初期ステータス

 
 
 
 
 

   4.

 ありきたりな言葉で言うならば、それは一目惚れだった。
 良く思い起こしてみれば、一目惚れなんかじゃなかったのだけれど。あの時の僕にとっては正に一目惚れ。一目見た時から「この人だ」っていう漠然とした何かを感じていた。
 それは僕の大好きな女の子ではなかったけど、そんなものは細事でしかない。何もかもすっ飛ばして、彼しかいないのだ。世界には僕と彼と、彼以外の皆と言っても差し支えないほどに。
 話せるだけでとても嬉しかったし、隣を並んで歩いているだけで夢のようであった。
 それだけに、どれだけ見詰めても目を逸らされてしまうのは悲しかった。眼差しから全部伝わればいいのに、と思う想いを全部受け取り拒否されてしまった様な気さえした。
 友達になってとせがんだから頑張って一緒に居てくれるだけで、本当は僕の事嫌いなのではないか。という考えに至った時は苦しかった。でもそれなら無理強いしてはいけないね、と手を放したりもした。けれど、あの水泳部の帰りを待ち伏せた時、あの時に距離を取ったりしなければ、彼にあんな泣きそうな顔をさせずに済んだかも、と少し過去の自分を呪う。単純に彼は、見詰められるのが苦手な照れ屋さんなだけなのだから。
 思えば彼の泣きそうな顔と言うのは、あの時初めて見た。
 良く考えれば彼は割りと泣きそうな顔をすることがあるのだが、あくまでそれは「泣きそう」でしかなく、本当に泣くことは一度もなかった。でもあの時は、本当に泣いているのかと疑った。それ程に、悲しそうな顔だった。
 あんな顔を、もう二度とさせたくない、って思っていたのも、本当なのだ。
 正に瞬く間、のとても短い間の出来事だったけれど、一緒に居られて良かった。
 同じ立ち位置で言葉を交わしたい。
 目線を並べたい。
 隣を歩いて出掛けたい。
 触れたい。
 全て叶ったのだ。夢みたいだ。
 だってずっと、見ていたのだから。
 あの日教室で、目があって感じたそれは結局それは一目惚れなんかじゃなくて。
 だって彼の事を、もうずっと、ずっと、好きだったのだから。「この人だ」じゃなくて「その人だった」のだ。
 とても長い間見ていた。
 凄く怖がりなのに、それでも必死に抗う、君に惹かれていた。
 でもね。いや、だからね。

 
 

「もう戦わなくていいんだよ」

 
 

