(クロノとブラッド)
古ぼけた書庫の空いた棚に、二冊の本を納める。とある二人の人生が、別々に書かれた書物。常人の手に渡るには重たく、故意ある何者かの手に渡すには恐ろしい本だ。
来たるいつかのことを計算しながら、書棚を軽く掃除する。空気を入れ替え、ほこりを叩き、床を掃く。ぴかぴかとまでは言えないが、それなりにはなっただろう。
掃除をしてくれる何者かの一人でも雇えばいいものを、と思うのは、この古城の主相手には酷な考えだろうか。
昔々に沢山いた侍従は誰もかも死に、それでもさらに長い時間が経ち、無機物だけがそばに残る古城の主。死に忘れられた咎を持つ者にとって、死を持つ者は儚く寂しいものだ。
北の果てにある古城に忍び込む時に持っていた手荷物の大半は、クロノの手の内から消えていた。書物、武器、その他もろもろ、全て城のあちこちにしまい、隠した。
ゆれる尾の先で時計が時間を刻んでいる。夕暮れ時にやって来たが、気付けばすっかり夜の帳が下りている。古びた窓枠、ガラスの向こうには夜が満ちている。
これだけうろつけども、未だ古城の主の姿は見ていない。
寝ているのだろうか。一度眠ると長く起きないこともある、タイプだったはずだ。永くこの城に閉じ籠っている奴ではあるが、あれでも英雄ともてはやされたことがある腕の持ち主だ。城に侵入者があって気付かぬほど耄碌はしていないだろう。いくら寝ていても気配で起きるはずだ。ならばなんだ、ようやく城から出る気にでもなり、出ていったのか。
そうでもないらしいな、とすぐに知れた。
微かに火のはぜる音が聞こえる。音の出どころを探り、城の中を進むと、明かりの漏れている部屋があった。暗闇に強いあれが珍しいものだなと思いながら、光に誘われるようにして扉を開く。
室内の明かりに目がくらむ。瞬きをした先には、燃える暖炉と燭台に灯された火と、ソファに座るブラッドの姿があった。
「やあ、やっと来たのか。随分長くかかっていたけど、一体何をしていたんだい」
「まるで待っていたかのような言い草だな」
「待っていたんだよ。どうせ来るだろうと思って、暖炉に火を入れたりしてね」
けれど待てど暮らせど来ないものだから、帰ってしまったかと思ったよ。とブラッドが肩を竦めた。
「姿を見せないと思えば、そんなことをしていたのか」
「敵意もなくやけに堂々としている侵入者なんて、君くらいなものだ。ほらこっちにおいでよ。夜も遅い、泊っていったら。部屋なら用意しよう」
「埃っぽくない部屋だといいがな」
「日々使っている部屋だから、さすがに掃除している」
それはお前の寝室では、と思いながら部屋に足を踏み入れる。温められた空気から、暖炉に火が入れられてから時間が経っていることが知れた。
ソファの座面を叩く手に呼ばれ、ブラッドのとなりに腰を下ろす。荷物袋は床に置いた。
「また随分と少ない荷物だね」
「金があればどうとでもなる。人間と違い、そう食べずともいいからな」
「そうだが……」
「お前は荷物が多そうな顔をしているな」
「顔なのか」
「顔だな」
最低でもケース一個は持ちそうだ。それも半分以上は着替えが詰まっていそうな顔をしている。
今もきちんとタイを締めている。寝起き以外で簡素な格好をしているところを見たことがなかった。一人きりの城なのだから、もっと楽な格好をすればいいものを。というのは、変装時以外は軍服に身を包んでいるクロノにも言えるのだろうが。
「まあいいや。折角だしワインでもあけよう」
ブラッドが目の前に置かれたローテーブルの上にあったボトルに手をかけた。律儀にグラス二つと、チーズと干し肉も置かれている。クロノが城の中をうろついている間に用意をしたのだろうか。何者かがうろつく気配など、全く感じなかった。
「これは前に君がくれたものだけどね」
「飲んでいなかったのか」
「一人で飲むのもつまらないから、次に君が来る時までとってあったんだ。きちんとワインセラーに置いていたよ」
「……やはり俺が城をうろついている間、支度していたのか」
「そう」
栓の抜けたボトルが傾けられる。注がれる赤色は深く良い色をしていて、ブラッドに良く似合っていた。
「全く気付かなかった」
