初期ステータス

(綾主本の再録/これは主人公名が有里湊)
  
 
 

 ――月――日、影時間。

 毎夜やって来る影時間へと足を踏み入れ、歪な塔の門を叩く。
 摩天楼の様に聳えるそれの、階段を一段一段駆け上がる。果ては、見えない。
 後ろから何かが迫って来る様な気がして、一心不乱に登る。振り返るのは怖い。振り返っても、何もないけれど。ここには自分たち以外、誰も居ない。
 階段のある一角で、パーティーが揃っている事を確認し、次の階層へ上がる。
 窓もないこの塔の中、一体どれだけの高さまで上ったのか分らない。何階、と言われても実感はない。数字は記号にしかならず、実感をもたらしてはくれない。
 どこまで登ればいいのか分らない。本当に頂上が在るのかさえ分からない。登らなくてもいいのなら、登らなかっただろう。けれども、登らないということも出来ずに、ただ階段を踏んだ。
 影時間の中は、日常の外だ。起きる筈ないことが起き、当たり前の事は何も無かった。怖い。ずっと、怖い。
 誰も知らないこの時間に目を開けている事は怖い。
 認識して現実だと受け入れる事も、怖い。
 それどころか、目を開け、足で立ち、手で武器と召喚器を握り、何か分らない何かと戦わなくてはいけない。刮目しろ、思考しろ、そうしなくては死んでしまう。
 戦いたくない。戦うのは怖い。けれど戦わなくては次の満月の日、誰か死んでしまうかもしれない。ここで目を開けてしまった以上、もう戦って、倒して、必死に前へ、上へ進むしかない。戦えば誰かが傷付くかもしれない。でも戦わなくても傷付く。ならばひたすら戦って、誰も傷付かないよう立ち回るしかない。
 シャドウの姿を視界に捉えて足を止める。手で仲間を制する。確実に背後を取らなくては。頭の中で情報を反芻する。あのシャドウの弱点は、傾向は。こちらが取るべき手段は。リスクは、最小限に。
 冷や汗が滲む手で、武器を握り直し、深呼吸を一つ。
 手が震えて狙いを誤らない様に。
 ひたすらシャドウを倒し、前へと進む。上をと目指す。
 人の気配は無く、どんよりとした独特の空気が充満する通路で足音が反響する。どこまで行ってもこの空気に慣れない。纏わり付くようなどろりとした影の臭い。
 影時間が空けたら、早く戻って部屋で丸くなって眠ってしまいたい。
(皆さん、死神の出現を確認しました! まだ距離はありますが、気をつけて!)
 風花の声が告げる内容に背筋が凍る。遠くから鎖を引き摺る音が聞こえてくる。
 床に落ちて引きずられ、反響する金属音。
 少しずつ迫ってくる、只ならぬ気配。
 怖い、怖い。足が竦みそうだ。でも、

 
 死にたくなんて、ない。

 
 
 

