真も載ったりしていた。なのでつい、疑ってしまう。
 祐介は元々その容姿ゆえ、高校時代からモテてはいた。しかし本人は相変わらず絵に一途でさして興味がない様子なのが救いだった。
 ごくり、とサラダを飲み込み、はたと我に帰る。
 救いだとは。どういうことだったか。
 
 
 途中で席替えをすると、祐介とは離れてしまった。
 それがどうしてか、落ち着かない。
 離れたというよりは、祐介が連れていかれたという方が正しいかもしれない。席替えを提案したのも女性側からだ。おかげで手際よくさらわれていく祐介の背中を見送ることとになった。
 そして今は斜向かいで、がっちりと両脇を女性に挟まれている。あれやこれやと振られる話題に、さり気無く質問を織り交ぜられ、問いただされているようにも見えた。
 祐介はその中でも出された料理をきっちり食べ進めていた。それが少し可笑しい。
 綺麗な箸使いで食事を口にしながら、合間にきちんと返事をしている。その内容が的を射ているかは、また別の問題だが。
 自分も今日は食事をしに来たというのが本題だ。なので軽く会話に混ざる程度にとどめ、料理を食べ進める。そうしていると、気付けばとなりに女の子が座っていた。いつの間に、と驚きながらからあげをほおばる。
 にこりと笑い掛けられたので、同じように笑い返す。そうすると「一人だけ大学が違うのは、喜多川君に呼ばれたお友達だからって聞きました」と言われた。やっぱりそっちか、なんて思いながら何故だか急に、少し、焦った。
 焦りの理由もわからぬまま「喜多川くんって高校時代から絵が得意だったんですか」という問い掛けに頷いて答える。きゃあきゃあとはしゃぐ声がぼんやりと遠ざかる。
 すとんと、思考回路が自分の意識の内側へ落ちた。この感覚は少しだけ、あれに似ていた。あの部屋に、落ちる感覚。
 ところで自分と祐介は、友達なのかと疑問に思った。そしてまた焦る。焦って、どうして焦っているのだかを考える。不思議に思う。どうしてだっただろうか。
 視線の向こうに、祐介の姿が見える。その両脇には女性の姿も見える。祐介が笑っている。
「どうかしたんですか?」
 と、不思議そうに問い掛けられて我に帰った。となりに座るその子とぱちり目が合う。そのことにとても驚いてしまう。慌てて取り繕って「何の話だっけ」と誤魔化した。
 相変わらず祐介は向こうで取り囲まれている。ただ両脇の顔ぶれは、ころころと入替っている。気付けば先程となりにいた子も、向こうに座っていた。
 残りの男子三人が思いの外空ぶっていた事は気の毒だが、こちらではどうともし難かった。ただただ、女子全員の意識は祐介に注がれていた。当の祐介の視線は無常にも食事に奪われている。
 おかげさまで、二次会もなく解散となった。
「今日はありがとうございました」と女性が並び、愛らしく会釈をして去って行く。それを男三人が悲しげな眼差しで見送っていた。きっと誰も、何のみのりもなかったのだろう。
 そうなればもちろん、これ以上彼らと会話が弾むはずもない。適当な挨拶をして「じゃあ」と店の前で別れた。
 とぼとぼと去っていく後姿を眺めながら「どうする?」ととなりの祐介へと声をかける。
「このまま電車に乗って帰ってもいいのだが、少し歩かないか。一駅くらい」
「電車賃また節約してる?」
「そうでもないんだが。折角君と久々に会えたんだ、もう少し話をしたい」
「そうだな。俺も話したいし。二駅でも三駅でもいいよ」
「魅力的な誘いだが、三駅は結構遠いぞ」
 けらけら笑う祐介の声に釣られ、歩き出す。
 居酒屋の立ち並ぶ通りを外れると、行き交う人の数がぐっと減った。アスファルトの地面を、等間隔に置かれた街灯の明かりが照らしている。静かな夜の道を、男二人並んで歩く。
「電車賃を節約している訳ではないと言ったが、実は次の駅まで歩くと定期の内になるんだ」
「あー、そういえばそうだっけ」
