天井一枚

(爆轟)

 

 



「爆豪の部屋って、俺の部屋の真下なんだな」
 轟焦凍があまりに今更に、しかし初めて世界の真理に気付いたように呟いたのが数日前。今までどうやって気付かないで生きていたのか疑った数日前。入寮初日からとっくに気付いて、知って、色々思いを巡らせていた爆豪勝己は酷く驚いた。
 そんな、数日前。



 その話がどう繋がってこうなるかなど、察しのいい爆豪でも分からないものだ。
 いつもよりも遅い時間に自室へ戻り、机に向かいノートを開く。とっくに片付けているはずだった課題に着手する。これほど遅くなったのは、単純に風呂上りに一回の共同スペースで捕まっていたからだ。
 クラスの中でも賑やかな方のメンツに取り込まれ、適当な雑談を交わして過ごした。だんらんと言えば聞こえが良く、無駄な時間と言えば聞こえが悪い、そういう時間。
 時計の短針が上へ上へとせり上がっていくのを眺めながら解散し、部屋に戻った時には二十一時を回っていた。
 未だ真っ白な課題に舌打ちをした時、スマートフォンがちかりと光った。緑のランプが小さく点滅する。
 ロックを解除し確認したメッセージは、轟からのものだった。「今から行ってもいいか」というだけの素っ気ない文字が並んでいる。それに「構えねえぞ」とだけ返事をした。すぐに既読が付くがそれ以降返信はない。スマートフォンを机に放り、ペンを取る。
 本当に返事が来ない。つまり来る気らしい。
 分かっただとかそれでもいいだとか、いつ来るだとか。何か言葉はないのかと思わないでもない。だがそのようなことを気にしていては、顔に似合わず雑把なあの男と付き合ってはいられない。母親への手紙は筆忠実だというのに、こちらへの連絡は筆不精な奴だ。
 隅に避けてあったローテーブルを部屋の真ん中に寄せる。ベッドの足元に放り投げていたクッション二つを掴んで床に置く。机の上から教科書とノートと筆記用具を持ってきてローテーブルに置き、クッションに座った。
 それから部屋の入り口を見る。
 課題を始めてから声を掛けられ、集中を途切れさせたくなかった。来るならサッさと来いあの野郎と扉を睨んでいると、不意に背後から音がした。
 反射的に振り返る。ベランダから足音に似た物音が、確かに聞こえた。注意深く気配を探る。身構える程危険なものではない様子だが、だからといって正体はまだ分からない。
 爆豪は当然、轟がベランダからくるとは想定していなかったのだから。
「爆豪」
 自分の名前を呼ぶ声と硝子戸を叩く音が同時に聞こえた。
 驚くような気の抜けるような呆れるような、そんな気持ちになる。膝に手を突いて立ち上がり、カーテンをめくる頃にはすっかりあきれが勝っていた。言葉尻にため息が滲む。
「どっから来てんだよ、お前」
 鍵を外し扉を開け、夜風と一緒に轟を部屋に招き入れる。変に疲れた気がする。人の気苦労を察知しない轟は「思ったより簡単に来れるな」と色違いの瞳をちかちかとさせながら言った。
「前に、俺の部屋の下が爆豪の部屋だって気付いただろ」
 そうやって、この世の常識を世紀の大発見のように語る轟と向かい合わせに座る。とっくに気付いていた、と言ってやりたかったが言えなかった。ずっと気にしていたと伝えるようで負けた気分になりそうだ。
 返事も何もせずにノートを開く。そういえば轟は靴を履いていなかったなと今気付く。どうしようもないドラマで見かける「靴を持って隠れろ」というシーンはやってこないで済むらしい。元よりそのような茶番をする日はこないのだが。この関係を大々的に公表する気はないが、大げさに隠す気もない。
 ただ轟は少しだけ気にするらしい。
「市街地の救助訓練に比べたら、ベランダ一階分降りるくらいなんてことねえな」
「……だろうな」
「これでこっそり行き来できるな」
 そうはにかむ轟は、クラスメイトに見つかり冷やかされるのが恥ずかしいらしい。
 上手い切り返しのボキャブラリーがなく、しどろもどろになるからだろう。本人がそう言っていた。付き合い始めたことを緑谷に打ち明けた際に、しどろもどろになってしまったと、しどろもどろに話された。その時爆豪は、何を言われても基本すっとぼけた返事をするこいつにも、羞恥でしどろもどろになることがあるのだなと驚いたものだ。
 少し前にもこの部屋の前で切島とばったり出会い、しどろもどろになっている様子を見かけた。切島も知っているのだから気にすることもないだろうに。そうでなくても「勉強しに来た」など誤魔化せばいい。素直に言うせいでややこしいことになるのだ。
「まあ、階段まわるよか早えだろうな」
 適当な相槌を打ち、シャーペンの芯を繰り出す。教科書をめくると、轟の視線がじっと手元に向けられた。
「爆豪まだ課題終わってなかったのか、珍しいな」
「さっきまで下に居たんだよ」
「それでさっきのか」
 構えない、の意味を理解したらしい轟は、立ち上がるとマガジンラックへ向かった。そこから適当な雑誌を一冊見繕うと戻ってくる。趣味が合うわけではないのだから読んでも面白いものかは分からないが、この部屋で暇つぶしをする時はその辺にある雑誌をめくるようになった。
 すっかり勝手をするようになったものだ。読み終えれば元に戻して帰るので、咎める理由は何一つない。だが「あれしていいか」「これしていいか」と問い掛けられていた日々のことを思うと少しばかり懐かしくもある。もっと我が儘を言って勝手をしてくれてもいいと思ったこともあるが、すっかり記憶の彼方だ。
 爆豪のスペースに居ることに慣れ切った轟が、向かいで雑誌を眺めている。
 これほど時間が経って初めて部屋の位置関係に気付いたことを、いっそ天才だと言って褒めてやりたいほどだった。
 勝手に時間を潰す轟と一旦放置し、課題に着手する。
 元々はローテーブルもない部屋だった。机で課題をこなす爆豪を待つ轟が、ベッドの縁に座ってそわそわしていたこともあった。向き合う方が効率が良いなと思い「お前も課題持ってこれるだろ」という言い訳を被せて購入したことも、あっという間に昔の話だ。
 ぺらりとページをめくり、サラサラとペンを走らせる。集中して作業をこなしていると、向かいの轟が立ち上がった。何処に行くのかと一瞬だけ視線を向ける。クッションと雑誌を手に持った轟はぺたぺたと歩き、爆豪の背後に回った。ぽすんとクッションの放り投げられる音が聞こえた。
「邪魔だったら言ってくれ」と一言背中に掛けられる。
 気を使ったゆるやかな重みが、爆豪の背中に掛かった。さらりと雑誌のページをめくる音も小さく聞こえてくる。
 良いとも悪いとも答えず、再び課題へと目を落とす。じんわりと伝わってくる体温はあたたかい。猫みたいだなと、少しだけ思う。
 ぺったりと背中にもたれかかられ、髪に首筋をくすぐられるとこそばゆい。ムッと眉を寄せ、深々と息を吐き舌打ちを一つ。課題に意識を沈ませる。


