もう一度/あの日の約束

(爆轟/ワンライ)

 

 

 ひた走った二年だった。
 二十一歳、独立。オフィスビルの一室を借りた小さな事務所だが、出だしとしては悪くないだろう。サイドキックも事務員も帰った夜更けの頃、そこへ花束を持って訪ねて来た男が居た。一時間前に「これから行っても大丈夫か」とメッセージを投げてきた相手であり、爆豪を二年間ひた走らせた張本人だ。
 元より独立する気ではあったが、こうも心が急いたのはコイツのせいだ。だというのに当の轟焦凍は、ちょっと抜けた顔をして開けた扉の向こうに立っていた。
「独立おめでとう。こういう時なに持ってったら良いか分かんなくて」
「まあ、受け取るわ。時間あんなら入れよ」
「お邪魔します」
 差し出された随分と大きな花束を受け取り、事務所の内に招き入れる。これを持って外を歩いてきたのかと思うと可笑しくて顔が緩む。随分と目立ったことだろう。
 轟は髪を隠すためにかぶっていた帽子を脱ぐと、事務所内に視線を泳がせた。物珍しそうに瞳が瞬いている。ナンバー1ヒーローの事務所を見慣れた人間に見回されると居心地が悪い。小さくて珍しいのか、と要らぬ詮索をしてしまう程だ。
 小さく舌打ちをしながら「あっち座ってろ」と応接ブースのソファを指差した。「コーヒーくらい出したるわ」
「うん」と轟には珍しい、幼い返事をした。
 轟を残し事務所の奥へ引っ込む。余っていた花瓶に水を入れ、花束を移した。特に拘りもなさそうな花束は、きっと慌てて包んでもらったのだろう。通り道に花屋でもあったのかもしれない。お祝いで、急いで、とそんなオーダーをしたのだろうか。あとで独立祝いに送られてきた花と一緒に並べてやろう。
 事務所を開設して一か月。
 未だ祝いの品は処理しきれず、空いた机一つをまるまる占拠している。その中からコーヒーのドリップパックを掘り当てて、二つ引っ張り出した。電気ケトルで湯を沸かし、マグカップにドリップをセットする。
 ほ、と息を吐く。妙に緊張する。あのパーテーションの向こうに轟が居る。独立して構えた事務所に、轟が居る。
 ひた走った三年の結果がそこにある。
 走らせた相手がそこに居る。
 走り始めたきっかけは、高校三年、十八歳の冬の終わりのことだ。
 あの日、自分たちが両思いだという確信があった。視線や声のトーンや、返事や、そういう全てを慎重に見極めての結論だ。間違ってはいなかったと思う。だから、卒業前に告白した。この先も一緒に居る権利が欲しかった。肯定以外の答えが返ってくるなど予想もしていなかった。
 だが轟は「どちらかが独立してからにしよう」と言いやがった。
 これからサイドキックとしてプロヒーローを始める自分たちには、互いを気遣う時間が取れないだろうからと。そんなことでダメになりたくないからと。そんなことをもだもだと言っていたと思う。細部は忘れた。爆豪がキレたからだ。「グダグダとウッセェんだよ!」だとか怒鳴ったと思う。とても告白の流れで起きる言い争いではなかった。
 なんだかんだと言葉の応酬があり最終的に「首を洗って待ってろ!」あたりに結論が落ち着いて解散した。
 そして、予定を早めて走り出した。五年ほどかけて十分な足固めをしてもいいかと思っていたこともあった。
 だが誰がそんな五年も待てるだろうか。五年も放っておいて、こいつがまだ独り身で落ちているものだろうか。心変わりだってするかもしれない。そんな不安に駆られることもあった。
 それでも走るしかなかった。約束を反故にして、再度言い寄るなどプライドが許さない。ならばやはり、走る以外に道はない。
 そして、結果の今だ。
 コーヒーを注いだカップ二つを持ち、応接ブースへ戻る。片方を轟の前に置き「ブラックで良かったか」と尋ねると、今度は「ああ」と答えた。
 何食わぬ顔をして、向かいに座る。コーヒーで口を潤す。カップに息を吹きかける轟の姿を眺める。
 会うのは久しぶりだ。二年の間に何回か会ってはいるし、二人で食事に行ったこともある。だが流石にここ数か月は忙しく、精々現場で顔を合わせる程度だった。二人きりで向かいあったのは、いつ振りだろうか。流石に少し、緊張する。
 温度を確かめる様にしながらコーヒーを一口飲んだ轟が、カップを置いた。カタンと音が鳴る。
「二年か、早かったな」と轟が言った。
「長かったわ」
 二年だぞ、二年。本来なら待たなくてよかった二年だ。どう考えたって。
 カップを置き、ソファにふんぞり返る。流石にもう足を机にあげたりはしないが、それでも偉そうな格好と言えるだろう。
「つかテメェ、他に言うことないんか」
 はよ言え、と顎を上げる。そのために来たのではないのか。だからわざわざこの時間を選んだのではないのか。
