(爆轟)
トーレニングルームの床に背が叩きつけられた。
ぶん投げられた衝撃に一瞬視界がチカリと瞬く。そして間髪入れず上から降ってきた男に、四肢を押さえつけられる。
「うぐ」と呻いて見上げた先で、天井照明を背にした爆豪の笑う顔が見えた。
首と名の付く部分くらいしか動かせない。完全に制圧されている。投げられた時点で勝敗は決まっていたのだから、わざわざ押さえ付けなくともいいはずなのに、全く容赦がない。そもそも投げ飛ばす勢いからして、全く容赦がなかった。
例え練習でも手を抜かないところは好きだったが、仮にも恋人だぞそこまでぶん投げなくてもいいだろう、という気持ちもなくはない。だが恋人だからと言って手心を加えてくれるような奴だったなら、そもそもこの様な組手をすることになどなっていない。
個性使用なし、足の裏以外が付いたら負け。というのがこの組手のルールだ。
また投げられてしまった、と見下ろしてくる顔を眺める。
だが今日はいつもより少し長く立ち回れた。前より進歩している実感はある。しかしその日通じた手を覚え、次回に活用しようとすると、当然のように対策を打ち立てられている。そうして結局投げられる。
押さえつけられている体から力を抜く。今日はもう負けが確定したので抵抗する気はありません、という意思表示でもある。
「今日はちょっと惜しかっただろ」
先ほどの組手内容を反芻しながら、爆豪の胸倉を掴んだ時の話をする。反射神経がいいものだから、あまり掴むまでいかないのだ。躱している間に隙を付かれて投げられる、というのがいつものパターンだ。個性を使わないとなると、隙を作ることが難しい。近接戦闘においてはそもそも練度が違う。
だからと言ってそれを理由に負けたくはなく、こうして毎度毎度投げ飛ばされている。
それでも進歩しているだろ、と首を傾けると爆豪は意地悪く笑った。
「惜しい奴が投げ飛ばされるかよ」
ンだと、と眉をしかめたところでキスをされた。
唇は触れただけで離れる。滅多に聞かない、機嫌がいい時に爆豪がこぼす笑い声が間近に聞こえた。しかし問題は、ここが共用のトレーニングルームで、同じ様に自主練にいそしむ生徒の姿が他にもあるということだ。
「見られたらどうすんだ」と睨むと「見えねえようにやってんだよ」と愉快そうな声がもう一度、唇に触れた。
「それにどうせ、ブン投げられたテメェを煽ってるようにしか見えねえわ」
そして漸く、体を押さえつけていた重みが退いた。自由になった体を起こそうとすると、目の前に手が差し出された。珍しいこともあるものだなと、先に立ちあがった爆豪のその手を取る。
ひっぱり起こされ立ち上がると「今回も俺の勝ちだな」とニマリと笑われて、カチンと来た。
握った手はそのままに、反対側の手を握りしめて振り抜く。
至近距離だったというのに避けられた挙句、足を払われ再び床に逆戻りした。ただ、掴んだ手を意地でも離さなかったため、爆豪も引っ張られて倒れ込んできた。
「適当に不意打ちすんな」
「うるせェ、ムカついたんだよ」
睨むと、手を振りほどかれた。体を跨ぐように立ち上がった爆豪に見下ろされる。
さっぱり手を抜かないこの男のことを格好いいと思うが、それはそれだ。腹が立つときは、腹が立つ。
「ブサイクなツラすんな」
「してねえ」
「どっちにしろ俺の勝ちは勝ちだからな。寝る支度済んだら俺の部屋に来い」
「今回も爆豪の部屋かよ」
「そういうルールだろ」
「……わかった」と頷くと爆豪が上から退いた。
そのまま去っていこうとするので、急いで体を起こし「おい」と呼び止める。ポケットに手を突っ込んだまま、首だけで爆豪が振り向いた。まだ何か用か、と言わんばかりの目だ。手のひらを上にして、こっちに来いと指先を振る。
半分くらい、挑発だ。
「まだ自主練の申請時間終わってねえ。もう少し付き合ってけよ」
睨みつけると、爆豪は愉快そうに唇の端を持ち上げた。
「上等だわ。好きなだけぶん投げてやる」
背中がじわじわと痛い。
あれから申請時間いっぱいまで組手をして解散した。
