2.
途方も無く長いように感じた一日が漸く終わる。何となく、教室を眺めていた。早く帰ってしまえばよかったのだが、足がやけに重い。頭も重い気がして、頬杖を付く。
昨日見た夢が、無性に懐かしかった。まだ居なくなって半月も経たないと言うのに、とても懐かしかった。
友達だよ、と言ってくれたファルロスは、もう居ない。
どこかへ行ってしまった。ある朝消えてしまった。ずっと傍に居るだなんて、全く嘘吐きだ。結局僕を置いていくんじゃないか。
そうしてまた一人ぼっちになってしまった。
だから、望月が現れて「友達になって」って言ってくれた時は嬉しかったな。けどその望月も居ない。見えるところには、辛うじて居るけれど、居ないも同じ。
そして三度独りぼっちになる。
望月には、どうやら知らない間に嫌われてしまったようだ。
勝手に居なくなってしまったファルロスと違って、非は自分にあるのだろうから、もっとどうにか出来たのではないか、と考えてしまうことが遣る瀬無い。どろどろと足元から溶けて、すっぽり埋まってしまいそうだ。そのまま泥は気管に詰って肺を満たして、息も出来なくなってしまう。何だか苦しい、きっともう気管の半分は埋まってしまったに違いない。
そういえば二人は何となく似ていたな。空色の瞳とか、目尻にある黒子とか。喋ってみるとそうでもないような気もしたが。ファルロスの方が大人びていたし。望月は割と慌ただしくて子供っぽい面もある。賑やかでいいことだけど。賑やかだけれど、煩くないのが彼のいい所だ。
ああでも、どれだけ思い出を掘り返してみようとも、もうどちらも近くに居ないのだが。
休日の間に、望月に嫌われたのは気のせいじゃないか、とか考えても見たが、月曜日になった今日も土曜日までと大差なかった。
相変わらず望月は誰かとずっと一緒に居て、昼ごはんも別に食べた。順平とは時折一緒に居て話しているのを見かけた。望月から話し掛けていることもあるらしい。少し自分は彼の動向を眺め過ぎかもしれない。でも、こうして見ていると本当に、言葉を交わしていないのは、自分と、だけ。という現実が容赦なく降って来る。
仕方ない、仕方ないって、もうどうでもいいって、箱に押し込めて何処かへ埋めてしまえばいいのに。どうして埋まっていくのはひたすらに自分なのだろうか。らしくも無い。
もう明日からは修学旅行だと言うのに。こんな状態じゃ楽しめる訳がない。いっそ休んでしまえたら楽かもしれない。なんて、どろどろと思考に埋まっていく。一緒に行こうね、と言われたこともあったな。けどこの調子ではきっと、いや多分、絶対に、一緒に、なんて無理だろうな。今日だって結局、一言だって交わしていない。
あっと言う間にクラスに馴染んで、女の子に取り囲まれたりしている望月にとって、修学旅行を一緒に回る誰かなんて引く手数多だろう。
あの日、友達居なくて、といった彼はもう居なくて。もう彼には友達が沢山居るだろうから、きっと自分なんて居なくても大丈夫なんだろう。あれだけ沢山の誰かが居て、わざわざ自分である必要なんて、多分、ないのだ。
何か悲しくなってきた。
ふと、視線の先に居た望月が振り返った。女の子に取り囲まれて談笑していた望月の視線が、こちらを向いた。
一瞬、目が合った。
息が詰まる。気管に流れ込んでいた泥がついに詰ってしまったような。兎に角息苦しくて。
ガタン、と椅子が音を立てる。思わず立ち上がってしまっていた。そのことに自分でも驚く。教室の視線が、音を立てた自分に集まった。その沢山の目の中の、どれとも視線を合わせられることは、勿論無く。望月とも、もう視線は離れていて。どうしたら良いか分らず、教室から出た。逃げるように。逃げる、って何から、どこへ。兎に角、何処かへ。
思わず走り出して、向かった先は屋上だった。目の前に立ち塞がる扉に手を掛ける。逃げた、って割には行き止まりの方へ来てしまった。けど別にいいだろう。ここはあまり人が居ないし。
