雪の島

(ルシサン) 
 
 
 

「くしゅん」と聞こえた音に驚き、振り返る。
 今ここには、この一面を真っ白な雪に覆われた静かな世界には、ルシフェルとサンダルフォンの二人しか居ない。少なくとも視界に映る範囲内には誰も居ない。
 吐いた息は白く、吸い込んだ空気はきりきりと冷たい。
 ブーツのつま先が地面へ降りれば、踏み固められた雪がぎゅっと音を立てる。今は青空が見えているが、慢性的に雪雲に覆われた島だと聞く。またいつ雪が降り始めるか分からない。
 そんな寒い島に今日降り立ったのは、二人しかいなかった。
 この島行きの数少ない定期船の中はガランと広かった。港で出迎えたのは入港を確認する職員だけ。運ばれたものは人より圧倒的に物資が多い。
 町の外れにあるためか、島の住人の姿もまだ見ていない。もっと町の中心へと向かえば賑わいが見られるのだろうか。
 そんな今、サンダルフォンの視界に映るのはルシフェルの姿だけだ。白い世界では輪郭が滲んで溶けて、見えなくなってしまいそうな、その人だけ。
 つまり今のくしゃみは、ルシフェルのものだということになる。
 心配二割、呆れ三割、驚き五割の視線を向ける。
 口元を押さえ顔を背けていたルシフェルが、そろりとこちらへ視線を戻す。緩く丸められた背中が伸び、肩越しに空色と目が合った。
「ルシフェル様も、くしゃみ、するんですね」
「……そのようだ」
 溜息の混じる音で答え、彼は困った様に視線を足元へと落とした。
 くしゃみをするなど、元天司長の彼にとって始めてのことに違いない。少なくとも、彼がヒューマンの体になってから、ほぼ片時も離れずそばに居たサンダルフォンの記憶にはなかった。
 先程のそれが初めてのくしゃみかと思うと、妙に感慨深い。この人にもまだ、未経験の何かが残っているものだ。
 人間にはあって、天司にはなかったものは数多ある。体の不調など筆頭だろう。そう考えると、これからの時間は数々の驚きに満ちているのかもしれない。人間とはなんと面倒なことか。
 はあ、とルシフェルの吐き出した息が白く燻る。
 よく見れば鼻先が赤くなっていた。肩をすくめ、サンダルフォンは首元のマフラーを解いた。
「そんな薄着で来るからだ。ほら」
 貸してあげますから、と冷気にさらされる彼の首へとかける。
「それでは君が冷えてしまう。自分の身を優先して考えなさい」
「自分の格好を省みてから言ってもらえますか」と指先で、ルシフェルの胸元を指す。
 白いシャツの上に、コートを一応羽織っただけという、なんとも心許ない格好だ。マフラーもない、手袋もない。見ているこちらが寒いほどだ。
「雪の降る島に行きたいと言ったのは貴方だろう」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 対してサンダルフォンは、一通りの防寒具を身に着けていた。首元まで隠れるセーターを着ているため、マフラー一つ外したところでそう変わらない。
 それでも寒くないわけではなかった。手袋の中の指先はじんわりと熱を失っていっており、爪先もそれは同様だ。着込んだサンダルフォンでも寒いのだ。ルシフェルの体感を思うと呆れる他ない。
「人の体がこれほど温度変化に弱いとは」
「天司の時は寒いも暑いもなかったですからね。まあ、想像が付かないのも仕方がないが、」
「ああ本当に」
 その言葉と同時に再び「くしゅん」と音がした。
 目の前でルシフェルが目を丸くしている。
 口元を押さえる。ぞわぞわと鳥肌が立った。じわりと頬へ向け熱が登ってくるような気がしたが、寒さには勝てなかった。吐いた息がよりいっそう白く煙る。
「サンダルフォン、やはり君も寒いのだろう」
 否定する言葉は、くしゃみの直後では出てこなかった。眉間にしわが寄る。マフラーを再び戻されそうになるが、「それでもアンタよりはマシだ」と制した。
 風が通り抜けると、寒さに身が縮こまる。ぴりぴりと肌が痛い。吐く息の音も、風の吹く音も全て大きく耳に届く。
