(爆轟/2019誕生日)
「片付けまで手伝ってもらっちゃって」
いつもごめんね、と冬美に苦笑されることにもすっかり慣れた冬の日のことだ。轟家の広い台所に二人で並び、洗い物をする。
「大したことじゃないんで」
そっけなく、こそばゆく、落ち着かない気分になりながら返事をする。このやり取りには、未だ慣れられずにいた。
一月十一日を轟家で過ごすこと五度目。
料理に疎い轟家男子を台所から閉め出し、冬美と二人で料理をし、片付けまでこなす。いつの間にか出来上がった、いつもの流れ。これはとっくに五度目を過ぎた。
あの親子は二人きりで、居間に取り残されている。
最初こそ不安に思っていたが、今はもう気に留めるほどのことでもなくなっている。親子仲が極めて良好になっただとか、そういう訳ではない。ただ二人で放置しておくことに慣れた、というだけだ。
その片割れ、本日の主役であるところの轟焦凍は今、ほろ酔い気分でこたつに入っていることだろう。
起きていればスマホにひっきりなしに届く誕生日祝いのメッセージに返信をしているかもしれない。ピコピコピコピコうるせぇなあ、と思う程だが、本人はゆるゆると笑って一つ一つ、丁寧なのかそっけないのか分からない返事を送っていた。あの顔を見ていると、まあいいかと思ってしまうのだからどうしようもない。
給湯器を経由して流れ出すお湯で、洗剤を流す。洗った皿をとなりに立つ冬美に手渡せば、布巾で水気が拭き取られる。
「時間は大丈夫?」
冬美が壁掛け時計を見た。十分余裕があることは分かっていたが、ちらりと腕時計に視線を送る。もうすぐ十九時時になろうかという頃だった。
「片付けてからでも余裕で間に合うんで」
「それならいいんだけれど」
ざぁざぁと水音が続く。
この姉と二人、何を話したものかと悩んだことも、既に遥か昔のことだ。
「焦凍とお父さん、今頃何を話しているのかな」
「何も喋ってないんじゃないっすか」
「うーん、あり得そう」
「あいつは多分メッセ返信してるだろうし」
「何ていうか、相変わらずよね」
前よりはずっと良いのだけれど、と冬美が肩を揺らした。
居間で向かい合わせにこたつに入り、無言を貫いているだろう様子を思い浮かべる。確かに可笑しかった。
何せ酔っ払いと素面の男だ。酒を飲んだ轟と違い、今日の炎司は一滴も飲んでいない。いつもならば飲んでいるので珍しい。明日は早くから仕事なのかもしれない。
ふと、五年前のことを思い出す。
つまり「誕生日に家に帰って来い」という誘いを、轟が初めて承諾した年のことだ。
五年以上前からも誘いは受けていたが、無視していたという。家の外で兄弟とだけ会うことはあれど、家に戻ったり父親の顔を見たりはしていなかった。そう聞いている。
そんな轟が、何の拍子に心境の変化を迎えたのかは知らない。あの年、突如行くと言い出したかと思えば「爆豪も来てくれ」と腕を掴まれた。お願い事のようで、半ば強制のような勢いだったと記憶している。
ヒーロー業などしているが、あれほど焦ったことは他になかったように思う。
恋人の実家。恋人の父親。急な挨拶。
決まったのは前日だ。二人で休みを合わせて、轟の好物を作って家でのんびりすごそうという企みは見事に消し飛んだ。
過ぎ去ってしまえばいい思い出だと思えるものだが、あの日は本当に肝を冷やした。思い出と呼べるのは、大きな問題も起きず思いのほか歓迎を受けたからだ。
なんにせよ、親子仲は良好とまでいかずとも、悪くはないくらいまで持ち直しているらしい。それをどう判断するかは結局、本人次第だが。
「ねえ」と冬美に声を掛けられた。ひそりと秘密を尋ねる様に「爆豪くんの料理、年々美味しくなってない?」と。
「そうっすかね」と一言返事をする。
冬美は皿を拭きながら、うーんと唸った。
「それに焦凍の誕生日は毎年、違う料理作ってくれるでしょう」
「ま、年に一度っすから」
「今年のグラタンも美味しかったなあ。今度レシピ教えてくれない? 作っているところ見てたはずなんだけど、全然覚えきれなくって」
「いっすよ。また送っときます」
「有難う」
どことなく轟と似た表情で、冬美が笑う。それから、ふふふと声をこぼした。
「なんすか」
洗った鍋を渡しながら尋ねると「あのね」と口元を隠して笑う。鍋を受け取りながら、冬美がこちらを見た。
「爆豪くんの料理食べるたびにね、焦凍の食生活は大丈夫だなって安心するの」
「そりゃ、まあ」
どことなく気恥ずかしくなり顔を背ける。率直な信頼を向けられるのはどこか照れくさい。