屋上は好き、だな。思わず飛び出してしまったけれど、この後どうしたら。勢い良く教室を飛び出したから、ただでさえあの瞬間視線を集めていた自分はとても目立っただろう。望月にも、きっと見られただろう。地面を突き抜けて、底の無い真っ暗闇な海に沈んでいく心地がした。音も遠ざかって、光も何も無い、深海の奥底に向かって落ちていく。目の前もぼんやりと暗くなっていっている気がした。暫くここで、音楽でも聴いて時間を潰して、みんな居なくなった頃を見計らって戻ろう。それで帰ろう。明日はもう、休みたいけど駄目だろうか。
ぐるぐると意味のない思考を巡らせ、ふらりと屋上の日差しの下に足を伸ばす。
「待って!」
いきなり後ろからそう大声が聞こえて、手を取られた。
驚いて手を引くが、掴んでくる手は離れなかった。それどころか、よりしっかりと掴まれる。あまりの急な出来事に、ついさっきまで沈み込んでいた思考では付いてこない。
辛うじて視界に捕らえた、自分の手に絡んでいるのは、白い指先だった。
「……なんで」
恐る恐る振り返ると、息を切らした望月が居た。
なんで。どうして。さっきまで教室で女子に囲まれていたじゃないか何でここに居るんだ。
さっきからずっと引っ込めようと力を込めているのに、白い指は相変わらず離れてはくれない。白い指先が、更に白くなるほど力を込めているようで、びくりともしない。掴まれた指先が、痛い。
膝に手を付き、呼吸を整えていた望月が顔を上げる。眉尻が下がっている。情けない顔をしてるな、と思った。
「なんでって……だって君、泣きそうな顔してたんだもの」
言われてハッとして、空いている方の手で目尻を触るが、泣いている形跡はなかった。目は乾いている。けれど、多分望月に負けず劣らずの、情けない顔をしているんだろう事は分ってきた。もうずっと、息苦しくて辛い。多分、走った所為じゃない。
本当に泣いては居ないけれど、走り出したあの時に自分が泣きそうな顔をしていたのかは分らない。でもだからと言って何故望月がこうして追い掛けて来るのか分らない。どうしてこんなにも必死に手を掴まれているのか、分らない。
「あ、ごめん」
掴んでいたことに、今気付いた様に望月は手を離した。離されると、途端に指先が冷たくなった気がした。
手を離すと同時に一歩下がった望月は、眉尻を下げたまま、困った様な悲しそうな、そんな顔をしている。けれど視線は逸らされていて、交わらない。
「だからって、嫌いな僕に追い掛けて来られても、その、困るよね……ごめん」
ああ何だか本当に泣いてしまいそうになってきた。そう思う割に、目は乾いてしまっていて、涙が出る様子なんてないのだけれど。そういえば、最後に泣いたのって、いつだっけ。
視線を横に逸らす。誰も居ない寒々しい屋上が見える。
「何言ってるんだ……お前が俺の事、嫌い、なんだろ……」
みっともなく語尾が揺れて風にさらわれた。嫌われたかな、と頭で思っていてもこうして言葉にしてしまうと容赦なく刺さる。嫌い。嫌い嫌い。良くある、よくある。知らないうちに嫌われていて、知らないうちに距離とられるなんてよくあるじゃないか。今更、それがなんだっていうんだ。
早くどこかへ行って欲しい。教室にでも戻って欲しい。お願いだから一人っきりにしてくれ。
もういっそ、どっか行け、って言ってしまおうかと望月を見上げると、望月が変な顔をしていた。先程までみたいな、眉尻を下げた苦しそうな、情けないような、そんな顔じゃなくて。
「……え?」望月は気の抜けた声を出した。
これは正に、鳩が豆鉄砲を食らった、という顔か。
「は?」あまりに場に沿わない表情に、思わず自分の口からも気の抜けた声が出た。
すると突如我に返った望月が叫んだ。
「そんな訳ないじゃない!」
こんな大きな声出せるんだな、ってくらいの声だった。でも怒鳴っているわけじゃなくて、どちらかというと必死な声だった。
そんなわけない、って言うのはさっきの自分の言葉に対してだろうか。もしかして、おれのこときらい、な訳じゃない、ってことなのだろうか。本当に?