宣言通り、本当にぶん投げられた。容赦という言葉を知らないに違いない。容赦されても腹が立つのだからいいが、この後何をすると思っているんだ、という若干の怒りもないことはない。
体操服から着替えて寮に戻れば、あっという間に夕食になった。
いつものメンバーでテーブルを囲む。緑谷がとなりに居て、向かいに飯田が居る。爆豪は少し遠いテーブルで切島たちと並んで座っているのも、見慣れた光景だ。
そちらを一瞥し、ムッと眉を寄せる。蕎麦をズルズルとすする。結局全戦全敗だ。人を投げ飛ばしておいて満足そうに笑う爆豪のことも腹立たしいが、あっさり投げ飛ばされてしまう自分のことはより腹立たしい。何が悪かったのだろうと、今日の立ち回りを反芻する。
表情険しく蕎麦をすすっていれば「轟くん」と恐る恐ると言った様子の緑谷に声を掛けられた。
顔を上げると、緑谷だけでなく飯田も様子を伺うようにこちらを見ていた。
「見るからに機嫌が悪そうだけど、何かあった?」
「良ければ話してくれないか。話すと解決することもあるだろう」
二つ分の純粋な善意にさらされて、ぐっと喉が詰まる。言い淀む。どう話すか、どこまで話すかが難しい話題なのだ。
だが友人たちの気遣いを無下にして、何でも無いと言うことも憚られる。悩んでいるとある程度推理をしていたのか、緑谷が「かっちゃんのこと?」とズバリと言い当ててきた。
「最近よく二人で特訓してるよね。そこで何かあった、とか?」
「ム、そうだったのか。轟くんと爆豪くんが特訓とは珍しいな。だが特訓するほど仲が良いのは良いことではないか? いや、機嫌が悪くなるようなことなら良くはないのか?」
「特訓っていうか、賭け、っつうか」
再び言い淀む。
嘘を吐きたくないが、素直に白状することも難しい。
何せ爆豪との手合わせで賭けているのは、セックスのポジションだ。
さすがに言えないだろ、と眉間にしわを刻んでいると「そんな不条理な賭けをしているのか?」と飯田に訊ねられた。声色からも視線からも、真摯に心配してくれていることが伝わってくる。心配してもらうようなことではないと、どうにか伝えなくてはと言葉を選ぶ。
「んなことはねぇ。ルールも個性使用禁止で、足の裏以外が床に着いたら負けっつー簡単なもんだし」
説明ができるのはここまでだ。
とてもではないが「勝った方が抱く。どちらの部屋でするかも勝った方が決める。勝負の結果に一切の異論は認めない。トレーニングルームの使用許可は、誘った方が取る。寝る支度を終えたら指定された方の部屋に集合。何らかの理由で日を跨ぐ時は再び勝負から」とまでは教えられない。
爆豪と恋人関係であることは、緑谷には話した。飯田にはまだ話していない。しかし話していても話していなくても、このような話を聞かせるのはどうかと思う。
「えっ!」と緑谷が声を上げた。驚きと困惑にまみれた表情をしている。言いたいことは分かる。
「どうしてんなルールにしたんだ、って思ってんだろ」
どう考えてもこのルールは、近接戦闘に慣れた爆豪に有利だ。
「あっごめん。でも同じルールで僕がかっちゃんとやったとして、勝率は良くて五分かなって思うよ。かっちゃんってそもそも体の使い方上手いし、反射も良いから。近接戦闘タイプじゃない轟くんがその条件で挑むって、結構厳しいんじゃないかな」
「そんな不利な条件で賭けをしているのかい? きちんと条件を見直した方が良いのではないだろうか」
「確かにそうなんだが、でもあの時頭に血が上ってて、殴り合いで決まるなら上等だと思って俺も条件飲んだから、爆豪だけが悪い訳じゃねえんだ」
話はそこそこさかのぼるのだが、付き合って順調に関係が進み、当然のようにセックスするか、という話になった時のことだ。
どちらが抱いて抱かれるかという最大の問題は、とてもではないが話し合いでは決められなかった。なら賭けで決めようということになった時点で、既に二人ともかなり頭に血が上っていた。じゃんけんだとかあみだくじだとか、そういう運勝負を爆豪は断固として飲まなかったし、ゲームの勝敗で決めるというのはゲームになじみの薄い自分には不利なため断った。
