一月三日、蕎麦

(爆轟)

 

 

「ただいま」という声が二人分重なった。
 ドアが閉まる音。鍵を閉める音。靴を脱ぐ音。食材いっぱいのビニール袋がこすれる音。「さみぃ」と吐き出された白い息。
 誰も居なかった部屋の中は冷たい。首を竦めればスヌードに顎が埋まる。一歩先に部屋の中に上がった轟が、暖房の電源を入れる。電子音が聞えてエアコンが動き出す。「あれ、あれ買おう爆豪。外から電源入れられるやつ」とスリッパで歩き回る声が聞える。「あー、見に行くか」と遅れてスリッパに爪先を押し込んだ。
 キッチンにビニール袋を持っていくと、一度テーブルの上に置く。直ぐ使う物だけ選り分けてしまいたい。轟が持っていた日用品の袋はと部屋の中を見回すと、リビングのソファ横に落ちていた。当のあいつは何処に行ったのかと思えば、浴室から現れた。遠くから水音が聞こえるので、風呂を沸かしに行ったのだろう。だよな、先に風呂に入りたいよな。と冬の冷気で冷え切った且つ、仕事帰りで少しだけ埃っぽい体のことを思った。
 仕事納めなどないまま、大晦日を超え、三が日の出動を終えた一月三日の夜。
 今日から二人は、ようやくの三連休だ。
 休みを合わせようとしたら、とんだハードスケジュールになってしまったものだ。クリスマスと年末年始を短期間に盛り込んだ、過去の人物のことを些か恨めしく思う。
 年越し蕎麦もおせち料理もないまま新年は始まり、世間はあっという間にいつもの日常に戻ろうとしている。
 轟がスリッパで足音を立てながら近付いてきた。飯のことを考えている顔をしている。二色の瞳が食材の詰まったビニール袋に向いていた。飯を作ってやるのも四日振りなのだから、きっと期待しているのだろう。そう思うと、悪い気分ではない。
 急速暖房のおかげで部屋が少し温まってきた。スヌードを脱ぎ、椅子の背に掛ける。手袋を外す途中、轟の興味が食材からこちらに移っていることに気が付いた。二色の瞳が爆豪の手元を見ている。
 手袋を外した手を、見ている。
「なんだ」と問い掛けると、轟は顔を動かさないまま「爆豪はいいよな」と呟いた。
「ずっと手袋だから、付けっぱで」
 そう言う視線は左手に向けられている。
 左手の、薬指。そこに銀色に光る指輪がはまっている。
 なるほどなと手を上げると、視線が追いかけて来た。顔の高さまで上げると、指輪越しに轟と目が合う。可愛いことを言うものだと笑うと、轟は考えるように首を捻った。
「俺もコス改良するか?」
「やめとけ、今更変に変えても勘が鈍ンぞ」
「だよな」
 聞き分け良く頷いて、轟の視線が外れた。本気でそう考えていたわけではないのだろう。ただの戯言だ。
 そのまま轟は両手を上げると首の後ろに回した。もぞもぞと指先を動かしている。ネックレスの金具が外れないのだろう。付けたり外したりする機会が少ないものだから、未だに慣れないらしい。「こっち向け」と声を掛けると「お、外れた」とほんの少し楽しそうに声が跳ねた。
 金属がこすれ軽やかな音を立てる。轟がチェーンの端と端を摘まめば、通された指輪がチャリンと鳴った。
 そしてそれを、こちらに向けて突き出してくる。
「ん」と一言だけ、言葉ですらない音で促してくる。
「どうして毎回やらせんだよ」
 呆れながらも掌を上に向けて差し出せば、そこに指輪が落とされた。
「いいだろ」と嬉しそうな声がする。
 緩んだ視線で指輪を眺め、左手が差し出される。これで毎回絆されてしまうのだから、我ながらちょろいものだ。
 その手を取り、薬指に指輪を押し込む。
 轟は普段、爆豪と揃いの指輪を首に下げている。ヒーロースーツを着てしまえば手が隠れるため、嵌めたままにしている爆豪とは違う。
 この関係を事務所や親しい友人は知っているが、まだ世間に公表はしていない。きっと轟は面倒臭いから隠していると思っているのだろうが、爆豪としては時期を見計らっているだけだ。まだ少し早いと思う。年齢や、実績が足りない。追及されているほど暇でもないため面倒臭い、というのも確かにあるが。
 だから轟は連休の時だけ、指輪を嵌める。
 それを毎回、爆豪にやらせる。
