(綾主本の再録/2013/03/17発行/ 主人公名は有里湊)
1
寒かった。
今冬雪こそはまだだったが、もう直に降る。そんな季節だった。
だから「さむい」と口をついて出てしまったのも、仕方がないだろうと思う。
真っ白な息を吐出しながら、有里湊は心の中で言い訳をした。
ハイネックとコートで防寒対策は万全のつもりだったが、つもりでしかなかったらしい。冷風は容赦なく素肌を撫でたし、下がっていく温度はどんどんと衣服ごと冷やしていく。
それは冬だからというだけでなく、噴水の直ぐ側のベンチに腰掛けているからでもある。音を立てて流れ落ちる水は、平時ならば綺麗だと思っただろう。だが今この瞬間に見るにはやはり寒々しい。見目以外にも、流れ落ちる水が確実に周囲の温度を下げていた。
湊が寒さに肩を竦めると、隣りに座っている人影が動いた。噴水を眺めていた視線を移動させ、その人影、望月綾時の姿を見る。綾時は手に持っていた、まだ飲みかけだろう缶コーヒーを足で挟む様にベンチに置いた。
綾時の横顔は色白で端正で美しく、この夜の闇の中でほんのりと光って見える気さえする。彼は長い睫毛を伏せ、視線を落とした。首元に巻かれている黄色いマフラーに手を掛けると、するりと解く。マフラーを掴む、揃えた指の一本一本も透ける様に白く、傷一つなく綺麗だった。その美しい指が解いたマフラーを導き、湊の肩へ回る。ふわりと温度を残したマフラーが首に触れた。見れば綾時の白い首筋が晒されている。
慌てて彼の手を止める。
「ちょっと、待って」
「寒いんでしょう。これを使って」
底など無いかの様に透き通る青い瞳を、優しく細め綾時が微笑む。うっかり見惚れていた間にも、自らの首をマフラーの暖かさが包んでいく。
ハッとして慌てて綾時の手を掴み、マフラーを奪い取る。急いで巻き付けられたマフラーを解き、元の様に綾時の首へと戻す。一度巻いただけでは長いそれを、おまけと言わんばかりに二重三重にぐるぐる巻き付けると、首の周りは随分もこもこと嵩張った。こんなにも長いものを巻いていたんだな、と思わず溜息が零れる。これひらひらと後ろにはためかせて、よく踏まれたり挟まったり引っかかったりしなかったものだ。実は凄い奴なのかもしれない。
「湊、遠慮しないでいいんだよ。僕は寒くないし。君が寒い方が僕は」
マフラーに半ば顔が埋まりながらも、再び解こうとする綾時の手を掴んで止める。「見てる方が寒いから」
綾時の七分袖のシャツ一枚にマフラーだけ、という格好は十二月にしてはあまりにも薄着で(かといって十一月なら適当だったか、というとそれも少し怪しいが)兎に角、どこからどう見ても寒そうにしか見えない。マフラーを解いた時に覗いた、外気に晒される首筋など、寒々しくて見ているこちらに鳥肌が立ちそうだった。彼の病的に白い肌は、それを強調する要素にしかならない。
「でも」と尚マフラーを解こうとする綾時に対し、首を振って答える。「明日からはちゃんとマフラーしてくるから」
「約束だからね」
「うん」と頷いても「絶対ね」と念を押してくる綾時と指切りを交わす。そこでやっと納得してくれた。だがぐるぐるになったマフラーは邪魔だったのか、一巻き解かれてしまった。まさか全部解く気では、とじっと見詰めていると「飲みにくいでしょ」と綾時は慌てて足の間に置いてあった缶コーヒーを掴み上げた。
湊の手にも同じ缶コーヒーが握られている。ここで綾時と会う前に自動販売機で購入した、どこにでもある有り触れたホットの缶コーヒー。まだ暖かさが残るそれを両手で掴み暖を取る。
隣なりに座る綾時を見る。缶コーヒーに口をつけ傾け、こくりと嚥下するその様をぼんやりと眺める。白い。缶から口を離し、ほーっと吐かれた息は白く煙り、冷えた空気にさらわれ直ぐに見えなくなった。湊も同じように手中の缶に口をつけ傾ける。缶から伝わる暖かさとは裏腹に、少し冷たくなっているコーヒーを飲み込んだ。
「見えるところにシャガールがあるのに」
缶の中を覗きながら呟く。覗いたところで、何も見えやしないが。シャガールは本当に直ぐそこ、顔を上げれば見える距離にあった。
「仕方ないよ、閉まっちゃってるし」
それに君の買ってきてくれたこれも僕は好きだよ、と綾時が缶コーヒーを揺する。ちゃぷりと音が立つ。そうは言っても、どう考えたって百二十円の有り触れた缶コーヒーより、五百円の淹れたてのシャガールのコーヒーの方が美味しいに決まっている。何より温かい。
だがその、見えるところにあるシャガールの灯りは落ちている。営業時間はとっくに終わっている。シャカールだけではない、このポロニアンモールに立ち並ぶどの店舗の灯りも全て等しく消えている。日中あれだけ人で賑わう此処も、こうなっては静かなものだ。人の声も、電気の音も、何もしない。今聞こえるのは噴水が立てる水音くらいだ。
「噴水ってさ」
「うん」
「この季節にはやっぱり見てるだけで寒いな」
「そうだね。でも好きだよ」
「そう」
「うん」
噴水を横目に、冷え切ってしまう前にと缶コーヒーの残りを一気に煽る。ぽたりと最後の一滴が舌に落ちる。ふっと視界が陰った。綾時の掌が目の前に差し出されている。指をそろえ、静かに差し出される白い掌。
「どうかした?」問い掛けながら、指から綾時へと視線を移す。綾時が微笑む。
「手を繋いでいたら少しくらいは寒さを凌げるんじゃないかな、と思ってね。暖かいかは分からないけれど」
さあ、と指先が誘う。じっと白いその手を眺め思案した後、手を伸ばす。けれど差し出されるその手を取ることはしない。あれ、と不思議そうな顔を見せる綾時へとさらに手を伸ばし、先ほどぐるぐるに巻き付けマフラーの下へと手を滑り込ませる。
隠されている綾時の白い首筋に触れた。
「冷たっ!」と悲鳴にも似た叫び声が上がり、綾時の肩が竦められる。だが触れた首筋は思った通りとても暖かい。首筋は元々暖かい上にマフラーで厳重に守られていたのだ、暖かくない筈がない。指先から伝わる暖かさを更に求めて、ぴたりと掌まで首筋に押し当てる。
「ひっ……さっきまでホットの缶掴んでたとは思えない冷たさだよ……」
「元から手は冷たい方だし。知ってるでしょ」
「うん、そうだけど……ちょっと心配になる冷たさだよ」
肩を強張らせたまま綾時が呻いた。可笑しくて少し笑って、肩を寄せる。
「ねえ、それもう空?」
綾時が両手で握りしめている缶を指差す。
「うん、ご馳走様でした」
「ちょうだい」
少し暖まった掌をマフラーの中から抜き、その手で綾時の持つ空き缶を受け取る。ベンチから立ち上がり、近くにあった屑籠目掛け、自分の缶と二つ合わせて投げた。ゆるりと放物線を描き、缶は二つとも乾いた音を立て屑籠へと吸い込まれた。
「そろそろ行こうか」
立ち上がった綾時に、とても自然な仕草で手を取られる。湊と同じくらいの大きさの、けれど湊よりも細い指。綾時の手はホットの缶を掴んでいたからか、暖かかった。その指をしっかりと握り返す。手を引かれ、歩き出す。
深い赤色の水を吸い上げては吐き出し続ける噴水に背を向ける。疎らに立ち並ぶ棺の隙間を縫い、ポロニアンモールを出た。
十二月の風は、冷たい。
2
「さびしくない?」
湊はそう問いかけた。
場所は深夜のポートアイランド駅。その路地裏にほど近い場所にある、カフェのテラス席の一角を拝借している。深夜でもこの駅の人通りは多く、主に改札口周辺に象徴化の印である棺が立ち並んでいる。その様子を、ぼんやりと眺める。テラス席に備え付けられたパラソルが影を落とす。外は煌々と月明かりに照らされ、赤く光っていた。
「寂しくない?」
もう一度同じことを口にし、テーブルに肘を付き目の前の顔を斜めに覗き込む。湊の向かいでカニパンを齧っていた綾時は、一旦食べることを止め、同じように顔を傾けた。
「えっと、何が?」
「日中」
「ああ、君が学校に行っている間、ってこと?」
頷く。「綾時はここでずっと一人なんじゃないかって」
「ううん、そんな事は無いよ。僕はずっと連続した影時間の中に居るからね。ずっとって程じゃない」
「そうなんだ」
「うん。一人になってもまあ……五分くらいかな」
「その間は?」
「ふふ、流石にね、平気だよ。君が毎日来てくれるって分かっているから」
ごく自然な仕草で視線を絡め綾時はにっこりと笑った。ゆるやかに弧を描く口元も美しい。ならいいか、と頷く。
