小ネタ

(ルシサン/ワンライのやつ/蒼)
    

 この空にも雨は降る。
 ルーマシー群島の木々を潤す雨が降る。中庭に出たところで、その雨に気が付いた。いつ、降り出してしまったのだろう。屋根の下から出られなくなり、二の足を踏む。両手の中のトレーが揺れ、珈琲カップがカチャンと音を立てた。
 珈琲豆のにおいに混じり、雨のにおいがする。しとしとと雨粒が、庭の木々の葉を叩いて跳ねて、足元に水たまりを作っている。
 これまで、雨など気にしたことがなかった。
 外に出る必要がないからだ。広い研究所に与えられた狭い部屋。居場所はそこで、することはない。日々の疑問を募らせながら、焦燥に身を焼き、あの人の訪れを待つだけの存在にとって、天気など関係がなかった。
 雨であることを惜しく思ったのは、これが初めてだ。
 なにもあの人が訪れている日に降らずともいいものを。中庭で珈琲の支度をして、訪れを待とうと思ったのに。これでは無駄足だ。
 抱えたコーヒーセットに視線を落とす。一から十まで与えられたものだ。丁寧に磨いて保管しているこれも、使い時は限られる。
 折角、と思ったところで苦笑する。あの人がここへくる確証など何一つもない。この研究所を訪れている時は決まって、用事が済んだあとで顔を見せてくれる。空とよく似た色の瞳がこちらを見る。その瞬間ばかりを心待ちにしていた。
 尚も雨は降り続いている。空から降る光と混じって、ぱらぱらと反射する。
 外には、庭には誰も居ない。この島に元々生息している植物のほかに、研究者がどこからか持ち込んだ植物もある。それが庭をほどほどに賑やかに華やかに彩っている。恵みの雨も、今はただ恨めしい。
 視線の先にぽつりと置かれた、白いテーブルと揃いの椅子。そこで向かい合って珈琲を飲む二人の姿を幻視する。自分とあの人、この前のこと。話した内容。飲んだ珈琲の味。あれからどれくらいだろう。今日がなくなると、次はいつになるのだろう。
 そもそもあの人が、何もしていない存在を訪ねてくる理由などない。報告できる内容もない。今まではどうしてか来てくれていたが、ついに今回は来ないかもしれない。そして忘れられてしまうのかもしれない。
 じりじりと胸が焦げる。雨はしとしとと降り続く。
 戻ろうと踵を返したところで「サンダルフォン」と声を掛けられ、驚きのあまり手を一瞬、離してしまった。
 ガチャンと音を立ててトレーが、カップが、珈琲豆が、ミルが、すべてが浮き上がる。慌てて掴みなおす手に、自分のものではない手が重ねられた。誰の手かなど確かめるまでもない。うるさく走る心臓に急かされるように顔を上げると、いつもより少し目を丸くしたルシフェルの姿があった。
「大丈夫か」
「……はい。あっ、カップは」
 割れたりヒビが入ってしまったりしてはいないかと、確かめようにもまだ手は掴まれたままだった。首を捻り、カップを眺める。無事だろうか。先ほどとは違う意味で心臓がうるさい。
 重ねられていた手が離れ、ルシフェルの指先がカップを掴み上げた。手のひらで撫で、空色の視線がなぞる。「問題ないようだ」と小さく笑うと、カップが戻された。
「すまない、驚かせたようだ」
「いえ、考え事をしていて、貴方がいらっしゃっていることに気が付かず、申し訳ありません……」謝罪の声はしりすぼみになってしまった。取り乱したことが今更恥ずかしくなる。
 あれほど訪れを待ちわびていたというのに、いざとなりに並ぶと言葉が出てこない。それは考え事のせいか、この雨のせいか。どうしてこの人は、ここへ来たのだろう。
 雨粒が揺らす水たまりの上で視線を彷徨わせていると「支度を」とルシフェルが呟いた。
「珈琲の支度をしていてくれたんだね」
「……ですが、雨だとは気付かず、無駄になってしまいました」
 意を決し、苦笑を浮かべ見上げると、彼もこちらを見ていた。じっと見詰められると落ち着かない。首を竦めると笑われた。一人だけ楽しみにしていたかのようで恥ずかしい。「戻ります」と体を捻る。歩き出そうとしたところを引き留められた。中庭に向きなおるように背が押される。
「もう止むよ」
 その言葉が紡がれるとほぼ同時に、視線の先にあった水たまりから波紋が消えた。気付けば雨音が止まり、雲の隙間からは空が覗いている。天候まで操れる人だっただろうかと驚いていると「私ではないよ」と見透かしたような答えがあった。
「今日は私が珈琲を淹れよう」
 雨の上がった庭にルシフェルの姿が滑り出る。「この前は君が淹れてくれただろう」と振り向いた声が呼ぶ。あっ、と息を吸い込む。
 踏み出した先、水たまりに空の蒼が映り込んでいた。