献身の君

(ファーベリ/夢破れてやる気を失ってるファーさんと健気受け)

 

 

 

 シャクリという瑞々しい音を立て、ベリアルがサンドイッチを噛んだ。向かいに座るその男は、青々とした野菜がたっぷり挟まったサンドイッチを食べている。
 ルシファーはそれを眺めながら、カツレツが挟まれたサンドイッチを食べていた。
 二人は今、小さくも大きくもない、なんの変哲もない島に居る。
 面積の割に人は少ない。過疎化が進んでいるのかもしれない。定期船がやってくるのは四日に一回。気候は安定している。日光を栄養を存分に受けた農作物は大きく育ち、家畜もまるまると肥え太っていた。
 驚きも発見もない、安穏として息苦しく平和な生涯を送るには、最適な島に思える。
 宿屋は島に一軒しかない。宿屋と言うよりは地主の道楽だ。農作物を育てても、家畜を放牧しても、それでも土地が余っていたから宿を作った、そういう施設だ。
 当然利用者は少ないらしい。今宿泊しているのは二人だけだと教えられた。宿屋のテラス席で、サンドイッチを食べている、自分たち二人だけ。
 パンの材料以外はここで採れたものを使っているとも言っていた。食材も、食べる人間より多く作られる。余った分は四日に一度の定期便で出荷している。
 そういう話を地主がしていた。客人は少ないのだろう。饒舌だった年老いた男の姿を思い出す。
 何の面白みもない島だ。
 外へと視線を向ければ、広がる牧草地が見える。空は青く遠く穏やかで、その下を家畜が緩慢な動きで歩いている。
 カツサンドを齧り、添えられた紅茶を飲む。茶葉も島で採れた物だと言っていた。だからどうしたのだ、という話だが。
「次はどの島に行こうか」
 なあファーさん。とベリアルが口を開いた。
 行儀悪く、サンドイッチを片手に観光案内本を広げている。ぺらりぺらりとページがめくられる。その本は前の島を発つ際に手に入れていた。
 この島に次の定期便が来るのは明後日。初日はこの宿を探して終わり、昨日は島を意味もなく散歩して終えた。収穫は特にない。何を求めているわけでもないからだ。
 思い出したようにその本を取り出したということは、次の定期便に乗るのだろう。確かにこの島に八日も留まる理由は思いつかない。かといって行きたい場所があるわけではない。
 なんの相槌も打たずに済ませれば、ベリアルは勝手に話を続ける。
「アウギュステのビーチもいつかは行きたいところだが、俺たちは目立つからな。特にファーさんは隠し切れない。そんな美人が歩いていちゃあ、誰だって振り返っちまう」
 ああそうかい、と返事にも満たない瞬きを返す。ベリアルも反応があるとは思っていないのだろう。サンドイッチを口に運び、考えるように本を捲っている。
 食事を終えると脚を組み、再び外へ視線を向けた。先ほどからまるで代わり映えしない。精巧な絵画を飾っていると言われたら、信じてしまいそうだ。
「そうだ、山にしようぜファーさん。綺麗な川の流れている山。コテージが付いているといいな。そういう島がどっかになかったか。それか祭りにでも行こう。人が多くて賑やかければ、俺たちのことをわざわざ気にする奴も居ないだろう。どうだい」
「なんでもいい」