そうこうしている間に話し合いはヒートアップし、口論もいいところだった。どっちが先に手だか脚だかを出すか分からないという状況に追い込まれた時に、じゃあそれで決着を付けるかと爆豪が言い、二つ返事で条件を飲んだ。
「煽られたからって直ぐ喧嘩買っちまったらいけねえよな。気を付けねえと」
「そうだな、俺たちはヒーローを目指しているのだから、いつでも冷静でいなければ」
「ああ」
「それにしても、かっちゃん負ける気が一切ない条件だね」と緑谷が苦笑した。
「だろ、みみっちいよな」
冷静になった後に気付いたことだが、爆豪は自分が負ける可能性のある条件を徹底的に排除していた。賭けと言ったが初めから譲る気など一切なかったのだ。あのヤロウ、と思わないでもないが、了承をしたのもまた事実だ。二つ返事で頷く様に、上手く誘導された可能性もあるが。
「……ところで、何を賭けてるの?」
緑谷に尋ねられ、蕎麦を口に運ぼうとしていた手をピタリと止める。あ、と間抜けに開けた口をゆっくりと閉じる。「俺も気になる」という飯田の追撃に、視線を彷徨させる。
言えない。
とてもではないが言えない。
誤魔化すか、嘘を吐くか、どうするか。どれも嫌で苦渋の決断を強いられていると「あ、聞かない方が良いやつかな!」と緑谷が救いの手を差し伸べてくれた。
「悪ぃ……」
「ううん気にしないでよ。轟くんが嫌な思いをしているわけじゃなければいいんだ」
「そうだな、いくら友達でも言い辛いことはある。全て話さなければいけないわけでもない。男には男の勝負があるだろう」
その優しい気遣いに居たたまれなくなる。「ありがとう」と言葉をひねり出す。いつか話すとも、とても言えなかった。
ふと視線を上げると、離れた席で食事をしていた爆豪が立ち上がる様子が見えた。
食器の乗ったトレーを片付ける姿と目が合う。パチ、と赤い瞳と視線が絡むと、ベ、と舌を出された。そして一瞬にまりと笑って、何事もなかったかのように視線がほどける。
自分にしか見えなかったその一瞬のコンタクトに、ぶわりと背筋を熱が駆け上ってきた。
そうだこの後、風呂に入って、寝支度を整えたら、爆豪の部屋に行くのだ。
賭けの結果とはいえ、わざわざ抱かれる為に部屋を尋ねる。
何でもない顔をして四階に行って、ドアをノックして、部屋に招き入れられる。置かれたクッションを指差されて座って雑談から入るときもあれば、直ぐベッドに投げ込まれることもある。
そのあたりの主導権も全て、勝った方が持つ。負けた方が素直に言うことを聞くのがルールだ。それを不条理に感じたりはしていない。今更抱かれたくないとも言うつもりはない。
あれほど人を容赦なく投げ飛ばす癖に、触れる手は驚くほど丁寧だ。普段の振る舞いからは予想できない、傷一つ増やさないよう気遣う触れ方は、知らない一面を覗き見るようで、存外気分がいい。
だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
顔に上がってくる熱を逃がそうと、深々と息を吐く。ひとまず食事を終えて、それから風呂の時間までは共用スペースで寛いで気を紛らわせよう。そんなことを考えていると、真横から注がれる視線に気が付いた。
顔を横に向けると、なにかを察してしまったような表情をした緑谷が見えた。「まさか」という顔をしている。
目が合うと緑谷は慌てたように両手を振った。「何でもない!」と否定する姿を見ながら、ふと思いつく。
「そうだ、緑谷」
「ヒエッ! はい!」
「特訓に付き合ってくれねぇか」
「え、何?」
「何焦ってんだ……。爆豪と戦闘スタイルが一番近いの緑谷だろ。だから特訓に付き合ってもらいてぇ。駄目か」
「あっそういうこと? 良いよ、僕で良ければ幾らでも」
「それなら俺も混ぜてくれないか? 個性が使用できなくなった状況下を想定した訓練というものは、俺も積んでおきたい」
「なら三人でやろう」
賭けはともかく、良い訓練にはなるよね。と緑谷が言った。
セックスのポジションを決める賭けに友人たちを巻き込むことは些か申し訳なく思われたが、確かに特訓の内容としては悪いものではない。
様々棚に上げ、頷いて答えた。
*
『しばらくシねぇ』
そういう連絡を入れた時は、中々にもめた。