連続した影時間の中、というのは六月に山岸風花が体験したそれと同じだろう。彼女の場合は閉じ込められていたが、綾時は多分、自らの意志でここに閉じこもっている。毎日一時間だけの影時間の中に、ずっと。
影時間を体感できない普通の人とは逆で、日中の二十四時間を体験していないなら、確かに一人になる時間は少ないだろう。湊は毎夜、影時間が始まる頃に前日綾時と別れた場所へと赴き、明ける頃に帰っていく。日中がないなら、それこそ別れたまた直ぐ後に再び会う事になる。
こうして綾時に毎夜会いに来ているのは、綾時の事を一人きりにしたくないからだ。勿論会いたいから、というのもある。だけれど、それ以上に一人にしたくないと思う。それなのに一人にしてしまっているのでは、と実のところ少し心配していた。だから、一人になっていないならそれでいい。
ほっと表情を緩ませる。同じように綾時も微笑んだ。
「あ、そうだ。ちょっと気になってたこと聞いてもいい?」
「なに?」
「これなんだけどさ。カニパンって甘いよね」
「そうだな」
「カニって甘くないよね?」
「……そうだな?」
「なら何でカニパンなのかな」
これ、と綾時はカニパンを少し持ち上げて示した。カニの形をした菓子パンは既に二三口齧られた後で、脚が少し欠けている。
「えっと、見た目、じゃないの?」
「見た目だけ?」
「うん」
「なるほど」
あっさりと頷き納得した綾時は再びカニパンにかじりついた。実にちょっとした疑問だったらしい。正解なのかハズレなのか分からない回答でも気にしていないようだ。もう既に先ほどの疑問など無かったかのように、美味しそうに咀嚼している。綾時が良いならいいか。
テーブルの端に置いていたマグボトルを手に取りふたを開ける。中からふわりと湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。寮で淹れてきたものだが、まだ十分に暖かいようだ。魔法瓶のタイプを選んでおいてよかった。
「綾時、ココア」
飲む? と差し出す。綾時は今まさにカニパンを齧ったところで口をもごもごとさせている。青い目を瞬かせながら慌てて咀嚼する姿に「いいから、ゆっくり食べて」と思わず笑う。綾時が恥ずかしそうに目元で笑った。
ごくりと嚥下したところで再度ボトルを手渡す。今度は「ありがとう」と受け取った。ゆらゆらと湯気が揺れる中身を覗き込み、綾時がふーっと息を吹きかける。暖かな湯気は揺らめいて綾時の顔を撫でた。
「熱くないよ」
「ほんと?」
「苦手でしょ」
「うん」
綾時が猫舌な事は知っているから、最初から飲みやすい温度で淹れてある。恐る恐る口をつけ、本当に熱くないと確認するとぐいとココアを呷った。「美味しい」と綾時が笑う。まだ中身の残るボトルを受け取り、冷めてしまわないよう蓋を閉め、テーブルの端に置く。
「ココア好きだったんだよね」
「カニパンもでしょ。購買で売ってるパンの中では、だけど」
「うん。あれ、話したっけ?」
「見てたら分かるよ」
「そういうなら、君はコーヒーが好きだよね。ブラックか、お砂糖控えめのカフェオレ。パンよりはごはんが好き」
「うん、当たり」
くすりと笑うと、綾時も同じように笑った。
残りのパンを一口に放り込むと「ご馳走様でした」と丁寧に手を合わせた。合わせた手をそのまま組み、テーブルに置くと綾時は辺りの景色を見回した。ポートアイランド駅の景色を懐かしんでいるのかもしれない。ここにはこのカフェや、映画館など施設が幾つかある。
きょろきょろとしていた綾時が視線を止め、指を差した。
「あ、あそこの花屋さんさ、良く行ったな」
「ラフレシ屋?」
「そう。綺麗な花をたくさん扱っているのに、ラフレシアって不思議な名前だよね」
「まあ、インパクトはあるけど」
「ね。僕も一回で名前を覚えたよ」
綾時が笑う。その顔をじいっと見つめる。「で、そのラフレシ屋で花を買って女の子にあげていた、と」
「ううん、女の子には上げてないよ」
「じゃあ何しに良く行ってたんだ」
「それは自分の部屋に飾ったりとか……っていうか僕、君にプレゼントしたよね」
恨みがましい視線で綾時が見詰めてくる。別に忘れてはいない。「良く覚えてるよ。白いコスモスの花束。いきなり寮まで押しかけてきて渡して帰ってただろ。忘れようがないよ。おかげで花瓶を買いに走る羽目になったし」
「え、花瓶持ってなかったの?」
「うん」
「ウソ」
「普通男子高校生は花瓶持ってない」
「えー……それは、なんかごめん」
「いいよ、まあ嬉しかったし」
嬉しかったからこそ、放置したりして直ぐに枯らしてしまいたくなくて、花瓶を買いに行ったのだから。出来るだけ手入れをしたつもりだったが、その真白いコスモスも、もうとっくに枯れてしまっていた。部屋には空の花瓶しか残されていない。
「そっか、でもわざわざ花瓶買って活けてくれたんだね、嬉しいな。その花瓶使ってる?」
「ううん、今は空」
「それは勿体ないよ。折角だから今度花買ってさ、使ってよ」
「いいよ」
あの花瓶は、あのままずっと空にしておく。綾時に貰った花を活けるためだけにあったのだから。首を振ると、綾時は不思議そうな顔をしながらも「そう」と頷いた。
「あと花、って言えばさ。花言葉を色々女の子に聞いたよ」
「ほら、やっぱり女の子と行ったんじゃないか」
「行ったのはそうだけど、花束をプレゼントしたのは君にだけだよ。誓うよ」
ふうん、と頬杖を付いて綾時の顔を覗き込む。綾時はおかしそうに笑った。本当はもう疑っていないのを気付いているのだろう。
「で、どんな花言葉を覚えたの?」
「うーんと、ひまわりとか?」
「それだけ?」
「印象深かったのがそれ、というかね。結構ぴったりでしょう」
テーブルに肘を付き、身を乗り出した綾時の指先が伸びてくる。白い指先が湊の長い前髪を払い、耳に掛ける様に横に梳く。そのまま頬を掌で撫でられる。前髪が無くなりクリアになった視界の先で、綾時が空の様に鮮やかな瞳を細めて笑っていた。
「君の事だけみてる」
「ベタ」
「そう言わないでよ」
指で髪の間をくすぐられる。綾時が一層身を乗り出しこちらへ近付いて来る。同じように少し身を乗り出し、手を伸ばす。撫で付けられた綾時の首筋に触れ、襟足からそっと髪の隙間に指を滑り込ませ、そのままぐっと引き寄せる。触れ合った唇からは甘さがふわりと伝わってきた。
キスの合間にきちんと撫でつけられた綾時の黒髪をぐしゃぐしゃに掻き回すと、唇の端を軽く噛まれた。痛くは無かったが、唇を離すと間近で眉を寄せる綾時の顔が見えた。
「ひどいよ。セットし直せないのに」
「別に誰に見せるわけでもないんだから気にするな」
「君に見られるじゃない。毎日」
「やったの俺だからいいの」
とは言ったが、確かにかなりぼさぼさになってしまっている。眉をハの字に下げる姿が何だか可哀想だったので手櫛でざっくりと直す。かなりざっくりだけれど。元々整った顔立ちなのだから、多少どうこうしたところでちょっと可愛げが出るくらいだ。大まかに直した後も襟足を指に絡めて遊びながら、もう一度だけキスをした。
「ねえ、そろそろテストじゃなかったっけ」
「あーうん」
「平気?」
名残惜しくも髪から手を離し、元の様に椅子に背を預ける。ずるりと少し猫背になる。平気かというのは、テスト勉強は進んでいるか、という事だろう。「今更でしょ」答えると綾時は苦笑した。「確かに、君の学力なら問題ないだろうね」もともと勤勉だし、と付け加えた。そう言われると何故か恥ずかしい。紛らわす様にテーブルの端にあったマグボトルを差し出す。
「まだあるから飲んだら?」
「なら貰おうかな」と綾時が受け取る。「全部飲んでいいよ」と言ったのだが、中身は少しを残して戻された。
「まだ残ってるけよ」
「それは君が飲んで」
「別に俺は寮に戻れば……それに綾時に作って来たんだし」
ボトルの中でちゃぷんと揺れるココアの音を聞きながら、綾時の顔を見る。綾時は下唇を指し示す様に指先で触れた。
「嬉しいけど、さっきキスした時君の唇冷え切ってたから。それ飲んで暖めてね」
にっこりと微笑み掛けられて、何故だかすこし恥ずかしくなって目を逸らした。
恥ずかしさを紛らわそうとしたのに、これでは逆効果じゃないかと思いながらココアに口を付ける。
(これって関節キスだなあ)
3
(この後どこ行く?)
(部活が終わるの――時なんだよ、そっちは)
(クリスマスの予定決まった?)