 正直未だに少し、照れくさい。好きな奴の薬指に自分の贈った指輪を嵌める、という一大イベントが、まさか恒例行事になると思わなかった。毎回プロポーズしているような気になるというと流石に大げさだが、それに近しい気持ちが沸き上がる。
 こいつは恥ずかしくないのかと、指輪から視線を上げる。そこに満足そうに笑う轟の顔があっては、様々どうでもよくなってしまう。
 これも毎度のことだ。反射的に顔をしかめる。どうしたって照れくさい。それでもこの顔を見ると、指輪を贈ってよかったし、こうも満足そうに笑うようになってよかったと思う。
 今はこうして、促されて渋々という体でやっているが、そのうちこちらから手を出すようになってしまうのかもしれない。「連休だろ指輪嵌めるだろ」と先に言ってしまう日は、来てしまう気がする。近いか遠いかは分からないが、いつか、来るのだろう。
 手を放し、恨めしく轟の顔を眺める。轟は指輪の嵌った手を掲げて嬉しそうに笑っていた。やっぱり指に嵌っていると実感が違うと、前に聞いた。またそういうことを考えているのだろう。恥ずかしい奴だ。
 轟の視線が、こちらを向いた。それはもう嬉しそうな顔をして。
「ありがとな」と目元を優しく緩ませられては、堪らなくなってしまう。
 離したばかりの手を掴み引き寄せる。勢いでぶつかってきた体を抱きとめて、唇に噛みついた。
 普段ならチェーンの感触がある首裏に手を回し、何もないそこを撫でる。距離など無くなるように掌を押し付ければ、触れたままの唇が笑った。ふくく、と笑い声が漏れてきて、首に腕が回される。この反応は少し可愛くない。眉を寄せるも、誘うように唇が開かれれば、その考えは後回しになる。
 舌を擦り合わせ、唾液を絡ませ、吸い付いてリップ音を立てる。何日振りかの触れ合いに夢中になっていると、首裏に掌が擦りつけられた。首の骨に指輪がガリガリと引っかかる。上顎を舌先で擦ると「ん」と鼻にかかった声が漏れ聞こえてくるが、それがどうにも楽しそうな色をしていた。コイツわざとだなと判断し、腰に回した手をセーターの裾から潜り込ませる。
 温かい肌に触れると、轟がビクリと跳ねた。手が冷たいから当然だ。逃れようと捻る体を抑え込む。仕返しのように、指輪の感触が伝わるように、薬指を背骨に擦り付ける。
「、ッ……冷てェ!」
 顔を逸らした轟に、体を押し返された。抱き込もうとする力と離そうとする力で、暫しの攻防を繰り広げる。そうしていれば、温かな轟の背に押し付けていた手がじわりと温まってくる。脇腹に手を滑らせくすぐれば、艶っぽい笑い声に耳をくすぐられた。唾液に濡れた唇にもう一度吸い付く。
「轟が温めてくれんだろ」とけらけら笑って首筋に口付けると「そうしてやりてぇのは山々なんだがなあ」と轟の声も笑った。
「腹減ってんだよな」
「同感だわ」
 ぐう、と轟の腹の音が聞こえてくる。同じ音が自分の腹からも聞こえてきそうだ。名残惜しくはあるがもう一度だけキスをして、抱きしめていたの体を放す。そうすればテーブルの上に置いたままの食材の袋が目に入る。
「ゆっくりシてえし、やっぱり先に飯だよな」
「ンの前に風呂だな。二人でちゃっちゃと入って飯作んぞ」
「一緒に風呂入ってナニもなく出れるか?」
「出ンだよ。今日は仕込んでる間に風呂入るとか出来ねえからな」
「そうだよな、年越し蕎麦食うんだもんな」
「年越してるけどな」
「なら年明け蕎麦か?」
 なんだそれ、と鼻で笑う。「テメェが年越し蕎麦食べ損ねたとか駄々こねるから蕎麦なだけだろ」とビニール袋の中身を取り出す。
 食材を冷蔵庫に入れながら、直ぐ使う物を選り分ける。つまみ用はどうするかと、一度悩む。年末に貰った美味そうな日本酒があるが、飲んでいる暇はなさそうだ。明日にするかと合わせて冷蔵庫に押し込む。
「あ」と轟が戸棚から蕎麦を茹でる用の鍋を取り出しながら声を出した。
 何事かと振り向けば、二色の瞳がこちらを見ていた。「爆豪」と名前を呼ばれる。
「去年も一年有難う。今年もよろしくな」
「……たりめーだわ」
 どうにも照れくさく「こちらこそ」とは今年も言えないままだ。