 僕は彼の部屋で、ベッドに腰掛けながら柔らかく彼に囁いた。
 カチカチと秒針を進める時計の音がやけに煩い気がした。もう、僕にも彼にも、皆にも、あまり時間は残されていない。
 湊は僕の目の前に立って、僕の目をじっと見ている。綺麗な宝石みたいな目だ。
 僕はもう一度言う。
「本当は戦うの怖いんだから。もうね、いいんだよ。戦わなくていいんだよ」
 湊はそれでもじっとこちらを見ている。目を合わせることを苦手とする彼が、だ。でもその目は悲しそうで、そんな顔をさせてしまっているのが、心苦しい。
 ずっと見ていたから分るけれど、湊は凄く、怖がりだ。
 本当は、ペルソナを出して戦うどころか、剣を握るのだって怖い。シャドウと向き合うのだって怖い。誰かの命を背中に背負っているのが怖い。自分の不手際で傷つけてしまうのが怖い。誰かが居なくなってしまうのが怖い。影時間に目を開けている事だって、怖い。
 それなのにSEESのリーダーを任されて、断るだけの言葉も持たなかった彼は流されるまま必死に戦った。足が震えていう事を聞かなくなる前に走り出して、手が震えて剣を取り落としてしまう前に切り掛る。頼られる事に少しばかり嬉しさを感じながらも、それ以上に怯えていた。
 皆を守る為に知恵を巡らせて、必死に。必死に抗っていた。
 でもそれも、もういいんだよ。
 僕を殺せば影時間の記憶は消える。あんなに怖かった戦いの日々の記憶も消える。
 もう、戦わなくたっていいんだ。
 もう、怖いことも何もなくなるんだ。
 だから最後に僕を殺して?
「お前を殺す方が怖いよ」
 湊が必死に搾り出した声が、僕へ降って来る。
 本当に泣いてしまうんじゃないかって顔を湊にさせている事に、胸が苦しくなる。もうこんな顔をさせたくない、って思っていたのに早速させてしまった。
 でも、ここで引いては、より辛い怖い思いを、彼に強いることになってしまう。
「どっちにしても僕はもう直ぐ消えてしまうし、世界は終わるんだ。だったらこれ以上怖い思いする必要なんてないんだよ」
 だからお願い。
 諭すように言葉を掛け、湊の冷え切った手を取る。けれどその手は弾かれて、湊に睨み付けられる。
 なんで大好きな彼にこんな顔をさせて、睨まれなくてはいけないんだ。
 弾かれた手がじりじりと痛い。痛い。痛い。悲しい。どうしてこんな事になったと思う?
 鈍い衝撃が肩を襲った。両肩を掴まれて、後ろのベッドに叩きつけられる。柔らかいベッドのお陰で背中は痛くなかったけれど、掴まれた肩が痛かった。
 顔を上げれば湊の、とても僕の持てる言葉では表しきれない、悲しそうな顔があって。今僕は彼に馬乗りになられているのか、と頭のとても遠いところで思った。
 湊の、切れてしまいそうなほど噛み締めている唇が痛々しい。
「……忘れるのだって怖い」
 ぽたりと水滴が降って来て、頬に落ちた。うっすらと暖かかったそれは、頬を伝いながら冷えていった。
「ずっと見てたとか言うなら知ってるだろ。ずっと一人きりだったはずの俺の、傍にずっとお前が居たってこと、忘れろって言うのか。十年もずっと……ちゃんと気付いては居なかったけど、お前が居たから一人じゃなかったんだ……それを、最初からずっと一人っきりだったって思えって言うのか……。お前がずっと居たこと、忘れろって言うのかよ」
 グレーダイヤモンドの綺麗な瞳から止め処なく溢れて来る涙を、どうにかして止めてあげたくて彼の頬に手を伸ばす。
 ああそうだ。こんな風に、泣いている彼を一度だけ、見たことがあった。一番最初のあの時だけだ。僕が彼と初めて出会ったあの頃。
 彼が、両親を亡くした時、だけ。
「……泣かないでよ」
「うるさい」
 悪態をつきながらも、涙は止まらない。彼の目元をなぞる僕の指を伝って、涙が零れ落ちてくる。
「忘れないでって言え」
 聴いたこともない、強い口調だった。こんなにもボロボロと泣いているのに、眼差しには鋭さが見える。それでも僕は頭を振る。
「でも、怖がりな君をね――」
「そんな事きいてない」
「だって君、怖いんでしょう、だったら」
「言えよ」
「……だって」
「言え」
「……やだよ」
「言えってば!」
「忘れて欲しくなんかない、当たり前だろ!」
 自分でも驚くほどの、大きな声だった。
 だって、本音を言わされて、悔しくて。
 覚えていて欲しいよ当たり前じゃないか。十年掛けて君の事を好きになった僕の事、忘れて欲しい訳がないだろう。人間じゃないくせに、人間性を獲得して、君の傍に居たいって願って一緒に居たこと、人間の振りして学校に通ってまで在り来たりな日常を隣で過ごしたこと、好きって言ったこと、勉強会したこと、デートに行ったこと、ここで、キスしたこと。