(ね、――君ってさ、どこに引っ越したんだろうね)
絶え間なく聞こえる喧騒に後押しされるように教室を出て、廊下を進む。脇には鞄を抱えていて、帰る準備は万端だ。
最近は部活にも、生徒会にも顔を出していない。かといって誰かと放課後を過ごす約束をしている訳でもない。今となっては過ごしたい相手は決まっていて、他の誰かに時間を割きたいと思う事も無かった。むしろ目を逸らしている、と言ってもいいかもしれない。
放課後はフリーだった。
帰り支度万端で向かった先は昇降口ではなく、屋上だ。足音を反響させながら屋上へと続く階段を上がる。上へ進むにつれ喧騒が少し遠くなり、静けさが近づいてくる。こういう空気は、そうだ、お祭りと少し似ていた。夏休み、少しだけ立ち寄った長鳴神社の夏祭りもこういう雰囲気だった。遠ざかるにつれ賑やかさが背に降り注ぎ、少しだけ後ろ髪を引かれ、何となく淋しくなる。
屋上への扉を開けると、一際大きな風が吹いた。髪がなびき視界が悪くなる。は、と吐いた白い息は一瞬でさらわれ何処かへ消えた。あまりの寒さにぐるぐる巻きにしているマフラーに顔を埋める。半分も埋まれば暖かさは随分違う。
肩を竦め、誰も居ない屋上を横断し、フェンスに肩を預けグラウンドを見下ろす。陸上部の姿が見える。見知った顔も何人か、短距離を走り込んでいる。あれだけ走ればきっと暖かくなるのだろう。
少し視線を遠くに移す。ポートアイランド駅に流れ込む学生の集団が見えた。遠くて音も届かない筈なのに、その姿はやけに賑やかに見えた。
屋上から見えるものは沢山ある。少し視線をずらしただけでも全く違う物が幾つも目に映る。初等部、天文台、ポロニアンモール。馴染みがある建物から、そうでないものまで、沢山。
キイと近くで音がした。屋上の扉が開いた音だ。誰かが来たのだろう、と思ったがそれが誰かは確認せず、街並みを見下ろし続ける。扉から足音が現れ、こちらへ近づいてくる。控えめで大人しい足音は直ぐ近くまで来て止まった。
「ここからだと街が一望できるね」
カシャンという音にやっと顔をあげる。フェンスに手を掛けた風花が、隣りに立って笑っていた。
「そうだね」
にこりと笑う風花と少しだけ視線を合わせ、また街を見下ろす。
「私たちが普段行く施設とか、全部見えちゃうね」
「うん」
「有里君は何を見てたの?」
「……特には。何となくぼんやりしてただけだよ」
「そうなんだ」
強い風がまた吹いた。寒さに身を縮こまらせマフラーに顔を押し付ける。風が治まって顔を上げると、風花はもこもことした手袋をはめた手で顔を覆っていた。目が合う。彼女は顔を隠したまま、ふふと目を細めて笑った。
それから暫くお互い静かに街を見下ろしていた。遠くに喧噪が聞こえるだけで、屋上は静かだった。静かなのを知っていたから、ここへ来たのだけれど。
「あの、有里君」静かな空間で、風花がぽつりと言葉を落とした。「最近、影時間の頃にいつも出掛けてるよね」
その声はとても静かな声だった。静かで柔らかい、責めているわけでも、窘めるわけでもない、穏やかな声だった。
風花の視線がこちらを向くのを感じる。だけれどその顔を見ることは無しなかった。肯定も否定もせずにいると、再び風花が口を開いた。
「危ない事だけはやめてね」
「……大丈夫」
そう頷くと「ならいいの」と風花は笑って空を見上げた。その横顔を伺い見る。風花はそれ以上何も言わなくて、ただ眩しそうに目を細め、瞬かせた。
「やっぱり、気付いてたんだ」
「……うん。でも寮だと何となく聞き辛くて。なかなか聞けなったの」
時期が時期だからね、と風花は空から視線をおろし、こちらを向いた。
「もしかして、綾時君?」
真直ぐな瞳で問いかけられる。肯定するのは、少しだけ躊躇われた。けれど嘘を付いて誤魔化してしまう事は、それ以上に躊躇われて、ゆっくりと頷く。風花はそれをどう思うだろうか。皆が死ぬ、という逃れ得ぬ現実を静かに突き付けていった張本人と会っていることを、どう思うだろうか。冗談じゃないと思うだろうか。何を考えているんだ、というだろうか。
けれど風花は笑っていた。
「ねえ、綾時君元気にしてる?」
そう言った風花の、その笑顔に驚いて上手く言葉が出て来なかった。喉を空気だけがすり抜ける。言葉の代わりに首を縦に振ると、風花は嬉しそうに顔を綻ばせた。良かった、とでも言うように。
「あのね、私もまだ色々と、考えてる最中だけど……。でも、綾時君って優しい人だったでしょ。景色を眺めて世界が綺麗だって言って笑ったりする」
ここから景色を見下ろして「綺麗!」と叫んだ綾時の横顔を思い出した。十一月の綾時は丁度、今の自分達の様にこうしてフェンスに寄り掛かり、眩しい日中の光を青色の瞳に吸収し、きらきら光らせて景色を食い入るように見詰めていた。
「そんな綾時君が、世界がもう終わってみんな死んじゃうんだ、って言うのが、何だか凄く、淋しくて……悲しくて」
風花の視線は真直ぐだった。真直ぐに、景色を見ている。考えている、と言ったが迷ってはいないのかもしれない。じっと横顔を見詰めていると、風花がこちらを向いた。
「綾時君泣いたりしてない?」
「……泣かせたりしてないよ」
「ふふ、そんな心配はしてないよ」
風花はくすりと笑った。つられて少しだけ笑う。
グラウンドを見下ろす。外周を走る剣道部員の姿が見える。宮本の姿もある。カシャンと隣でフェンスの揺れる音がした。風花はどこか、遠いところをみつめている。
(ならいいの)
そう小さく、優しい声色で彼女は呟いた。
◇
吹いた風の冷たさに首を竦める。すっかり巻いていることが普通になったマフラーに顔が埋まる。影時間の風は、静かだ。しんと静まり返った世界の中、ふと撫でる様に通り過ぎていく。電車も車も、人も、何もかも全て止まったこの世界はとても静かだ。この世界には、綾時と自分の、二人しか居ないのではないかという錯覚さえ起こす。
普段ならば車が行き交い賑やかなこのムーンライトブリッジの上も、今動いているのは自分たち二人だけだ。
隣りに立つ綾時の顔を見上げる。白く端整な横顔は橋の下を覗き込んでいる。綾時の視線を追う様に、欄干に手を付き下を覗き込む。遠くでざあざあと水音が流れていく。ここだけやけに寒く感じるのも、きっとこうして下を水が流れているからだろう。冬と水という組み合わせは、やはり寒い。
「ここからストレガが落ちたことあったっけ」
「ああ、あれね」
十一月の事を思い出す。欄干を乗り越え、背中から落ちていく二つの影。そんな事もあったね、と綾時が欄干を指先でなぞった。
綾時はあの頃まだファルロスとして湊の中に居た。けれど湊の目を通して見ていた事は全て記憶にあるようで、十年前からあの朝に別れるその時までを全て覚えている。
深く息を吸い込むと、空気の冷たさで肺が痛んだ。少しだけ欄干から身を乗り出す。水面はとても遠い様に見える。川の流れも穏やかとは言えない。
「案外落ちても平気なのかな」
死を覚悟して落ちて行った割に、ストレガの二人との再会は思いの外早いものだった。これだけの高さから落ちても下が水面ならば大丈夫なのだろうか。湊の目に映る水面は時折光を反射するものの真っ暗闇で、吸い込まれたら二度と出て来られないような気がした。
「試したりしないでよ」
「試さないよ」
「ならいいけど」
綾時がくすりと笑う。「でも危ないから」と手招きされ、乗り出していた身を引っ込める。触れていた欄干は思いの外冷たく、手が冷え切ってしまった。指先に上手く力が入らない。かじかむ掌を気休め程度に摺合せ息を掛ける。けれども本当に気休めでしかなくて、暖かいのは息が掛かった一瞬だけ。全く温まる気配はない。
冷えてほんのり赤くなっている手を、すっ、と夜の深い闇の中でも光って見えるような白い指先に掴まれた。白い綾時の指が、暖める様に手をこする。冷え切った指先はぴりぴりと痛んだ。
「凄く冷たい。もう、何で手袋してないの?」
「でも約束通りマフラーはしてきてるよ」
ほら、と無造作に巻き付けたマフラーに顔を埋める。綾時はため息を吐いた。「明日からは手袋もしてきてね」
「手袋はいいよ。こうしてれば十分だし」
かじかむ指先を動かし、綾時の指との隙間を埋める様に絡めて握りしめる。その手を体で挟む様に綾時にぴたりと肩を寄せる。空いているもう片手はポケットの中に押し込んだ。
ぎゅうと綾時にくっつく。言いたいことを察したらしい綾時はため息交じりに笑った。
「それは仕方ないね」
ムーンライトブリッジというのは、思えば感慨深い場所だった。
綾時と二人、何をするでもなくこの寒い橋の上からぼんやりと景色を見る。目の前の景色は、街灯もなくあまり良く見えない。月明かりに照らされ僅かに建物の輪郭が浮かぶばかりだ。下は川で轟々と冷たい水が流れていく。上は、赤い月夜だ。