 ■月曜日

 ハットトリックっていうの?
 鳥海が教壇で溜息混じりに言うのを見ていた。鳥海の隣に立つのは今年三人目の転校生だ。オールバックと長いマフラーが印象的。制服は間に合わなかったのか、制服っぽくもある気がする私服に身を包んでいる。背は、割と高い。微笑んでいる顔からは何だかただならぬ煌びやかな光が出ている。到底同じ人間とは思えない眩さだ。直視したらきっと眩しさで目がやられるに違いない。観察するのを早々に諦めて、目を逸らした。
 今年の転校生は美男美女ばかりだね、というヒソヒソ話しが聞こえる。そういう噂を立ててハードルを上げるのはやめてほしい、とひっそりと考える。
 今年二人目の転校生、アイギスは文句なしの美少女。三人目のこの転校生も美男子、だろう。無駄に顔のパーツの配置が綺麗。垂れ目気味で優しげな目元が好印象。(因みにこの情報は自ら見たものではなく、周りの喧騒の中から拾った賛辞だ。自分で見た印象は、冒頭で述べたとおりである)
 それに対し、最初の転校生の自分はと言われれば、割と地味だ。これと言って目立つ事も無く、大抵音楽を聴いて過ごしているので人付き合いも過不足無く(不足していると順平辺りには言われるが)背も悲しい事に平均程度。目立つ事は余程無い。そんな自分をあの系列に入れないで欲しい、ともう一度しみじみ思う。最初だけなんか違ったよね、とか言われたらどうしたら良い。
 さてその転校生、望月綾時は何やら早速アイギスに怒られていたが気にしない。一瞬目が合ったような気がするが気にしない。別次元の出来事だったとそっと頭の片隅へ。接点が生まれることも無いだろうから、そのままフェードアウトしよう。
 彼の転校初日は、アイギスに派手に怒られた以外、これと言って目立ったものはなかった、と思われる。強いて言うなら放課毎に女子に取り囲まれているくらいだ。隣のクラス、はたまた別学年からも見学者が来ていた。美男子というのも大変なものだ。
 しかしどれだけ取り囲まれようとも、愛想もよくにこにことして会話も弾んでいるらしい。勉強も割と、順平や自分に比べれば出来るらしい。実にハイスペック。こんな煌びやかな人間と接点が生まれる事はやはりどう考えても無いだろう、とぼんやりと視界の端に、その望月を収め眺めながら思っていた。
 だが、一体何が起こるかわからないのが人生だ。
「学校の案内お願いできないかな?」
 それは放課後の出来事だった。
 今日は部活に出ない予定なのでさっさと帰ろうか、と鞄に荷物を詰めていた時のこと。声を掛けられて顔を上げると望月が立っていた。目の前に。
 一応辺りを見回してみる。教室内の人はまばらになっている。ゆかりや順平は勿論居ないし、アイギスも居ない。前後左右の席の人も居ない。もしかしなくても、自分に話し掛けているのだろうか、とちらりと望月を見上げる。にこにこした顔が相変わらずこちらを見ていた。
「……なんで?」素直にそう聞いた。あれだけ人に取り囲まれていた望月なら、そういう案内役にも事欠かなかっただろう。というか「まだ見て回ってなかったのか?」
 問い掛けると、望月は困り顔で答えた。
「そうなんだ。休憩時間中は取り囲まれちゃっててそれどころじゃなくって」
 確かに、人垣というのはあれの事を言うのだな、と思ったほど取り囲まれていたので、中心地にいた望月の脱出は絶望的だったろう。取り囲まれすぎた割に学校案内を失念されるとは、ハイスペックな人間も割りと大変だ。
「それにしても、他にいくらでも頼める奴いただろ」
「えっとね、君がいいんだ」
 今望月は何と言った? とても聞き慣れない言葉で何と言われたか良く分からなかった。もしやこれが噂の帰国子女と言うものの力か。こんな、ある種告白染みたセリフをこの人生でまさか向けられる事があるとは思わなかった。いや、口から生まれたナンパ師、と順平が早速称していたので、こういう言葉遣いの人種なのかもしれない。深く考えてはいけない。
 はて、暫し考え込む。君が、とか言われるほど自分は何か印象に残る事をしただろうか。さっぱり覚えがない。望月の様に只ならぬ煌めきを放っているわけでもなく、割と地味な部類の人種だ。
 考え込んでいると、望月がしゃがみ込み机の上で腕を組んで顔をじっと見上げてきた。改めて目が合うとしみじみ実感する、視線が眩しい。
「あのね、上手く言えないんだけど、君がいいなって思ったんだ。ねえお願い」
 じっと空色の瞳が見上げてくる。快晴の空に覗き込まれたみたいだ。吸い込まれたらどこかへ行ってしまうのではないか。
 真直ぐ眼差しから逃げられなくて、どうしようもなくなって「……いいけど」と首を縦に振った。
 その時の、望月のあまりに嬉しそうな顔が、不思議で、印象的で。綻ぶ、だとかそういう表現がぴたりと当て嵌まる、柔らかな笑みだった。
「どうかしたのか」
「え、何が?」
「……嬉しそうだから」
 素直にそう指摘してみせると、望月は不思議そうに首を傾げた。それからまた笑って「君に引き受けてもらえたの、嬉しくて」と言った。
 惜しげもなく向けられる、屈託のない純粋な笑顔が眩しすぎて恥ずかしくって、ガタンと勢い良く椅子を引いた。何がそんなに嬉しいんだか、さっぱり分らない。
「じゃあ行くか」
 どうしたものか良く分からなくて、目を逸らしながら素っ気無く声を掛ける。
 それから仕方なく、帰り支度を済ませた鞄を机に戻した。

