三分で朝食を

(綾主)
 
 
 

 目を開けた先。
 ぼんやりとした視界の中で、時計の針が予定よりも随分と進んだ時刻を示していた。
 それに思わず飛び上がり、瞬間的に覚醒する。
 大変だ。これは大変だ。温かな毛布の感覚が急速に冷えていくようだ。
 まずはとなりで眠っている相手を起こさねば。そう思って毛布を引っ張れば、何がどうなったのか、となりの相手はベッドの下へと転がっていってしまった。アッ、と思うが間に合わず、姿が消える。だがそのそのことを謝るために首を垂れる時間もない。
 文字通りどたばたと音がたつような、そんな勢いでベッドから飛び降りた。
 ベッドの脇には、落っことしてしまった綾時が倒れている。つい数秒前まで幸せそうな寝顔をしていた綾時。とんだ寝起きになってしまったに違いない。
 こうして朝を急いでいるのも、ベッドの脇に綾時が落ちているのも、すべては昨日、綾時がこの部屋に泊まったから起きた出来事た。
 綾時が泊まる、だから早く起きよう。そう思ったのに寝過ごした。先に目が覚めた時にはやさしく起こしてやろう、そう思っていた瞬間もあった。おはよう綾時そろそろ起きないと間に合わない、だとか丁寧に背をさすってやろうと、思っていたこともあったのだ。
 アウチだなんて、聞きなれない悲鳴が遅れて聞こえてきた。
 背中を押さえた綾時が、床からのろりと這いあがってくる。それに構うこともできず、急いで寝巻を脱ぎ捨てる。半裸のになれば綾時がキャアだとか、これまた聞きなれない声を出していた。
 全くもって、それどころではないというのに。
「朝から大胆だね」
 などという世迷いごとを綾時が口にする。
 そんなことを気にしている場合じゃないんだと急かしながら、自分の着替えを手早く済ませる。鏡でなんとなく己の姿を確認し、寝ぐせなどないこと、ボタンの掛け違いがないことなどを確認した。
 さっさっと指で髪を梳き、振り向く。綾時の着替えは済んでいたが、まだのんびりと髪をセットしているところだった。焦りという言葉など知らないかのような優雅さだ。
 黒髪を後ろに撫でつけると、見慣れた姿に変わる。髪を下ろした姿というのは、どうも馴染みがない。
「髪はもうさ、学校に行ってからでもいいだろ」
「そんな中途半端な姿見せたらカッコ悪いでしょ」
「そんなことないから早くしてくれ」
「これでも僕にしては凄く急いでいるんだ。もう少し待ってよ」
「そうしてやりたいのはやまやまなんだけどな、寝坊したからほんとうに、時間がないんだ」
 もう待てない、と鞄を抱え上げる。
 まだか、と再度急かす。綾時はにこやかに振り返った。
「誰かと眠るって温かいんだね。おかげで眠りすぎちゃったみたい。ごめんね、時間通りに起きれると思ったんだけど」
「……そういうこと、平気で言うよな」
「そういうことって?」
 あまりに無邪気な微笑みに、勝手にため息が出た。
「先に下で朝飯準備してるから早く来いよ」
 待ってよあとちょっとなのに、という言葉が背中を追いかけてくるが無視をした。
 廊下を小走りに進み、階段を飛ぶように降りる。他の寮生に見つかったら怒られるだろうな、などと考えながら。
 鞄を放り出し厨房に入る。炊飯器から炊けた米のいい匂いが漂ってきていた。昨夜支度をして眠ってよかった、と息を吐く。食パンは切らしてしまっていた。
 主食は確保されたが、副菜を作っているような時間がない。こういうことが起こるなら、インスタントの味噌汁あたりを常備していたらよかった。
 フライパンを熱する時間も惜しい。包丁を握る時間も僅かしかない。
 自分一人分だったなら、卵焼きくらい作れていたと思う。ただ今日は綾時がいる。二人分の支度、そして綾時の食べる時間。それらを考慮するとどうにも時間が足りない。
 卵、と思い当たって冷蔵庫を開ける。
 生卵を三つ取り出しテーブルに置く。それから茶碗とどんぶりを並べ、それぞれに炊きたての白米をこんもりとよそう。ネギくらいなら刻む時間がありそうだ。急いで取り出し、慌てて刻んで白米の上に乗せる。
「何か手伝うことある?」
 急に声を掛けられる。
 見れば厨房の入り口から、綾時が顔を覗かせていた。目が合うとなんだか物足りないような気持ちになる。違和感はなんだろうかと二三度まばたきをする。
 違いはすぐに知れた。マフラーが足りないのだ。目立つ黄色を思い出し納得し、綾時を手招きする。
「そこの卵三つと醤油持ってきて」
「お任せあれ」
 その返事に大げさだなと笑った。それににしても、あとちょっとと言ったわりに、随分と支度に時間がかかったものだ。ちょっと待ってのお願いを聞かなくて、本当に良かった。