 空色の瞳と見つめ合う。ここで睨み合っても寒さは和らがない。それどころか足を止めたことで、より一層体が冷えていく気がした。
「……先に、宿を確保しましょう」
 町の中心はあっちです、と肩を竦め、顎で方向を示す。
 冷えた体を一度温めたい。
 それから防寒具を揃えている店を、宿で尋ねよう。年中通して寒い島だという。このような愚かな旅人たちのために防寒具を揃えている店はあるだろう。
 体温を保つために細く息を吐き出していると、急に肩を抱き寄せられた。ルシフェルの首に巻かれた、先ほどまで自分が身に着けていたマフラーが頬に触れる。
 体が密着するように寄り添われ、思考が止まった。なぜ、と視線を上げた先に空の色が見える。
「寒い時はこうして、身を寄せ合うと良いのではなかっただろうか」
「……はあ。まあ、そういうこともあるかもしれませんね」
 理解の追い付かず、適当な返事が口からこぼれ出ていく。
「宿までこうしていよう。少しくらい寒さが凌げるはずだ」
「そうですね」
 そうでしょうね、と瞬きをする。貴方にはそういう意図しかないでしょうねと、視線だけ逸らす。
 眩しいほどの銀世界が広がっている。寒いが空は見えているため、日差しが反射し、目がくらむようだ。見渡す限りの白の世界。雪が見たいとやってきた島の景色。
 促すように背を押され、歩き出す。
 勢いよく心臓が脈打っていると分かる。寒いからか、肩に回されたルシフェルの手には力がこもり、必然的に強く抱き寄せられる。
 一瞬寒さを忘れた。寒さどころではない。
「くしゅん」と三度目のくしゃみがサンダルフォンの口から出る。
 けれどもやはり、寒いものは寒い。

 
 
 

 種火が薪に燃え移る。小指の先ほどしかなかった火が次第に大きく明るく、暖炉の中で広がっていく。
 ガタガタと震えながら、火を入れるルシフェルの背を眺めていた。
 三十分ほどで宿が見付かったものの、体はすっかり冷え切ってしまっていた。
 床を踏む靴裏の感触すら怪しく、膝から下はどこかに飲まれて消えてしまったかのように鈍い。指先は氷のように冷たく、関節が上手く曲がらない。指だけでなく、全身の関節がぎしぎしと固まっているようだ。
「大浴場に湯を張ってくれているそうだから、それまでここで少しでも体を温めよう」
 振り向いたルシフェルの指先が、震えながら手招いた。ぎこちなく歩いて、その指先を掴む。
 冷え切った指ではろくに温度も分からないが、同じように冷たいのだろう。ぬくもりは全く伝わってこない。握り返される指の動きも固い。
「貴方だって寒いのに、支度を任せてしまって申し訳ありません」
「私には君が貸してくれたマフラーがあったから平気だ」
「嘘をつけ」
 それで凌げる寒さではなかっただろうと呆れる。
「けれど、そうだな。体が冷えたことで様々な感覚が鈍い。折角触れている君の手の感触すら曖昧だ」
 握っていた手をさすられる。
 ルシフェルの指の腹が指の背を辿り、手の甲を撫でられる。それが確かな現実であるという情報が視界から入ってくるのに、指は冷たさにちくちくと痛むばかりだ。
 そのことに安堵する気持ちもあり、勿体なく思う気持ちもあった。体の内にじわりと熱が灯るほど、まだ体が温まっていない。それを良かったというべきか、怪しいものだ。
 ふと見上げた先。ルシフェルのまつ毛の上で溶けた雪が光っていた。サンダルフォンを見下ろし、瞬きをすると、光の粒ははじけてどこかへ消えてしまった。
 代わりにぽたりと、髪の先から水が滴ってきた。
「先に、濡れた服を着替えましょう」
 慌てて手を離し、ルシフェルの首からマフラーを解いた。積もった雪が解け、じわりと水を含んでいる。それがまた冷たい。
「雪が溶ければ雨になると知っているのに、何故か忘れていたようだ」とルシフェルの声が笑う。
「分かりますが」と背を向け、コートの留め具をかじかむ指で外す。
 雪は、宿を探している間に降り出した。