 本日初めての言葉を発すると、ベリアルは頬杖を付いた。皿の上は空になっている。
「なんでもいい以外の返事をもらったことがないが、本当にいいのか」
「ああ。したいこともない」
 何もない。だからなんでもいい。どうだっていい。
 今更なにがあるというのか。
 緩やかに瞬きをし、視線をベリアルへと滑らせる。
 茶色の癖毛で、赤い瞳をした男が居る。
 この男の献身により、ルシファーは体を取り戻した。細切れになって眠っていた意識は、体に引っ張られるように浮上した。だが世界は滅ばず、手駒も尽き、安穏とした日々が続いている。
 つまり敗北したのだ。特異点に。
 数千年に及ぶ緻密な呪詛は、そこで不意に途切れてしまった。
 己の死すら計画の一部として組み込み、世界の滅亡を計算し願ったというのに、何もかもがどうでもよくなった。野望の阻止をもって、ぽきりと心が折れた。全てどうでもいい。数千年前のあの情熱も沸いてこない。ここから再び世界を滅ぼすなど、それほど面倒なことをしたくない。する術もないのだが。
 全て失ったあの時に死んだって良かった。だが不思議とまだ命や意識はここにとどまっており、何故かベリアルがそばに居る。
 向かいに座る男を見る。
「お前が決めろ」と呆れて吐き捨てれば「オーケー」と肩を竦めて返された。
 ぺらりぺらりと本を捲る男を、改めて眺める。ルシファーの記憶と比べ素体に変化はないが、どうにも様子が異なる。
 挑発的に衣服を着崩していたと記憶しているが、今のベリアルは違う。茶色いタートルネックで首元まで隠し、その上に黒いカーディガンを羽織っている。首にはシンプルなシルバーのネックレスが一本。ボトムは体に沿ったジーンズだが、それだけだ。本を捲る手元には何かの名残の様に幅の広い指輪が一つ、右手の中指にはめられている。
 総じて落ち着いた見た目なのだ。禁欲的ですらある。
 思い起こせば、このところずっと似たような恰好をしている。生まれてこの方、露出と無縁であるかのような装いだ。特に気にしても居なかったが、ずっとこうだと気付いてしまう。ほんの少しだけ、気にはなる。
「そんな恰好だったか」
 お前、と声を掛けるとベリアルが顔を上げた。「これかい」とタートルネックの首元を引っ張った。
「お前を作ってこの方、そのような格好をしているところを見たことがない」
「俺はもう狡知の堕天司ではないからなあ」
 ああいう姿でいる必要がないんだ。とベリアルは目を細めた。
 確かにベリアルが狡知を司る理由はもうない。ルシファーがそうあれと造ったからに他ならず、そのルシファーはもう彼にその役割を求めていない。堕天司は天司とそもそもの役割が違う。
 造った理由が喪失したにもかかわらず、こいつは何をしているのだろう。命令もないのだから何処かへ行ってしまえば良いものを。呆れた目で見ていれば、ベリアルは再び本へと視線を落とした。そして暫くして「あったあった」と声を跳ねさせ顔を上げた。
「次はここに行こう、なあファーさん」
 観光案内のとあるページを向けられる。何処だってどうだってよかったので「分かった」とだけ答えた。ベリアルは意に介さず「なら船の乗り継ぎを調べよう」と楽しそうに椅子を引き、宿の中へと戻っていった。

