(綾主)
あれから一週間と少しが経った。十二月の夜は寒い。息が白い。手が冷たい。
長鳴神社のジャングルジムを登る。さほど大きくもないジャングルジムだが、それでも天辺に立てば少し空に近付いた気がする(きっと気のせいだけど)
視界を遮る物がぐっと減った。深月はジャングルジムの一番上に腰を下ろした。そういえば、こうしてこれに登ったのは初めてかもしれない。いつも誰かが登っているのを地面から見上げていただけだったように思う。ここから見えるのは、こんな景色だったのか。
上体を倒して寝転がる。どう考えても寝転がるのに適していないので、体が少し痛い。視界は夜空ばかりになった。
月はまだ欠けていく途中だ。それでも大分ほっそりとしてきた。新月は来週の半ば位だ。あとどれ位で月が満ちる、何日が新月で、満月で。ずっと気にしていたものだから感覚として染み付いてしまっていた。
次の満月は言うまでもなく大晦日だ。出来すぎていた。
(ずっと側で見守ってるとか言ったくせに……。簡単に居なくなりやがって)
何か、言い様のない何かが、どこからか、ぽっかりと消えうせている。それは体の一部の様な、心の一部の様な。その欠けた何かも、ついこの間まで埋まっていた。いや、埋める別の何かがもう直ぐ見つかる気がしていた。けれどもそれも無くなった。
何が欠けたのかは知っていたけれど、欠けたことで何が消えたのかは良く分からない。ただ漠然と、足りない。何かが。
寮の皆は今対照的に溢れていた。持ちきれない、抱えきれないものが溢れて、まだ収拾がつかない。
空には月が欠けて光が弱まっているせいか、星が多く見える。そういえば、夜空をまじまじと見上げるのは満月の日、満月が近付いてきた日が多くて、こうして星を眺めることはあまりなかったかもしれない。星には全く詳しくない為、どれが何座とかは分からない。
ほう、と息をつく。息は白く煙って空気に溶けた。寒い。ほんの少し、眠い。
目を閉じる。
「風邪をひくよ」
誰もいなかった筈の空間に声が響いた。じんわりと鼓膜に届く懐かしい声。とはいえ、こうして目を閉じていた時によく話しかけてきたあの声よりも幾分低くなってからの声だが。
ゆっくりと目を開けると、頭上に綾時が立っていた。
「そんな薄着で、こんなところで寝ちゃ駄目だよ」
「……そんな寒そうな格好のお前に言われたくない」
綾時はついこの間までと変わらない顔をして、苦笑した。
「寒いとか、暑いとか、よく分からなくって」
「、そうか」
「ねえ、危ないよ。降りよう」
ジャングルジムの上を器用に歩いて、深月の横に移動すると手を差し出した。その手を取ろうと思ったが、それよりも先にぱっと手は引っ込められた。やり場の無くなった手を後ろに回して、綾時はまた苦笑した。
仕方ないので自力で起き上がる。そんなに長い間寝転んでいたつもりはなかったが、場所が悪かったせいで体のいたるところが痛んだ。
ふわりと地面まで跳んだ綾時の後を追う様に、ジャングルジムを降りた。登ってきた時よりも、鉄の感触が冷たくなっているような気がした。
降りたところで綾時はジャングルジムに背を預けて立っていた。その隣に並ぶ。綾時は月を見上げていて、どんな表情をしているのか見えない。深月も同じように月を見上げた。ついさっきまでも見ていたはずなのに、先程までとは様相が違って見えるような気がする。
こうして並んでいるとまるで何も知らなかった十一月に戻った気がする。あの頃一度、こうやって二人で並んで空を見上げたことがあった。もっともそれは夜空の月ではなく、夕焼けの太陽だったけれど。
「本当は姿を見せるつもりは無かったよ」綾時が呟いた。
見れば今度はこちらを向いていて、青空色をした目が深月をじっと見ていた。明るい時分ならばもっと綺麗な色に見えたのだろうけど、この暗さでは判別が出来ない。青色には到底見えなくて、深月と同じグレーダイヤモンドの色の様に見えた。
長い睫に縁取られた宝石の様な瞳は悲しみに彩られ揺れていた。
「なのに君、寝転んだまま影時間になっても、影時間が明けても、起きないんだもの」
「そんなに寝てたのか……?」
「気付いてなかったの?」
「少し目を閉じて考え事をしてただけの、つもりだった」
「ふふ、マイペースな君らしいね」
少し笑って、また目線を外した。深月を映すのを止めた瞳は視線を下ろし砂場を見ている。
「来週は期末テストでしょ。こんな風にぼんやりしてていいの」