脈絡からしてその事としか思えないが、でも自信がなくて。俯き気味のまま、視線だけで望月を見上げた。
「……じゃあ、俺の事、嫌いじゃないのか」
「当たり前でしょ!」即答される。
その瞬間、気管に詰まっていたものが取れて、息がすっと通った気がした。
何だか分らないけれど、きらいじゃないのは、あたりまえ、なのか。
「……そっか」
自分の口から出たそれは、とても安心した、溜息みたいな声だった。正直にほっとしていた。何でこんなにほっとするんだろう、って疑問になるくらいに。気が抜けて、強張っていた表情が緩むのが分る。今自分は、少し笑ってるかもしれない。
じゃあまだ、自分と望月は友達、ってことだろうか。
もちづき、と名前を呼ぼうと思ったがそれは叶わなかった。
「うわーもう!」と望月がいきなり大声を出したかと思うと、勢い良く抱き締められた。
背中に回された腕に圧迫される。望月より身長が低い所為で、彼の肩に顔が埋まる事になって、黄色いマフラーで視界が塗り潰される。
どうしたんだ、と問い掛けようと思ったがそれもまた叶わなかった。
それよりも先に、望月が叫んだ。
「僕と付き合ってください!」
◇
時はあっと言う間に修学旅行になり、あっと言う間に京都に来ていた。
かと思えばそれもあっと言う間に終わろうとしていた。
三泊四日の修学旅行。十分な時間に思えたが、瞬く間に過ぎた。
望月とも和解、というか何と言うか、取り敢えず仲直り出来たようで、ずっと一緒だった。あと順平も。全く喋らなかった期間が嘘みたいに、だ。女子に取り囲まれて写真撮影にさらわれたりしても、終われば走って戻ってくる。順平こっそりが「あいつ、置いていっちまうおうぜ」って言っていても慌てて戻ってくる。結局居なくなる事はなく、どこを巡るのも望月と一緒だったと思う。あと順平も。あと時々真田も。
望月と交わした、一緒に行こう、という約束はちゃんと有効だったらしい。
そして本日、京都最後の夜。事件は起きてしまっていた。
実に、恐ろしい事件だった。
今は露天風呂の脱衣所のベンチで望月と並んで座っている。順平と真田は先に部屋へ戻った。夜も遅いここには二人だけだ。
「怖かったね」
「……うん」
正直怖かった、なとどいう過去形ではなく、現在進行形で今もかなり怖い。こんな怖い思いをしたことあるだろうか、と言う程だ。立ち上がったら膝が笑ってしまいそうでそれもまた怖い。ああ恐ろしい。風呂に入った筈なのに、体が芯から冷え切っているようだった。原因は分りきっているが。
なんとか浴衣を着込みはしたものの、あまりの恐ろしさに暫しここで放心しているというわけだ。望月はそれに付き合ってくれている。同じ目に遭ったはずなのに、望月は割と平気そうだ。こいつは勇気が漢並みなのか。何を食べるとそうなれるのか今度教えて欲しい。
「ね、だいじょうぶ?」
「だめだもう……死んだ、死んだ……」
こんな状態で、この先どうやって生きていけばいいのか分らない。タルタロス散策は暫く順平と真田と天田の男子チームだろうな。ああ、同じ寮という逃れられない現実が襲い掛かってくる。処刑とはかくも恐ろしいものだったのか。それはあの無敗のプロテインチャンピョンも怯えるというものだ。
しんだ、とうわ言の様に繰り返していると手を取られた。白い手だ。掴まれた指先からじわりと熱が伝染してくる。それが心地よくて安心する。思えば、望月には手を掴まれる機会が多い。順平となんて一度も無い、あったらと考えたら余計悪寒がしてきた。恐ろしい。
スキンシップが苦手でパーソナルスペースも広い自分が、こうして手を取られて嫌悪感を抱かないというのも凄く不思議だ。でも本当に掴まれるばっかりだな、と思って掌を返し、握り返してみる。うん、全く嫌でもないし、ずっとこうしていても良いかもしれない、と思う程だ。少し安心してきた。
「あ、のさ」
望月にしては控え目な問い掛け方だった。どうかしたのかと顔を見ると、珍しく目が泳いでいた。
「なかなか二人になる時がなくって、聞けなかったんだけど。……僕まだお返事してもらってないよね」
お返事。
少し考えて首を傾げる「何の?」
さっきの大丈夫? という問い掛けに対してだろうか。それってそんなに返事が気になったのだろうか。
「な、なにって……付き合って下さいっていうのだよ!」
