いつか絶対泣かせてやる

         

   3

 一人で生きていくのだと思っていた。

 プロヒーローになって家を出て、一人暮らしをして。一人で生きていくものだと、長い間思っていた。
 強さの証明とは一人で行うものだと思っていた。己の強さは己でしか証明しようがない。そうやって生きていくのだと疑っていなかった。
 それがどういうものかも、想像がつかないまま。
 強さの証明が全てではないと気付いて以降も、まさかこうして誰かと生きていくことになるとは、本当に、これっぽっちも思っていなかった。
 寝ても覚めても誰かの居る生活。
 誰かのことを思う生活。
 ヒーローという、全に対しての個である存在でいながら、特定の誰かと一緒に生きていくこと。
 爆豪が家を空けて五十日目。
 そのニュースはパトロール中、街頭モニターに流れる速報で見た。
『たった今入った情報です』
 大きなモニターから、スピーカーに乗ったリポーターの声がザリザリと聞こえてくる。
 リポーターは半壊したどこかのビルを背に、爆豪のヒーローネームを口にして「負傷」と「緊急搬送」の言葉を慌てたように吐き出した。
 気付くと足を止めていた。
 視線はモニターに釘付けで、耳にはリポーターの焦った声だけがあいまいに届いている。パトロール中なのにだとか、都心部の雑踏でうるさいはずなのに何の音もしないだとか、心のどこか遠いところが考えている。
 言葉が、飲み込めない。呼吸の方法すら忘れていた。
「ショート」
 呼びかけられ、はっと息を吸い込む。
 同じ事務所の先輩ヒーローが、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。そうだ、この人と一緒にパトロールをしていた。その最中だ。仕事の途中だった。
「すみません」
 慌ててパトロールに戻ろうとすると「大丈夫だよ」と肩を掴まれた。「顔色が悪い」
 真摯に見詰めるその視線と、ここで初めて目が合った。ようやく意識が呼び戻されたといってもいい。
 詰めていた息を吐き、知らぬ間に握り締めていた拳をゆっくりと開く。てのひらにじっとりと冷や汗をかいていた。
 ゆっくりと目を閉じ、深呼吸をする。
「すみません、パトロール中に」
 頭を下げると「そりゃ、心配するでしょ」と先輩はニュースを繰り返しているモニターを見上げた。
 彼は轟と爆豪が一緒に住んでいることを知っている。誰と何処に住んでいるかを知る義務が、事務所にはある。そしていざという時に、誰に連絡するかを事務所は把握している。それでも爆豪と住んでいることを知っているのは、所長を含め数人だ。入所時に教育係を務めてくれた先輩や、よく組むこの先輩などだけ。
 事情を知っている人とこの状況に居合わせたことを、幸運と捕えるか不運と捉えるかは難しい。
「このパトロールが終わったら休みにしていいよ。所長には話しておくから」
「いえ、大丈夫です。今は連絡も取ってないですし」
 どうせ連絡も出来ないのだから、どこに搬送されたのかも分からない。休みをもらってもすべきことがない。
 降ってきそうなほど大きく感じる街頭モニターを、再度見上げる。
 画面は先ほどの半壊したビルから変わっていない。あのビルを目印に近くの病院を当たれば、もしかすれば会えるかもしれない。だがそれは、今すべきことではなかった。
 先輩は轟の言葉を、別の意味で受け取ったようだった。「あっ」と息を飲み、聞いてはいけないことだったかと視線を泳がせている。「その、ごめん。立ち入ったことを聞いたね」と眉を下げるものだから、慌てて否定する。
「いえ違うんです、そういう意味じゃなくて。あいつ仕事の都合で、連絡取れないようになってて。それに、たぶん、大丈夫だと思います」
 爆豪のことだから、大丈夫だ。
 大きく息を吸う。自分に言い聞かせるように言葉にする。
 俺のことだけ信じろ。
 その言葉が思い起こされる。信じるぞ、良いんだよな。もう一度モニターを見上げ、それから足を踏み出す。
「行きましょう」と声を掛け、パトロールへと戻っていく。
 それが午前のこと。