 案内は教室を出て、まず近いところから始める。一階に下り、渡り廊下からグラウンドなどがある方へ。望月はきょろきょろとしながらも大人しくついてくる。今日一日中騒がしい輪の中心に居たものだから、もっと煩い奴なのかと思いきや、そうでもないらしい。
 しかし途中一度だけ、腕を掴まれて引き止められた。基本的にスキンシップだとか、そういう類が苦手な自分は心底驚いた。自分の左手を見ると、日に当たらない所為で色白の自分よりも、更に白い手に掴まれていた。真っ白な指がすっと長くて、こういうのが女子にわーきゃー言われるんだろうか、と思わず現実逃避した。しかし「ね、あの木って何」と尋ねられ、直ぐ現実に引き戻される。
 望月の視線が、渡り廊下の中程にある一本の記念樹を指していた。
 あれは柿木だ、と説明すれば「柿かあ」としみじみと頷いた。あの樹は巌戸台の老夫婦が大事にしているものらしい、とうっかり口を付いて出た。求められてもいない説明をするとは、我ながら珍しい。
 言ってしまってから余計な情報だったろうか、と恐る恐る望月を見た。だが彼は何故か驚いていた。「そんな事知ってるなんて凄い。有里くんって物知りなんだね」と笑い掛けられて、居た堪れなくなって目を逸らした。この短いながらの人生の間で初めて、物知りだね、とか言われた。身に余る賛辞である。
 この短い期間で、既に人生初の言葉を二度も向けられた。これが噂のナンパ師の力という物だろうか。
 うんまあと曖昧な相槌を返し「あの……さ、手」と掴まれた手を軽く引っ張って離してもらう。手を繋いでいるみたいで少し恥ずかしかった。それから、男に手を掴まれていた事に対して、恥ずかしいという感想に至った事に驚きだ。これが順平などであれば、手を掴まれた瞬間迷わずカウンターを発動し殴っていたに違いない。クリティカルを出せる自信さえある。
 そして漸く目的地のグラウンド手前に到着する。目の前にある三つの扉からそれぞれ、グラウンド、室内プール、体育館に繋がっている事を説明する。
「今日はどこも部活やってるだろうから、見学するなら言ってくるけど」
「あ、ううん大丈夫。余計な手間掛けちゃうもの。見学したくなったらまた自分でお願いしに行くね、ありがとう」
 好奇心は旺盛そうだったので、てっきり見学する、と言うと思っていたが割と気が回るらしい。見学するならそのまま置いて「それじゃあ」と言って帰ろうとこっそり思っていた、ということは内緒にしておこう。
「有里くんは何か部活入ってるの」
「あ、うん……水泳部と写真部」
「掛け持ちしてるの、凄いね!」
「いや……そうでもない。今日は水泳部さぼってるし」
「そうなんだ。でもそのお陰で案内お願いできたから僕としてはラッキーかも」
 ね、と笑い掛けてくる望月の目映さが尋常でない。この部類の人種と対峙したことがないので対応の仕方が分らない。順平にこんなオーラはないし、真田先輩も良く見れば肉とプロテインで出来ているので恐ろしくない。一番近いのは美鶴先輩だが、あの人は天上人か何かなので最早別種の存在だ。降り注いでくる光は浴びておけば大丈夫。
 しかし望月は目の前、それも至近距離から光を浴びせてくるので、そろそろ目がやられてしまうんじゃないかと思う。恐ろしい。案内が終わる頃には視力が消滅していないだろうか、大丈夫だろうか。
「僕部活とかやったことないんだよね。いいなあ、この機にどこか入りたいな」
「でも今はどこも部員募集してなかった、と思うけど」
「嘘っ! そ、そんなあ……」
 あからさまに肩を落とした望月が何だか可哀想である。しかし良い慰め方が分らなかったので「次、行く?」と聞いてみる。
「おねがいします……」
 少し猫背になった望月は項垂れながらも頷いた。

