「本当にこれで良かったの?」
真白い光の波の中。この世界で今、唯一、明るい場所。ここはどこまでも果てしなく続くように凪いでいる。柔らかな安穏。不穏も不吉も終焉も全て食らって成された。
彼は終末を食い止めた。
僕は何故か望月綾時の姿をしている。
ここにあるありとあらゆる全てが、彼、によって成された奇跡だ。
「まだ間に合う」
僕は指差した。あっちへ行け。あっちへ、行ってくれ。
「早く」
僕は急かす。
「ねえ」
彼は少し猫背気味に、ただ立っている。
「お願いだってば」
彼は動かない。
「まだ、今なら間に合うから」
「間に合わない」
凛とした優しい声が僕をたしなめる。
「分ってるだろ」
そっと細められた目が途方もなく優しくて。笑みを湛える口元は穏やかで。僕は唇を噛んだ。どうして。どうして。
「どうしてこんな事したの」
僕は手を振り上げ、背中にある大きな扉を叩いた。鈍い音がする。打ち付けた掌が痛い。変なの。痛い、だなんてすっかり忘れてしまったと思っていた。
退けるだけだって出来たでしょう。どうして命を使ってしまうの。どうして全て費やしてこれを封印したの。どうしてどうしてどうして。
これでは君は死んでしまう。
僕は喚いた。こんな大声を出したのはきっとこれが初めてだ。いいや、こんなに感情を露にした事なんて、殆どといって良いほどない。何だかんだ、人間の振りをしていた僕は、にこにこ笑っているばかりだった。激情と言うほどの感情の奔流が襲ってくる事自体、初めてだった。
湊はそんな僕に驚いて、それから苦笑した。
「自分のした選択に責任を取れ、って言ったのくせに」
「そうだけど、だって」
だって、何も君が死んでしまうことはないじゃないか。君が、君だけが。
ニュクスの一部として、死に追いやろうとした僕が言えた義理じゃないが、こんなのってあんまりだ。
湊が一歩踏み出す。僕に向けて。
「綾時、この世界の事好きだろ」
「……うん」だから世界が終わらなくて、少しほっとしたよ。でも君が犠牲になるなんて嫌だ。
「俺の事も……好き、だろ」
「あたりまえじゃないか」だからこんなに悲しいんじゃないか。
「俺だってそうだよ」
目の前まで進んできた彼は、僕の目をじっと見た。綺麗な目だな。一ヶ月振りにみてもそれは変わらず美しかった。
彼の目は、いつも怯えて揺れていたけれど、今は穏やかに凪いでいて、とても優しい。
「お前の好きなものを、お前に滅ぼさせられるかよ」
湊が目を細めてふわりと笑った。
その時僕の心臓は、僕にも心臓があるならばそれが、全て掴まれた心地だった。
あんなにも怖がりだった彼が、こんなに逞しくなって感慨深いや。タルタロスでの戦いを終えて部屋に戻る度、怖くて蹲って眠っていた彼が。世界が終わってしまうよ、と伝えた時誰より恐怖した筈の彼が。登らなくても良いなら登らないのにと思っていた彼が。この塔の頂上へと登りつめここまで来た。
そんな彼が仲間を率いて戦う姿は格好良かったな。
じわりと涙が浮かんできた目尻を手の甲でこする。僕はちょっとだけ笑った。
「こんなに格好良くなっちゃってさ、これじゃ皆が君の事好きになって、僕じゃ太刀打ち出来なくなっちゃうよ」
「何バカな事言ってんだ。お前の為に頑張ったに決まってるだろ」
呆れ気味に放ったその言葉の威力を彼は分っていないだろう。僕なんかの為にここまでしてくれるのが申し訳なくて苦しいのに、嬉しくって。世界じゃなくって、僕の為って言われたのがどうしたって、嬉しくって。
拭った筈の涙が勢いを増して零れ出して来てしまう。僕の中でこんなにも育ってしまっていた人間性が憎い、けれど途方も無く嬉しかった。
涙で前が見えない。全部ぼんやりと白く霞んでしまう。はらはらとひたすら涙が零れていく。溜息が前から聞こえてきて、冷たい指先が頬に触れた。その指に涙を掬い取られる。クリアになった視界で、苦笑している湊と目が合った。
「どんだけ泣いてるんだ」
「だって、君を死なせてしまうのがやっぱりどうしても悲しくて、でも嬉しいんだ」
「あーもう、ややこしい……さっさと諦めて喜べ」
「いいの? 本当にこれで良かったの?」
「いいよ」
「嘘じゃない?」
重ねて僕が問うと、湊は少し視線を下に下ろした。