些か不満げにそうこぼすと、ほのかな笑い声がとなりから漏れた。
「年の功さ」
どうにも納得がいかない。現役であちこちの国を巡り潜入も繰り返している身で、隠居状態の相手に負けるなど。
この城に入り初めに気付いた音は、火のはぜる音だ。ブラッドがワインやつまみを調達するためにうろついていたことなど、全く気付かなかった。寝ているのかと思ったほどだ。
眉間にしわを寄せれば、余計に笑われた。
けたけたと笑う男に手を握られ、無理やりグラスを持たされる。「乾杯」と掲げられたグラスを横目にワインを口にする。
ちらりとチーズに視線をやる。ところでこれはいつの物なのだろうか、と不安を覚えた。
この男の元々の領土内には、小さな町がある。そこで時折品物を調達しているようなのだが、そう頻繁に出歩きはしない男だ。それにクロノは、行くと連絡を入れたりしていない。そしてブラッドもクロノ同様、そう食事を必要としない質だ。たまたま最近仕入れたのか、それとも。
じっと睨んでいると、ブラッドの指先がチーズを摘まみ上げた。その指先を目で追っていると、赤色の視線とかち合う。
暖炉の炎に青白い肌が照らされている。首が傾げられると白い髪が肌の上を流れた。
「クロノ」と呼ばれ、なんだ、と言おうとした。
だが開いた唇にチーズが押し込まれ、言葉どころではなくなってしまった。指先が唇に触れ、驚いて口を閉じればチーズを噛んだ。
「まだ食べられると思うのだが」
顔を隠すようにして、肩を揺らし笑われる。何をする、と思ったが口に入れてしまったものは仕方がない。腹を下して死ぬような生き物でもないと諦めて咀嚼する。思いの外普通の味がした。
「全く、何をする」
「いやね、凄く疑り深い顔をしているから。意地悪したくなった」
「なんだ、最近仕入れたものだったのか」
「結構前。君の表情から察するに、まだ大丈夫みたいだね」
そう言ったブラッドがチーズをひとかけ口に入れた。やはり毒見役にしたのかと、俄かに腹の立つような呆れるような気分になる。グラスを煽り空にすると、二杯目が注がれる。次は自主的にチーズを口にした。
「ところで今回は何を隠しに来たんだい」
「まあ色々だな」
「書と、武器と、あとは?」
「……見ていたんじゃないか」
「書庫に居るところは見た。あと倉庫にも行っていたようだから、そうかなと」
「筒抜けか」
「これでも、この城の主だからね」
面白くない、と足を組み背をソファに預ける。
視線を逸らせば部屋の様子が目に入った。飾り棚にも窓にも埃が積もっている様子はない。使う部屋は片付いているということだろうか。だが書庫など用のない部屋はおろそかにしている。その程度にこの城は広い。とても一人で住む広さではない。
「あと、書庫の掃除ありがとう。助かるよ」
その言葉に、先ほど思い浮かべていた考えを口に出しそうになり、思いとどまる。一度開いた口を閉じるが、ブラッドはそれに気づきはしなかった。
「君は隠しものをする時にしかここに来ないよね」
ふと、赤い視線に咎めるように見つめられた。そうだったかと思い起こ。確かにそうかもしれない。しかしそんなことを気にしていたとは思わなかったので、少し驚いた。
「ここは君の倉庫じゃないのだけれどなあ」
「なんだ、いやだったのか。今まで何も言わないから、てっきり」
「いや、良いんだけれどね別に」
良いのか悪いのかどっちなんだ、とため息を零す姿を眺める。
「この城に隠せば安全だから、ついな。誰も近寄らないだろう」
「誰も来ないことはないよ。思い出したように咎狩りが来たりする」
「そのどれも、お前の相手にはならんだろう」
「まあね。誰も彼も年の功を舐めているよ。明るいうちに襲えばいいとか思って……でもこのところまた減ったな。随分見ていない。前に君が来て以来、誰も来ていない」
前に来た時か、と記憶を漁りながら干し肉をちぎる。
ブラッドが黙ると、他に聞こえる音は火の燃える音だけだ。相変わらず静かな城だ。時が止まって音も消えたかのようだ。
そんな静かな空間に突如「あっ」と言う声が響いた。驚きに顔を上げると、ブラッドにじっと見詰められていた。気のせいでなければ、耳を見られているような気がする。