繋いでいた手が引っ張られ、望月のもう片手にも掴まれる。彼の両手に包まれて、胸の前で握りこまれてしまった自分の手に驚いて目を丸くする。望月がぎゅ、と手を握りながら必死な瞳で覗き込んでくる。瞳の青色が綺麗で取り込まれそうだ。
「あれって何かの……冗談とかの一種じゃなかったのか……」改めて直視すると眩しすぎる視線に、思わず目を逸らしながら必死にそう答えた。
じっと見られるとどうしたらいいか良く分からなくなる。言葉を搾り出すのだって必死になる。どうでもいい、って逃げるには真直ぐな視線の力が強すぎて。
「本気だよ!」
「あっ、だって……望月女の子好きだろ」
「女の子は好きだよ、でも何で? それと付き合いたいって別でしょう。僕が付き合いたくって好きなの君だけだよ」
「あの……ちょっと、待って……」
頭がパニックになってきた。情報が洪水の様に押し寄せてくる。言葉の数々が受け取った事のない種類のものばかりで、捌き方が分らない。
だって付き合ってとあの時屋上で言われたのだって、聞き間違いか何かだろうって。そうじゃなかったとしても、まさか言葉通りの意味だと思うわけがない。あれを言われた直後も、探しに来たクラスの女の子に見付かってびっくりして離れて「じゃあまた明日ね」って名残惜しそうにしながら別れただけだった。翌日になって、修学旅行一日目の望月は前みたいに話してくれるようになった以外は普通だった。その後も何も無かったし、やはり気のせいだったんだろうと思っていた。
ここで本気だよ、って言われても頭が付いてこない。瞬きの合間に見える世界がぐるぐる回っている気さえしてきた。
「ねえ、どうして目を逸らすの? 僕の事、やっぱり嫌い……だった?」
望月の声が不安そうに問い掛けてくる。でも顔はずっとこちらを見詰めてくる。やっぱり見詰め返すのは無理で、掌で視線を制した。
「違うんだ……その、なんか眩しくって」
「え、照明きつい? 僕影になる位置に移動しようか?」
「そうじゃなくって……」
望月の存在がなんか光ってて眩しくて直視できません。とかそんな事本人に言える訳がなくって。しどろもどろになりながら必死に言葉を探して、やっとの事で「そんなに見ないで」と言った。
「わ、ごめん」慌てた様に望月の視線が自分から正面に移動した。
視線と一緒に掴まれていた手も開放される。するりと離れた指を追ってしまいそうになる。やっぱり、この前もそうだったけれど、離されると少し寒い、かもしれない。
「あ、あのね。自分でも何で君がって思うのか、良く分からないんだけどね……それでも君じゃないと駄目、だって思うんだ」
「うん」
変に言葉を並びたてられるよりも、その不器用ながらに一生懸命選ばれた言葉は、率直に彼の思いを伝えてくるようで、今度はすんなりと頭に入ってきた。
青色の目。目尻の黒子。
嫌われたかもって不安になったり、違うよって言われてほっとしたり。こんなに気にしてしまうのは、望月が、ファルロスに似ているから、なのだろうか。
ファルロスは、不思議な事を言ったり、予言めいたことを言ったり、よく分らない奴だった。でもそばに居てくれたり、励ましてくれたり、ずっと友達だからって言ってくれたりして。居なくなってしまってから気付くけれど、自分は思いの他ファルロスの事が好きだったんだろう。勝手に重ね合わせて親近感を抱いてみたりするのは、良くないかもしれないけれど。でもこうしてそばに居ると、本当にファルロスなんじゃ、って思う瞬間がある。
そばに居て、居心地がいい。凄く、安心する。
「結構経ったな……そろそろ戻らないと見回りが来るかも。部屋に戻ろう」
「そう、だね……うん」
もう足の震えは収まっていた。先程の事件の恐怖も、望月の手の温度で随分和らいだ。
ベンチから立ち上がり、帰ろうと促す。明らかに残念そうな顔が上がって、語尾と一緒にまた下がっていった。
望月が立ち上がる前に、彼の目の前に立つ。風呂上りだから、いつもみたいに髪は撫で付けられていなくて、横に梳いただけ。こうしてみると、ちょっと幼く見えるかもしれない。前髪があるだけで、雰囲気は結構変わるものだな。気を紛らわすようにそんな事を考えて、望月の、少し落ちてきている前髪を指先で払う。屈んで、露わになった額に唇を落とした。
望月が驚きの余り硬直したのが唇越しにありありと伝わってくる。
驚いて額を押さえて赤面している姿に、じわじわ染み出るこの気持ちは、多分、そういうことなのだろう。
(俺だって好きだよ)って言葉にするにはちょっと、勇気が足らなすぎる。