寒さ/抱きしめる

(爆轟/ワンライ)

 

 

 部屋の扉を閉めて最初に吐いた息は白く煙っていた。
 誰の目も届かない一人の空間にやってきたことで気が緩む。途端に視界がぐにゃりと歪んだ。
 相変わらず溜息は煙のように燻り口から出ていく。体温を下げ過ぎているようだ。だが熱い。熱い気がする。寒い気もする。どちらが正しいのか分からない。今朝学校へ向かう途中ですれ違ったクラスメイト達は、寒い寒いと肩を抱いていた。ならば寒いと思うことが今は正しいのかもしれない。
 今は、寒いのか。
 重く霞がかった思考を引きずり、クローゼットを開ける。おぼつか無い指先で寝巻を引っ張り出し、重たい足を引き上げながら着替える。ボタン握る感触もあいまいだ。硝子一枚向こうの世界の出来事のようにぼやけている。
 こういう時は寝てしまうに限る。他にやり方を知らない。
 敷布団を広げようとして脚がもつれて転んだ。べたりと畳みに手を付いて、ままならない体に呆れて息を吐く。今度は煙らなかった。
 そんな時、部屋のドアがノックされた。
 今日は誰とも何の約束もしていないはずだ。眠いから寝る、と言葉短く全て断ってしまった。そっか、と笑う友人の少しだけ残念そうな顔を辛うじて覚えている。
 あの時はバレなかったと思う。だがやはりバレていたのだろうか。ぐるぐると考えていると、予想とは違う声がした。
「開けろ」
 短く聞こえたのは爆豪の声だ。
 パチン、と瞬きをする。ほんの一瞬思考が晴れた、ような気がした。だがそれもひと時のことだ。またぼんやりと滲む。
 間の悪い奴、とか、何も用事は無かったはずだ、とか。色々と考える。そのままぼうっとしていれば再度「開けやがれ」と声がした。今度は少し、苛立ちを滲ませて。
 渋々立ち上がりドアを目指した。和室に改造された部屋とは不釣り合いな、黒い扉。
 鍵を回す。その音を聞きつけたのだろう爆豪に、扉が無遠慮に開けられた。慌てて扉を引き留めようとするも、全く力が入らない。つるりと手のひらから逃れたドアノブは、爆豪の方へと引っ張られた。扉が開く。
 ドアノブのことは諦め、顔を上げる。
 いつもよりは控えめながらも眉間にしわを寄せた爆豪が立っていた。
「……俺は眠いんだ、今日は帰ってくれ」
「眠い奴のツラかよ、それ」
 ぐいと肩を押されると、体はあっさり三歩下がった。その隙間に爆豪が入り込み、ドアが閉められる。そして分厚いてのひらが、額に押し付けられた。
 温かい手だ。額を触ったかと思えば、今度は首を両手で包み込まれる。恋仲であるという認識がなければ、今から絞殺されるのかと思うような場面なのではないか、などと思った。
 触れた手はあっという間に離れ、代わりに盛大な溜息が与えて寄越された。
「触っても分かんねえわ」
「……なにがだ」
 ぼうっと答えながら、どうやって爆豪を部屋から追い出すかについて考えを巡らせる。
 爆豪が今、何を確かめようとしていたのかくらい察しがついている。だから白を切った。それくらいで誤魔化されてくれないだろうことは、予想できてはいる。
 最後の気力を振り絞り、背筋を伸ばした。特に何でもない様子を装って、帰ってくれと言葉にしようとした。
「個性解け」
 そう言われ、言うはずの言葉が飛んだ。
「……つかってねえ」とだけ辛うじて答える。
 今は氷も炎も出していない。見れば分かるだろうと眉を寄せる。
「そうじゃねえよ、体温調整に使ってる方だ。やめろ、風邪直す方に集中しろ」
 仮にも個性使ってんだから体力消耗するだろうが、と言った爆豪が無遠慮に部屋の中に踏み込んでくる。
「そうじゃなくても今体温ちぐはぐんなってんぞ。さっさとやめて、大人しくしとけ」
 爆豪の姿が、となりを通り過ぎていく。
 部屋の主の許可もとっていないくせにと、すり抜けていく姿を目で追う。だが目も体も上手くついていかず、振り向く途中で足元がもつれた。よろけて壁にもたれかかる。
 大人しく個性の発動全てを止めた。熱いのか寒いのか分からない状態から、ただただ寒いという状況に移る。また吐息が白く煙った。
「うまくかくせたと、思ってた」
 ぽつりと呟くと、爆豪が一度だけ視線をこちらに向けた。そして支度途中だった敷布団を掴むと、定位置に広げてくれた。
「デクが来てねえってことは、隠せてたんだろうよ」
「でも爆豪に気付かれたじゃねえか」
 拗ねるように言えば鼻で笑われた。
 隠せていた、と思う。爆豪もそう言うのだから、隠せていたのだろう。他の誰も気付いていないのだろう。今朝の寝起きの段階からうっすらと熱っぽく、それがじわじわと加速していたことを。
 風邪などひいたのはいつ振りだろうか。体調管理も出来ないのか、とどこか遠いところから記憶の声が漂ってくる。誰にも気付かれる前に治してしまえば、なかったことと同じだ。