 全部覚えていて欲しいに決まっているだろう。僕が望月綾時として存在した一瞬を覚えていて欲しい忘れないで欲しい。当たり前だろ。
 悔しい。言わないでいたかったのに。
 だってこんなの、ただの未練でしかない。
 視線を上げれば湊がふっと笑ったのが見えた。
 次の瞬間には視界が消失していて、代わりに唇に柔らかな感触が降って来る。涙で濡れていて少し冷たい、けど暖かい。次第に焦点が合ってきて、青色の髪の毛とかが見えるようになった頃には目を閉じた。涙でべたべたの手を伸ばして、湊の背中を抱き寄せる。
 臆病で、自分から誰かに触れることを怖がる彼に、触れてもらえるのが嬉しくて、苦しい。
 あの時も思った。ずっとこうしていられたらって。だけどもう、僕に残されたのはもう本当に僅かな時間だけだ。
 名残惜しくも唇を離す。湊はそのまま倒れこんで来て僕の首筋に顔を埋めた。
「前と逆だね」僕は少しだけ笑う。
「そーだな」
「ねえ湊」
「なんだ」
「どうして僕達だったんだろう、って思ったんだ。何で、僕達はこんな目に遭わないといけないんだろうって、一人っきりで過ごしながらね。たくさんの事を思い出したよ。大体の事が君の事だったけれど。でもさ、こういう僕達じゃなきゃこんな風に出会ってさ……」
「うん」
「……好きになったりしなかったかもしれない、って思うんだ」
「……うん」
「だから、さ……」
「うん、そうだな」
 掠れてぼろぼろになった僕の声の、最後を湊が汲み取って頷く。それが嬉しくって、それから沢山の事が悲しくって、少しだけ泣いた。
 カチカチと、秒針は進む。容赦なく時間は減っていく。
 湊から伝わってくる穏やかな暖かさで、まだ自分が存在しているということを実感する。このままこうしていたい。ここに居たい。どこへも、行きたくない。消えてしまいたく、ない。
 お願いだから、もう少し、もう少しだけ。
 けれど、ずっとこうしている訳にはいかない。日付が変われば僕は消えてしまう。
 その前に、抗うと決めた彼の為にまだ、やらないといけない事がある。
 僕は湊を抱き締めながら、深呼吸をする。
「さあ、もうあまり時間もない。行こう」
「ああ」
 離れていく体温に寂しさを覚えながら、起き上がった湊に手を引かれ立ち上がる。
 これから僕は、下で待っている皆と、彼に、最後に伝えなくては。
 部屋を出る。
 この部屋ももう見納め、と思うと淋しい。ファルロスだった頃からずっとここで言葉を交わしていたのだ。思い入れも大きい。
 懐かしい、さみしい。
「そうだ。期末テストどうだった」
「は?」
 今訊く事か? と言いたげな視線が見上げてきた。苦笑する。僕もそう思う。
「だって今聞かないともう聞けないじゃない」
「まあ……」
「で、どうだった?」
「……微妙」
「ごめんね、勉強見てあげるって約束したのに」
「本当だ、バカ」
 少し拗ねた顔がおかしくて、笑う。微妙って言った顔が凄く嫌そうだった。順位悪かったんだろうな。くすりと笑っていると肘でど突かれた。
「何で俺の中に居たくせに俺より頭いいんだ。いや、頭どころか全部真逆みたいに育ちやがって、綾時のバカ」
「えーだって僕、君に憧れられたかったんだもの」
 そんな人になれるように、望月綾時になった僕は頑張ったのだ。
 学校に行くようになってから凄く勉強した。
 人気者になれるよう努力だってした。
 それで、僕の事見て、好きになって欲しかったんだから。
「あーそっか。僕、君の中に居た時からずっと君の事好きだったみたい」
「そうなのか……俺は割りと最近」
「え! 最近、なの……」少しばかりショックを受ける。
 ファルロスの時は小さな子供の姿だったから仕方ないにしても、綾時として出逢ったと時か、もう少し前から好きでいてもらえてると思っていただけに悲しい。
「ねえ最近っていつ?」と詰め寄るが答えてくれない。もしかして本当に凄く最近なんだろうか。それだったらどうしよう。一人空回っていたようで悲しいし恥ずかしい。
 しつこく「ねえってば」と数歩前に出て顔を覗きこむ。「いつから?」と迫るとキスされた。思わず追求の言葉が引っ込んで、目を剥く。嬉しいけど今はそうじゃない。湊はこの隙に、とポケットに手を入れ進んでいってしまう。
 もしやこれは誤魔化された。
 仕方ないか、と空いてしまった距離を埋めようと駆け寄ると「ずっと大切だとは思ってたけど」と小さく呟く声がした。
 どうしよう、今から皆にニュクスについて説明しないといけないって言うのに。

 僕は涙声にならないで居られるだろうか。