いつか絶対泣かせてやる

(爆轟)

 

  

 いつか絶対泣かせてやるからな、と言われたことを覚えている。
 あれはいったい、いつのことだっただろう。

  

   1

 目の前に、バサリとファイルが落ちてきた。
 夕食を終え風呂にも入り、ソファに座りのんびりとお茶を飲んでいる時だった。
 テーブルの上のマグカップを避けるように、紺色のプラスチックファイルが現れた。顔を上げると爆豪の姿がある。何も落とさなくてもいいではないかと思うが、むすりとした表情と目が合えばその言葉も引っ込む。楽しいものではないようだなと予想しつつ、ファイルを掴み上げた。
「新しい仕事か?」
「ちげぇわ」
 じゃあ何だと、膝の上で表紙を開く。ポケットタイプのファイルだった。その中に一枚ずつ料理のレシピが入れられている。ぱらりぱらりとめくれば次々にレシピが出てくる。レシピ以外には何も入っていない。
 ざっくりと目で追っているうちに、爆豪はリビングから出ていってしまった。個室に入っていったかと思えば、着替えを持って出てくる。今から風呂らしい。
 いつも入れ替わりで入るのに珍しいものだと、部屋にこもったままの爆豪のことを思ったのは、十五分前のことだ。どうやらこのファイルを準備していて風呂の時間が遅れたらしい。野菜も肉も魚も食べさせようとしてくる、懇切丁寧なレシピ集を眺めながら思う。
「作れるようになってもらう」
 料理、と爆豪の指先がファイルを示した。
「料理くらい作れるぞ」
「テメーは偏り過ぎてんだよ。料理作れっつーとまず蕎麦茹でるか卵焼くだろうが」
 これは明らかに舐められている。ムッとして「野菜も炒められるし鮭も焼ける」と返せば、鼻で笑われた。
「その程度だろうが。テメェは料理してるっつーより、あったものを焼いてるだけなんだよ」
 それで飯になるんだから良いだろうが、と眉間にしわを寄せるが、ここでそう言い返しては延々と言い合いになるだけだ。経験上分かる。
 既に付き合って七年、一緒に住んで四年だ。
 轟が料理を出来るか出来ないかということは、言い争いの種にするほど重要な事柄でもない。食うに困っていない、というアピールに切替え「自分で作るより爆豪の飯食う方が美味い」と訴えると「当たり前だろうが」という当然の言葉が返ってきた。
 一緒に住んでからというもの、食事に関しては爆豪に甘えてしまっている。作ることが苦にならないタイプらしいことと、轟の頓着が薄いことが相まって、キッチンは彼の独壇場だ。既に迂闊に調理器具を触ることも恐ろしい。最早聖域だ。気兼ねなく触れるのは、食器と少しの調味料くらいなものだ。
 それがここに来て、作れという。
 その上この分厚いレシピ集だ。
 爆豪は変わらず、むすりとしている。
 ハッとして、目を見開く。
「俺、もしかして追い出されるのか?」
「アホかテメェは」
 舐めたこと言ってんじゃねェ、とデコピンが飛んで来た。
 容赦のない打撃に額を押さえて背を丸める。「ただの冗談じゃねえか」顔を上げながら睨めば「んな冗談言うようになるとは進歩だな」と、また鼻で笑われた。
 額をさすりながらレシピ集に目を落とす。レシピサイトを印刷した物のようだが、ところどころ手が加えられている。
 追い出されるというのは冗談にしても、一緒に暮らして四年、こんなものを渡されたのは初めてだ。
 帰宅時間が合わず一緒に食事が取れないことも多いが、見越したように冷蔵庫の中には作り置きのおかずがある。食卓を囲むことが難しいと分かった時点で、あれを食えこれを食えと連絡が来る。それすらままならないほど忙しい時は、外で食えという指令が下る。
 爆豪が数日家を空けることもあったが、その時は多めにおかずを作り置いてくれる。最早食事管理の域だ。
 なので、これを渡される理由に思い当たれない。
「じゃあこれ、なんなんだ」
 今更、なんのために必要になったのか。一人で料理を受け持つことが負担になってきたのか。そのことについては前に分業を提案したが「テメェに任す心労の方がでかい」と断られている。
 ではなにか。今更料理が出来ない轟を心配に感じたのか。なんのために。
 考えてみるも、答えはすぐにもたらされた。風呂場に向かうために一歩を踏み出した爆豪の赤い瞳が、轟を見る。
「しばらく戻れねえし、連絡もできねえ」
「しばらくって、作り置きで持たないくらいなのか」
「五日後から、三か月」
 想像していなかった長期の時間を答え、爆豪の背中は風呂場に消えて行った。聞き間違いかと思う程だ。
 三か月、九十日。
 確かにそれは、作り置きでは凌げない。