「黒い獣って君か」
「……なんだその呼び名は」
「そのチーズを仕入れに降りた時に、町の人が言っていたんだ。前にこの城の近くに大きな黒い獣が出て、大勢の狩人が襲われた、ってね」
狩人とは咎人狩りのことだろうか。狩るものが何であれ、狩人には違いないということかもしれない。迷惑な話だと思いながら、咀嚼した干し肉を飲み込む。そしてはたと思い出す。
「ああ、確かに。以前の帰り道で、咎人狩りの団体を蹴散らしたな」
「団体を相手にするって、君にしては珍しいね」
「この城に向かっているようだったからな、ついでだ」
ふうん、と意味深な相槌を打たれる。確かに普段団体を相手にする場合は、逃げるが勝ちではあるが。あの時の集団は人数で攻めればいいと思っている様子だったので、大した労力も費やさず追い返すことができた。それがまた変な噂を立てているとは思わなかったが。
「お前はこの城から動からないから、標的にされやすいんだ」
「そうかもしれないね」
「いつまで閉じ籠っているんだ。出てくるのなら、俺の元でこき使ってやってもいいぞ」
鼻を鳴らし、挑発するように言うが、ブラッドの反応は薄かった。首を傾げて淡い笑みを浮かべている。
「出られないから、無理だ」
「嘘を付け」
じとりと睨み付けるが、視線を逸らしてはぐらかすばかりだ。それでもと睨み続けていれば漸くこちらを向いた。
「そろそろ眠るかい?」
随分夜も更けた、と言う手に尾を辿られ時計をすくわれる。確かに針は頂点を越えて回っていた。
きれいに整えられた笑みを向けられ、肩を竦める。仕方がないのではぐらかされてやることにした。
「どうせ起きているのだろう。もう少し付き合うさ」
「良いのかい。話し相手が居るのは嬉しいことだけれど」
「お前に付き合って朝に眠って、夕刻に帰るさ。この辺りは夜の方が安全だ」
「おや、そうなのか」
「夜はお前の領分だからな。そんな時刻に手を出そうという輩は居ないんだ」
人も獣も、王の前に全てが静まり返る時刻だ。だから夕刻に訪れた。それもある。だが、とブラッドに手を伸ばす。なんだ、と不思議そうに赤色の瞳がうかがってくる。指先が白い髪の先に触れる。
「どうして夜に来たと思う?」
夕暮れ時の森を進む。ところどころ剥がれた石畳の上を進む。使われなくなって久しい街道は傷み、森の影に飲まれそうになっていた。こうしてまだ残っていることの方が奇跡なのかもしれない。それとも時折、誰か通るのだろうか。あの城へと続くばかりの、この道を。
「事前に便りでもくれたら、食事の支度くらい出来るのに」
となりを歩くブラッドがぼやいた。確かにあの城には大した食物もなかった。遅すぎる朝食などというものも勿論なく、残ったチーズを摘まんだくらいだ。
「あの城に郵便を届けてくれる奴が居るのか?」
皮肉を言うも、赤い瞳を細められるだけだった。
「君がその程度の連絡手段も持たないとは思わないな」
「ふ、まあな」
二人分の影が長くぼんやりと伸びている。
「また」と声がする。「そう遠くないうちに顔を見せてよ」
「そう思うなら、お前が城から出てこい」
振り向いた先でブラッドが立ち止まっていた。そこにはちょうど朽ちかけた城門の名残があった。
昔々、ここまでが一つの国だった。ここから向こうがとある英雄様の治めた土地だった。それも今は跡形もない。領土というものはなくなり、敷地に住む人間も、いつの間にか移り住んできた隣人だ。残るのは道と、城。そして捕らわれた亡霊だけだ。
「手を引いてやろうか」
敷地を跨ぐように手を差し出す。それに首を振る形で応えられる。
「怖いからいいよ」
「随分と臆病者になったものだ」
「君には分からないさ。もしその手を掴んで、その境目を超えて、超えたところから灰になって朽ちたらどうするんだ」
「そんなことがあるものか」
あきれて、ため息を吐いて、踵を返す。かつてあった国に呪われ、死なず、朽ちず、捕らわれる、英雄の亡霊が住む領土から遠ざかる。あれに掛けられた咎はそんなものではないというのに。
ブラッドは数千年、あの場所から離れていない。
幾らか進み、振り返る。
夜の色に飲まれつつある景色の向こうで、手を振る姿が見えた。