(綾主)
「目を閉じて」と言われ素直に目を閉じて、唇が触れたのは随分時間が経ってからだった。
ざわざわと遠くに喧騒が聞こえる。部活でまだ残っている人と、帰路に着く人と。それも随分小さくなってきた。
教室にはもう自分達以外に居ない。校舎に残っている人も少ないだろう。だから、こんなことをしている訳だけれど。
深月自身いつもなら帰宅している時間だ。だが今日は待ち合わせをしていて、生徒会活動を終えてから教室に戻ってきた。綾時は先に来ていて、自分のひとつ前の席に座っていた。自分も席に座り、ぽつぽつと他愛も無い会話をした。
今まで綾時は写真部の見学に行っていて、数枚の写真を撮らせてもらい、後日現像した写真をもらえるらしいという事。生徒会は小田桐が他のメンバーと随分柔らかな空気になってきた事、千尋の男性恐怖症も和らいできた事。
何のきっかけだったか、ふと机の上に置いていた手に綾時の指先が触れた。それから、まあそういう空気になったなーというところで冒頭の綾時の台詞だ。
所謂お付き合いを始めてからそれなりの時間が経っていたが、お恥ずかしながらキスをしたのはさっきが初めてだ。
唇は本当に触れただけで、直ぐ離れていった。目を開ける。眼前の綾時は素早く居住まいを正し、背筋をぴんと伸ばし何事も無かった風を装っていた。
それはキスなど大したことではないので気にも留めていない、という事ではなくて、動揺しているが故にいつも通り振舞おうとして振舞えていない、ということ。
綾時の顔は赤いし瞬きの回数も異常だ。
こういう現象を見掛けるのはこれが初めてではない。手を繋いだ時だって挙動不審だった。あれは学校帰りにおみくじが引いてみたいという綾時と長鳴神社に寄った時。奇跡の様に大凶を引いた綾時を石段に座りながら慰めている時。
途中突然挙動不審になり、横についていた自分の手の近くを綾時の手が行ったり来たりする。手を繋ぎたいんだろうか? とは思ったが違うかもしれないので放って置いた、がずっとその調子だったので少し苛苛してきて自分から手を握った。
こいつ、本当にあの女子に片っ端から声を掛ける軟派さで一躍有名になった望月綾時か? と疑問になったのも仕方の無い話だろう。
今も向かいに座ってそわそわとする、この純情とか奥手とか、どう考えても一般に知れている綾時像とは真逆のイメージっぽいこいつが不思議で仕方が無い。
「綾時さ」
「うえっ! はっはい! 何、でしょう!」椅子ごと飛び上がらん程に驚かれてこちらまで驚く。「……どうしたんだ」
「……あははは」綾時は照れくさそうに頬を掻いた。
少し呆れながら頬杖をつく。
「お前、女の子口説いたり恥ずかしいセリフ言ったりするのは平気な癖に」
「え? 何が」
「何で俺と居る時は、そんなテンパってんの? って」
「だ、だって、それは、さあ……」
あんなにも饒舌な綾時が、こんなにも歯切れが悪い。
机の上で組まれていた綾時の手を片方引き剥がして、自分の指と絡める。テンパってる綾時も珍しいけど、こうして他人と積極的に接触を計ろうとする自分も、相当珍しいのかもしれない。
それにしても苦労を知らなそうな手だな、とじっくり眺めながら触っていると心なしか手の温度が上がって来た。視線を上げれば真っ赤な顔をしている綾時と目が合う。
「……お前なあ」全く呆れて言葉も見つからない。
綾時は「だって」と言いながら眉を寄せた。ぎゅうと閉じられた目は、溢れ出る何かを必死に堪えているかのようだ。
「君はどれ位僕が君を好きか、知らないんだよ」触れたところから溢れて飲み込まれて息も出来ないくらいだよ。と綾時は言う。
なんだ、それ。
「それじゃあ、俺が綾時の事別に好きじゃないみたいじゃないか」
綾時が驚いた顔をしていた。「えっ」
みるみる染まる(これ以上赤くなれるのか)綾時の顔に釣られ自分の顔も何だか少し熱くなって来た。なんてことだ、これじゃただの告白だ。少しむっとして零した不満の言葉のつもりが、こんな。
ちら、と綾時を見ると相変わらず赤くなっているが笑っていた。嬉しい、っていう気持ちが余すことなく溢れ出ているその表情に、心がじんわりと満たされる。
「……しまりの無い顔」
「だって嬉しいんだもん」
「そーですか」
「君も僕を好きって思ってくれてるって思うだけで幸せ」
そーですか、ともう一度言って、掴んだままだった手を改めて繋ぎなおす。今度は自分の方が飽和してしまいそうだ。じわじわ染み渡って、もう心に余白が無い。
「君が僕の事、選んでくれるなんて思ってなくってね。大好きだったのが、一緒に居るともっと好きになってくから、追いつかないよ」
なんて、恥ずかしい。やっぱり綾時は綾時だ。
「りょうじ」
空いている方の手で、綾時のマフラーを掴んで引っ張る。引き寄せて唇を重ねる。今度はさっきみたいに一瞬で離れられない様に腕を綾時の首に回して。
あんまり言ったりはしないけれど、自分だって綾時のことが好きなので、手を繋ぎたいと思ったりもするし、キスしたいとも思ったりする。
繋いでいる手にぎゅっと力が込められたのを感じる。手が熱い。ゆっくり触れ合わせた唇を離す。
詰めていた吐息を零した綾時は見事に耳まで赤くなっていた。あまりの照れっぷりに、向かい合っているこちらまで恥ずかしくなってくる。居た堪れない。視線を逸らす。
なんだ、これ。もう意味が分からない。
「キスでそれって、大丈夫なのか」
「え?」
正確には、手を繋ぐだけでも相当、だけど。これではこの先が思いやられる。
付き合うっていうことで、それなりの事もあるだろう覚悟、というか考えていたのだけれど、取り越し苦労というか、何というか。
「……そんなんじゃ、いつか襲うぞ」と思わずぼやいた。
綾時は心底驚いた顔をして「ダメだよ!」と声を荒げた。
ダメ、と言われるとは思っていなかったので驚く。ダメって、そういうつもりは無い、とか。そういう、事なのか。ぐるぐると一瞬にして色々なことが頭を過ぎった。
目の前の綾時は知ってか知らずか、胸を張ってこう宣言した。
「僕の心臓が持たないよ!」
「お前……馬鹿だろ」