   *

 レシピ集を投げつけられてから五日間、爆豪は休みだった。長期出張前の準備期間らしい。
 一度「もう少し早めに知りたかった」とぼやいてしまったが「急だったんだよ」と「それ以上は悪いが説明できねぇ」と言われては、それ以上追求しようがない。
 プロヒーローという職業柄、箝口令には慣れている。同じ仕事に参加していなければ、何をしているか知りようがないことなど日常茶飯事だ。
 しかし全く言えない、という様子から察するに、組織規模の仕事で、まだ調査段階であるということは窺い知れる。三か月という期間からも重大さが垣間見える。どこかピリピリした様子の爆豪を、頑張れと送り出すことが、今してやれるせめてものことだ。
 それだけなら良かった、とつい思う。
 明日から爆豪はこの家を空ける。
 ダイニングテーブルに並べた、豚バラと白菜のミルフィーユを眺めながら、深い溜息が零れた。肩が凝った。妙に疲れた。
 毎晩毎晩「雑」「軽量スプーンって知ってるか」「なんのためにレシピ置いてあんだ」「それはこの引き出しン中だわ」と横から小言を言われながらキッチンに立つのもこれで終わりだ。
 五日間毎晩こうだった。三か月会えなくなるので、少しでも一緒に居る時間を長くしようという健気さを見せた日もあった。早めに仕事を切り上げて、真直ぐ帰路に着けどもこの仕打ちだ。
 スーパーに連れていかれ食材を選ぶコツを叩きこまれ、今日はこれと示されたレシピと睨みあいながらキッチンに立ち、手出しがしたいのを必死に抑えた結果、イライラしている爆豪に圧を掛けられる。
 付き合って七年の実績と、惚れた弱みなどがなければ、とっくに大乱闘になっていてもおかしくなかった。
 お互い手が出るのが早いため、喧嘩をすると終わった後に色々と面倒がある。殴り合いするほどのことか、という自制心が働くようになったのは、大人になったということだろう。
「まあまあだな」
 一足先に料理に箸を付けた爆豪が言った。
「もう少し褒めてくれたっていいだろ」
「まあ、夜になる度に何食わされるか怖くなるほどじゃなくなったな」
「……それ褒めてねえよ」
 しかし爆豪の作る飯と比べられては仕方がないか、と箸を握る。具材を切って鍋に詰めて味付けをして煮ただけではあるが、あるものを焼いただけ、と言われた人間からすれば進歩だと思う。
 白菜と豚バラを摘まんで口に運ぶ。少し味が薄い気がする。確かにまあまあだ。
「帰ったらテストするからな。美味い飯食わせろよ」
「爆豪の言う美味いはハードル高えだろ」
「三か月もあんだから、慣れんだろ」
 三か月、と壁に掛けられたカレンダーを見る。
 あれを三枚めくるまで爆豪は帰ってこない。一年の内の四分の一も一緒に居られない。
 数字としては分かるのだが、実感はまだ追い付いてきていなかった。九十日とはどれ程の長さだろう。高校一年の時の補講の長さと一緒だが、あれは短くなかった。
 思えばあの時から話すことが増えたんだったよな、と爆豪を見る。三か月見られなくなる顔をじっと見る。
 大口を開けて料理を頬張っていた爆豪と、目が合った。
「たまの外食は良いが、蕎麦ばっか食うなよ」
「……言う程蕎麦食ってねえだろ」爆豪と暮らし始めてから、と付け加える。蕎麦は変わらず好きだが、今はなにが食卓に並ぶのかを楽しみにすることも、同じくらい好きだ。
「なあ、今日は何点だ?」
 これ、と食卓に視線を向ける。爆豪は考えるように咀嚼し嚥下したあと「五十点」と言った。
 可もなく不可もなくのまあまあらしい。
「俺が百とした場合な」