 だから良いだろう。それでいいだろう。
 記憶と現状がこんがらがってきたところで、ピッという電子音が聞えた。
 知らぬ間に伏せていた顔を上げると、リモコンを掴んだ爆豪の姿が見えた。
「暖房ぐらい入れろや」
「……悪い。暑いのか寒いのか、分からなくて」
「マジで舐めた野郎だな。十一月が寒くねえわけあるかよ」
 そうか十一月は寒いのか、とそんなことを思った。
 ぼうっと立っていると「突っ立ってねえで寝ろ」と顎で布団を示された。
 よろよろと力なく一歩を踏み出すと「くしゅん」とくしゃみが出た。慌てて口元を覆う。続けて二回目が出る。二回も出ると三回目も出るものだ。連発していると、呆れた様子でティッシュの箱が投げつけられた。それは俺のものなのに、なんて考えながらしゃがみ鼻をかむ。丸めたティッシュをゴミ箱に投げ込む。
 一度へたり込んでしまうと、再び立ち上がることがやけに億劫に感じられた。四つん這いのまま、這うように移動する。
 爆豪はその間、移動するでもなく立っていた。近くを通りかかったので体を起こし、正座で見上げる。爆豪は無表情に近い顔でこっちを見ていた。表情が賑やかい爆豪にしては、珍しい方の顔だ。
「……うつるから帰れ。布団ありがとな」
「んな直ぐうつるかよ」
「分からねえ」だろはと最後まで言えず、くしゃみに遮られた。
 くしゅんと肩を揺らし、息を吐く。息は白い。暖房器具は頑張ってくれているようだが、部屋が温まるまではまだかかるらしい。それともくしゃみと一緒に、体の熱がどこかへ行ってしまうのだろうか。肩をさする。
「寒ぃ」
「アホみてえな薄着でいるからだろうが」
 今日何度目か分からないため息が降り注ぐ。普段ならこの格好で十分だった、といい訳が頭を過る。「はよ布団入れ」と急かされるまま掛け布団をめくる。だが当然布団は冷たい。冬の布団は冷たいんだったな、と随分懐かしい記憶が脳裏を過ぎった。
「つめてぇ」
 半ば無意識に呟くと、足音が二歩近付いてきた。掴んだ掛け布団をひったくられる。白いシーツの上に、爆豪のつま先が乗った。
 顔を上げる間もなくどかりと座り込んだ爆豪と視線の高さが合う。真っ赤な瞳は熱の色で、随分と温かそうだった。
「ん」
 布団の上で胡坐をかくと、爆豪が腕を広げた。その光景をじっと眺めていれば、早々にしびれを切らした指先が伸びてきて腕を掴まれた。
 全く踏ん張りの効かない体は簡単に引き寄せられて、爆豪の腕の中に納まってしまう。抱えるように背中に腕が回され、両足に挟み込まれる。
 逃さぬように捕まえられているみたいだ。だが温かい。触れた場所から体温が伝わってくる。
「部屋があったまるまでな」という優しい声色が降る。背中に触れる手のひらが熱いほどに温かい。
「爆豪って、こんなやさしい感じだったか」
「好きなやつくらい甘やかすわクソが」
「お、おお」
 じわりと恥ずかしさが沸き上がる。一緒に体温も上昇するような気がしたところで「火吹くなよ」と言われたものだから背を叩いてやった。だが叩くために伸ばした手が触れた、その背も温かい。
 熱を求めてすり寄ると、背中が撫でられた。温かい。すっぽりと熱に包み込まれ、泣きそうなほどに温かかった。
「ばくごーあったけえな」
「ったりめーだろうが」
「めんどうかけて悪ぃ」
「まだ大した面倒かけられてねぇわ」
「でも風邪ひいた」
「季節の変わり目に風邪ひくくらい普通だろ」
「そうなのか」
 そういうものなのか。
 風邪を引いて、風邪を引いたことを知られて、それは普通で済ませても良いものだったのだろうか。「でもプロになったら」とこぼすと「じゃあ今のうちに体調管理覚え直せ」と背中を叩かれた。
 あやすように、温めるように。なでるみたいに。
 ぐずぐずと鼻がなる。吐きだした息はもう白くはならなかった。
「十一月って寒いんだな」
「当たり前だわ」
「なあばくごう」
「……んだよ」
「わりぃ」そう呟くと、背中に回された指先がぴくりと動いた。「風邪くらいでガタガタ言うんじゃねえ」とすぐそばから優しく聞こえてくる。
「そうじゃねえんだ」と熱を求めてすり寄りながら言葉を探す。
 何と言おう。風邪を引いたことを隠そうだとか、さっさと寝て直そうだとか、それ以上になかった数分前の自分のことをどう例えよう。今、体を包む熱のあたたかさをどう例えよう。
 爆豪は言葉を待っていた。気の短い奴なのにと思うと可笑しかった。先ほどの言葉通り甘やかしに来てくれたのだろう。こうも爆豪が静かなのは、風邪を引いているからだろうか。
「面倒かけてんのに、少し、嬉しいんだ」
 心配されてんのが嬉しいとか、悪いよな。
 くすぐったく言葉になった声は、爆豪の腕の中でくぐもって随分小さな音になった。それに対する返事はなく、ただ一つ小さな舌打ちが聞えた。だがそれがどういう意味の音なのか、今は分からなかった。