 だというのに轟は、膝の上で指を組み首を傾げた。目を丸くしている。何かあったか、とでも言いたげだった。可愛い顔しやがって、というどうでもいい言葉を飲み込み、机に手を付き身を乗り出す。
「忘れたとは言わせねえぞ」
 声を低く睨み付ければ、轟が首を竦めた。ぱちりと瞬きをする。
 返事はない。盛大に溜め息を吐き、再びソファに背を預ける。ぼすりと音が立った。
「あれは人のことフる言い訳だったんか」
 吐き捨てて天井を見上げる。
 あの日確かに同じ気持ちだったはずだ。しかし思い違いだったのだろうか。もう二年も前のことだ。途端に自信が揺らぐ。二年前の自分が読み違えたのか。それとも心変わりして、覚えていないことにしたいのか。
 ここからどうするか。適当に轟を追い返すか。そう考えていると、あっと息を吸い込む音が聞こえた。
「忘れてねえ」
 どうにか捻り出したような声で、轟がそういった。それから「ウソだろ」とも小さく呟いた。
 困ったように振るわせた声は、どちらの意味を含んでいるのか分からない。顔を下げると、俯いた轟のつむじが見えた。赤と白が入り混じっている。
「んだよ」と声を抑えて吐き出せば、轟の頭が揺れた。組んだ指に力がこもっているのが見える。力を籠めすぎて少し白くなっている。
「……学生時代の恋愛感情なんて、気のせいみたいなものだって」
 思った。
 そうつぶやいた轟の言葉は、どこからか借りて来たもののような響きをしていた。
 また変なことを聞いて鵜呑みにしたのだろうなと知れる。誰がそんな面倒なことを言ったのかだとか、そう言うことならもっと早く言えだとか、察することが出来なかった自分に腹が立つだとか。色々、思うことも、言いたいこともあった。それら全てを噛み殺して、つむじに声を掛ける。
「てめぇは気のせいだったんかよ」
「ちげぇ。ちげぇから、今日、確かめに来たんだ」
「俺が覚えてるかをか」
「……たぶん忘れてんだろうなって思ってたから、忘れてんの確かめたら、忘れようと」思って。
 そう轟が言う。思い悩んでいる様子の声色から、少しずつこれ怒られるなと察し始め、どうにか誤魔化したくなり始めた声色に替わりながら。
 当然、轟の予想通り爆豪は怒った。「ハァ?」と叫び、腕を伸ばし轟の襟をつかんだ。ぐっと引っ張り上を向かせると、随分困った様子の綺麗な顔があった。眉をハの字にしながら器用に眉間に皺を寄せている。
「舐めやがってンの野郎」
「悪かった、本当に。先に言っとくが爆豪を疑ってた訳じゃねえからな。俺が多分、諦めたかっただけだ」
 轟は珍しく本当に悪かったと思っていそうな顔をしていた。掴んでいた襟を離し、浮かせていた腰を下ろす。腹の中はムカムカとしているが、襟を直している轟の指先がかすかに震えているのが見えたので、許してやってもいいかと思った。
 心を落ち着ける様に息を吐いた轟が、背筋を伸ばしてこちらを見た。
「なあ、もう一度言ってくれないか。今度はちゃんと、返事する」
「ンとにテメェは舐めプ野郎だな」
「悪い。駄目か。ああは言ったが、やっぱ少し、自信ねえ」
 困り顔ではにかむ轟に免じて、ぐっと怒りを飲む。でかでかとため息を吐き、後頭部をかく。
 告白など、生きていてあの一回しかしないと思っていたというのに。
「好きだ、付き合ってくれ」
 観念したように言えば、轟が「俺も好きだ」とほっとした表情で答えた。
「二年長かったな」
 その言葉は本物らしい。やっぱり二年は早くないだろうがと、直したばかりの轟の襟を掴んで引き寄せる。キスをしたかったが、腹が立っていたのと、初めてが事務所というのも味気ないという気持ちが相まった結果、頭突きをしてやった。「イテェ」と轟が呻いた。
「二年分キッチリ取り返させてもらうかんな!」
「みみっちい……」
「アァ?」
「悪い」
 口が滑ったという様子で轟が目を逸らした。爆豪の眉間にぐっと皺が寄る。言いたいことがあり過ぎて最早何も出てこなかった。
「帰んぞ!」と立ち上がる。
「どこ行くんだ」と間抜けなことを言う轟に「俺の家」と答える。どこかで飲んで帰るという気分ではない。この後どうするかは連れ込んでから考えればいい。だというのに轟はのんきにカップに指を伸ばしていた。
「おい、はよ支度しろや」
「コーヒー飲んでからでもいいか」
 口が渇いて、と轟がカップを掴んだ。だが持ち上げる瞬間、カップと机がぶつかってガチャンと大きな音を立てた。見れば指先が派手に震えている。カップから手を放し、困った様子で見上げてくる瞳と目が合う。
「やべぇ、すげぇ緊張したから」
 止め方わかんねえ。
 そう言うそいつに向け、何と叫んでやればいいのか分からなかった。