『ふざけんじゃねえぞ』という返信があったことも納得できる。
直接伝えたらややこしいことになると、既に経験で把握し始めていたので、スマホからメッセージを送った。だというのに、五階に上がってきた爆豪は殴り込みの様相だった。
部屋のドアを蹴られるも籠城していれば、瀬呂と砂藤が止めに入る始末だった。お付き合いというものはもう少し穏便に出来ないものだろうか。などと思いながら『殴り合いになりたくねぇから顔は出さねえ』とメッセージを返し、火に油を注いだことも既に懐かしい。
結局爆豪は納得などしなかったが、渋々譲歩するという形で収めてくれた。『投げられっぱなしは性に合わねえから特訓する』という言葉を聞き入れてくれた、のだと思う。
こちらとしては全く譲る気がなかったので、爆豪に仕方がないと言わせるしかなかったのだが。そのあたりをあまり考えずメッセージを送ったものだから「理由は分からないがツートップ大喧嘩」の知らせがA組中に回される羽目になった。
閃きで行動してはいけない時もあるななどと、怒りをギリギリ抑えながら「分かった」と縦に振る爆豪の顔を目の前にして思ったものだ。
あれから一か月経つ。
授業全てを終えた教室内は、さあ帰ろうという空気に包まれていた。爆豪も例に漏れず鞄を取り出していた。
その席の目の前に立つ。
「ア?」と顔を上げた爆豪の瞳と目が合う。まだ教室に残っていた他のクラスメイトが一瞬どよめいたが、気にしている場合ではない。
「トレーニングルーム押さえたから来い」
行くぞと顎で示すと、爆豪の眉間の皺が深くなった。ピリっと空気が張りつめたことが分かる。教室内の視線という視線がこちらを向いている。
その空気を霧散させるように、爆豪が呆れ切ったため息を吐いて立ち上がった。椅子がギイと音を立て床の上を滑る。
「急にも程があんだろうが」
吐き捨てると、鞄を掴むとさっさと教室を出ていってしまった。別の日にしろと言わなかったということは、了承したということだろう。
急いで後を追おうとすると「轟くん」と緑谷に呼び止められた。振り向いた先で、拳を握る緑谷が居た。
「リベンジ頑張って!」
「俺も応援しているぞ」と飯田も腕を縦に振った。
「勝ってくる」と頷き、教室を出た。
廊下を進む足取りは軽い。先に行った爆豪の姿はとっくに見えなくなってしまっていたが、トレーニングルーム併設の更衣室で先に着替えを済ませて待っていた。
「おせぇ」に「悪い」といつもの遣り取りをし、急いで着替える。二人して軽くストレッチをした後、定位置に向かった。
こういう時先を歩くのは爆豪だ。この背中を見るのも久し振りに感じる。たった一か月だが。
この一か月、喧嘩をしていた訳ではないのでそれなりに連絡も取りあっていたし、お互いの部屋を行き来もした。だがやはり前と比べると頻度は落ちていた。それを少しだけ寂しく感じていたと言ったら、都合がいいと怒られるだろうか。
だがそれはそれだ。
ふーっと深呼吸をし、構える。
先に仕掛けてくるのも毎回爆豪だ。
胸倉を掴もうとする腕を躱す。一番初めの時は、この後殴り返そうとした腕を取られて投げられた。あまりに呆気なかったのでいっそ清々しいほどだった。
あの時は頭に血が上っていた自分が悪いのだが、あれだけ怒りに全身を任せています、といった表情をしていても、頭のどこかはきちんと冷静な爆豪のことを心底凄いと思った。ぶん投げた相手のことを見下ろしながら、ハッと笑った顔を見たら、なんでもいいかと思ってしまったのもまた事実だ。
だからといって、負けっぱなしで良い訳がない。
一か月の特訓の成果は上々だ。緑谷と飯田とみっちり特訓を重ねたおかげで、前よりも対処が出来る。腕を掴まれた時は内に捻って逃れ、その流れのまま逆に掴み返そうと指を伸ばす。だが流石に爆豪だ。そう易々と掴ませてくれない。掴むことは諦めて腕を振り抜く。当然のように避けた爆豪が一歩飛び退いた。
呼吸を整えるように息を吐くと、闘争本能に濡れた赤い瞳に睨みつけられた。ぞわっと背筋を悪寒が駆け上がる。とっさに体を捻ったため、大きく一歩踏み込んできた爆豪の指先からは逃れることができた。