 江戸川特製劇薬の話しや、月光音頭の話しを交えながら校内を順調に案内していく。自分でも珍しい程饒舌だった気がする。いらない説明も度々挟んでしまった。
 そして最後に屋上へやってきた。
 見晴らしも良くベンチもあり、快適だと思うこの場所だが、意外と人が居らず静かだ。今日も自分たち以外には誰も居ない。自分は学校内で一二を争うこの場所が気に入っていた。ここへ来ては意味もなく昼寝をしてみたりもする。
 望月ははしゃいでフェンスに駆け寄り、眼下に広がる景色に感嘆の声を漏らしている。駅が見えるとか言っている。そりゃあ見えるだろう。何せ目の前だ。
 その姿をベンチに腰掛ながら眺めていた。心底嬉しそうに景色を見ている望月を見ていると、最初は何で自分が、とは乗り気ではなかった、が案内してやれてよかったと思う。
 それに、道中で説明以外にもあれこれと会話したが、望月は話題を振りながらも聞く所はちゃんと待って聞いてくれる。話し上手ではない自分でも全く苦ではなく、むしろ話し易かった。それどころか、どこか居心地のいい空気さえ感じた。
「有里くん、今日はありがとね」
 一頻り景色を堪能した望月が戻ってきて、隣に腰を下ろした。その距離が割と近くて驚く。いや、望月的には普通なのかもしれないが、パーソナルスペースが広めの自分としては十分に近い。目を瞬かせていると望月が笑った。
「僕本当に最近こっちに越してきたばっかりでね、知り合いとかも全然居なくて。この土地で上手くやれるのかなーって不安だったんだ」
「十分上手くやれてるように見えたけど……」
「本当? ならよかった」
 むしろ半年も居る自分よりもずっと上手くやれて居るように見えたけれど。
 空を見上げならがはにかむ望月の横顔をじっと見る。よく見れば目元に黒子がある。空色の目に泣き黒子。まるでファルロスみたいだ。そういえば、どことなく似ている、気がするようなしないような。
 まじまじと観察していると、望月と目が合った。
「あ、あのね。ほら、さっきも言ったけど、僕こっちに来て日も浅いんだ……。だから友達って言える人も、その、居なくって」
 あ、やっぱり目元とか似ているかも。でもファルロスと出会うのはいつも影時間内だけで、明るいところで見たことはないから、全く同じ目の色なのかも良く分からない。でも光っていて綺麗なのは一緒だ。と、ぴったり合ってしまったが故に驚いて逸らせなくなった目を見詰めながら、半ば現実逃避の様に思った。
「だから、僕と友達になってほしいんだ」
 そう真摯に言われて、あまりの視線の重圧についに目を逸らした。こんなに誰かにじっと見られるのには慣れていない。尚も不安そうに「だめ……かな?」と問い掛けてくる望月に、そっぽを向きながら「……いいけど」と答えた。
 こんな風に、直球で言われたのなんて、丁度先程考えていたファルロスくらいなものだ。似ているかもなあ、なんて思っていたら同じ事を言われて少なからず驚いた。
(……嬉しい、かも)
 うれしい、って望月が隣りで、本当に嬉しそうな声で呟くのが聞こえて、心にぽっかり空いている穴にそれがじわじわと染み込むような気がした。

 
 
 

 ■木曜日

 恐ろしい事が起きた。
 実に恐ろしい出来事だ。順平と自分は同じ様に青ざめて項垂れた。何故こんな物が生まれてしまったのか、誰が生み出してしまったものなのか。恨まずには居られない。恐ろしい、実に恐ろしい。そして忌むべき存在だ。
 何が起きたかというと、簡単に言えば抜き打ち小テストである。
 日本史の小野から繰り出されたそれはただの小テストではなかった。点数が半分以下ならばペナルティにプリントを出される。提出期限は明日。何と言う非道な仕打ち。
 そして簡単に採点され戻って来た、小テストの用紙と見詰め合いながら絶賛項垂れ中である。
「……よお、お前もか」
 授業が終わると、順平と望月が机の周りにやって来た。順平に同情よろしく肩をぽんと叩かれる。それを、やめてくれと手の甲で払い落とす。
「なあ、何点だった?」と言いながら順平が答案用紙をそっと机に置いた。見れば五十歩百歩の点数である。隠してもな、と自分のも出す。何せペナルティを貰っている時点で半分以下なのはバレている。それは順平も同じだ。
「リョージは何点だった」
 そういえば、望月はプリントを貰っていなかった。少なくとも過半数は取ったという事は確かだ。
「えっと、十九点」
 ここで自分と順平はまるで稲妻に打たれたかのような衝撃を覚えた。
 今なんと、望月は今なんと。
 因みに、小テストの満点は二十点だ。
「お、お前……意味わからねえわ……」わざとらしく口元に震える手を添えた順平が言った。
 しかし自分も同意見だ。何故帰国子女な望月が一番点数高いのか。こいつは容姿端麗で人当たりもいいだけじゃ満足しないというのか。頭脳まで明晰だというのか。とんだハイスペック野郎だ。
「転校してきたばっかりで範囲追えてないから、早く追いつかないとなー、って思って勉強しただけだよ」とさも当たり前の様に言う。
 少しばかり目眩がした、気がした。転校して来て何日目だと思う? 四日目だ。見た目のスペックだけでなく中身も良い等、世の中実に不公平である。そして一生懸命勉強したという望月の真面目さには感動さえ覚える。
「でもさ、来月テストなんでしょ? 二人とも大丈夫なの?」
「うっわお前、一ヶ月も先の嫌な事思い出させんなよ!」
 まさにドン引きといった様子の順平は両手を振って拒絶している。しかし確かに来月は二学期の期末テストだ。今までのテストでも、基本下の方の順位だったのでもう半ば諦めていたが、改めて大丈夫なの? と言われると胸に迫るものがある。
「じゃあさ、今度勉強会しようよ」と望月が提案した。
 順平は「なんて恐ろしい名前の会合だ」と慄いていたが、直ぐに腕を組んで考え込んみ始めた。
 望月がこちらの顔を覗きこんでくる。
「ね、有里くんはどうかな。僕の分るところなら教えられると思うし」
 にっこりと笑い掛けられて、少しだけ考えて頷いた。「……お願いします」
 今まで一人で机に向かって躓いて体調を崩すだけだった勉強が、教えてもらえるとなると捗るかもしれない。それに、勉強会、と言う響き。順平は何やら怯えていたが、正直少し楽しみかもしれない、と思っていた。
 今まで誰かと勉強会をしよう、という発想になったことすら無かっただけに。
「よ、よし俺も参加する……」考え込んでいた順平が、まるで生死に関わる苦渋の決断であるかのようにそう手を上げた。嫌だけどやらなくてはまずい、と言うのが分っているのだろう。
「じゃあ三人でね。また今度日程決めよう」
「よっしゃもうこんな辛気臭い話は終わりにして、さっさと飯行こうぜー」
 言うが早いか順平は駆け出していて、瞬く間に教室から出て行った。多分購買へ行ったのだろう。切り替えが早くて羨ましいばかりだ。いや、勉強と言う単語から逃亡したかっただけか。なんにせよ早い。
 あっと言う間に取り残されてしまった自分達は顔を見合わせる。
「僕達も行こうか」
 そう望月に穏やかに促され、頷きながら席を立った。

