糸の果て

(百王) 
 
 
 
 

 視界に、ピースサインが映り込んだ。
 小さな手から細い指が二本伸びている。人差し指と中指がまるで、チョキン、と音を立てるかのように、閉じて開かれる。どうやらピースをしているわけではなく、ハサミを現しているようだ。
 で、どうしたのだ。と百田は思う。
 王馬の行動にいちいち意味を見出そうとしていたのでは、途中で心を病んで発狂してしまうに違いない。意味がありそうで無いことと、無いようであることを上手くまぜこぜにする才能も多大にあった。嘘つきの称号は伊達ではない。
 そんな王馬が右手で作ったハサミを寝かせると、百田の手をめがけて突き出してきた。切るのではなく刺す気かと思い、つい手を上げて避ける。「うおお何しやがる」と驚いていないこともない、と言うくらいの声を上げる。
 リアクションを示せば示したでウルサイことを言うやつだが、示さなければ示さないで冷ややかな目で呆れ顔をしたりする。面倒なやつなのだ。王馬小吉というのは。そして百田が見出した折衷案が、それなりにリアクションをする、だった。
「もー、避けちゃダメでしょ!」
 どうやら今日はこの程度のリアクションで満足されたようだ。指で作ったハサミを顔の横にもってきてチョキチョキと動かす。これが王馬でなければ、写真待ちのかわいいポーズだったかもしれない。逆の手を腰に当て「めっ」と言うのが王馬でなければ、きっと可愛かっただろう。
 でなければ、の話をいくらしたところで現実は王馬だ。一体俺は今こいつに何を切られる予定だったのだろうか、と百田は背筋が凍る思いをした。
 突き付けられたのはハサミでもなんでもない、ただの王馬の指なのだが、王馬がチョキンと言えば本当に何かが切られそうで恐ろしかった。
 胡坐をかいた膝の上に乗せていたもう片手ごと、隠すように腕を組む。手を狙っていたようなので、これで何かが回避できるのではないか、という気がした。
「何を切ろうとしたんだよ」
「百田ちゃんの運命の赤い糸だけど」
「ほぉー。オレにも赤い糸とか出てんのか」
「そりゃね、いくら百田ちゃんでも、赤い糸くらい出てるんじゃないの」
 はあ、と急に呆れられる。こちらに非が無いと分かっていても、なかなかカチンとくるものだ。「なんだと」と腕を解いて左手を見る。赤い糸が出ているというのは薬指だったか、小指だったか。そもそも左だったか右だったか。
 眺めていると隙ありとでも言いたげな小さな手が視界に映り込んできて、手の近くでチョキンと動いた。あっと王馬を見れば、してやったりな憎たらしい表情で笑っていた。
「オメェ今何切ったんだよ」
「今のは最原ちゃんとの縁だよ!」
 どう、悔しい? と言いたげな顔を見せられ、本来ならばカッとなるところだった。だが前後の会話がこんがらがって、素っ頓狂なことを口にしてしまう。
「オレの赤い糸は終一に繋がってたのかよ……」
「そんなわけないじゃん。百田ちゃんってバカなの」
 急な無表情を見せられると、何かに敗北した気持ちになる。
 こんな馬鹿らしい会話に付き合うくらいしか、今はすることがないというのに。それに対する反応がこれと思うと、やはり負けたような気がした。面白い返しが出来なかったという、点で。
「ま、仕方がないから無縁になった百田ちゃんの縁を、一本オレのところに結んでおいてあげるよ」
「おい待て、終一だけじゃなく全部切ったことになってんのかよ」
「もー仕方が無いな。他のも全部オレのところに結んであげるから拗ねないでよ」
「拗ねてねえよ、つかやめろ」
 空中で見えない糸を摘まむように指を動かした王馬から、何かを奪い返そうと腕を振る。「残念! もっと右だよ!」なんて言われて阿呆らしくなってしまった。脱力して背後に手を付く。
「それで、オレのどの糸に結び直してくれるんだ」
「赤にする?」