「天才なので」
「わあ順平が聞いたら怒りそうだなあ」
「綾時」
「ん、何?」
「もっとちゃんと人間にしてやれたら良かった」
せめて自分が宣告者だと思い出せないくらい人間に生んでやれたら良かったのに。
唇から零れた言葉を拾った死神は、案の定こちらを向いた。とても綺麗な、悲しそうで苦しそうで泣きそうな顔をして。
眉間に皺を寄せ、目を見開いて、唇を噛み締めるこいつが。
人間じゃないなんて、誰が気付けるだろうか。
「……責めるつもりで言ったんじゃないよ」
「分かってる。これは、俺の願望だから……聞かなかったことにして」
「あのね、僕は君から充分過ぎるほど与えられていたよ。そんな顔しないで」
「そんな顔してる奴に言われたくない」
手を伸ばして、今にも泣きそうな目元に触れる。驚いた綾時は避けるように身を引いた。それでも一瞬触れた指先からは暖かさが伝わってきた。
「……その反応、傷付くな」
「あ、ごめん……でも、だって」
尚も後ずさる綾時の手首を逃がすまいと掴む。そのままぐっと力を込めて引き寄せ、思ったよりも簡単によろめいて近付いてきた体を抱きしめた。
焦って慌てて逃れようともがくのを力ずくで抑える。
「綾時は暖かいな」
そう言えば抵抗が止んだ。もがいていた手が行き場を無くして宙に浮いているのを背中に感じる。きっと戸惑っているんだろうな。
「暖かい」
もう一度、しっかりとそう言う。少し甘えるように首筋に額を押し付ける。もう少し(いや大分か)背が高ければ包み込むように抱きしめてやれただろうか。どう足掻いても抱きついている様にしかならないのが少し悔しい。
おずおずと背に手が回されたのを感じた。
「……深月くんは冷え切っててちょっと冷たいかな」
「……悪かったな」
「ううん、ありがとう」
一度ぎゅっと力を込めて抱き締められて、それから腕は離れた。深月も腕を解き、お互いの顔が見えるだけ離れた。
「これ以上居たら本当に風邪を引いちゃうよ。送るから帰ろう」
ううん、送らせて。と言われ断る理由は勿論なくて。どちらからともなく繋いだ掌をしっかりと握り、神社を後にした。
神社から寮までの道のりは、決して長くない。
その短い距離を噛み締めるように踏みしめた。
「きっと、僕は君と話したかっただけなんだ」
「、なにが」
「今日、君が起きないから、って言ったけど。きっと話しかけるきっかけが欲しかっただけだろうなって」
「そうか」
「さっきだって、送るって言ったのも、もう少しこうしてたくなっちゃったからで、別に、送らないといけない理由なんてないもんね。それどころか、あんまり寮の近くに言ったら風花さんに見つかっちゃうかもしれないのに」
「影時間空けてるなら、風花どころか多分みんな寝てる」
「そう、良かった。まだ僕が姿見せちゃいけないからね。あんなこと言ってみんなにあんな思いをさせてるのに、姿を見せるなんて都合が良すぎる、から。だから君にも声を掛けるの躊躇ってて……あの、ね。だから君に抱きつかれた時嬉しくて、都合いいかもしれないけど、少し許されたような気がして」
「……抱き締めたつもりだったんだけど」
「あっ、え? えー」
「怒るぞ」
「えっ、他のどれもは良くてこれは怒るの?!」
「俺をベースにしたくせに俺よりでかくなりやがってバカ綾時」
「えーそんな酷いよう」
もう次の角を曲がれば寮が見える。綾時は少し拗ねてしまった様だ。その顔が何だか可笑しくて笑った。
それに気付いた綾時は困ったように、でも照れて笑った。「ありがとう。だいすき」と呟かれた声がしっかり聞こえてきてしまった。指先から伝わる温度が高くなった気がした。
寮の脇にある街灯の下まで来ると、綾時は足を止めた。
「あんまり近付いたら入りたくなっちゃいそうだから、ここで」
「ん」
「次会うのは、大晦日だね」
繋いだ指先を、どうやって離せば良いのか分からない。じっと、綾時の手と繋がれている自分の手を見る。ふと額に何かが触れた。はっと視線を上げると、直ぐ目の前に綾時の顔がある。心臓が、ぎゅっと掴まれた気がした。
はらりと手が離れる。それが少し淋しかった。
「君が寮に入るまで見送ってるね」
一度頷いて、その場を離れた。寮の前の僅かな階段を上り、ドアに手を掛ける。
「おやすみなさい」
声に振り返れば綾時が手を振っていた。
「おやすみ」
その言葉を最後に、寮に入り、ぱたりとドアを閉めた。
もう綾時は外に居ない。