 

   ◇

 
 その日の放課後は水泳部に顔を出した。
 自分の髪を指で梳く。まだ湿気っているが、そのうち乾くだろう。夏の頃は、わざわざ乾かさなくてもあっと言う間に乾いていたのに。流石に十一月ではそうもいかない。乾かさないと今度は風邪を引く。流石に冷え込んできた。もう冬、なんだろう。
 水泳部は結構気に入っている。泳ぐのは、割と好き、だと思う。水の中だと体が軽いのがいい。しかしこの時期は幾ら室内と言えどやはり冷えるし、そして何より髪を乾かすのが面倒だ。あまりの面倒さに、たまに部活をサボってしまう。
 水泳部の活動を終え、更衣室から渡り廊下へと出ると外はもう暗くなっていた。目の前の校舎からもあまり人の存在は感じない。部活で残っていた生徒も、もう少ないだろう。しんと静まり返る校舎は、少し怖い。何か人じゃないものが、顔を出しそうで。学校の怪談、というのもこういう暗くなってきた時分の方が多いのがよりいけない。雰囲気がある。
 そんな薄暗い校舎の中に入ると、ぱたぱたと音がした。人が走る足音だ。階段の、上の方から聞こえる。こんな時間に誰が、と思うが気にしてはいけない。もし人じゃなかったらどうする。ヘッドフォンを手に取り、耳にはめる。再生ボタンを押す。
「あ、有里くん」
 音量を上げながら通り過ぎようとしたところ、声を掛けられた。どきりとする。まだ小さかったボリュームをすり抜けて、名前を呼ぶ声が耳に届いてしまった。
 はっ、と振り返ると望月が階段から下りてくるところだった。
 今の足音は望月か。少しほっとする。
「なんだ望月か……まだ居たのか」
「まあね、教室で皆と話してたらあっと言う間に真っ暗だよ。びっくりだね」
 楽しそうに笑いながら、何気なく自分の隣りに並び、そのまま横に付いて来た。鞄を持っているところを見ると、帰るのだろう、とは思う。
 並んで歩いているのに音楽を聴いていては失礼だろうか、と珍しく気を回してヘッドフォンを耳から外し、肩に掛けた。これが順平相手だったら気にせず音量を上げていただろう。そう思うと望月の事を、割と優遇している気がしてきた。
「他の奴らは?」
「え? ああ、皆は先に帰ったよ」
「じゃあ望月はどうしてまだ居るんだ」
 その皆、と一緒に帰ればよかったんじゃないか、と思う。ここ数日の間だって、望月は必ず誰かと下校していた。順平だったり、女の子に囲まれたり。いつも誰かとだ。こうして一人っきりで歩いている、という姿さえ、良く思い起こしてみればとても珍しいことかもしれない。
 望月は口元に手を当て、少し考える素振りを見せ、それからこちらを見た。はにかみ笑いを浮かべていて、薄暗い校舎の中でも無駄に輝いて見える。もしかしてこいつと居れば懐中電灯要らずなんじゃ、と訳の分らない事を考えてみる。そうすればこういう暗い校舎の中でも怖くないから良いかもしれない。
「待ってたら君に会えるかな、って思って」
 今何を言われたか良く分からなかった。ので、首を傾げ、疑問の意を提示する。
 望月は突拍子も無く、そしてそれが自分に向けられるとは思っても見なかった様な言葉を容易く投げかけてくる事が多い。だから良くこうして理解不能に陥る。この四日間のうちにそういう事は度々あった。嫌ではないけれど、不思議ではある。
 首を傾げる自分を見た望月は、白くて細長い指をぴんと立て、空中でくるくると回した。
「えっとね……水泳部の人が部活終えて出てくるのが二階から見えたんだ。だから、ちょっと待ってたら君が出てくるかな……って思って……」何故か語尾は尻すぼみに小さくなって消えた。
 ちら、とこちらを伺う視線が横から飛んでくる。どうしたんだろうと、凝視しない程度に、目をばっちり合わせてしまわない程度に、控え目に視線を返す。
「……引いてない?」
「えっと……何に?」
「だって、良く考えたら僕、君を待ち伏せしてたことになるでしょ……。きもちわるい、とか、思ってない?」