 

 

「さあ行こう」と手を掴まれ歩き出す。
 少ない旅の荷物の全てはベリアルが担いでおり、ルシファーの手には何もない。何もない手を掴まれている。むしろ己が荷物の一つのようだ、などと考える。昔なら呆れて手を振りほどいていたかもしれない。だがやはりどうでもよく、されるがままになっていた。
 今回訪れたのは、樹木の生い茂る島だ。山があって川があってコテージがあるそうだ。雰囲気は少しだけ、ルーマシー群島に似ている。あそこよりは観光地として開拓されていた。石畳が敷かれ、案内の看板があちらこちらに見受けられる。
 うっそうと茂る木々で道は昼間でもほの暗い。それを補うように歩道の脇には光るキノコが植えられていた。見覚えのない品種だ。改良されたものだろうかと、わずかな好奇心が沸き上がったが、手に取るほどではない。靴裏が石畳を踏む音は、草木に吸い込まれる。
 同じように道を進んでいる、観光客と思しき人間がちらほらいる。家族連れや恋人同士だろうか。どれも人の群れだ。その割には静かなものだ。この島がそういう場所なのかもしれない。静かに穏やかな時間を、水入らずで過ごすための場所。
 その中で二人は随分と浮いているように思われた。時折すれ違う人間の視線が向けられる。男同士で手を繋いで歩いているからなのか、面倒臭そうにする男を意気揚々と引きずっていく男という取り合わせが可笑しいのか。だが知らぬ視線にいくら晒されようが大したことではない。こちらの素性を知らぬ相手ならそれでいい。
 一応二人は、世界滅亡を企み様々な悪行を働いた大罪人であり、逃避行をしている身だ。
 敗北してやる気をなくして自暴自棄になっているからといって、何かが許されるわけではない。献身を以て一部から許されようとしているあの雛とも違う。ただ投げ出しただけだ。
 見知った顔があれば、追いかけてくるやもしれない。償いをと迫られるかもしれない。だが何もする気がないのだから、当然償う気もない。
「ファーさん、疲れたかい。何か飲むか、それとも飯にしようか」
「構わん」
 気遣いを見せるベリアルをあしらう。実際疲れても腹が減ってもいない。
「ならもう少し進もう」とベリアルの視線が道の先を示した。「あと少し行くと、受付があるんだ」
 何のだとは問わなかったが、きっとコテージのだろう。
 未だ手は離されない。
 木々に囲まえた道を抜けると、広場に出た。森の中にぽっかりと広がる空間に建物が並んでいる。ここは日当りも良く明るい。人の姿も多くみられる。
 ふと手が離されたかと思うと、ベリアルがどこかへ歩いて行った。ぽつりと取り残される。突っ立っていれば程なくして、カップを持ったベリアルが戻ってきた。
「葡萄ジュース。名産らしい」
 はい、と手渡され素直に受け取る。葡萄かと赤く揺れる液体を眺め鼻で笑う。一つしか買ってこなかったということは、こいつは喉が渇いたりはしていないのか。じとりと見上げると、当たりを見回していたベリアルが気付いてこちらを向いた。瞳の赤は葡萄にも似ているな、などと思った。
「宿をとってくるから、ファーさんは少し待っていてくれ。あっちにベンチがある」
 指先が木陰のベンチを示したかと思えば、ベリアルは立ち去って行った。連れて行けばいいだろう、なんと不合理なのかと考える。呆れた気持ちで指定のベンチへと行き、空いた席へ腰を下ろすと「ふう」と息が漏れた。
 葡萄ジュースに口を付けると、喉の潤う感覚があった。自覚よりも体は疲れており、喉が乾いていたことを知る。元々肉体派ではない。ベリアルと比較すれば、枝のように細い脚や腕だ。
 呆れた気分だ。
 ジュースを飲み干し空になったカップを手に、何もしないでいれば景色が目に入る。宿の受付に加え、食事処や土産物屋が並んでいる。この広場を拠点に観光を楽しむことになるのだろう。
 飽きて歩く人の数を数えていると、ベリアルが戻ってきた。
「宿が取れたぜ」と鍵を見せられる。「もう少し歩くが、平気かい。おぶってもいいぜ」と笑う声をよそに立ち上がる。
「いらん」と答えると、手の中から空のカップが奪い取られた。ベリアルがそれを近くの屑籠に投げ込むと、再び並んで歩き始める。

 

