(ワトベル)
なんでだ、なにをどうするとこうなるっていうのだ。
きっかけが何だったのか、記憶がすっぽり飛んで行ってしまった。急に背後から強打されて、その拍子に記憶が頭から飛び出してしまったに違いない。それくらい唐突に。突拍子もなく。
いやきっかけなんてわかり切っている。いつものあれだ。ろくでもない、大したことでもない、言い合いだ。いっそ挨拶と言っても差し支えないくらいの他愛なさ。記憶に残らないくらい聞きなれた応酬。どうせまたベルモントの野郎に、発明に対する難癖を付けられたとかその程度。
その程度の、些細なことに違いがない。その証拠にワトソンの手にはオイルが付着していた。ベッドに押し付けた手がぬるりと滑る。白色のシーツに黒い汚れが伸びた。これでは洗濯が面倒だ。作業用のつなぎを洗うのとはわけが違う。どうしてくれるんだ。それもこれも、それもこれも。
ぱちり、と目が合って我に返った。
ベルモントが真正面から見つめてくる。いつもと変わらぬすました顔で。すました顔をしているなよこんな状態で。なんなんだこいつ。全く。全く本当に、なんなんだ。
どうしてベッドにベルモントが横たわっていて、その上に覆い被さる様な格好になっているのだ。
ワトソンは意識が飛びそうだった。あまりに現実が受け止め難くて。意識が白んで視界も薄れゆきそうだった。そもそもだからどうして、こうなったのか。分からないほど些細なことに違いないし、目の前の状況がどう考えても受け入れ難い。さっさと思考は諦めに入り堂々巡りを始めてしまう。他愛もない、どうしてなんでおかしいだろ、を繰り返す。
きっと、状況が悪かったのだ。
たまたま今日言い合いになったのが、ワトソンの部屋だったこと。自室であるという優位が動きを大きくしたこと。うっかりぶちまけたオイルが部屋を汚していて、ベルモントは綺麗なベッドに避難していたこと。そして昨夜は調子がよくて、黙々と作業をしていたら徹夜になっていたこと。おかげで思考が短絡的になっていたこと。
きっとここがベルモントの部屋ならこうはならかなった。チェアの足元がオイルにまみれていなかったらこうはならなかった。ぐっすり眠った後での言い合いだったなら、こうはならなかった。
運が悪かった。そうだ、きっとそうだ。
だからといって、どうなるわけでもないのだが。考え事をして思考を紛らわして現実逃避したところで、ワトソンの腕の間でベルモントが仰向けになっている事実は変わらない。
意を決して認めるが、傍目には押し倒しているように見えるだろう。何かの拍子に誰かがこの部屋をのぞいたら、確実に悪者はワトソンだ。欲求不満の末ベルモントを襲うなんて……とか言われるに違いない。どういうことだ。おかしい。なんでこうなる。どうするどうするどうすれば。
未だベルモントは真直ぐにワトソンを見上げている。この状況に対して特に取り乱した様子はない。何かあっても被害者で通せるからだろうか。第一ベルモントが取り乱すさまなど、とんと見たことがないが。銃を突きつけられていたあの時でも、こんな顔をしていたような気がする。
まさかとは思うが、目を開けたまま死んでいるということはなかろうか。押し倒した際にどこかに頭でもぶつけただろうか。運悪くベッドの上にモンキーレンチが置いてあって、そこにしたたかに頭を打った、なんてことは。
などど突拍子もないことを考えていれば、ベルモントが瞬きをした。不覚にもほっとした。全く何も解決していないのだが。
ところで周りがやけにうるさい。先ほどから何かドンドンと打つ音が聞こえて止まらない。他の音が聞こえなくなるほどだ。そのせいで今この下宿に誰かいるのだかも分からない。足音も聞こえない。これはいったい何の音だ。外で工事でもしているのか。それにしてはあまりに音が近すぎやしないか。なんだというのか。そのうえ体が熱い。燃えるようだ。熱でもあるのか。徹夜で風邪でも引いたのだろうか。じわじわと汗が噴き出してくる気がした。
不意に、ベルモントが視線を外した。
少しだけ頭を動かして、横を向いた。シーツのこすれる音がする。細く透き通った髪がシーツにはらりと広がる。
視線が外れたことで、いくらか肩の力が抜けた。ほっとした気持ちが口から吐息となって漏れ出る。先ほどまでのうるさい音も少し静かになっていた。それで、どうやって起き上がればいいのだろう。手も足もどの関節も、動かし方を忘れてしまったか、石膏のように固まってしまったかのようだ。指の一本もガチガチで動かない。できることと言えばろくに意味のない思考と、瞬きと呼吸くらいだ。
さっさと起きなければ身を離さなければ。そう思えども思えども体は言うことを聞いてはくれない。早く起き上がって悪かったなとか言って、離れなければ。いや謝る道理などあっただろうか。そもそもカチンと来て突き飛ばす様なことになったのは、ベルモントがカチンとくるようなことを言ったからではないのか。
再びベルモントがワトソンを見た。何か思考を終えたかのように、しっかりとした視線で。そんな気がしたが、別に先ほどまでと何も変わらないかもしれない。
またドキドキと周りがうるさくなる。というか、これはもしや己の鼓動の音なのではないか、とワトソンは思い当たる。何故だ。どうしてこんなに心臓の音がする。とういか、こいつ、ベルモントを改めて見詰めると、やけにきれいな顔をしているような気がしてきた。
つるりと青い瞳の色は真直ぐできれいだし、縁どるまつ毛も長い。形のいい鼻と唇と、いや唇ってなんだ。そんなパーツを見てどうする。それに知っていたじゃないか。知っていた、みた、みていた。そうだ、あんなにも。
そもそもベルモントというのは、モテていたような気がする。探偵なんて肩書のせいか。外面しか見えないからか。確かに顔はきれいだよな、なんてそんな、そんな知っていたことではなくて、そんなことではなくて。クソッと心中で悪態をつく。生憎言葉に出せるほど体の自由が戻っていなかった。クソッなんだっていうんだ。
ベルモントが少し首を傾けた。ワトソンの苦悩などつゆも知らぬという様子で。些か呆れた様子で。
「この意気地なしめ」