 今一度言われた事を反芻するが、望月が一体何を危惧しているのかさっぱり分らない。
 待ち伏せと言ったが、それは言葉選びが悪いだけだ。わざわざ待っていてくれた、と思うと正直なところとても嬉しい。軽く舞い上がる程度に嬉しい。その、教室でずっと喋っていた皆、と別れてまで出てくるか分らない自分を待ってくれたなんて、いや良く考えると、何故そこまでしてくれたのかが分らなくて怖い気もする。
 兎に角、全く引いてもいないし、気持ち悪いとも思っていないので、頭を振る。望月は直ぐにほっとした様にはにかんだ。こういう表情に直ぐ表れるところは、とても好感が持てる。
「じゃ、じゃあ途中まで一緒に帰ってもいい?」
「うん、まあ」是非に、と言えるほどの直球さは出せなかった。
 曖昧に肯定を示すのが限界で、そう思うと何でも直球勝負と言わんばかりの言葉を投げてくる望月は凄いと思う。とても見習える気はしないが。
 自分は基本的に思っていることをあれこれと表に出す事が苦手な方だ。今だって、「こちらこそ喜んで」くらいの気持ちでいるというのに口から出たのはあれだ。だから順平に「何考えてるか分らん」だの「このポーカーフェイス野郎が」とか言われるのだ。駄目だ思い出していたら悲しくなってきた。
「ね、来週から修学旅行でしょ? 楽しみだね」悲しみに暮れていると、望月がそう言いながら笑いかけてきた。その人当たりの良い、柔らかな笑顔に少しほっとする。「そうだな」と頷く。
「京都だよね、僕行ったことないから楽しみ」
「そうなのか」
「うん。まあ逆にどこなら行った事あるのか、ってくらいだけどね。だからどこでも新鮮で楽しみだよ」
 自分は、京都とはまた定番だな、位にしか考えていなかったので、この望月の感覚が新鮮だ。海外暮らしが長かった、と言っていた気がする。なら確かに、どこに行っても新鮮なんだろう。少しばかり、この純粋さが羨ましくなった。
「一緒に色々回ろうよ」
 にっこりと笑う、望月の。その青色の瞳がきらきらと光っている。
 この薄暗さの中で、一体何の光を取り込んでいるのか、という位星々が瞬く小さな宇宙の様に煌くその瞳。
 それにじっと真直ぐ見詰められるのは苦手だ。
 ただでさえ見詰められるのが苦手、だというのに。望月の視線の真直ぐさは他の誰の比でもない。ひたすら真直ぐに突き刺さるように自分の目に飛び込んでくる。視界も何もかも青色一色に染められて、溺れて窒息してしまいそうだ。
「うん」と返事をしながら目を逸らした。
 やっぱり、ずっと見てはいられない。凄く綺麗な目の色をしていて、飲み込まれてしまったらきっと出てこられない。ちょっとだけ、怖い。それから、恥ずかしい。臆する事ない視線に射られるのが、恥ずかしい。全部透けて見えてしまいそうで、恥ずかしい。
 でも、こんなにもきらきら瞬いて眩しい、全く別世界の住人の様な望月が構ってくれるのが、正直に嬉しい。
 転校してきてまだ日も浅いけれど、あっと言う間にクラスに馴染んでいるし、女の子にはもてる。ルックスは申し分無い(らしい)し、笑ったときの目元は優しげだし、会話のテンポも心地よい。あと頭もいい。そして割と努力家。
 思ったことは口から直ぐに出てこないし、地味だし、表情が全然変わらない(順平談)という自分とは、まるで真逆だ。
 別に友達にも何にも困っていないだろう望月が、こうして話し掛けてきて一緒に居てくれることが不思議でならないが、素直に嬉しいと思う。出会った最初のあの日、こっちには友達が居ないから友達になって欲しい、と言われたあれは本当に嘘みたいな出来事だった、と今になって思う。
 今でもこれが有効なら、望月の事を自慢の友人、とか思ってみたりしてもいいだろうか。
 少しばかりスペックが高すぎて、隣に並ぶと居た堪れなくなるけれど。
 それでも。それでも。