色々あった。十年前のあの満月。最後の大型シャドウ。アイギスと綾時が全てを思い出してしまった、先の満月。満月とムーンライトブリッジというのはあまりに印象深い組み合わせばかりだった。今日の空は、満月ではないけれど。
どれも苦い思い出に違いなかった。でも憎むことも出来なかった。それが何故かは上手く言えない。失ったものもあまりに大きくて、簡単に言葉にしてしまうことは出来なかった。それでも、どれかが欠けていても今、この瞬間は成り立たない。失ったものを取り返す代わりに、今持っているどれかを差し出していいとも思えなかった。だからきっと、これでいい。
あの時こうしていれば、こうなっていればという後悔と推測は、全てそのまま綾時の存在を否定してしまう事と同じ事の様な気がした。例え今が、どうしようもない状態でも、だ。
肩を寄せている綾時がもぞりと動いた。よりぴったりと、隙間を埋める様に。髪に顔が寄せられる。「冷え切ってるよ」と間近に声が響いた。
「寒いもん」
「ふふ、そうだろうね」
触れ合っていた肩が離れ、掴んでいた手を引かれる。
「そろそろ行こう」
頷き、綾時に続き一歩を踏み出す。眺めていた川の流れから視線を逸らし、綾時の青色の瞳を見上げる。この赤と緑ばかりの深い夜の世界でも、綾時の瞳は光を反射し、美しい青色を光らせている。宝石の様に綺麗な青目が動いてこちらを向いた。ぱちりと目が合う。綾時が笑った。目を細め長い睫毛が影を落としても、瞳は一部も曇らずきらきらと光っていた。
ムーンライトブリッジを渡り終える。回り道をしたが、月光館学園から少しずつ遠ざかってきた。振り返れば、それでも歪な塔が聳えているのが見える。
巌戸台駅を目指し進もうとすると、手を引っ張られた。見れば綾時が反対方向へと向かって歩き出している。
「どこ行くの?」
「え、こっちもまだ行ってないじゃない」
「でもそっち特に何も無いけど」
全く何もない訳では無いが、足を踏み入れる事はほぼ無い場所だ。巌戸台駅の方がよほど馴染みがある。
「白河通りがあるでしょ」にっこりと綺麗に微笑んだ綾時に流石に困惑した。
「行ってどうするの」
「だって白河通りもこの街の一部だし。この街を歩いて見て回ってるんだから、そりゃ行かないといけないでしょ」
そう言われると強く否定も出来ない。反論も出来ないでいると、手を引かれているせいでどんどんそちらの方へ向かって行ってしまう。手を繋いでいるというより、半ば引っ張られている形だ。良い切り返し方が思いつかないまま、出来れば忘れておきたい記憶がある方へと連れて行かれる。
「……あんまり良い思い出ないんだけどな」
「あれ、入ったことあるの?」
「……満月の時だったけど」
「ああ、あれね。あーびっくりした」
誰か一緒に入るような相手が居たのかとびっくりしちゃった、と綾時が笑う。そう、入ったといっても七夕の大型シャドウ戦で、理不尽に平手打ちを食らわされたそれだ。あれでは嬉しくもなく、むしろ悲しい。
「ねえ君が入ったことあるのに僕はないって、それって不公平じゃない?」
「あれ、入ったことないの?」
「僕と入った覚えがある?」
「無いけど」
「あれ、なら浮気を疑ってたの」
「そういうわけでもないけど……なんか入ったことありそうだなって」
「誰と?」
「だ、誰とかは……想像できないけど」
「ほらやっぱり、入るとしたら君とでしょ」
「……やっぱり入るの?」
「入るよ?」
「ほんとに?」
「うん。影時間だしばれないし、大丈夫でしょ」
「まあ、そうだけど」
なら問題ないね、とどんどん手を引かれる。立ち並ぶビルの影が近付いてくる。あまり掘り返したくない、七夕に見た景色が頭を掠めていく。頭を振る。対照的に綾時は実に楽しそうだった。それが何となく悔しい。
「気にはなってたけど、ほら結局入る機会ってなかったからね」
「……影時間の時はベッドの上に棺が並んでたりして結構居たたまれないけど」
「えっ、ご使用中の部屋に入ったの?」
「……いや、まあ」
全部の部屋を片端から開けまくったとは言えない、というか見ていたくせに。視線を地面へと逃がす。手を引く綾時がくすくす笑った。
「空室くらいあるでしょ」
まあ、そうだけど。
3
発車アナウンスが聞こえる。何人かの学生が慌てて駆け込んでくる。ポートアイランド駅から発車するモノレールの中は、帰宅する月光館学園の学生で賑わっていた。ざわざわと騒がしい。この後の予定を決める声だとか、噂話に花を咲かせる声だとか、テストからの解放感を露わにする気の抜けた声だとか。それらがヘッドフォン越しでも賑やかに届いてくる。学生以外の乗客も居たが、そちらは少なかった。
ドアが閉まり、ゆっくりとモノレールが進みだす。閉じたドアに肩を預け、流れ行く景色に視線を投げる。ゆっくりと、次第に速く色々な物が通り過ぎていく。見慣れた建物に、見慣れた看板。通り過ぎる一瞬に看板に書かれた文字を目で追っていると、突然肩を叩かれた。
驚いて顔を上げる。目の前で順平が、何故かびっくりしていた。
「よっ……つかお前さ、ちったあビックリしろよ。リアクションなさ過ぎて逆にこっちが驚いたっつーの」
「……いや、凄く驚いたけど」
「ウソつけ。それのどこが驚いた顔だよ」
それだ、と順平の指先が左目の真ん前を指差した。突き付けられる指先をじっと見る。(どれだ)と思いつつ瞬きを繰り返す。
「いや、うん……お前はそういうやつだよ」
溜息を吐きながら順平が向かいに立つ。湊と同じ様に、景色が流れていくドアに肩を預けた。
「そういやあ、さ。俺ら同じ寮なのにこうして帰り一緒になるってなかなかないよな」
「……そうかも」
「だよな」
うん、とお互い頷くとそこで会話が途切れた。
そもそも巌戸台分寮のメンバーが誰かと一緒に寮へと帰ってくること自体稀だったように思う。みなそれぞれ別々に帰宅する。属している部活も活動も、SEESという一点を除いてはバラバラだった。
視線を外へ戻す。海が見える。水面が光を反射し輝いている。遠くにはムーンライトブリッジも小さく見える。景色はどれも、夜に眺めるそれとは違う。日光を反射する水面と、影時間の月光を反射する水面。あまりに違い過ぎて、非現実的に思えた。
首を少し捻ると、まだ月光館学園が見える。高等部の校舎、それから端には天文台。先頭車両に乗っていたから、前を見ればモノレールのレールも見える。上を見上げれば、綺麗な青空。同じ青だったが、綾時の目の色とは、やはり違っていた。
「なあ」
向かいの順平が、帽子のつばを掴みながら小声で話し掛けてくる。景色をなぞっていた視線を、順平へと移す。目が合うと少しだけ体を寄せ、ひそひそと耳打ちされる。
「テスト終わったしさ、今日あたりタルタロス行っとかね?」
「……ごめん、今月いっぱいは行かない」
同じように小声で返す。近くにあった順平の顔が、離れていきながら顔色を大きく変えた。少しそわそわとしていたそれから、一瞬で塗り替えられる。
「お前、まさか」
とても低い声色は顕著に怒気を孕んでいた。今にでも殴りかかってきそうだ。こういう顔を向けられたことは、今までに幾度かあったなと思い出す。順平の言葉はそれ以上続かなかったが、言いたい事はありありと伝わってきた。
――綾時を、殺す気じゃねえだろうな
「違う」
ゆっくりと首を振る。「それだけは、違うから」
順平の目を、真直ぐに見据えそう告げる。じっと、逸らさずに見詰めると、順平がたじろいだ。
「……なら、いいけどよ」
そこでまた、会話は途切れた。お互い視線を逸らし、それぞれ窓の外の景色へと、意味なく視線を移す。
思えば、順平と二人で長く会話したことはそうないかもしれない。バカする時は他に必ず誰か居た。帰りにどこか寄り道しようか、というときも他に誰か居た。それが友近だったり、綾時だったり。
景色が巌戸台駅へと近付いてくる。何かやけに視線を感じる。少しだけ視線を移すと、順平がちらちらとこちらを伺っている。視線を向けては逸らしを繰り返すばかりで、話し掛けてくる訳でもない。気付かなかった振りをして、海で光る水面の揺らめきを眺めた。
車内にアナウンスが流れる。もう直ぐ駅に着く。
「あ、のさ」
「……何」
「お前さ。綾時と割と仲良かったよな」
「まあ」
「あー、なんつうの。お前ってあんまり人を近寄らせないオーラみたいなのが出てんだよ。踏み越えてほしくありませーんって境界線がありあり見えるっつうか、とにかくそんなんなんだよ」
視線を彷徨わせなが、順平が話す。心なしか失礼な事を言われている様な気もする。だが順平はまだ言葉の続きを探している様だったから、何も言わず視線だけを向けた。変に言い返すと、どうしても喧嘩の様になってしまう。