 瞬く間に青空は重い暗雲に覆われ、そこから白い綿毛が舞い落ちてきた。身に積もれども払えば吹き飛ぶそれが、溶けて水になる。分かっていても不思議と実感が薄かった。
 気付けば二人とも雪に埋もれてしまっていた。宿に入る際に払ったとはいえ、知らぬ間にじっとりと染み込んでいた。
 濡れたコートをハンガーに掛け、鞄を漁り着替えを取り出す。中のセーターまでは濡れていなかった。羽織れるものを探し、ないよりはマシかとパーカーを肩に掛ける。
 ブーツを脱ぎ、靴下に指を引っかけ取り去れば、足先は赤く染まっていた。触れても感触はない。床に下ろした足裏はぼんやりとしていて、本当にここに立っているのかすら怪しく思う程だ。指先を動かしてみようと思うが、どうにも伝わらない。
 俯いていると、またぽたりと髪から滴った雫が床に落ちた。
 下着は無事だったため、パンツだけ履き替える。タオルを取り出し頭にかぶる。雑に水気をふき取り振り向けば、ルシフェルと目があった。
 パッと目が合うと、それがいつ、どこでも、急に青空に放り出されたような気持ちになる。それ程に澄んだ蒼だ。
 ルシフェルも着替えを終えていた。腕の中にはベッドから持ってきた毛布が抱えられている。
 いつからこちらを見ていたのだろうと思う程、真直ぐじっと見詰められて首を竦める。それを見てか、彼が笑った。
「おいで」と呼ばれる。
 暖炉の前に招かれ、絨毯の上に座るように促された。並ぶようにしてルシフェルも座る。そして二人包まるように、肩に毛布が掛けられた。
 身を寄せ合い、肩が触れる。
 肩だけでなく、腕も足も、つま先も触れる。僅かに残る体温を分け合うようだ。離れようと身をよじれば、毛布がずり落ちてしまいそうになる。慌てて端を掴み、さむいから、さむいから仕方がないのだと念じ、ルシフェルに肩を預けた。
 触れ合うことが嫌なわけではない。
 ただ触れることが恐ろしい。触れられる場所に居て、触れることをよしとする距離にあることが恐ろしい。高望みする心も、再び手放す恐ろしさを夢想することも恐ろしい。だがそれしきでは、もう離れられない。
 人間の心臓が、走るような速さで脈を打っている。
 少しずつ、少しずつ感覚が戻ってくる。暖炉の中で燃える火が、パチリと爆ぜる。静かだった。
 窓の外に見える景色はぼんやりと暗くなってきていた。変わらず雪は降っていて空は暗い。陽が落ちる時の燃えるような色も今日は見えず、ただゆっくりと夜の色が迫りくる。
 人の話し声が聞こえてくることもない。子どものにぎやかな笑い声もない。他の島とは違う、この島だけの空気がある。何もかも雪に吸い込まれ、消えてしまうかのようだった。
 その中でもルシフェルの瞳はいつでも明るい。
 変わらない空の色に安堵するが、その色が見えるということは、彼がこちらを見ているということだ。
 肩を寄せ合う距離で、空の色がじっとこちらを見ている。時折瞬きをして、それでも変わらず視線が降り注ぐ。
 あまりに真直ぐなまなざしに耐えかね、顔を背ける。
 それほど見つめてどうするのだ、と再び視線を返しても、まだ変わらずに空の色があった。
「……なんですか」
 眉を寄せて尋ねると、漸く気付いたようにルシフェルの視線が外れた。ぱちんと瞬きをして、ふと逸れる。考えるように瞳が彷徨って、また戻ってくる。
 この人が言葉を選ぶ姿というものは、ヒューマンになってから初めて見た。
 選ぶべき言葉が多くなったのか、言葉を選ぶための時間が必要になったのか。どちらでも良かったが、その空白の時間が彼も今は人の身だという実感を与えていて、嫌いではなかった。
 結局ルシフェルは「いや」とだけ答えた。
 答えになっていないではないか。などと思いながら、少し温まってきた体の調子を確かめるように、指を握って開く。それを数度繰り返す。随分滑らかに動くようになったように思う。
 そうしていると手を握られた。
 急なことに息が止まる。ドッと一瞬鼓動も止まり、再び駆け始める。そんな気がした。