 午後も変わらず仕事をこなし、それでも少し早く帰され、家に戻ったのは夕方だった。
 誰も居ない部屋に向け「ただいま」と声を掛け、靴を脱ぐ。
 爆豪と会わないこと早一か月半と少し。
 それでもまだもう半分近くも残っている。
 誰も居ない家に帰ることに少し慣れたような気がしていたが、全然ダメだ。部屋の空気が冷たい気がする。しっかり防音の効いた部屋はしんと静かで、窓が閉められた停滞した空気が時間すらも止めているように感じる。
 部屋着に着替え、服を洗濯機に投げ込む。シャワーを浴びようかと思ったが、どうにもそういう気分ではない。
 ソファに飛び込むように体を横たえ、スマホを取り出す。ブラウザを立ち上げれば、午前に見たニュースが大きな見出しを付けられ目に飛び込んできた。しかし分かることは「負傷」して「緊急搬送」された、と言うことだけ。続報は上がっていない。
 無事なのか、怪我の状態はどうなのか、誰も教えてはくれない。ビルが半壊している原因についても現在調査中となっている。
 HNへアクセスするが、そちらも同様だ。初めから非公開となっている爆豪の仕事は、こうなっても内容が公開されない。徹底的に隠されている。ならまだ仕事は続いているということだろうか。続けられる状態だということだろうか。
 考えても答えは出ない。飯の支度をしなければと考えるが、やる気が起きない。腹が減ったという感覚もない。
 ぼんやりとニュース記事を眺めていると、突如着信画面に切り替わった。デフォルト設定から変わっていない着信音が鳴り、握り締めていたスマホがぶるぶると振動する。
 画面に表示された名前は切島だった。
 慌てて体を起こし、スマホを耳に押し当てる。雑音に混じって、切島の慌てた声が飛び込んできた。
「轟か? 今大丈夫か」
「ああ。家だから平気だ」
「そっか良かった。なあ爆豪は大丈夫なのか。あんなニュース流れてんのに、アイツ連絡付かねえし」
「……しらねえ」
 答えた声は、驚くほどそっけない音になってしまった。知りたいのはこっちの方だという気持ちが、ついこぼれ出た。
「えっ」と驚いた声が耳元で響く。切島はどこから電話をしているのだろう。背後から聞こえる雑音がうるさい。彼もまた心配で焦っているのだろうなと思った。
「轟も知らねえのか」
「悪い……。爆豪、連絡付かないのか?」
「おう、電話してもお掛けになった電話番号はー、っつうだけで全然。メッセージも既読付かねえし」
「そうか」
 連絡するなと爆豪は言ったが、そもそも連絡がつかないのか。
「え、轟連絡取ってねえの? 俺お前なら知ってると思ったんだけど」
「俺は、連絡すんなって言われてて、してねえ」
「マジ……で?」
「あ、ちげぇぞ。別れたとかそういうんじゃねえからな、仕事の都合で連絡出来ねえし、すんなって言われてるだけだ」
「なんだ良かった! いや良い状況じゃねえかもしれねえけど」
 露骨に安堵した吐息が聞えて来た。
 このやり取りが二度目でなければ、もう少し気付くことが遅れ、ややこしいことになっていたかもしれない。「ふは」と苦笑が零れ出る。それが電話の向こうに伝わって「おお」と驚いた声が返ってきた。
「でも、あれだな。轟にそう言ってるってことは、ニュースほど心配することでもないのかもな。本気でヤベェなら、事務所とか通じてそっちに連絡行くだろうし」
「そう、だよな」
「おう。そうだぜ」
 あの爆豪だしな、と快活な切島の声が笑う。
 有難うと零して、少しの雑談をした後電話を切った。少しだけ気が楽になったように感じる。ほっと吐き出した息が、やけに大きく部屋の中に響いた。
 電話が切れて、切島の明るい声が途切れて、部屋の静寂さが余計に浮き彫りになる。
 俺のことだけ信じろ。
 疑う訳ではないが本当に信じていいんだよな、と心の中で呟く。大丈夫だよな。心配くらいはしてもいいよな。
 無音に耐えられず、テレビの電源を入れる。途端に聞こえてくる音は賑やかで、少し気がまぎれるようだった。
 リモコンを握り、ぽちぽちとチャンネルを切り替える。夕方のニュースを伝える番組でふと、手を止めてしまう。ここでもはやり「負傷」と「緊急搬送」を伝えている。やけに大きなニュースになったなと訝しむ。
 大丈夫、大丈夫、と思ったところで、緊急搬送の言葉は心臓に悪い。
 本当は大丈夫ではないのではないか。嫌な想像が脳裏を過ぎる。過ぎるたび頭を振る。
 再びソファに倒れ込む。サイドボードの上に置かれた写真立てが目に入った。爆豪と肩をくっつけて写っている、珍しい写真だ。あれは二十歳の時に、A組で集まって花見に行った時の写真だ。
 どうしてああなったのだったか。写真を撮ったのは緑谷だ。良い写真が撮れたから送るね、と転送されてきたのがあれ。とても気にいっていて、印刷して写真立てに入れたのが轟。一緒に暮らすことになってここに引っ越してきたときに、あそこに置いたのも轟。こんなもんどっから手に入れてきたんだ、と照れ隠しに怒りながらそのままにしたのが爆豪。
 会ってはいないが姿は見る。ニュース動画を見れば、姿だけではなく声だって聴ける。だがそれだけだ。それ以上のものはない。
 もしもこのまま、一人になってしまったらどうしよう。
 もう二度と、あの玄関が開かなかったらどうしよう。
 おかえりと迎える相手がいなくなってしまったら、どうしよう。
 考えても仕方のないことを考えてしまう。一人で住むにはこの部屋は広すぎる。キッチンも冷蔵庫も大きくたって、一人分しか作らないのでは持ち腐れだ。このソファだって広い。何もかも一人で使うには手に余る。
 嫌な考えばかりがぐるぐると回る。
 そんな時に緑谷からメッセージが入ってきた。受信を知らせるランプが点滅する。開くと「夕飯食べた? まだだったらどこかに食べに行こう」という優しいメッセージが書かれていた。
 考えるまでもなく「行く」と返事をする。
 このまま家に居ても待つ以外に出来ることなどない。待つ時間だって、あと一か月半だ。ここでこうしていても仕方がない。
 信じろ、と言った言葉を思い出す。
 ソファから体を起こした。