「……まあ強いて言うなら、約束を果たせないのが少し残念なくらいだな」
「約束?」
「うん。卒業式の日、屋上でって、皆と」
皆、って言うのはきっと今下に居る彼らの事だろう。
どうにかならないだろうか。これは彼の、最後の願いになってしまうだろう。でも彼の命はもうそこの封印を形取ってしまっていて、だから、もう向こうに生きて戻るのは叶わない。
命がない、のだから。体だけしか、無い。いや。
「そういえば君今どうなってるのこれ」
「これ?」
「元の肉体……じゃないよね。シャドウっぽい何か?」
手を伸ばして彼の顔をぺたりと触る。触り心地は前と変わっていない気がするが、どうも少し違う。中身が詰まっていないと言うか。これは、とても美しい影だ。
ここの空間は、既にあちらの世界とは少し違うところにある。けれどここに彼の肉体が無いところを見れば、まだあちらにあるかもしれない。
「ねえ、少しだけなら向こうに戻せるかもしれない。君が肉体に還れば、ほんの少しくらいは」
「本当に?」
「……でも君の命と体が完全に切り離されてしまってるから、長くは持たないと思う。そうだね、一ヶ月、持つか、どうか」
「そっか……いや、それだけあれば十分だ」
「少しでも留まれるように、僕の力も貸すけれど……無理矢理に体を騙す事になるから、辛いかもしれないよ」
提案してみたものの、あまり勧められるような事ではない、だろう。既に一度体から離れてしまっているし、命ももう、ない。どんなことが起きるかも分らない。けど湊は「それくらい大したことじゃない」と笑った。
「殺してとかせがまれたり、綾時を一人っきりにしておくのに比べたら、大したことじゃない」
「……全く君は」格好よくなったなあもう。
僕と彼は手短に支度を終えて、暫しの別れの前に手を繋いだ。
「じゃあ少しの間行ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
「出来るだけ笑顔で待ってろよ」
「え……それは」難しいかも。
やっぱり君が死んでしまうのが悲しくって、なんでこんな事になってしまったのかなって苦しくなって、泣いてしまうかもしれない。そんな事を考えていると、繋いでいる手に爪を立てられた。割と本気で。血出るんじゃって程の強さで。
「痛いよ!」
「笑って迎えてくれないと、帰って来難いだろ」
「……うん」
「だから、笑って待ってろ」
「うん……」待ってる。
僕もいい加減腹を括ろう。まだ少しやらないといけないこともある。それで、湊が戻ってきた時うんと笑顔で出迎えてやろう。
もう、僕にはそれしか出来ないのだ。
「りょーじ」
湊が体を傾けて、僕のマフラーを引っ張る。引かれるままに頭を下げて、顔を近づける。もう少しで唇が触れる、と言うところで急に離れてしまう。何だか肩透かしを食らったようで目を丸くする。それから少し残念って思っていることに気付いて恥ずかしくなる。それを知ってか知らずか、湊は神妙な顔をして頷いた。
「戻ってきたら幾らでも出来るし」
「あ……うんそうだね」
「……期待した?」
「そりゃ……まあ」
素直に答えると湊がおかしそうに目を細めた。何だか、今日の湊はとても良く笑う。
こんな状況なのに、凄くよく、笑う。
「やることやって、約束果たして、綾時のところに帰ってきたらキスしよっか」
「うん待ってるね」
僕も応える様に笑い返す。
繋いでいた指が離れていく。湊が一歩踏み出す。
「じゃ、行ってくる」
彼の後姿を見送って、僕も振り返る。さあ、僕もやることをやろう。
下で彼の姿を探している彼らに伝えなくては。
息を吸う。
言葉を紡ぐ。
(大丈夫だろうか、声は、震えていないだろうか)
言葉を一つ吐き出す度、たくさんの事が頭を過ぎった。
生まれたあの日の満月の事。小さな彼と、アイギスの青色の目のこと。四月に目が覚めて彼と初めて言葉を交わしたこと。戦いに怯える彼の頭を撫でたこと。十一月に彼と再び友達になったこと。それから恋人になったこと。修学旅行のこと。勉強したこと。一緒に出掛けたこと。あれも。これも。どれも。
十年、十年だ。
僕が彼と共にあった十年。
人間として過ごした一ヶ月。
僕にとっては、その全てが、ただ奇跡だった。
「おめでとう、奇跡は果たされた」