 このようなことばかりでは全く身が持たない。苦々しく視線を逸らす。
「少し温まっただろうか」
「……まあ」
 指先に視線を注いでいるルシフェルの横顔を、そっと見上げる。
 指が握りこまれる。その感触が、今度はありありと伝わってきた。お互いの手はまだ温かいとは言い難いが、それでも触れていることが分かるほどには、体温が戻ってきていた。
 思い出したかのように頬へ熱が上がってくる。縮んだバネが伸びるかのような勢いで立ち上がる。
 眼下に、目を丸くしたルシフェルの肩から、毛布がずり落ちていく様子が見えた。
 慌てて毛布の端を彼の体に沿うように押し付け、「少し温まったので、珈琲でも淹れてきます」と逃げるように部屋を出た。
 廊下に一歩踏み出したところで、裸足のままだったことに気付く。扉を一枚超えただけで温度が全く違う。背筋を寒気が駆け抜け。
 そろりと部屋に戻り、怪訝な表情を浮かべたルシフェルに向け愛想笑いを送り、備え付けのスリッパにつま先を押し込み再び外へ出た。
 少し温まった体に寒さが染みる。羽織れるものを持ってくるのだったと後悔したが、二度も戻ることができなかった。
 そのため宿の厨房に行き「湯を分けてもらえないだろうか」と声を掛けたところで、珈琲豆を持ってきていないことに気付いても遅かった。ぐっと言葉を詰まらせながら、温かい飲み物を貰いたい旨を伝える。
 厨房の主人は「旅人さんには、この島は寒いだろう」と顔の皺を深くしながら笑った。チョコレートの欠片を放り込み、温めたミルクを注いだマグカップを二つ用意してくれた。礼を述べ、部屋へと戻る。
 戻る際の僅かな道中で、少しだけ、考え事をした。
 他愛もないことだ。ヒューマンの体の不便さのこと。珈琲を淹れると言って全く違う飲み物を持ち帰ることへの言い訳。明日のこと。雪を見に行こうと言ったあの人についてここへ来たが、明日は何をしようか。まずは防寒具だな。など。本当に、たいしたことではない。
 部屋の前までたどりつくと、一度深呼吸をした。
「戻りました」と声を掛け、部屋の扉を開く。
 先ほどまでと変わらない場所にルシフェルの姿があった。けれどもなぜか彼は驚いた様な表情を見せていて、かと思えば口元を緩めて笑った。
「……どうしたんだ」と怪訝な気持ちが言葉として漏れ出る。
 ルシフェルは「いいや」と目を細め、毛布を広げてサンダルフォンを呼んだ。その腕の中に戻ることは少し躊躇われたが、他に行先もない。呼ばれるまま元の場所におさまった。
「珈琲ではありませんが」とマグカップの片方を差し出す。
「有難うサンダルフォン。外は寒くなかったか」と微笑みかけられる。
 全くもって寒かったが「少し」とだけ答えた。
 ふー、と息を吹きかけ、マグカップに口を付ける。甘く温かい味が、冷えた体に染み入るようだ。深い安堵の息が零れる。「おいしい」とルシフェルが呟いた。
「寒い日は、こういう飲み物もいいですね」
「そうだね」
 甘いクリーム色のカップの中身を覗き込む。のんきな顔をした自分の姿が映り込んだような気がしたが、気のせいかもしれない。冷めてしまう前に一気に飲み干す。
 空になったカップを横によける。同じようにルシフェルの手も空く。その手で頬に触れられた。
 これしきでドキドキとしていては身が持たないと、努めて平常心を保つ。
「温まってきたようだ」
「そうですね、手も爪先もかなり感覚が戻ってきました」
「頬も血色がよくなってきている」
 それで頬に触ったのかと視線をやると、今度は指先が唇に触れた。
 一体どれだけ弄べば気が済むのだと、払いのけたいほどであったが、ルシフェルにそのようなつもりがないことは重々承知だ。彼の善意と好意を気付かず払いのけられたのは既に昔のこと。
「唇の色も戻ったな」
「……それほど顔色が悪かったでしょうか」
「私も同じようになっていると思っていたが」
「貴方は」それほどでもなかったのだが、素直にそういっては気に病むだろうか。マフラーを押し付けて、アンタよりマシなどと言っている場合ではなかったのか。