最後にフライパンを洗い終えると水を止めた。片付け終われば「いつもありがとう」と言われる。短く返事をし、揃って台所を出た。
何度も通った廊下を歩き、居間へと向かう。
がらりと引き戸を開けると、こたつに突っ伏している轟の姿があった。向かいで炎司が腕を組み眉を寄せている。やはり無言だったなと鼻で笑い、轟のそばに膝をつく。
「おい、起きろ」
肩を軽く叩くがまるで反応がない。ムッと眉を寄せると「お前たちが部屋を出て行ってから直ぐ寝落ちた」と炎司が言った。腕時計を確認する。十五分は眠っているらしい。
普段ならば引っ叩いてでも起こすところだが、流石に父親の前では気が引ける。あのエンデヴァーと殴り合いになりたくはない。再び親子仲を拗らせさせたくもない。
ぐっと我慢し「焦凍」と呼びかける。
名前を呼ぶことは、未だに気恥ずかしい。
だがこの家に居る時はそう呼ばざるを得ない。取り繕ってはいるが、ぎこちなさがにじみ出てしまっているのかもしれない。冬美が微笑ましく見つめてくるため、尚のこと居た堪れない。
「飛行機に遅れんのはシャレになんねえぞ。おい、焦凍」
肩を掴んで揺さぶれば「ぐう」と唸って眉を寄せた。これはまだ寝ていたいというアピールだ。
引っ叩くことも、首根っこを掴んでブン投げることもできない。全く、恋人の親の前というのは人間を弱くする。
しかし待ってやれる時間は短い。元より気が長い方でもないからだ。もう少しでブチリといってしまう――そういうタイミングで、向かいから大きな手がぬっと伸びてきた。太い指が轟の額にデコピンを食らわせ、実に痛そうな音が響いた。
「痛ッ、テェ!」
叫ぶ轟の声が鼓膜に刺さった。
アンタがやるのかよ、という目で爆豪は炎司を見る。何事もなかったかのように腕を引っ込め、炎司はこたつから出た。そして居間からも出ていってしまう。
何処へ行ったのか気にはなるが、今は額を押さえている轟だ。
「ほら、もう出んぞ。支度しろや」
「ア……?」
人相悪く唸り眉を限界まで寄せたかと思えば、急に意識が覚醒したらしい。見慣れた間抜け顔になり「あっ、やべえ、時間平気か?」と慌ただしくこたつから飛び出てくる。
「まだいいが、そろそろ移動してえな」
「悪ぃ、すげえ寝てた。つかデコクソ痛え、んだこれ……」
「起きねえテメエが悪い」
犯人が誰かはこの際伏せておく。どうせ言わなければ爆豪がやったと思うのだ。
コートを羽織り、マフラーを巻き、荷物を支度する。
忘れものが無いことを確認していると、炎司が戻ってきた。彼もまた着替えている。どこかに行くのか、もしかして今から仕事なのかと勘繰っていると、彼の視線が轟と、それから爆豪を見た。
「空港へ行くんだろう、送っていく」
チャリンという音を鳴らし、車のキーを見せられた。
それが何を意図するのか、一瞬分からなかった。まさかあのエンデヴァーに、車を出すといわれるなど思ってもみないだろう。
返事を喉に詰まらせていると、露骨に面倒臭そうな表情をした轟が「いらねえ」と軽く断った。
「遠慮するな、何日行くのか知らんが、空港の駐車料金もバカにならんだろう」
「心配されなくても稼いでるからいい」
親子の視線がじとりと睨みあう。不器用な問答をする二人の、どちらの肩を持つべきなのかが分からない。
これから爆豪は、轟と旅行へ行くのだ。
クリスマスと正月の休みを全て他に譲って、今日から一週間の連休を取っている。初日を轟の誕生日祝いにあて、残りで旅行に行く。そういう話は前から伝えてある。
爆豪が言葉を選んでいると、慌てた冬美が間に入ってきた。
「焦凍あのね、お父さん今日お酒飲むのこの為に我慢してたの。だから乗っていってあげてよ」
「ム、別にこのためではない」
「ああもう話がややこしくなるからお父さんは黙っていて。ね、爆豪くん、折角だし」
ここで話を投げてくるかと目を丸くする。
お願いと真直ぐ向けられる瞳と、頷けと圧を掛けてくる瞳と、まさか頷くつもりじゃねえよなと伝えてくる瞳に見つめられる。頭を抱えたい気分だ。
面倒になり、多数決で決めることにした。
「じゃあ、よろしくお願いします」
軽く頭を下げると、轟に脛を蹴られた。
炎司の車にスーツケースを乗せ換え、二人で後部座席に乗り込んだ。
轟が運転席の後ろ、そのとなりが爆豪。どちらかは助手席に座った方が良いのではないかと思ったが「二人とも後ろに乗れ」と言われたためこうなった。彼なりの気遣いかもしれない。
夜の道を車が軽快に滑っていく。