「ここを歩くと、明日の夕飯が一品増える」
「それは大ごとだな」
「やはりバイトのシフトを増やそうか、ということも考えるのだが、これ以上絵を描く時間を削りたくもないんだ」
「知ってる」
 頷いて、それから笑う。祐介の絵に対する情熱は、出会った頃から全く変わっていない。おかげでこうして会うのが一ヶ月ぶりになったりもする。
 怪盗をしていたあの一年間は、とても頻繁に顔を合わせていた。今でも連絡はまめに取り合っている。とはいえあの時と比べてしまうと、どうしたって時間は減っていた。それでも高校三年の一年と比べれば増えている。
 そうやって何かが少しずつ変わっていく。そのことを分かっているつもりだったのだが、どうにも甘かったらしい。
 思った以上に祐介の周りは変わっていく。
 それを今日、実感したのだと思う。三年の時間が、急に見えた。周りだけではない、祐介の変化も。油断をしたら掠め取られてしまうかもしれない、事実を。とられては困るという、心情を。
 は、と息を吐く。瞬きをする。視線を上げれば街路樹が見え、その向こうにべたりとして濃淡のない、都会の夜の空が見えた。
「そういえば、前のコンクールの絵、俺も見たよ」
「そうチャットで連絡をくれたじゃないか。どうしたんだ今更」
「いや、直接は伝えてなかったなって思って」
「その少し前から会っていないからな」
「一ヶ月は、思ったよりあっという間なんだな」
「そうだな。一日一日準備を積み重ね、気にかけていたあの頃とは大違いだ」
 思い起こされるのは怪盗団だった頃の日々、というのは祐介も同じのようだ。そのことを嬉しく思う。
「そうそう」と頷いて笑ってから「じゃなくて」と慌てて話を戻す。
 言いたいことは、それではない。
「その話じゃなくてさ。祐介さ、絵がちょっと柔らかくなったな」
「そうか? そういえば、この頃時折そんなことを言われるな」
「さゆりにある柔らかさみたいなの、ああいうのが滲んでた」
「そうか? それが本当なら、嬉しいことだな」
 有難う、と目を細めて笑う祐介は綺麗だった。
 それに少しの優越感を覚える。優越感という言葉を思い浮かべてから、あ、と思う。ひそりと、苦笑いをする。
 勿論、ごく普通に嬉しくも思っている。だけれどそれだけではない、という事実も確かに存在する。
 息を吸い込むと、夜のひやりと冷えた空気が喉の染みた。
「そういえば、さっき良い子は居た?」
 この問い掛けは流石に、意地が悪いだろうか。
 同じ歩幅でとなりを歩く祐介を伺い見る。予想に反して彼はけらけらと笑って「次は魚が良いな。刺身が食べたい」なんて言った。
「揚げ物が多かった」
 その答えに「ふはっ」と笑い声が漏れてしまう。
 丁度高架下を歩いていたものだから、笑い声が反響して大きく遠くへ響いていった。それを打ち消すように頭上を電車が通過ていく。がたんごとんと音が響く。
 あと信号二つほど進むと、駅に着く。
 人通りは相変わらず少ない。土曜の夜だというのに。
 存外つぼに入り、くっくっと腹を押さえて笑う。その隙に祐介は三歩四歩と先に行ってしまう。
 電車が通り過ぎる。自分の喉から、息を吸い込む音が聞こえた。
「祐介」
 呼べば彼のすらりとした後姿が歩みを止め、こちらを振り向く。
 ふと狐面の姿が瞼の裏に蘇って、現実と一瞬重なって幻のように見えた。
 あれから三年。
 怪盗団の仲間で戦友だった間柄は、普通の友人へと落ち着いた。そして、それでは少し困ってしまうということに、先程気付いた。
 彼が足を下げて、こちらへと向き直る。「どうしたんだ」と問いかけられる。
 次の言葉は、驚くほど滑らかに舌に乗り、口から出て行った。
「祐介、俺と付き合あおうよ」
 自分でも驚くくらい、すんなりと。今まで言葉にしなかったことが不思議なくらい、それは簡単に音になった。
「困るんだ、人に盗られると」