「……そんなお前が、さ。綾時相手にだけは、その境界線を踏ん付けて入って来られても嫌がらなかったなーって思ってよ。あー、あれだ。お前綾時の事好きだったよな」
「……えっと」
どういう意味か、と聞き返すべきか少し悩む。だが順平はこちらの反応など全く気にしていない様だった。むしろ今までの言葉は全て独り言だったかのように、外の景色を眺めながら考え込んでいる。
ふと、順平が意を決したようにこちらを見た。しゃんと背筋を伸ばし、視線を合わせてくる。
「湊に、綾時のことゼッテー殺させねえから」
「だから」
殺そうなんて思っていない、と反論しようと口を開く。その前に順平が掌を立てて制した。
「いや違うって、そーじゃなくってさ……あー、いいや忘れてくれ、なんでもねえ」
「なんだよ」
言いかけて言葉を切るものだから、続きが妙に気になった。順平は顔を逸らしてごまかそうとする。「おい」と言葉を掛けると、丁度巌戸台駅に到着した。車両がゆっくりと止まり、アナウンスと当時に扉が開く。ラッキーとばかりに順平の顔が明るくなる。
「おい、順平」
「何でもねーよ!」
バン、と背中を順平の掌に叩かれる。思いの外強い力で、一歩よろめく。その隙に追及の手を逃れるように、順平が車内から大きく一歩飛び出した。
下車する学生の波に押されながら湊も外へ出る。その波の先頭に居た順平はもう既に姿すら見えない。「順平!」と呼ぶと、人混みの中から手が上がった。その手の下に順平が居て、こちらを振り返り大きく手を振った。
「じゃーな!」
人混みの中、ちらりとだけ見えた順平の顔は満面の笑みだった。あんな風に笑う顔を、久々に見た気がする。何か吹っ切れた様な、晴れやかな。
呆然と立ち尽くしていることも出来ず、人の波に押される様に歩き出す。
(じゃーなも何も、同じ寮に帰るのにな)
◇
たこ焼きの上の鰹節は踊らない。あれが踊っているというのなら、しんなりと水気を吸ったこれは、死んでいるとでも言うのだろうか。踊らない鰹節の乗った、オクトパシーのたこ焼きを綾時がぱくりと口に居れた。
「君の持ってきてくれる食べ物が、今や僕のちょっとした娯楽だよ」
嬉しそうに笑いながら咀嚼する。購入したのは夕方だった為、当たり前の様に冷え切っている。だから鰹節が踊らない。買った時は多分踊っていた。
咀嚼し嚥下したところでハッとした綾時が「でも一番は君が来てくれることだけどね」と付け加えた。そんな弁解をされなくても、食べ物にまで嫉妬するほど困っていない。
「でも持ってくるまでに冷めちゃうのがな……」
「僕は全然気にならないけどな。君が選んできてくれたってだけで凄く嬉しいからね」
「ふうん」
目の前に広がる巌戸台駅横の商店街は、当たり前の様に閑散としていた。夕方には賑わっていたオクトパシーの屋台も、今はただ真っ暗だ。ここにある灯りは月光のみで、人影もなくあるのは棺だけだ。こんな時間でも帰宅する人影は少なくない、だから点々と棺が並んでいる。それを眺めながら、たこ焼きを食べる。時折思うが、とても酔狂だ。
綾時は黙々とたこ焼きを食べている。その顔は実に嬉しそうだ。けれどやはり、温かいうちに食べさせてあげたかったと思う。いくら猫舌といえどもこれは冷え過ぎだし、やはり温かい状態で食べるのが一番だ。
熱から遠い、この世界から断絶した影時間が少し悲しかった。直ぐそこにある様に見えて、影時間は日常からとても、遠いところにあった。それが綾時との間にある距離の様で、認められはしなかったが。せめてもと最近はマグボトルに暖かい飲み物を入れて持ってきている。缶コーヒーではあっという間に冷めてしまうのだ。
(今度、食べ物も作って持ってようかな)
影時間になる直前に作れば、温かいうちに持ってこられるかもしれない。上手く作れるかは分からないが、壊滅的な腕ではなかったはず。作れそうな食べ物のレシピを頭の中から探す。
「そういえばさ」と綾時が今思い出しました、と言わんばかりの口調で呟いた。お惣菜からお菓子までぐるぐる回っていたレシピから意識を戻し、綾時を見る。目が合う。
「本当に今更なんだけど。こうしてデートして、影時間から普通の時間に戻る時って大丈夫なの?」
「なにが?」
「人目とか」
「ああそれは大丈夫。むしろ何年やってると思ってるんだよ」
「そっか、それもそうだよね」
影時間に適合したのは、昨日今日ではない。もう十年もこの時間と付き合っていている。綾時だってそれを知っているだろう。人の目は分かり易く棺の姿をして立っているのだから、それを避けるだけで良い。なんてことはない。
綾時の肩にもたれ掛かる。ベンチに二人身を寄せ合い、こうしてたこ焼きを食べているのも、目の前の棺と化した通行人には見えない。ここで繰り返す会話も、呼吸の音も、何もかも自分たち以外の人にとっては無かった事になる。だからこそ、こうして堂々と寄り添っていられるのだけれど。
直ぐ側にある綾時の手を、指先を掴む。思い起こせばこうして人前で綾時に触れる事は、まずなかった。それは羞恥心や自尊心。それから、色々。人目はそれだけで沢山の物を抑圧させた。けれど今は、目の前に人が有るが、人目は無かった。
触れる綾時の指はいつもの様に暖かかった。
ふと視界が陰った。陰りを見上げる様に顔を上げる。すぐ目の前に綾時の顔があった。ぱちりと瞬きをするとキスをされた。綾時の唇が暖かいのか、自分が冷たいのか良く分からなかった。ゆっくりと瞬きを終え、目を開ける頃に唇は離れた。
「ソース味」率直な感想を口にし、離れていく青色の視線を追う。
「色気ないなあ」綾時は苦笑した。
「飲み物いる? 今日はハーブティー淹れてきたけど」
「ハーブティー? 凄いね、おしゃれだ」
脇にに置いていたトートバッグの中から、いつものマグボトルを取り出す。蓋を緩めると、途端に柔らかな香りが広がる。
「ティーパックを、風花がくれたんだ」
「えっ、それって……バレてた?」
綾時の目に焦りがにじむ。大きく頷く。「バレてた」
「わーやっぱり……流石風花さんだね……。でもそれって平気なの? 皆に止められたりしたんじゃない?」
「ううん。他の皆には話してないみたいだったし……。綾時は元気にしてるかって聞かれたくらいだよ」
「……そっか、風花さんは優しいね」
はい、とマグボトルを手渡す。ゆらゆらと立ち上る湯気を、香りをすんと吸い込み、綾時は目を細めた。
「いい匂い」
ハーブティーに口をつけ、綾時がゆっくりと肩にもたれかかってくる。何口か飲んだ後、そっと返されたので蓋を閉じて足の間に置く。その間もどんどんもたれかかってくる。隙間を埋める様に頭もぴったりとくっつけられた。少し重い。でも暖かい。
「あったかいなー」
思っていた事と同じことを綾時が口にして、少しくすぐったくなる。
(ずっとこうしていられたらいいのに)という言葉を思い浮かべ、口から出さずに飲み込んだ。
ずっとなんて、無い事はもう随分前に知ってしまっていた。
吐き出した息が白い。
触れ合っている部分だけが暖かった。
4
図書館で借りてきたレシピ本を開く。読み古されたそれは、とくに折り目を付けるなどせずともパカリと開いて止まった。同じ様にこの本を借りてお菓子作りに励んだ誰かが居たのだろう。本を見ながら必要そうな道具を集める。巌戸台分寮の台所は、無駄に設備が充実していた。道具はあっという間に揃う。もう一度本を睨む。揃えるべきはこれだけでいいはずだ。
道具を全て流しへと放り込み、蛇口をひねる。汚れをさっと洗い流す。金属製の道具がぶつかり高い音を立てた。勢いよく流れる水にどんどん指先の熱が奪われる。かじかみそうだ。ふと、蛇口に青色と赤色が塗ってあることに気付き、そうかお湯が出るのかと急いでつまみを回す。あっという間に水はお湯に変わり、湯気が立ち上った。
ざあざあと流れ落ちる水音と、金属が擦れる音の中に、ガタンという音が混じった。背後から、つまり台所の入り口から聞こえた音の正体を確かめようと振り返る。
ゆかりが幽霊でも見たかのような顔で立っていた。
「なんだ……君かあ。もー驚かさないでよ」ゆかりはあからさまにホッとした顔を見せ、壁へもたれ掛かった。お湯に手を暖められながら首を傾げる。
「もしかして幽霊だと思った?」
「あっのね! 今何時だと思ってるのよ。もう十一時近いのよ。夜中よ。みんな部屋に戻ってる時間でしょ? 誰かこんなところにいるとか思わないでしょ?」
「えっと、ごめん」
あまりに早口で話すから、きっと怖かったのだろう。素直に謝るとゆかりは少し顔が赤くなった。やっぱり幽霊かと思ったらしい。「泥棒だったらフライパンでぶん殴ってたんだから」と誤魔化す様に言った。