 茶碗とどんぶり、それから箸をもってダイニングテーブルに移動する。茶碗を綾時の目に前に置く。代わりに空いた手のひらを向けた。卵を三つとも乗せられそうになったので「一つは綾時の」と返す。
「ところでこれ、何ていう、料理?」
 幾らか不安そうな色を含んだ、空色の瞳がこちらを見た。
 綾時には馴染みがないものか、と思いながら卵を割り、白米の上に乗せる。その工程を見せても、綾時の不安が消えるとういことは全くなかった。むしろ増した様子で眉尻を下げている。
 いつもまばゆいばかりの笑顔が曇っている様子というのは、なかなか珍しい。思わず吹き出すと、綾時が首を傾げた。
「卵かけご飯だよ」
 卵黄にぶすりと箸を刺し、とろけだした黄色と白米と混ぜ合わせる。
 それを見た綾時の肩が、露骨にびくりと跳ねた。気にせず、混ざったところで醤油を垂らす。
 どんぶりを持ち上げて口を付けようとした時、横から注がれる熱烈な視線と目が合った。ぴたりと数秒見つめ合う。
 嘘でしょと否定したい気持ちと、僕はどうしたらいいと尋ねたい気持ちが、半々といったところだろうか。そんな瞳で見つめられる。仕方がないので一度、どんぶりを下ろした。代わりに綾時の手の中の卵を指さす。
「その卵を割ってご飯の上にのせて、混ぜて、醤油をかけるんだよ」
「うんそれは、見ていたからわかるけど」
「じゃあ」
「だって、生だよ? 大丈夫なの?」
「大丈夫だから、早く食ってくれ」
「それになんかどろどろどしてるよ」
「卵だし」
「大丈夫なの……?」
「大丈夫だ」
「ほんとうに」
「本当だ。他の物を作ってる時間がなかったんだよ、諦めろ」
「朝練だよね、剣道部の」
「うん」
「君って強いよね。そんなに練習しなくても大丈夫じゃないの」
「俺より強いやつなんていっぱいいるし、それに練習しないと鈍るだろ。ていうか、食え」
 逃れようとしていないで早く、と急かす。
 綾時は押したくないミサイル発射ボタンを無理やり押させられるかのような、まさに苦渋の決断といった表情で卵を割った。
 殻を避け、恐る恐る箸を持つ。
 箸持つ綾時の姿というのは、初めて見たかもしれない。思ったよりきれいに持つんだなと、失礼な関心をした。帰国子女といえど箸は使えるのだろう。そんな考えごとが伝わったのか「箸は使えるよ、ちゃんと見ていたから」と呟かれた。
 綾時の持つ箸の先が、卵の黄身を崩す。その様子を横目に見ながら、自分のどんぶりの中身を口へとかきこんでいく。
 卵かけご飯は美味しい。こうも綾時が尻込みしているのは、渋々食べるというような言葉選びをしてしまったことも一因だろうか。
 時間さえあれば、もう少しきちんとした朝食を出そうと思っていた。だから渋々妥協したのは本当だ。ベタなものの方がを喜びそうだよなと、卵焼きと味噌汁と、と色々考えていた。
 なにせ折角美鶴から許可がでたお泊りだ。綾時が上手く言いくるめたとも言えるけれど。
 醤油を垂らし混ぜたところで、再び綾時の手が止まった。最後の決断をすべく己の内と戦っているような顔をしている。
「はやく」
「うう」
 大丈夫美味しいよ、とか声をかけてあげたらよかった。なんて今更思ったが、綾時は既にたまごにくるまれた米粒を口に入れていた。
 ぱくりと食べ咀嚼して、はっと顔を上げた。ごくりと飲み込んだのち、こちらを向いた。
「意外と美味しい」
「それは良かったけど、本当に電車の時間に遅れそうだから急いで」
「う、うん」
「そんなちまちま口に入れてたら間に合わないから、もっとかきこんで」
「かきこむって、どう」
「こう」
 どんぶりを抱え上げて手を本を見せると、綾時は素直に真似をした。
 三人目の転校生で瞳の色が青色で帰国子女でエキゾッチックで、と女子に評判の望月綾時が卵かけご飯をかきこむ姿って、とても珍しい様子に違いない。そう思うと可笑しかった。実際不似合いだった。噴き出してむせそうになる。
 空になった茶碗を置いた時、綾時の顔は妙な達成感に溢れていた。
「なんだか珍しい体験を一気にいっぱいした気分」
「大げさだな。あ」
 綾時の口元に米粒がついていた。なんてベタなんだろうと思い、少し笑い声を漏らしながら指を伸ばす。
「米粒ついてた」
 そういうと綾時はあっと口元を押さえて、恥ずかしそうに目元を赤らめた。長いまつ毛が揺れ、小さく瞬きが繰り返される。ゆらゆらと空色の瞳があちらこちらを行ったり来たりしていた。
 なんだかキスがしたいなあと思った。それから、朝練に遅刻してもいいかも。
 なんて思ってしまった。

 

 
 
(お題箱:たまごかけごはんを仲良く食べるお話)