 

 多分、この時の自分は割と、浮かれていたんだろうなと後から思う。

(だから、視界の外に出てしまったものは見えない)
(なんてことすら忘れているのだ)

 
 
 
 
 

 ■日曜日

 教科書とノートを取り出し、机に並べる。
 明日の予習を、軽く済ませたい。出来るなら、来月に控えたテスト勉強も。
 まずは一限目の、化学から。教科書を開き、ノートを開き、筆記用具を取り出す。書き込まれたノートの最終行を見て、前回やった範囲をなんとなく思い出す。ぐるぐるに絡まった記憶からほつれて伸びる糸くずの様なそれを引っ張り出す。絡まって中々出てこないそれを、なんとか、呼び出す。
 自分の成績が芳しくないのは重々承知している。昔から勉強は得意、という方ではない。割と、苦手だろう。勉強が嫌い、とか、記憶力が悪い、とかそういうわけでもないのだが。勉強はやった方がいいだろう、と思うからこうして予習をしようとノートを開くし、タルタロス散策ではシャドウの弱点だって割りと記憶している。敵の戦闘の傾向だとか、得意とする属性を記憶したり予想したり、そういうことは出来る。いや、出来る、というよりはやらなくてはいけなかった。こちらの弱点を付かれるのは怖いし、皆を晒さなくて良い危険に晒す事になる。下手すれば、死んでしまう。
 リーダーなんてものを務めるのは思っているよりずっと、怖い。
 頭を振る。こんな事を考えている場合じゃない。勉強を進めなくては。
 化学の教科書に視線を移す。ページを一枚めくる。多分、次はここから。写真と、専門用語と、化学式と、解説文がばらばらに浮かんで見える。どれも頭にするりとは入っては来ない。こんなもの勉強してなんの役に立つんだ、とか思っているわけじゃないが、何といえば良いのだろう、親近感が沸かない、のだ。なんにせよ、言い訳に過ぎないが。
 自分と乖離したそれをどうにか頭に押し込もうとする。けれど、全く進まない。相変わらず教科書の内容はまとまって見えない。分離して放り投げられた景色にしか見えず、言葉だって絵にしか思えない。
 今日はいつにも増して、頭が回らない。それに対して当たり前だな、とも思う。
 気を紛らわそうと勉強したって、頭に入らないことくらい予想できただろうに。
 教科書を、更に一ページめくる。
 このところ、望月と話して、いない。
 気にしているのは、明らかにこの事だ。ぼんやりとでも確かにずっと、靄の様に頭はそれで覆われている。その向こうから勉強を眺めても、見えるはず無いのだ。
 話してない、と言ってもまだ三日、くらいだが。そもそも出会ってまだ、一週間も経っていないのでまさしく、たった三日、程度なのだが。
 望月とは初日に友達、になって。彼は順平とも直ぐ打ち解けていて、教室でも三人でよく話したし、昼ご飯も一緒に食べた。購買で望月が目移りしている間に横から焼きそばパンを奪われるという事件にも巻き込まれた。(因みに奪われた焼きそばパンは順平ご所望の品だったので、自分に直接被害はなかったが)
 単独行動が多い自分としては、望月とはかなり一緒に居たと思う。自分でも驚く程、近い距離に居る事を許して、自らも近くに寄っていた、と思う。上手く言えないけれど、望月の隣に居ると無性に安心する。不思議だけれど、何となく少し近くに居たくなるのだ。
 だがこのところは、昼ご飯も望月は女子と食べていて別々だ。順平が誘ってみても「約束してるから」と断られてしまっている様だった。近付こうと思っても、いつも誰かと話していてそんな隙がない。でも、隙があれば近付けたか、というとそこは分らないが。大した用も無いけど声を掛ける、なんて結局どうやればいいかが分からないに違いない。
 最後に話したのは、水泳部の帰り。わざわざ待っていてくれたのが嬉しかったのだが、あの時も結局校門出た辺りで直ぐ別れてしまって。
 思い起こせば、あの時は途中から、綾時の態度がどことなくおかしかった様な気がする。眉は下がりっぱなしだった。
 そして、それっきりだ。
 割とずっと一緒に居たのが嘘の様に、全く喋らなくなった。
 もしかしてこれは、嫌われた、のだろうか。
 嫌われた。という単語に行き当たって軽く絶望する。何だか、繋いでいた手をいきなり離されて、広い海に一人置き去りにされたみたいだ。夜になれば真っ暗闇で何も見えなくなって、足元も見えなくなって、いつの間にか深海に沈んでしまって、そのまま溶けて、なくなってしまいそうだ。
 いや、よくある、よくあることだ。気にしたら、きっと駄目だ。
 いつの間にか、知らないうちに嫌われている、なんて、割りとある事だ。割と最近だってあったじゃないか。順平とか。
 人付き合いが人より苦手だし、知らないうちに何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。そうだったら、申し訳ないし、自業自得で、仕方がない。
 でも、友達になって、って言われて嬉しかったのだ。
 言われたその言葉が嬉しかったからきっと、こんなに悲しくなるんだろう。
 人生でたった二回だけ言われたその言葉。一回目はファルロスで、そのファルロスは、もう居なくて。
 教科書を閉じて、ノートも閉じて、鞄に詰め込む。全く集中できないし、もう今日は寝てしまおう。このままでは、ただ疲れて終わりだ。寝れば、少しは良くなるだろうか。そうならば、いいのに。
 椅子を引き立ち上がり、ふらふらとベッドに倒れこんだ。