「ところでさ、こんな時間に台所で何してたわけ?」
「えっと。カップケーキ、作ろうと思って」
洗い終わった道具の水気を布巾でふき取る。ゆかりが目を丸くした。
「えっ、今から?」
「うん」
「作って……食べるの?」
「まあ」
「今から?」
「うん」
頷く。ゆかりはハッと何かに気付いたように目を瞬かせた。それから盛大に、長くため息を吐きながら台所へと入ってくる。テーブルに置かれている道具と材料を目でなぞりながら、湊の直ぐそばまでやって来た。開いてあるレシピ本を覗き込む。そしてざっと目を通すと、ガバリと顔を上げた。視線は壁に掛けられている時計を向いている。つられて同じように時計を見る。時刻は間もなく十一時だ。
時計から視線を映したゆかりが、こちらを見ている。ばちりと目が合う。
「バカ!」
怒鳴られた。
何故怒鳴られたかも分からず、今度はこちらが目を瞬かせる。ゆかりがバカと言うのは決して珍しい事ではない。だがそれが向けられるのは大抵順平で、自分が言われたことはほぼ無い。思わず驚きのあまり固まる。
ゆかりは置いてあったレシピ本を持ち上げた。
「ねえ、これどっち作るの?」
「え?」
「右のページか左のページかどっちを作るのって聞いてるの!」
「み、右」
迫力に気圧されながらプレーンのカップケーキが載っている方のページを指差す。ゆかりは再び、今度はじっくりとレシピを目でなぞった。
「え、ちょっとこれ焼き時間三十分かかるじゃない。うっわもう早くしないと間に合わないよ! もうホント、バッカじゃないの!」
「えと、岳羽」
「だから、早く作り始めないと間に合わないよ、って言ってるの。もう一時間ちょいしか無いんだから。もー早く!」
退いて、と言われ素直に散歩後退する。今日のゆかりは何だか迫力があって怖い。ゆかりはレシピ本を元の様に置くと、流しで手を洗った。それから素早く移動し、秤と薄力粉、それから洗い立てのボールを手繰り寄せる。流れるような一連の動きを呆然と見ている場合ではない。「ちょっと待って」と手を挟む。
「手伝わせたら悪いよ。こんな時間だし」
言えばゆかりにキッと睨まれる。少したじろぐ。
「へえ、なら聞くけど。カップケーキ作ったことは?」
「……ない、です」
「お菓子作りの経験は?」
「……ほとんどないです」
「で、今何時?」
「……十一時です」
「間に合わせたかったらつべこべ言わないの!」
ほら、と薄力粉を押し付けられる。ゆかりは「ああもう!」と怒りながら呻いていて少し怖い。それからぴたりと動きが止まる。腰に手を当て、突然何も言わなくなった。いきなり押し黙ったものだから、少し心配になる。「岳羽?」と声を掛けると、小さくため息が聞こえた。ゆかりは頭を振る。
「何でもない。はい、まずは薄力粉を量るよ」
「……本当に手伝ってもらってもいいの?」
「ううん、手伝わせてほしいの」
そこまで言われて断ることも出来なかった。「なら、お願い」と素直に頷いて封を開ける。ゆかりはテーブルの反対側へ回った。そこから次はこっちね、と材料や道具と手渡しながら指示をくれる。完全に言われるままだが指示は的確だったし、このまま従うのが一番早いのだろう。
十二時になってしまえば電気は止まってしまう。そうなれば今日の影時間に綾時へと持っていくことは出来なくなる。それでは、意味がない。
タルタロスにのぼっている時とは、立場が逆転だ。言われるままにボールの中身をぐるぐるとかき混ぜながら思う。
(どうせ自分で作らないと意味ないんでしょ)とゆかりが呟いた気がした。
カップケーキ作りは主にゆかりのおかげで順調に進んだ。先程いつの間にか予熱しておいてくれていたオーブンへと生地を入れ、スタートボタンを押したところだ。
二人して大きく息を付く。
「これで後は焼き上がりを待つだけだね。時間も間に合うよ」
「うん、良かった……」
どっと疲れた気がする。使った道具を流しへと入れ、蛇口をひねる。ゆかりが洗い物を手伝ってくれる。
「はーもう。クリスマスイヴだってのに私は何をしてるんだか……」
「ごめん」
「あ、ううん君は悪くないってば。私が手伝いたいって言ったでしょ。ただちょっとね、もしかしたらこれが最後のクリスマスイヴかもしれない訳でしょ……あ、勿論これを最後にしたくないけどね」
私はあきらめないから。ゆかりは静かに言った。
洗い流した道具を、ゆかりが拭いてくれる。深夜の台所に、水音と金属が擦れる音が静かに響いた。
「……ねえ」
「なに」
「カップケーキ。持っていくんでしょ」
「……うん」
「美味しくできてるといいね」
「うん」
最後のボールを洗い終え、ゆかりに手渡す。
「岳羽」
「ん?」
「ありがとう」
「ううん。私がしてあげられるのは、これくらいだから」
「え?」
「何でもない。ねえそれよりまだ時間あるでしょ。そこの戸棚にマグカップあるから出してよ」
「いいけど、何するの?」
「ココア、飲みながら焼き上がり待とうよ」
ボールを拭き終えたゆかりが、どこからか取り出したココアの袋を持って笑っていた。
オーブンから漂ってくる甘い匂いに包まれ、ほんの少し話をしながらココアを飲んだ。
◇
息が切れた。部活だけではなくタルタロス内を走り回ったりと、普通の一人よりは体を鍛えている。だから普通に走ったくらいでは息が切れたりはしない。なのに今は息は弾んで呼吸が苦しい。
それを出来るだけ押し殺してベンチに背を預ける。目の前には砂場、少し横にはジャングルジム。真夜中の長鳴神社には、棺の影は無かった。降りたところにはちらほらと立っていたが。
「美味しい!」
ふう、と湊が息を殺す隣で、カップケーキを頬張る綾時は声を上げた。嬉しそうに微笑んで。ほわりと目を細め、口角をゆるりと上げている。その表情は本当に嬉しそうで、少しくすぐったくなる。
「これ凄く美味しい! 手作り?」
「あー……うん」はあ、と息を吐出す。不思議そうに綾時が顔を覗き込んでくる。
「あれ、湊。どうしたの、息切れてるね」
「気にしないで……ちょっと、全力で走った、だけ……それより温かいうちに、食べてよ」
それ、とカップケーキを指差す。そのカップケーキを、温かいうちに食べてほしくて全力で走って、尚且つ息切れを気にされない様に今まで息を押し殺していたのだから。でもバレてしまったならいいか、と大きく息を吐出す。勢いよく肺から押し出された空気は白く煙った。
カップケーキが焼き上がったのが良く見たら十二時ギリギリだった。ゆかりと慌てて焼き立てのそれを袋に詰めて、お礼もそこそこに寮を飛び出した。そこからここまで、多分この一年の中で一番全力を出して走った。
数度深呼吸を繰り返し、落ち着いてきたところで綾時の肩へともたれかかる。
「出来立ての、温かいやつを食べさせたかったんだよ」
「ふふ、嬉しいな。凄く嬉しいよ。温かくて美味しくって、最高のクリスマスプレゼントだね」
にこりと綾時が笑う。その顔から目線をすいと逸らし、鳥居を見上げる。その態度を怪訝に思ったのか、綾時が顔を覗き込んでくる。
「……あれ、今日クリスマスじゃないっけ?」
「そう、だけど」
歯切れ悪く答える。我ながらわざとらしかったなと後悔する。綾時は眉尻を下げた。
「僕はこんなだからプレゼント用意できなくてごめんね……」
「そういうんじゃないよ」
「でも」
「本当に……じゃあ、これでいいよ」
申し訳なさそうにじっと見詰めてくる青い瞳と少し目が合って直ぐ逸らす。綾時の顔に手を伸ばし、口の端についていたカップケーキの屑を摘まみ取る。ぱくりと食べると、味は分からないがほんのりと甘かった。甘いなら成功なのだろうか。
「えっ、ついてた……?」
「うん」
「うわー……恥ずかしい」
口元を手で覆いそっぽを向いた綾時の姿に笑う。綾時が露骨に照れるのは珍しい。湊が笑うと、その笑い声に釣られ視線を戻した綾時も少し笑った。
「折角だから、君も温かいうちに食べてよ」
綾時が紙袋の中に手を入れ、カップケーキを一つ摘まみあげた。五つ焼いたカップケーキは、一つはゆかりにお礼も兼ねてプレゼントし、あとの四つを紙袋に詰めて全てを綾時に手渡していた。味見もしていないから、食べるのはこれが初めてだ。
差し出されたカップケーキを、手を出して素直に受け取る。黄色くてふかふかとしたそれは、まだ十分に温かかった。紙のカップを剥がし、柔らかいカップケーキの端をかじる。ゆっくりと咀嚼したケーキは甘かった。けれど綾時が言うほど美味しい気もしなかった。
「ご馳走様でした」
パンと小気味良い音を立て、綾時が手を合わせた。三個全てを完食したようだ。その食べっぷりには驚いたが、温かいうちに食べて貰えたのだ、それはとても嬉しい。
「はー、美味しかった」
「そんなに美味しかった?」