「オレとお前は赤って柄じゃねえだろ」
「じゃあピンク?」
「なんでだよ」
 溜息を吐いて後頭部をかく。首をひねって空を見上げれば、星がチカチカと光っていた。雲一つない。空気すらない透明感の中、星が瞬き流れる。真っ暗なはずの宇宙はなぜか明るかった。星の光か、はたまた地球の光か、月明かりか、さて。
 焦がれた宇宙の色に焦点を合わせると、たちまち吸い込まれてしまう。いくら見ても飽きないものだ。ここが本物の宇宙ではないとしても。
 これは最期の瞬間に見た本物か、はたまた妄想の中にあった幻か。今更なんでもいいのだが。なんだとしても、仕方がないのだから。
「ちょっとさあ、もう百田ちゃんしかいないんだから相手してよ」
 急に耳たぶを引っ張られ、そう声を吹き込まれた。痛いという感情と背筋がぞわつく感覚が同時に襲ってきた。ひとまず「イテェ!」と言えば耳たぶは解放された。代わりに肩に重みがかかる。少し頭を傾けて見れば、王馬がもたれかかっていた。何も面白くなさそうな気だるげな顔をして。王馬にとってはきっと、無表情に近い顔だ。
 並んで座って、どうしてか宇宙を眺める。
 あの頃には考えられなかったことだ。いやどうだろうか、もしかして、もしかすると。機会さえあれば、こんなふうに並んで宇宙を垣間見るために、望遠鏡をのぞき込んだりしたかもしれない。
 そんな瞬間は、訪れようもなかったが。たった一瞬も許されなかった時間だ。たった一瞬も許せなかっただろう時間、というべきだろうか。
 これは今だからあるものだ。
 命を賭けあって死んだ後だからこそ。
 死んでしまった後では既にいがみ合う理由もない。というより、二人しかいないのに喧嘩続きでは無限に疲れるだけだ。それに、王馬小吉の真理に近いものを、少し垣間見てしまった後でもあった。
 跳ねる癖毛の真ん中にあるつむじを眺める。こうしてくっついている王馬、というのも生きていた頃では絶対見なかっただろう。いや、嫌がらせの手段の一つとして抱き着いてくるくらいは、もしかしたらあったかもしれない。
 重みのかかる腕をそろりと動かし、王馬の背へと回そうとした。だが触れる寸前、猫のようなぬるりとした動きで逃れて離れてしまう。三歩程の距離を取った王馬が、仁王立ちになっていた。そういうポーズを取りたいのはむしろこちらの方だと百田は思った。
「俺しかいないんだろ、構われろ」
 ほらほら、と両手を広げてみせる。
 猫が毛を逆立てるかのような勢いで「イヤだ!」とお断りされてしまった。これで本当に飛び込んでこられても困るので、そのリアクションで正しいのだが。そう思うとむしろ王馬は飛び込んでくるべきだったのではないか、と内心首をひねる。
 呆れてため息を吐いた王馬が、大きな円を描くようにぐるりと歩いて、百田の背後へと移動してきた。そしてずっしりとかかる、背中への重み。首だけ捻り振り向くと、癖毛の先が頬に刺さった。王馬の姿ははっきり見えないが、投げ出された足くらいは見えた。
 正面へ向き直り、頬杖をつく。自然と前かがみになるが、背中の重みは追従してきた。
「王馬はよぉ、オレとどうなりたいんだ」
「さあ?」
 なんとも感情の読み難い声色が返ってきた。考えろと言っているのか、本人すら決めあぐねているのか、本当にどうでもいいのか。判断し難い。
 悩めども、考えようとも、他愛もないやり取りをしようとも、景色は宇宙一色だ。そもそもどうして宇宙なのか。死ぬときに見た景色ならば納得ではあるが、何故王馬が居るのか。他の、先に居なくなった奴らは何処へ行ったのか。ここにいるのか、違う場所に居るのか。
「まあいいか」と呆れ半分に言う。背中の気配が意味を探るように動いた。まっちろな腕が二本伸びてきて、首に絡まる。「何が?」と囁く声は純粋な疑問一色だった。けたけたと笑う。
「時間だけはあるしな」