王の瞳

(ロキオズ)

 
 
 

 扉が開く。扉の内側は世界評議会幹部の、オズの部屋だ。
 カギはかかっていない。中に人がいるからであり、中で密談の類が行われていないからだ。
 部屋の中は静まり返っていた。外はもう夜の色合いだろうが、部屋の中は淡い光に染まっている。幾つものランタンがふわふわと浮き、優しい色に照らしていた。暗くはない。かといってまばゆくもない。執務室としては些かゆったりとし過ぎている。静かに長く息を吸い込むような、穏やかな時間の停滞を感じる。そんな色合い。
 そこで一つ、息を吐き出す音がした。声をかけようとして躊躇った、息の音。
 部屋の中、真ん中に置かれたテーブルに伏して、部屋の主は眠っている。
 かわいらしい柄のテーブルクロスの上には、編みかけの毛糸の塊が置かれている。まだ何を作ろうとしているのか、分かるほどの進捗ではない。まさに作りかけで眠ってしまったというように、木の棒が二本転がっている。どこまで編んだのか、分からなくなってしまっているかもしれない。
 小さく小さく、寝息が部屋に広がっていく。
 その寝息を気遣うように、押し殺した足音が部屋を進む。消しきれなかった、消しきるつもりもなかった衣擦れや、小さな足音がテーブルへと近付く。すぐそばまで寄ると立ち止まる。そうして机の端、伏したオズのすぐ傍らに腰を下ろした。
 部屋では未だ、明かりが揺れている。時間の感覚も場所の感覚もなくなってしまいそうな平穏。これは部屋の主の趣味だ。
 視線がオズの頭へと静かに落ちる。じっと見つめる。そのまま無音の時が流れる。
 しばらくして、オズの金色をした髪にそっと触れた。指先で少しだけ、梳くように。起こしはしない程度に。触れたことが悟られないように。そんな距離で。それくらいの柔らかさで。
 チリチリと、指先が痛むようなそんな、そんな心地がした。
 閉じた瞼が小さく震える。気付かれてしまったかもしれない。触れる指先が止まる。そろりと離れる。何もなかったように。誰にも何も、知られていないように。
 少しだけ悩んで、それからゆっくりと瞼を持ち上げた。今まさに、目を覚ましたという様子を装って。
 二、三度瞬きをする。目を慣らすほど部屋の中は明るくない。じわりと視界に物が映り込む。オズの紅い瞳には、ロキの足が見えていた。やっぱりと思いながら、体を起こす。わざとらしくない程度に目を擦り、欠伸を噛み殺しロキを見る。視界に映したロキは見慣れた、わざとらしい笑みを浮かべていた。
「起こしちゃった?」とロキは組んでいた足をほどき、机からするりと降りる。
「起こしてくれたらよかったのに」とオズは答えて伸びをした。やはり机に伏して眠っては体が滞る。
 椅子の向きを変え、となりに立つ姿を見上げる。今小さく隠し事をしたのは、お互い様だった。
「それで、どのようなご用件ですか」
「用事がなければ来てはいけない?」
「いえ、けれど本当に用はないのですか」
 遊びのように言葉を交わす。くすりとオズが笑えば、つられたようにロキも似た笑みを浮かべた。
 ロキは「相談」といたずらっぽく笑った。
「おや、次の悪だくみですか」
「悪だくみだなんて、人聞きが悪いなあ」
「ふふ、さあ座ってください。お茶でも淹れましょう。悪だくみでも、相談事でも、お供は必要ですよ」
「悪だくみと言えばお茶ではなくて、お酒とかじゃないのかな」
「そんなことをいって、あなたは呑まないですよね」
 立ち上がるととなりの椅子を引き、ロキへと勧めた。彼はそこへ、素直に腰を下ろす。そしてテーブルに頬杖をつき、オズの方へと視線を投げた。
 その視線へ「なんでしょう」と振り向く。ロキは指を鳴らして応えた。
「いつもみたいに出さないの?」
「三分も待てないのですか、あなたは」
「うん」
 堂々と嘘をついてみせるので、仕方がなくオズは指を鳴らす。パチンという音とともに、手の中に真っ白なトレー、そしてティーポット、ティーカップ、ソーサー、茶葉、熱湯、ポットの蓋が軽やかな音を立てて現れる。「あっ」と忘れ物を呼べば、最後に砂時計が現れた。
「どちらにしても、茶葉が開くまでの時間は待ってもらいますよ」
「僕は三分も待てないって言ったのに、オズは意地悪だね」
「あなたには負けます」
 おかしく笑って、トレーをテーブルに置く。お茶菓子を出すかは少しばかり悩む。時刻はもう夜だ。甘いものという頃合いでもないだろう。
 ちらとロキの様子を伺いみる。彼の視線は、テーブルの端によけられた毛糸の塊へと吸い込まれていた。
 視線がふと交わると「これは?」とロキが疑問の声を漏らした。
 何が起きても自分の予定調和の範囲というような顔をする彼でも、それが何かは分からないようだった。少しばかり落ち込むような、むず痒い苦い気持ちになる。けれど自分でも、その山から何が出来上がるのだかは想像がつかないだろうと肩をすくめた。
「マフラーですよ」
「……へえ」
「ロキ、フォローは不要ですよ。自分でもあまり上手く出来ていないことは分かっているんです」
「それもあるけれど、オズが編み物なんてするとは思わなかったから。そこに驚いているんだよ。出来栄えじゃなくてね」
「まだ出来ていないのですから、出来栄えもなにもありません」
「はは、それもそうか」
 胸をはり言い切れば、ロキは笑う。
 砂粒の落ちる速度を確認する。あと半分。目を細める。
「……ドロシーが、編み物が上手なんですよ。編み物に限らないのですがね。それで少し教わったんです。マフラーくらいなら簡単かとおもったんですが、そうもいきませんね」
「へえ」
 そう再びロキが口にした音は、先ほどとはまるで違うものだった。ちかちかと、仮面で隠れていない側の瞳が瞬く。それが伝染したかのように、オズの視界もぱちりと光った。光はすぐに周りの色に溶けてしまう。
 そっと指を伸ばせば、指がロキの横顔に、頬に髪に触れる。
 すぐに気が付いたロキと視線が交わった。指先には確かに、触れた感触があった。
 少しだけなでるようにして手を戻すが、ロキは何も言わなった。オズも何も言わないまま、静かになった砂時計へ視線を移す。
 ティーポットからカップへ、紅茶を注ぐ。優しい香りが緩やかに広がる。陶器同士が触れ合う音が立つ。
「どうぞ」と差し出すと「ありがとう」と素直な言葉が返った。カップに口を付けるロキは、既にいつもの表情に戻っていた。
 そうだチョコレートが少し、家族で分けるには足りないくらいの数が残っていたはずだ。
 パチンと指を鳴らす。手の上、ひし形の皿の上に四角いチョコが並んでいた。
「一粒どうですか」
 皿を向けさしだしながら、椅子へを座る。
「あなたの好きにするといいですよ」
 オズの一言が、チョコレートにかかる。
 ロキは何も言わず、それを摘まんだ。