 口をつぐんでいると、ルシフェルの指が離れた。やっと解放されたかと思ったのも束の間、今度は肩を抱き寄せられた。体がぴたりとくっつくように。肩と肩が触れ合うどころか、半分胸に身を預けているようなものだ。
 もう勘弁してくれと思い瞬きすら忘れる中、ルシフェルは「もう少しこうしていればより温まるだろう」と眠りを誘うような穏やかな声で囁いた。
 サンダルフォンは急に、自棄を起こした。
 限界を迎えたともいうかもしれない。抱き寄せる腕を振りほどき勢いよく立ち上がる。当然のように驚いた空色の瞳が、サンダルフォンの姿を追い掛けるように見上げてきた。
 考えることをやめ「足を開け」と言い、揃えて山を作っているルシフェルの膝を指さした。
 事態を微塵も理解していない様子で見つめられる。
 それもそうだろうと思い、勝手に膝を割り開き、出来た隙間に座り込んだ。そのまま後ろに体を倒し、ルシフェルに背を預ける。
「温めるならこちらの方が効率的だろう」
 吐き捨てるように言い、両脇にあった彼の腕を掴み腹の前で交差させた。人の気も知らず好き放題しやがって、と呪いながらため息を吐く。
 じんわりと背中から体温が移り伝わってくる。温かい。温かいがこの後どうしたらいいのだろうか。
 だがルシフェルのことだ、温まれば自然と離れるかもしれない。そうしたらまた厨房に行き、夕食を頼むなどするか。その前に大浴場に湯が溜まるだろうか。
 どちらが先でもいいか。両方済ませたら眠って、そうしたら明日は。
 できる限り現状から目を背け、考えを巡らせる。
 それにしても、あの空色が見えていないだけで随分と気が楽だ。先程よりも触れている部分は多いというのに、今の方が気楽に感じる。
 あの色を見ていると、どうにも気が募り過ぎる。長く焦がれすぎたものだと苦笑する。
 その安堵を打ち破るように「サンダルフォン」と呼ばれた。背から直接耳へと吹き込まれるような、声。
 それだけで落ち着きを取り戻しかけていた心臓はうるさく走り出す。何が瞳が見えていなければだと、己を呪った。腹の前に回していたルシフェルの手が、サンダルフォンの指を掴んだ。
「あ、なん、ですか」
「顔を見せてはくれないだろうか」
「……顔ですか」
 そのようなことかとどこか落胆する気持ちと、何故そのようなことを乞うのだろうという気持ちがない交ぜになる。
「これは確かに温かいが、君の顔が見えないことがさみしい」
 駄目だろうか、と切なげに問われる。
 なんてズルいことを言う人なのだろう。
 イヤだなどと言えるはずがなく、静かに体の向きを変える。向かい合うことは流石に無理であったため、横向きで止まる。表情が歪む。物凄く嫌そうな表情をしてしまっているのではないかと思った。
「これでいいですか」
 これ以上は無理だと暗に伝える。自分から膝の間に割って入ったくせに何をしているのだかと呆れた。
 視線のやり場が定まらない。眉間にしわを寄せたまま押し黙るも、気にした様子もないルシフェルの視線が注がれ続けている。
 少しでも顔を横にやれば、目が合ってしまう。
「……そんなに見ないでくれないか」
 耐えかね、唸るようにそう伝える。体が温まってきたどころか、少し熱い気すらしてきた。特に耳が熱い。
 ルシフェルは驚いたように瞬きをし、考えるように首を傾げた。その仕草が不似合いで可愛らしく、すこし心が緩んだ。
「君は」と彼が言った。
 そしてゆっくりと瞼を下ろし、ゆっくりと開いた。何かを確かめるように。
 空色の瞳に、落ち着かない様子のサンダルフォンの姿が映り込む。
「私の視界に君の姿があることが、どれほどの幸福か知らないのだろう」
 愛おしそうに温かく、それでいて少し寂しいことを思い出すように、ルシフェルの言葉がそう言った。
 それはどういう意味かと問うよりも早く、手を握られる。掴まれた手は連れていかれ、彼の唇へと触れた。
「ひとりで飲む珈琲は味気ないものだ」