(たそかれホテル/おおあと)
軽い足取りで黄昏ホテルの廊下を進む。指先にはグラスが二つ引っかかっている。顔が映り込むほど丁寧に磨き上げられたこれは、阿鳥遥斗の技術だ。そう考えグラスへ視線を送るだけで、気分が高揚する。
これは今宵の、ほんの入り口に他ならないのだが。
さて、そろそろ出会うはずだ。
廊下の角を曲がると、ロビーからこちらへと歩いてくる阿鳥の姿が見えた。
彼の目には、いつもよりも少し足取り軽く、表情豊かに楽しそうに笑う、大外聖生の顔が映ったことだろう。
パッ、と目が合う。阿鳥はすっかり顔馴染みになった姿を見止め、廊下の隅へと避け会釈をした。その姿へと向け、足を進める。
「こんばんは、阿鳥さん」
「こんばんは大外様」
仕事用の笑みを浮かべた阿鳥の正面に立ち止まる。彼は少しだけ伺うような視線を見せた。きっと大外が通り過ぎていくのだと思っていたのだろう。露骨に不思議そうな顔を見せないあたり、彼はまだ仕事中という認識なのだろう。表情にすぐ出るあの少女とは違う。
「どうなさいましたか」と問い掛けられる。人好きのする笑みを作り、指にかけていたグラス二つを胸の高さまで持ち上げた。「阿鳥さんを探していたんですよ」と答える。
「よろしければ晩酌にお付き合い頂けませんか。良いお酒を譲っていただいたのですが、一人で飲むには勿体ない」
「そういうことでしたら、バーの方へ」と律儀に業務的に答える口元に向け、言葉を封じるための人差し指を近づける。
ほんのすこし、ちょんと唇に指先を触れされると、阿鳥も流石に驚いたように目を開いた。
微かに触れる柔らかな感触を名残惜しく思いながらも離し、自分の口元へと持ってくる。貴方への内緒話ですよ、という意図を乗せて。
「瑪瑙さんとのちょっとした賭けに勝って頂いたのですよ。一人で飲むことも勿体ないものですが、バーで開けて皆であっという間に飲んでしまっても勿体ないではありませんか。それに、このホテルで僕と同性で同世代というと阿鳥さんくらいだ。歳の近い者同士、ゆっくりと話をしてみたいのですが」
駄目ですか? それともまだお仕事ですか?
そう尋ねると阿鳥は顎に手を当て、考える素振りを見せた。笑みを浮かべたまま、その様子を見守る。
阿鳥の仕事は、つい先ほどまでのフロント業務でお終いだということは、もちろん調査済みだ。
酒を賭けで手に入れたことは本当。晩酌に誘おうと思い阿鳥の元へやってきたことも本当。だがそこに偶然など何一つありはしない。
断らないだろうという状況を作り出し、勝負に臨んでいるのだ。
勤務中の空気を崩した阿鳥が首を傾げ「そうですね、少しでしたらお付き合いいたします」と微笑んだ。
*
「カルヴァドスですか」とボトルを開けながら阿鳥が言った。
「お誘いした身でありながら、何もかもお任せしてしまい申し訳ありません」
「構いませんよ。それに大外様はお客様ですからね」
「ですが阿鳥さんも今は休憩時間ですよね。あまりお気遣いなさらず、くつろいでください」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますね」
どうぞ、と向かいのソファを示すと、そこへ阿鳥が腰かけた。
テーブルの上には阿鳥がキッチンから持ってきたつまみが並べられている。クラッカーとチーズ、ナッツとサラミが少し。それからアイスペール。
「カルヴァドスでしたらカクテルにしても良かったですね。つまみと一緒に幾らか持ってきたらよかった」
「それこそ銘柄を知っていた僕のすべきことですよ。気になさらないでください。それにストレートでも構わないでしょう」
死んでいるのか生きているのか不確定な世界の体だ、酒で壊すという心配は不要だろう。
ボトルを持ち上げ阿鳥の方へと向けると、彼の美しい指先がグラスをこちらへ差し出した。
黄金色の液体が、傾けたボトルからグラスへと移る。二つのグラスに同量注ぐ。それぞれがグラスを持つと、視線が絡んだ。
差し出したグラスにグラスが触れ合い、カチンと澄んだ音が鳴る。アルコールが喉を焼く。
一口飲み込んだところで、ナッツに手を伸ばす。
それからボトルを掴み、阿鳥へと向ければ「それほど早く飲めませんよ」と苦笑された。
「ですが頑張らなくては、無くなりませんよ」
「大外様の持ち物ではありませんか。それに二人で、一晩で、その量を開けるのは難しいと思います」
「おや。試してみなくては分かりませんよ」
肩を竦めて笑えば、困ったように眉を下げながらも阿鳥がグラスを差し出した。とぷりと酒をそそぐ。
「阿鳥さんは、アップルパイがお好きでしたよね」
「はい。よくご存じで」