「当分爆豪の飯食えねえんだから、五十点の飯じゃなくて百点の飯食いたかった」
「ハッ、甘えてんな。朝飯は作ってやってんだろ」
「朝と晩じゃ手の込み具合違ぇだろ。それも休みの日の爆豪の晩飯豪華なのに」
 はあ、と悩ましく息を吐けば、これまでに食べた様々な料理が走馬灯のように思い浮かぶ。
 グラタン、茶わん蒸し、メンチカツ、筑前煮、すまし汁、アップルパイ、パンプキンパイ。それから、それから。
 じゅるりと涎が出そうになるも、今日食卓に並んでいるのは自分で作った五十点の料理だ。五十点だからといって、二品作れば百点になるわけでもないのだからこの世は厳しい。
 悲しみに暮れていると「明日の朝飯までは作ってってやる」と哀れみの声が降ってきた。なんだかんだ爆豪は優しい。
「いや、いい」と断れば、途端に機嫌の悪くなった「ア?」という地を這う音に替わる。
「出張行く人間に、んなことさせらんねえよ」
「……んな早く出ねえからいい。好きなもん作ってやるわ」
「本当か。なら朝飯は良いから、晩飯用に煮物作ってってくれ」
 多めに頼む。
 目を輝かせながら言うと「急に図々しいな」と片眉を吊り上げた。これは仕方ねえなのパターンだ。爆豪のことだから朝飯を用意しつつ、煮物も作っていってくれるのだろう。
 当分会えないことは寂しいが、明日の夕飯は楽しみだ。思いを馳せながら五十点の飯を食う。
 そこで会話が途切れて食卓は暫し沈黙した。
 いつものように爆豪が先に食べ終わる。食器を片付けながら席を立ったかと思うと、冷蔵庫を開けた。そして戻ってきた手には小さな器を二つ持っていた。よくおひたしだとか、ちょっとした副菜が盛られる底の深い器。今から食うのか、と怪訝な顔で見つめているとスプーンと揃えて目の前に置かれた。
「プリン、食うか」
「食う」
 即答すると爆豪が笑った。この顔も三か月みられないのかと思うと寂しくなる。「あと二つ入ってるから、好きな時に食えよ」
 頷いてせっせと飯をかきこむ。食べ終え、箸からスプーンに持ち替える。小鉢を掴み、甘いクリーム色をした表面を掬い取る。底からはカラメルが出てきた。凝り性だなと感心しながら、冷たく甘いプリンに舌鼓を打つ。
「なあ」と爆豪が口を開いたのは、そんな時だった。
「なんだ」と顔を上げるが、爆豪の視線は手元のプリンに向いていた。「これすげぇ美味いぞ」と言えば「当たり前だわ。そうじゃねえよ」と視線が向けられた。
 じっと、赤い視線に見詰められる。
 よく見るあの燃え滾るような、焼き尽くす様な赤ではない赤色。何かを考えて、言うか言わないか決めあぐねているような、そんな色。自信と鼓舞で両足を支える男の、少しの揺らぎ。
「俺が死んだらお前、ちゃんと次の相手見付けろよ」
「アァ?」
 反射的に、驚くほど低い声が出た。眉間に皺を寄せ思い切り睨み付ける。「んでそんなこと言われねぇといけねえんだ」
「ヴィランみてェな顔ヤメロ。あと最後まで聞けアホ」
 誰がこの顔させたと思ってやがるクソ野郎、と思いながらも渋々言葉を飲み込む。プリンを口に運ぶ。しかし表情は険しく保ったままだ。
 睨んでいると、プリンを食べ終えた爆豪がスプーンを置いた。
「別に死ぬつもりもねえし、テメェを他の奴にやる気もねえわ。今でも引く手数多だろうが。放っといたら直ぐ他の奴に捕まんだろ。腹立つわ」
「ア? 知らねえ奴にしか声かけらんねえよ」
「知らねえ奴に声かけられてんのが問題だ、っつてんだよ」
「知らねえ奴に声かけられても、知らねえから着いてかねえよ」
「……人の気も知らねえで、お気楽なもんだな」