「うん凄くね。だからあっという間に三つとも食べちゃった」
「ふーん」
にこりと笑った綾時を横目に見る。残ったカップケーキを全て口に放り込み、カップをくしゃりと潰した。
「ねえ、せっかくだし少し遊ばない?」
「いいけど、何して」
「そりゃあもちろん。決まってるでしょ」
綾時は目の前にある遊具を指差した。「まあ、いいけど」
「よし決まりね。美味しいものいっぱい食べたしさ、運動しなくっちゃ」
言うが早いか綾時は立ち上がり、一直線に滑り台に向かった。棚引くマフラーの裾を見送る。カップのゴミを紙袋に詰め、口を捻る。立ち上がり屑籠に向け紙袋を投げ入れた。
ゆっくりと滑り台へ近寄る。既に綾時が梯子を上り、天辺に立ちいざ滑らんと膝を折っていた。自分は特に滑りたいとも思わなかったので、滑り台の目の前にある砂場の横に立って綾時の姿を見上げる。
とてもゆっくりとしたスピードで綾時は滑り降りてきた。一番下に到着すると、膝を折ったままの姿勢で綾時が見上げてくる。青い瞳を縁どる睫毛が二回ゆっくりと上下した。
「……思ったより滑らないね」
「そんなもんだよ」
「そうなんだ」
あからさまにがっかりとして背中が丸くなっている。自分は全く悪くないのだが、妙な罪悪感に駆られた。綾時は気持ちを切り替える様に「よし」と膝を叩き立ち上がる。そのまま目の前の砂場に着地し、またしゃがみ込んだ。
「隣りにおいでよ」と手招きをされ、呼ばれるままに近寄り、同じようにしゃがんだ。膝を抱える様にうずくまると、顔がマフラーに埋まって暖かかった。
綾時は砂場に白い指を伸ばし、地面をなぞった。淀みない動きで指が滑り「望月綾時」の四文字を砂に書いた。
「僕ね、自分のこの名前。結構気に入ってるんだ」
もちづき、りょーじと丁寧な動きで、漢字の横に仮名を振る。癖のない、整った美しい文字だった。
「みんなが呼んでくれた名前だし、何より、君が、呼んでくれた名前だから」
とても愛おしそうに話す綾時の、横顔を伺い見る。目は伏せられ睫毛が影を落としている。怖い程白く透き通る肌をした彼の横顔は、言い得ぬ不思議な儚さを増長させていた。何故だか急に、とても淋しくなった。
「湊」
名前を呼びながら、綾時の指が砂場に名前を書く。有里湊。
「うん」
「湊」
「……なに」
「みなと」
「……りょーじ」
「うん」
「綾時」
「うん、湊」
呼ぶ度に名前は書かれて、あっという間に砂場が二人の名前で埋め尽くされた。整った文字が散らばって雑然とした。何度も何度も名前を呼ばれるので、同じだけ呼び返した。
綾時はその度に嬉しそうに目を細め、青色の瞳をきらきらと瞬かせた。そして時折、泣きそうな顔をした。
折った膝に顔を押し付けマフラーに埋もれると、名前を呼ぶ声はくぐもった。両腕で膝を掻き抱いたのは、何も寒かったからだけではない。
あと何回、名前を呼べるだろうか。ねえ、
「りょうじ」
好きだよ。
◆
星の無い空を見上げほうと息を吐く。
先ほど湊がくぐっていったばかりの鳥居に視線を落とす。別れてからまだほんの数分だ。だがまた直ぐに会える。
僕は影時間の中から一歩も出ていない。永遠に続くこの中、彼が来るのを待ち「また明日」と見送る。切り離された影時間という、特殊な時間の中で繰り返す逢瀬。来たる終わりから目を逸らし、あっという間の一時間をひたすらに追いかけている。
僕と彼の、この歪な逢瀬が始まったのは十二月七日の事だった。
僕はそれを、しっかりと覚えている。
十二月三日の夜、巌戸台分寮で皆に宣告し、姿を消した後からずっと、この影時間の中に引きこもっている。出ることは出来る、でも出る気にはなれなかった。大好きな世界もこの街も皆も、僕とは違うものだと思い知らされた。僕だけがどこまでも異常で異質だった。影時間の中にだけ、ほんの僅かに居場所がある気がした。
僕はそのほんの僅かな居場所に逃げ込んで息を殺した。
誰にも見つからない様に、大晦日まで過ごそうと決めた。誰かと会っていいとも思えなかった。幸いにも影時間に適合しているのはほんの僅かな人間だけだったし、SEESのメンバーがタルタロスへやってでも来ない限り、見付かることは無かった。
懐かしい景色は何処も変色し赤く染まり歪んでいた。そうして僕は大好きだった学校のなれの果て、変わり果てた姿でギコギコと歪む歪な塔を見上げていた。僕はもう、あの月光館学園の姿を見ることは叶わないのだ、と思うと言い得ぬ虚無感に襲われた。心の真ん中が齧られて穴が開いた気がした。心なんて昔は無かったくせに。ぽっかりと空いたその穴をすりぬける風の冷たさに、僕には心があったことを認識させられた。何の疑問も抱いていなかったが、それは異常なことだった。死が心を得るなんて、おかしな話だった。
そして、気付いた時には隣に湊が立っていた。
いつやって来たのかも分からなかった。僕はただ茫然とタルタロスを見上げていただけだった。そうしたら足音がした。ハッと振り返ったら、もう隣りに湊が立っていた。僕はただひたすらに混乱した。
(なんでなんでなんでなんでなんでなんで)
疑問の言葉ばかりが頭の中に湧いて出てくる。SEESが今日ここへやってくる様子は無かった。だから油断していたのかもしれない。でも、どうして。なんで湊がここに。隣りに立っている。
何か言わなくては、と思うのに言葉は出なかった。ただ茫然と彼の姿を、青色をした硝子玉の瞳に映した。湊は何を言うでもなく、何をするでもなく、ただ僕の隣りに並んでいて、先ほどまで僕がそうしていたように空を、タルタロスと化した学校を仰ぎ見ていた。
少し猫背で、手はポケットに入れて。グレーダイヤモンドの綺麗な瞳にタルタロスを映しながら、ぱちりぱちりととてもゆっくり瞬きを繰り返す。その横顔は、つい数日前まで学校で見ていた彼の横顔と、寸分違わぬものだった。
まるで、死の宣告など、無かったかのように。
でもどうして。なんで来たの。なんで何も、言わないの。
問いかける言葉をずっと、必死に探していると「りょうじ」と名前を呼ばれた。僕の心はそれだけで溢れそうになる。
ゆっくりと僕を振り返った湊は、優しく柔らかに、笑っていた。
「……なんで、きたの」
無駄な空気を吐出しながら、僕はやっとの思いで言葉を紡いだ。
「散歩」
「、そうじゃ、なくて」
そうじゃなくて、そんな事が聞きたい訳では無くて。どうして、何事も無かったかのように、僕の隣りに立っているの。笑っているの。
「だって、僕は」
人じゃない。
そう言おうと、僕は胸の上のシャツを握りしめた。切羽詰まった声が出た。人じゃない。その一言が上手く口から出て来ない。きっと情けない顔をしていた。
僕が必死に言おうとした言葉は、湊が伸ばした人差し指に遮られた。
湊の指が、僕の唇に触れる。
喋ってはいけない、そう言うように。
「言わないでいてよ」
その時見た湊の顔は、見た事も無いとても柔らかな笑みだった。聞いた事も無い穏やかな声色だった。そう言われて僕は、喉元に詰まっていた言葉を全て、飲み込んでしまった。
一人きりの神社は寒い。そんな気がした。そもそも寒さも何も、ほとんど感じないのだけれど。
言わないで、見ないで、知らないふりをしていても、僕はどうしようもなく人ではなかった。それでも吐いた息は白く煙る。それが不思議でたまらなかった。
側にあるジャングルジムへ近寄り手を掛ける。ひやりとした温度が伝わる。上を掴み、足を掛けのぼる。靴の底がカツンと音を立てた。
湊はあの日から毎日僕の元へとやってくる。影時間になる度にやってきて、傍に居てくれる。何も言わず、何も追求せず、本当に何も無かったかのように振る舞い、笑ってくれる。あまり表情を崩すことのなかった彼の笑みはとても貴重で、それが惜しげもなく向けられることにどうしても高揚した。
何事も無かったように接してくれる湊だったが、日付と、僕が人ではないという話だけは嫌がった。本人がそう言った訳では無いが、明らかに表情は曇り、話題はするりとすり替えられた。クリスマス、と言った時は顕著だった。きっともう、残された時間が僅かだからだろう。元よりほんの僅かしかなかった時間が、途方もない速さで擦り減っていくのが見えてしまうからだろう。湊は全て分かっている。分かっていて、気付いていて、それでも知らないふりをしている。どこまでも、どこまでも。
僕たちのこの現状が途方もなく歪んでいる事には、最初から気付いていた。分かっていたのは僕も同じだ。分かっていたけれど、僕は彼の隣りを離れられなかった。知らない振りなんて、振りでしかない。問題を先送りにし続けるだけだというのに。
姿を隠してしまう事だって、出来たはずだ。けれど、彼が来てくれることを心待ちにしてしまう。彼が僕を見つけた時に見せる、ほっと笑う顔を期待してしまう。