「先日食堂に行った際に、塚原さんと食べ物の話になりまして、そこで丁度、阿鳥さんのお話も」
というのは大嘘であるが、阿鳥は疑うことを知らぬ様子で「そうですか」と微笑んだ。
「リンゴがお好きなのですか」
「ああ、なるほど。カルヴァドスもリンゴのお酒ですね。だから僕を呼んでくださったのですか」
「それも、少し。二人でお話をしてみたかったことも本当ですよ」
「そうでしたか。ですが有難うございます、嬉しいですよ」
純粋な好意だと受け取ったらしい阿鳥がはにかむ。
なんて無防備な笑みだろう。
じりじりと焼け焦げるような衝動に駆られながらも、それを酒と共に飲み下す。まだまだその時には程遠い。感情を喉の奥へ流すように、酒を煽る。ボトルを手に取った阿鳥が、空になったグラスに酒を注いでくれた。
「大外様のお好きな食べ物はなんでしょうか。今度お出しします」
「それでしたら既に頂いています。僕は珈琲や紅茶が好きなので。阿鳥さんが淹れてくださるものはどちらも美味い。またお願いします」
「ええ、いつでも」
まんざらでもない様子で頷く阿鳥のグラスに酒を追加する。「そんなには」と慌てて止めようとする様子に対し「今日はもうお仕事ないですよね?」と笑いかける。「そうですが」と頭が傾き、ブロンドの髪が揺れる。
どうして大外がそれを知っているのか。その疑問に至らなかったということは、阿鳥の体は既にアルコールに浸っているのだろう。
「さあどうぞ」と口元にクラッカーを近づけると、彼の美しい指先がそれを掴んで口に入れた。
さすがに素直に口を開けるほどではないようだ。
その後も早いペースで酒を注ぎ続けていれば、阿鳥の目元が次第にとろりと下がってきた。
瞼を重たそうにしながら、ゆっくりと瞬きをしている。青い瞳はぼんやりとテーブルを眺めている。
大して大外はほとんど飲んでいない。違和感を与えない程度に嗜みつつ、阿鳥の姿を見ていた。大外の部屋のソファで、酒を飲んで、酔って、うっとりと眠気に身を任せそうになる、阿鳥遥斗の姿を見ていた。
これほどまじまじと眺めることはいつ振りだろう。
このホテルに来てからは間近に接することが可能になった。視線を合わせて、言葉を交わせる。それはいい。だが眺めることには適していない。じっと見つめていては気付かれてしまう。眺め続けられるものは、あの扉に置くに隠した写真くらいだ。だが新しい写真を増やすことはできない。
酒の肴に、彼の姿をうっとりと見つめる。なんて最高の時間だろうか。いつ見ても、こんなあの世との境目に居ても、彼の姿は完璧で美しい。
ごくりと喉が鳴る。
食べてしまいたい。メスを入れて切り分けて。余すことなく食べてしまいたい。ああ、どこから食べてしまおう。完璧な彼はきっと味わいも素敵に違いない。
ドキドキと高鳴る鼓動を沈めるように、大きく息を吐く。焦ってはいけない。まだ、その時ではない。
「阿鳥さん、阿鳥さん」と小さく呼びかける。
その声がゆっくりと耳に届いたのか、ぱちりぱちりと眠たそうに瞬きをした後「はい」と返事をした。
視線が上がりこちらを見るが、焦点は定まっていない。
本当になんと無防備なのだろう。「殺人鬼の前で、それほど無防備な姿を晒すのは感心しませんね」と囁くように小さな声で言う。
これは聞こえなかったようで、青い視線はまたテーブルの上へと落ちていった。
その姿に肩を揺らしながら笑う。笑い声に呼ばれるように、阿鳥が顔を上げた。
「阿鳥さん、貴方はもう少し警戒心というものを持った方が良い」
「……音子ちゃんも言うけど、心配しすぎですよ。大外さまも。おれは、おとこなのに」
少し眉間にしわを寄せて阿鳥が言った。全く無自覚の様子だ。いっそ呆れてしまう程だが、彼のそういう姿もまたたまらないものがある。
グラスを置き、テーブルへ身を乗り出す。阿鳥の首元へと指を伸ばす。うとうとと俯く彼の首に結ばれた、リボンタイの端を摘まむ。
「これ、苦しくないですか? 解きますよ」
了承を得ぬまま、しゅるりと音を聞かせるようにリボンを解いた。
眠りの縁に立っていては、首を絞めるその紐が苦しそうだ。そう思ったのも本当だ。だがそれよりも好奇心と、押さえられない欲望がにじみ出てしまったことの方が、真実だった。
解けたリボンが彼の首から下がる。それを見た阿鳥がゆっくりと顔をあげた。
「ありがとうございます」
その微笑みに、押さえられない程気分が高まったのを感じた。ぶわりと熱が体を駆け巡り、溢れ出そうだ。
酔いが回っているのは自分も同じかもしれない。それともそれほどに、この人がズルいのだろうか。
リボンタイが解かれ、緩んだシャツの隙間に見える肌に指先を伸ばす。
欠けさせなければ、少し味見をしてしまっても良いだろうか。