個性使用無しのため、爆豪の体が温まってきても大きくスピードが上がることはない。だが上がらないわけではない。どんどん戦うことにのみ意識が集約されていき、動きの精度が上がっていく。爆豪相手に持久戦を挑むのは愚策だ。それは変わらない。一瞬でも集中が切れたらそこで終わりだ。
「ちょこまかと腹立つなァ!」と爆豪が唸った。「どっかのクソ野郎を思いだすから余計腹立つんだわ!」
この最中に良く喋る余裕があるなと感心してしまう。こちらは呼吸一つ乱せないというのに。
一か月特訓したと言えども、やはり爆豪に分がある。それに日々の鍛錬を怠らない男だ。一か月と言う時間は双方に流れている。当然爆豪も前より動きの切れがいい。それでも、諦めて負けて良い理由にはならないが。
会話を仕掛けてくることが、余裕なのか揺さぶりなのか分からない。伸びてくる指先と、容赦なく振り抜かれる拳を捌きながら、隙を伺う。返事をしないことに痺れを切らしたのか、爆豪が猛攻の合間に舌打ちをした。
「ンなに俺のこと抱きてえんか」
一か月も特訓して、と他には聞こえないような声量で言われた。
「アァ?」と声が出たのは、反射だった。
もう既に考えているとか、考えていないとか、そういう次元には居なかった。ただただ、目の前のコイツに勝ちたいばかりだった。
「好きだから勝ちてぇに決まってんだろ!」
馬鹿にしやがって! と言う気持ちで叫んだ言葉に、爆豪が怯んだ。一瞬動きが止まった。その隙目掛けて手を伸ばす。指先が今日初めて、爆豪の胸倉に届いた。
ぐっと握り、思い切り投げる。
だが爆豪が我に返るのも早かった。それでも投げたし、両足は宙に浮いた。だから、そこから立て直すのか、と驚くことしか出来ない。浮いてしまえば仰向けに落とされるしかなかった自分とは違う。
「うそだろ」と唇の隙間から言葉が滑り出た。
確かに投げる途中で我に返って体を捻った爆豪を、綺麗には投げ飛ばせなかった。それにしてもだ。両足で着地するのかよ、と少し離れた場所に膝を曲げて降りた爆豪の姿を見ていた。
「テメェ!」と爆豪が睨み上げてくる。かと思えば「あ」と間抜けな声を出した。この後どうするか考えを巡らせていた頭の中身が、途端に緩む。そして爆豪が急に下げた視線の先を追いかける。
爆豪の右手が、床に着いていた。
「あ」と先ほどの爆豪と同じ声を出す。
個性使用なし、足の裏以外が付いたら負け。
と、いうのがこの賭けのルールだ。
「俺の勝ち……だ?」
突如訪れた決着に言葉があいまいになる。
不機嫌を全身から溢れ出させながら、爆豪が盛大に舌打ちした。ならばやはり、勝ちということになる。体から力が抜ける。詰めていた息を、ほっと吐きだす。
「爆豪みたいに完全勝利、って感じじゃねえけど」
「…………ンな簡単に投げられてたまるかよ」
この世の屈辱全てを煮詰めて口に詰め込まれたかのような表情で爆豪が唸った。そんなに負けたのが悔しいのか、といっそ不安になるほどだ。勝った、という達成感が曖昧なだけに。
「賭けは賭けだからな」
のそりと立ち上がると一瞥された。この世の屈辱はどうにか喉の奥に下げたようだ。十分不服そうではあるが、自分で決めたルールを曲げるようなことはしたくないといった様子だ。ムスリとした表情でポケットに両手を押し込む。
「で、どっちの部屋だ」
「あ、爆豪の部屋行く」
「……分かった」
じゃあな、と言って爆豪はさっさとトレーニングルームを出ていってしまった。
今日は流石に呼び止められなかった。
いつも通り夕食を済ませ、少しのんびりし、風呂に入り寝支度を整え、エレベーターで四階のボタンを押した。一か月振りとなると少し緊張するものだ。
爆豪の部屋の前で深呼吸をし、ノックする。
「開けたる」と短い返事があった。
ドアノブに手をかけると、言葉通り鍵が開いていた。「お邪魔します」と声を掛け、部屋の中に入る。ドアを閉めた後、一応鍵を掛けた。
爆豪はベッドの上にいた。胡坐をかいて神妙な顔をしている。精神統一でもしていたのかと疑うほどだ。
「入って良いのか?」と思わず尋ねると「入ってんだろうが」と返された。