 

 その日は夢を見た。少し前の記憶の、懐かしい夢だ。
「もう直ぐ次の満月だ」
 そう言って闇の中から知らぬ間に現れたファルロスは微笑んだ。小さな彼に不釣合いな大人びた、達観した笑みだ。
 それが怖くて仕方がなかった。ファルロスが、じゃない。また満月が来ることが、だ。
 体を起こして、膝を抱え蹲る。満月が来れば、また大型シャドウが出る。リーダーの自分は、絶対に最前線に立たなくてはいけない。背中に他のメンバーの命を任されながら。
 今までは何とか倒してこられた。でも次は。次はもっと強いやつが来る。今度は負けてしまうかもしれない。負けてしまったら、そうしたらどうする、どうなる。
 怖い。本当はタルタロスを登るのだって怖い。戦うのは怖い。剣を握るのだって、怖い。召喚器の冷たさも、怖い。どれも、これも。とても、とても怖い。
「だいじょうぶ」
 いつの間にか目の前に迫っていたファルロスが手を伸ばしてくる。小さな彼は膝で立って、湊の頭を小さな掌で撫でた。
「大丈夫だよ。君が努力してるのを知ってるもの」
 ファルロスは笑った。穏やかに。
「君はもう十分やっているよ。ううん、十分過ぎるくらい」
「……でも」
「僕はね、ずっと君の事見てるよ。こうやって姿を見せてない時だってずっとね。だから君がどれだけ努力してるか知ってる。怖くって戦いたくなんてない、って思っていても、誰かを死なせる方が怖いから必死に戦ってるのを知ってる」
「……なんで」
「友達だから」
 頭を撫でるのを止めたファルロスは、湊と向かい合うように腰を下ろした。同じ様に膝を抱えて、丸くなって。でもにこりと笑っている。細められた青色の目は光っていてとても綺麗だ。
「大事な、たった一人の僕の友達だもの。君の努力は実っている、大丈夫。ううん、君が努力したから大丈夫なんだ。大丈夫、次何が来ても、君は大丈夫。僕が保障するよ」
「……ぼくにとってだって、ファルロスは友達だから……信じるよ」
 その答えに満足したファルロスは頷いた。ファルロスには、嘘を付いたり見栄を張ったりしなくていいから楽だ。というか、そんな事しても直ぐ知れてしまう。彼の言葉に嘘偽りは無く、確かに自分の事をずっと見ていてくれて、ずっと傍に居てくれる。分っていてくれる。
 影時間内でしか言葉を交わすことは出来ないけれど、確かに一番近くに居てくれる存在なのだ。
 未だに彼が何なのか、分らないけれど、居てくれて良かったと思う。彼が何かなんて、些細な事でしかない。一番心を許している存在は、間違いなくファルロスなのだから。
 ファルロスが居る。だからいつだって僕は、彼が居る限り一人っきりになることなんて無かった。
 それは何ものにも変え難い安心感だった。