車内には誰にも似合わないクラシックが流れている。
すれ違う車のライトに照らされる度、轟の横顔が暗闇に浮かび上がる。機嫌を損ねたかと思ったが、心底嫌だったわけではないようだ。表情はすっかりいつも通り。かと思えばこちらを見て小さく笑う。そのささやかなコンタクトに鼓動が跳ねた。既に十年以上一緒に居るというのに、未だにずるい奴だと思う。
「今年はどこに行くんだ」
ふいに炎司の声が車内に響いた。
バックミラー越しに、轟のことを見ている。気付いた轟が顔を上げ、爆豪を見た。
「どこ行くんだ?」
「知らないのか」
呆れた声を吐き出し炎司は前を向いた。
対照的に、轟はあっけらかんと言う。「毎年内緒にされてんだ」
「そうなのか」と今度はこちらへ声が向いた。
「まあ、誕生日プレゼントっすからね」
答えると、ミラーの向こうで目元が僅かに緩む様子が見えた。これに気付くべきなのはとなりの男だというのに、当の轟は明後日の方向を見ながら首を捻っていた。
「誕生日プレゼント、他にも貰ってんだけどな」
「つまり、なんだ。旅券の手配も何もかも、爆豪くん任せということか」
そうなるな、と轟と顔を見合わせる。
一月の旅行は今年で三回目。その三回とも全て、爆豪一人で手配した。行先も、飛行も、ホテルも、何もかも。
「流石にそれは、どうなんだ」
炎司が呆れの中に、不安さをにじませ呟いた。
されるがままの轟のことを指しているのか、勝手に全て決めている爆豪のことを指しているのか。その少ない言葉と声色で判断できるほど、まだこの父親を理解していない。
赤信号で車が停まる。左折の為のウインカーがチカチカと音を立てている。
一度無言になると、言葉を切り出し辛い空気がある。未だにこの親子の会話にどう挟まるべきなのか、上手い判断が出来ない。
バイオリンの音が車内を包む。指揮者が一瞬の呼吸を置いたような空白があり、オーケストラの演奏が始まる。となりの轟はまた窓の外を眺めていた。
前を向けば、ミラー越しに炎司と視線がぶつかった。一瞬で離れた父親の視線は、そのまま横へスライドし轟へ移る。そして呆れたような瞬きを一つ。
信号機が青に変わる。エンジンが唸り、車が滑り出す。
「焦凍、お前」と小さな声がぼやく。「愛想を尽かされるなよ」
予想をしていなかった言葉につられ、轟の視線が車内に戻った。シート越しに父親の頭を眺めたあと、爆豪の顔を見る。
「尽かされねえ」
という断言の後「よ」と少しだけ、心配そうな音が続いた。
眉をひそめた顔が可笑しくてつい吹き出す。しまったと背を丸めて口元を押さえるが、予想に反し車内の空気は心なしか緩んでいた。気のせいでなければ、炎司もつられて笑った気配があった。
あ、平和だな。などと思った。
大きく息を吐き、開き直ってシートに背を預ける。
「好きでやってるんで」と肩を竦めると「そうか」と前方から穏やかな返事があった。
「今年は何日行くんだ」
「四日間っすね」
今日、そして旅行が四日、戻ってきて二日のんびりしたらまた仕事だ。
まとまった休みが取れるのも、国内での犯罪発生率が減少傾向にあるからだ。死柄木弔の逮捕、連合の解体。数多のヒーローの犠牲と尽力。
「良い世の中になった」
炎司がそう囁いた。
この世を手に入れるため、礎になったものたちのことを慮る様な声色で。
*
ポン、と機内にアナウンスが響く。離陸が近い。
シートベルトを閉め、スマホの電源を切る。となりの席に座る轟も同じように電源を切っていた。真っ暗になった画面が見える。。
「全部返事したのか」と尋ねると「八時過ぎたら連絡付かなくなると思うって伝えてあったから、もう何も来てねえ」と笑った。
グレーの瞳が横目に、爆豪を見る。悪戯に楽しそうに、ちかちかと光らせながら。
あ、こいつ分かっているな。と気付いてしまった。
三回目で察するとは早かったなと感心する気持ち半分、腹が立つような気持ち半分。後者はほぼ照れ隠しからの感情だ。
むすりと眉を寄せ、肘置きで頬杖を付く。必然的に轟の方へ体が寄る。寄り添うように轟も肩を寄せてきた。
もう直に飛行機は飛び立つ。
スマホの電源は落としている。
腕時計を見る。
時刻は二十二時。
少し早いがもう良いかと轟へ視線を送る。まだかと言いたげに緩んだ瞳と目が合った。
一呼吸飲み込んで、言葉を口にする。
「誕生日おめでとう」
「ありがとな」と轟が肩を揺らす。「毎年爆豪が最初と最後に祝ってくれんの、嬉しいな」
一月十一日、最終便。
爆豪がこの時間を選ぶ理由に、こいつはもう気付いてしまっている。