いつもとあまりに違う雰囲気に、恐る恐る足を進める。床に置かれたクッションに座るべきだろうかと一瞬考えるが、今日はそういうことをしに来ているんだしな、とベッドの方へ寄る。
爆豪は全く動かない。胡坐をかいて、その上に両手を乗せて、読み辛い表情をしてこちらを見ている。細めた目に、じとりと見つめられる。いつもならばニヤニヤ笑われてこちらが腹を立てているくらいの状況なので、気味悪く感じすらする。
ベッドの縁に腰を下ろし、首を竦める。
「どうしたんだ爆豪、一か月振りだから緊張してんのか?」
「テメェは三日振りの時でも緊張した顔しとったわ」
「ム、してねえ」
唇を尖らせて反論すると、ようやく爆豪が表情を緩ませた。
はーっと盛大に息を吐き出すと背中を丸め、膝の上で頬杖を付いた。何か踏ん切りがついた様子だ。
「次は負けねェ。そもそも普通にやりゃ俺が勝つ」
「やっぱ爆豪、自分が負けない条件にしたよな」
「それで飲んだのはお前だろ」
「そこは今更とやかく言わねえが……」
みみっちいな、とはやはり思う。だが一周回ってそういうところ可愛いよなと思ってしまう。爆豪との付き合い方は、ちょっと分かってきた。
「つか、テメーが急に好きだとか抜かすから油断しただけだわ。今まで一回も言ったことねえくせに。ズリィだろ」
「お、言ったことなかったか?」
「ねえよ」
そうだったかと記憶を手繰る。じとりと爆豪の瞳が見つめてくる。
よく思い出してみれば、確かに無いかもしれない。爆豪ですら最初の数回しか好きだと言っていない。それに頷いて答えるばかりだった。それは申し訳なかった。
「悪ィ、好きだぞ」
爆豪のこと。と言うと、爆豪は片手で顔を覆って俯いてしまった。丸めた背中の下から、今日何度目か分からない盛大な溜息が漏れ聞こえてきた。
そしてがばりと体を起こすと、思い切り睨まれた。思わず仰け反る。
「賭けは、賭けだ。二言はねえ、好きにしろ」
そう言って大きく両腕が広げられた。全くもって顔と言葉と行動がちぐはぐだ。
何をしに来たのか忘れてしまいそうになっていたが、セックスをしに来たのだった。
体の向きを変え、ベッドの上にのそのそと上がる。こんな風に待ち構えられていると恥ずかしいなと思いながら、膝に乗り広げた腕の真ん中に体を預け、肩に額を押し付ける。
ぴたりとくっついていると「ア?」と怪訝そうな声が直ぐそばで聞こえた。腕は広げられたままだ。戻し方を忘れたのかと疑う。
もしかしてこういうことではなかったのか、と一度体を起こす。膝に乗ったまま、爆豪を見下ろす。凄く眉間にしわが寄っている。そろそろ鉛筆でも挟めるのではないかと、失礼なことを考えた。
「テメェ、勝って、俺のこと抱きてえんじゃなかったのかよ」
「あ」
「アァ?」
「勝つことしか考えてなかった」
いつの間に忘れていたんだっけと首を傾げる。そもそも抱きたいのだったか、と反対側に首を傾けながら考える。
腕を組む。顎に手を当てる。その間爆豪はずっと、どこか呆れを含んだ目でこちらを睨んでいた。
初めは確かに、どうして無条件に抱かれる側に回されなければならないのか、と思っていた。しかし思い切り投げ飛ばされて、まあいいかと思った。それで爆豪は嬉しそうだし楽しそうだし、機嫌は大層良く、触れる指は優しいし、案外悪くないなと思ったほどだ。
だがしかし、投げ飛ばされることが不満だった。負けたくない。勝ちたい。好きだから、尚更勝ちたい。負けて置いていかれたくない。並び立ちたい。戦闘スタイル云々はあれど、やはりそれで無条件に負けたっていいことにはならない。
さて、どうしたものか。
抱いていいと言われても、全くその心構えをしていなかった。抱く側も結構大変だということは、抱かれているので身を持ってい知っている。
視線を泳がせる。相変わらず爆豪は表情険しくこちらを睨んでいる。
「せっかく爆豪が約束守ってくれてんのに悪ィんだが……抱かれてぇ。ダメか?」
この男に好きにしろとまで言わせた手前、申し訳ないのだがと首を竦めて伺う。
表情を一変させた爆豪が、あ、と大きく口を開くのが見えた。
「ンの野郎!」という声が耳にキンと響いた。