 深々と溜息を吐かれ、釈然としない気持ちになる。だがプリンは美味い。
 食べ終えて顔を上げた先で、視線が絡む。真直ぐな視線がぶつかってくる。ゆっくりと瞬きを繰り返しながら見詰められる。記憶に留めるように。
 そんな風に見詰められると胸が詰まる。真剣な表情の爆豪というのは、昔からずるいものだ。
 急にそんな話をしたということは、明日からの仕事はそれほどに厄介で難度の高いものなのだろうか。
 轟自身、仕事で数日家を空けることもある。だがせいぜい数日、長くて十日ほどだ。三か月も相手を一人ここに残して行く気持ちとは、どんなものだろう。
 想像しようにも難しかった。
「なら爆豪も、俺が死んだら同じようにしてくれていいからな」
 小鉢の中にスプーンをからりと落とす。爆豪は鼻で笑った。
「そん時はそのプリンを他の奴が食うことになるな」
「……腹立つな」
「その顔やめろつってんだろ。んでテメェの方がキレてんだ」
「爆豪の飯は俺が食いてぇだろ」
「おーおーメシだけか?」
 飯だけじゃねえと唸ると、爆豪は肩を揺らして笑った。この席を他人に譲るつもりなど毛頭ない。絶対に嫌だ。
 むすりと歪ませていた表情から、ふと力を抜く。釣られた様に笑いが移って、少し声を零す。
 それから席を立ち、リビングに置きっぱなしにしていた仕事用の鞄を取りに行った。用があるのは中の小さな紙袋だけだ。それを取って戻り、頬杖をついてずっとこちらを眺めていた爆豪の前に置く。
 爆豪は今、いざというとき踏み止まるための理由を作っているのだろう。
 これがそれの役に立つかは分からないが、少しくらい効果があるといいと思う。
「やる」
 促してから元のように椅子に座る。轟から視線を外した爆豪が、紙袋を開けた。
 袋の中からはお守りが出てくる。今日の帰りに寄り道をして、買ってきたものだ。
「……交通安全かよ」
「安全な方が良いだろ」
「もっと他になかったんか」
「家内安全とかじゃねえだろ、家の外だから」
 困惑といった様子だった表情が一変し、プッと噴き出した。けたけた笑い「大事に括り付けとくわ」と撫でて机の上に置いた。
「本当は、指輪とか渡したかったんだが」と白状すると「アァ?」と、今日一番の険しい顔で睨まれた。調理中にコショウと間違えてシナモンの瓶を掴んだ時よりも恐ろしい顔をしている。
「ほら、爆豪怒るだろ。お前そういうの自分で選ぶ派だもんな」
「おー良く分かってんな」
「だから素直にお守りにした」
 お守り代わりの指輪、に憧れる気持ちは多大にあったのだが、そういうイベントごとを先に押さえると面倒なのだ。爆豪というやつは。
「指輪が交通安全のお守りになあ」
 しかしそうもニヤニヤと笑われると腹も立つ。
 だが、まあいいかとその様子を眺める。このやり取りも三か月お預けだ。
「なあ、連絡とれねえって言ってたが、全くか」
「全くだな。終わるまで一切連絡出来ねえ。あと、連絡もしてくんな」
「ア?」
 全くか、おはようもおやすみも家電壊したもか、と言えば「全くだ。家電は壊すな」と淡々と答えられた。
 その珍しい程淡々とした声は、状況確認にも似ていた。
「それから、俺のことだけ信じろ」
 いいな、と向けられた視線はピンと張りつめていた。
 なんだそれ。どういう意味だ。そう聞き返すことができない。強く光る赤い瞳が、聞くなと言外に伝えてくる。
「わかった」と答えるほかない。怪訝ながらも頷くと、爆豪は少し表情を緩めて「覚えとけよ」と言った。
 良く分からないことを言って、踏みとどまる理由を作って、こいつは三か月どこに行くのだろう。