 男の献身はなおも続く。
 コテージに着くと荷物を下ろし部屋の中を確認するベリアルをよそに、ソファに体を預けた。あの広場からの距離は大したものではなかったが、坂が急だった。
 じんわりと積もった疲労に体を任せる。うっすらと目を閉じると、遠くから水の音が聞こえてきた。山に川にコテージと言っていた、川の部分だろう。近くを流れているのか。きっと明日にでも見に行こうと言い出すのだろう。
「ファーさん、今日はどうする。シャワーで済ませるかい、風呂溜めようか?」
「風呂」
「オーケー」
 答えてそのまま目を閉じ暫く過ごしていれば「沸いたぜ」と声が掛けられた。着替えとタオルの用意された脱衣所に行き、風呂に入る。丁度いい温度の湯に浸かる。
 風呂に入ることを覚えたのは、復活してからだ。昔はだらだらと湯につかる習慣などなかった。覚えてしまえば悪いものでもない。体が温まったところで上がる。
 着替えて部屋に戻れば食事が用意されていた。
「またサンドイッチで悪いな」とベリアルが言った。
「なんでもいい」と答えながら、テーブルに付く。
 サンドイッチのほかに、湯気の立ち上るスープもあった。
「予想よりしっかりしたキッチンがあったから、明日はもう少し美味い食事が用意できそうだ」そうベリアルが笑う。
 これを献身と言わずに何というのだろうか。
 飯を食べて、夜になれば別々のベッドで眠る。
 眠る前に額に口付けられ「おやすみファーさん」とささやかれるが、それだけだ。他に何もなく、一人でベッドに横たわる。
 宿を取る時ベリアルはいつも、ベッドが二つある部屋を選ぶ。些か不思議に思ってはいたが、追求したことはない。だが何がしたいのかと思わないでもない。
 眠れず夜中に目を開けていれば、すうすうと静かに寝息を立てるベリアルの影が見える。
 あのような存在だっただろうか。
 それでも眠れず体を起こせば、気付いたように起き上がってくる。「眠れないなら飲み物でも淹れようか」とホットミルクを淹れられたこともあれば「少し体を動かそうか」と散歩に連れ出されることもあった。
 ファーさん。
 ファーさん。と声が呼ぶ。
 狡知をどこに捨てて来たのかと思う程の、穏やかな声で。
 情欲を匂わせ他を翻弄することが上手かった存在が、雪山で見る朝焼けのような色で囁く。天司というものは役割に殉じる存在で、肉欲からは縁遠く、あの手の類の嫌がらせは良く効いた。生き物は別の意味でそれに対して弱い。それらが必要なくなったのだから、匂わせることも不要だというのならば、そうかもしれない。
 だが興味がない。もうどうだっていいことだ。ベリアルすら既に手駒でもない。
 どうしてベリアルの言うままに行動を共にしているかといえば、することがないからという一点に尽きる。やりたいことはない。ならやりたいことがあるやつに流される方が楽だ。
 連れまわされる日々は良くも悪くもないが、全て託してしまう現状を、ペットのようだなと思ったことはある。だが不愉快にも思わないのだから、どうしようもないのだ。
 それでもある日ふと、言葉が口を突いて出た。ついに興味が沸いたのかもしれない。それが喜ばしいことなのかどうかは分からない。
「どうして俺のところにいるんだ」
 コテージで数十日を過ごした日のことだった。
 散歩にも飽き、部屋の中で無為に過ごすことが増えてきた日の、夜のことだった。
 何処からか葡萄酒を調達してきたベリアルが、コルクの栓を抜いていた。ポンと音がする。他には何の変哲もない日だった。
「ファーさんからの質問なんて、珍しいな」とベリアルが笑った。
 グラスに注がれた赤い酒が差し出される。受け取り口に運ぶ。少し渋みが強い。テーブルの上に置かれていたチーズに手を伸ばす。
「お前の望むようなことももうしない。全て諦めたからな。俺のそばに居たところで、何も面白くないだろ」
「つれないこと言うなよ、なあファーさん」
「それに抱いてもやれん」
 勃たないと言うのは承知のことだろう。
 元より不要な機能だ。不能をどうとも思わないが、天司の中で群を抜いて姦淫に興味を示す男にとってはつまらない限りだろう。
 ベリアルは向かいの席に着くと、葡萄酒の色を楽しむようにグラスの中で揺らした。すんと匂いを嗅ぎ口に含むと、見せつける様に嚥下した。喉仏が上下する。赤い瞳が挑発的に夜の空気の中で光る。久々に見た姿だ。懐かしいとすら思う。指先がなまめかしく、グラスを置く。
 咽そうなほどの色気を振りまいた後、ベリアルはパッと手を広げた。今までのことが嘘のように、すっかり見慣れた献身の姿に替わる。
「俺はアンタのそばに居たいだけさ。それこそ、雛が親を思うよりも、ずっと」
 喉を鳴らして笑う姿に「物好きだな」としか言いようがない。
「そう作ったのはファーさんだろう」
 そうだっただろうか。そのような無駄な機能を付けただろうか。己を一途に思う献身的な君になど仕立てだろうか。覚えがない。
 酒を煽ると、ベリアルがボトルを持ち上げる。空になったグラスが再び満たされる。
「そりゃあ、ファーさんとセックスはしたい」
「したいのか」
「でも勃たないだろ?」
「お前が入れたいなら入れてもいい」
「そいつは違う」
 違うのか。全く分かっていないと言いたげな顔で呆れられる。分かるかと眉を吊り上げる。
 感情を顔に出すことも、随分久しぶりだ。「その不機嫌そうな顔、久しぶりだ」と機嫌を良くした声が転がる。
 ボトルを奪い取り、お前も飲めと言わんばかりにグラスに注ぐ。溢れそうになると慌てた手にボトルを奪い返された。それでも顔に満ちた笑みはまるで減らず、空気を緩ませている。互いに酒が回っているわけではない。酒ごときでこうなるのなら、もっと世界は生きやすかっただろう。
 葡萄酒で唇を濡らしたベリアルが「ああでも」と頬杖を付いた。
「キスはしたい」
「……そんな奴だったか、お前は」
 あまりに稚拙な要求に呆れてしまう。
 溜息を吐けば「ファーさんが作ったんだぜ」と指が伸びてきた。頬に触れる。
「好きにしろ」
 答えると、向かいの男は目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 そこで驚くのかと、少しばかり腹が立った。