僕は結局彼と一緒に目を閉じ、耳を塞いだ。僕たちはどこまでも同罪だった。
それでも僕は彼を待たずにはいられなかった。離れている事の方が不自然なのではないかと思うほど、僕は彼を求めて止まない。僕にとって彼は全てだ。この人の姿を獲得し得たのも、彼と、話したいと思ったからに他ならない。
そうでなければ僕は人である必要なんて無かった。
それはただ、奇跡だった。
よじ上ったジャングルジムの天辺に足を付ける。手を離し立ち上がり、方向を変える。巌戸台分寮のある方向。彼が来るだろう場所を見詰める。足元からは風が吹き込むようで、何だかとても寒い場所に立ったような気がした。
「みなと」
唇の隙間から小さく呼んだ名前は、誰にも届くことなく影時間の赤い闇に呑まれて消えた。
きっと彼は、僕を殺してはくれないだろう。
僕の願いは彼に殺してもらう事だ。みんなが全てを忘れ、残り僅かな時間を穏やかに過ごしてくれること。でも、きっと僕は殺されない。誰も僕を殺そうとはしない。
本当に殺してほしいと願うなら、こうして僅かに残された時間を共に過ごすべきではなかった。人として接してもらえることを嬉しく思ったりしてはいけなかった。殺してもらえなくても、それは最早自業自得でしかない。側に居てほしいと、早く会いに来てほしいと願った、罰だ。
この共に過ごせる僅かな時間も、もう終わってしまう。影時間は毎日一時間。たった一時間。僕たちに残されたのは、全部で二十四日間。
たった、一日分だけの逢瀬だった。
5
長鳴神社の鳥居をくぐる。
数日前、ここに着いてからもうずっと、待ち合わせ場所は変わらずここだ。港区をぐるりと懐かしむ様に辿ってきた終着点が、ここだ。綾時はこれ以上進もうとはしなかった。この先にあるのは、もう巌戸台分寮だけ。
辺りを見回す。綾時の姿が無い。いつもならそこのベンチに腰かけて待っているのに。どうして、と視線を泳がせていると「みなと」と少し上から声がした。見上げれば綾時がジャングルジムの天辺に立ち空を仰いでいた。
「何してるの」
声を掛ける。綾時がこちらを向く。
「上っておいでよ」
夜の闇の中で、薄く発光するかのような綾時の白い指が手招く。素直に引き寄せられ、ジャングルジムに手を掛ける。鉄は冷え切っていて冷たい。勢いをつけて一番上まで上る。両手を離し立ち上がる。綾時の隣りに並び、同じ様に空を見上げた。
「結構見晴いいでしょう」
「……そうかな」
見上げた空は、大きくビルに遮られたりはせず確かに良く見えた。だがそれだけだ。見晴が良い、というほどでもない様に思う。薄く月が浮いていて、星は見えない。視界の端で吐いた息が白い川の様に棚引き流されていく。
首が痛くなり、空を見上げるのを止めた。俯く。そらから綾時の横顔をなんとなく視線だけで見上げる。そっと手を伸ばし、綾時の指先に触れる。少しだけ暖かい指をそっと掴むと、空から視線を下ろした青い瞳とかち合った。
視線が交わる。瞬きをする。瞬いで目を閉じた一瞬に、掴んだ指を掴み返され、勢いよく引かれた。足場の少ないジャングルジムのから落ちそうになり、慌てて体勢を整える。結果、引き寄せられるままに綾時の腕の中にすっぽりと納まることになった。
「……危ないってば」
「……ごめん。少し、こうさせて」
背中に回る腕に力が籠る。ぎゅうと抱き寄せられる。いいよ、と答える代わりに抱き締め返した。不安定な足場で抱き締め合う。慌てたことで少し早まった鼓動が落ち着いてくると、心拍音が綾時と同じになっていく。そのまま重なり合って、一つの心臓しかないような、そんな錯覚を起こす。
「この後どうする。寮の方まで行く?」
「いや、やめておくよ。寮は明日にする」
「そっか」
背中に回っていた手がするりと上に移動する。湊の髪を慈しむ様に撫でる指の動きに、そっと目を閉じる。このままもう時など進まなければいいのに。
ふと綾時の腕から解放された。ぱっと拘束が消える。いきなりの事に驚いてよろめき、数歩後ずさる。後ろを見ていなかったせいで、最後の一歩がジャングルジムの外へと滑った。宙に浮いた足の所為でバランスを崩し、体が後ろに傾く。
「わっ……!」
落ちる。
そう思ったが、落ちなかった。間一髪、綾時の手に腕を掴まれガクンという衝撃と共に止まる。そのまま引っ張り上げられ、綾時の胸へと逆戻りした。ほっと息を付く。驚くほど心臓がどきどきと音を立てていた。
「……びっくりした」
「ごめんね、僕がいきなり手を離したから。大丈夫?」
「うん……ありがと」
「危ないし、降りようか」
頷き、手を引かれるままに下へ降りた。
ジャングルジムを降りた後は、いつものベンチではなく、鳥居の下へ移動した。石段の上に肩を並べて座る。綾時の隣りにいると不思議と落ち着いて心地いい。けれど今は、少しだけ淋しい。
こうして並んでいると十一月の事を思い出す。あの時は夕暮れの景色だった。ここから見る景色は、石垣に切り取られた小さな世界の様だった。人が現れては消えていく。通り過ぎていく。学生や主婦やそれから、色々。それを眺めながら、こうして並んで他愛もない会話をしたり、何も話さず無言で隣に居たり。
今見えるのは冷え切った地面だけ。誰の姿もない。今ここにあるのは、自分と綾時の二人だけなのではないか、そう思ってしまう。事実、そうなのかもしれない。
懐かしむあの十一月の日々とは、景色も気持ちも、何もかもまるで違っていた。
「りょうじ」
「なあに」
「すきだよ」
「ふふ、嬉しいなあ。そうやって言葉でもらったのは初めてだな」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「そっか」
てっきり言ったものだとばかり思っていた。だが思うばかりで、口から出したのは初めてだったのかもしれない。こんなことなら、もっと沢山、何回でも言っておけば良かった。
「僕も――」
そう言った綾時の言葉は続かなかった。続く言葉は飲み込まれて消えた。息を飲んだ気配に顔をちらりと伺い見る。綾時は目を伏せ、少し俯いている。視線は膝の上で組んだ指先を向いている。
僕も。僕もなんて?
どうして言葉を飲み込んだのだろうか。
どうしてそんな顔を、しているのだろうか。
綾時は膝に手を付き、ぐっと立ち上がった。それを見上げる。目の前に手が差し出された。白い綺麗な手だ。
「そろそろ時間になるよ」
さあ、と促され手を取る。掴んだ手を引かれて立ち上がる。石段を下りていく綾時の、その後に続く。階段を降り切ったところで歩みが止った。同じ様に隣りに並ぶ。
「みなと」
名前を呼ばれ、指先を引かれる。綾時を見上げる。
ゆっくりと、その時の景色がスローモーションで見えた。視界の端で揺れた黄色いマフラー。ふわりと揺れる前髪と、その向こうで光る綾時の目。青色の目が軌跡を描きながらゆっくりと近付いてくる。睫毛が瞬きに合わせ揺れる。
そうして優しく触れるだけのキスをした。
唇が離れても綾時の顔は直ぐ側にあった。額が触れ合う。吐息も届く、間近な距離。
「ねえ、みなと」
「なに」
「最後まで僕を望月綾時として扱ってくれて、傍に居てくれてありがとう」
「……りょうじ」
「本当に。ありがとう、湊」
「綾時」
綾時が離れていく。まるで最後みたいに言葉を紡いで。
離れてしまいたくなくて、名前を呼んだ。待ってと言えないうちに繋いでいた指先が離れていく。離れたところが冷たい。寒い。淋しい。
お願いだから待って。
まだ行かないで。
本当はまだ、沢山話したいことがあったはずなんだ。もっとずっと、隣りに居て欲しい。別れてしまいたくなんてない。殺して欲しいなんて言われる日なんて永遠に来なければいい。何も言わなかったんじゃない。言わないでいたんじゃない。ただ終わりが来てしまう事を認めたくなくて。
綾時が人間じゃないなんてどうでもよくて。
居なくなってしまうなんて、信じたくなくて。
「君がね、僕を人として扱ってくれるの嬉しかったよ。ありがとう。本当に。それから、ごめんね」
綾時は青い目を細めて笑っていた。美しく。儚げに。
「綾時、まっ」
待って。とは言わせて貰えなかった。綾時の白い人差し指が、自分の唇に押し当てられる。「言わないでいて」って、それは僕が言った言葉じゃないか。
「じゃあ、また明日ね」
いつもと変わらない、別れの挨拶を残して綾時の姿が見えなくなる。
景色が静かな夜の色に戻り、影時間が、明けた。
誰も居なくなった神社を見上げる。寒さに肩を竦めマフラーに顔を埋める。
時計を見る。
時計は十二月三十一日、0時を指していた。
晒している素肌が寒い。
時計から目を逸らし、手をポケットに押し込んだ。
吸い込んだ冬の空気が冷たい。
息が白い。