 最後の一問を解き終わりふっと意識を浮上させた時、ちょっとした異変に気が付いた。
 妙に静かだった。背中に居る轟へ意識を向けると、寝息と思われる落ち着いた呼吸が聞こえてくる。寝やがったなと呆れて眉をひそめる。
「おい、とどろき」
 声を掛けるが返事はない。
 振り向くように体を捻ると、背中に触れていた体温がずるずると傾いていく。驚いて手を伸ばし、指先に触れた触れた轟を適当に引っ掴む。ぐいっと引き寄せながら体の向きを変え、どうにか抱きとめた。
 それなりに乱暴に引っぱったはずが全く起きる気配がない。起きようという気がないというべきなのだろうか。
「おい」ともう一度声を掛けるが返事はない。すやすやとしか表しようのない寝息を立てたままだ。
 こいつはこれでいいのかと頭を悩ませる。気を許されているとのんきに喜んでいいものだろうか。もう少し危機感を持った方がいいと怒るべきなのだろうか。どうしてそのようなことを悩まなければいけないのかと、怒鳴ってもいいところだろうか。
 眉をひそめながら轟のほっぺたを抓る。
「オイ」と三回目は声を低く這わせた。
 そこでようやく轟が目を開けた。「む」と唸ってうっすらと瞼を持ち上げる。眠たそうな目をしているなと顔を覗き込んでいると、再び瞼が下がっていった。そしてぴたりと閉じられる。
「ハア?」
 大声を出して頬を軽く叩く。「いや、起きろや」と揺すれば、渋々といった様子で轟が目を開けた。もぞもぞと体を動かし、胡坐をかいた爆豪の脚の間に器用に手を突いて起き上がる。本当に眠たそうな欠伸を零して、寝起きでじんわりと緩んだ瞳でこちらを見た。
「なんだ、キスすんのかと思った……」
「ア?」
「違ぇのか」
 二度寝をしようとしたわけではないと欠伸交じりの言い訳をする。かと思えば轟は背中を丸め始める。キスされると思ったから目を閉じたと可愛いことを言ったくせに、どんどん丸くなっていく。最終的に爆豪の膝に額を押し付けて寝始めるのでどうしようもない。大きな猫のようだ。収まりのいい位置を探してもぞもぞと動かれるとくすぐったい。
 何からどう感情を処理するべきなのか分からない。
 轟焦凍のあちこちに飛び火する言動にいちいち真剣に向き合っていては、いくつ感情があっても足りやしない。
「寝んなら帰れ」
 人の膝で寝始める男の赤い髪をかき分け耳を引っぱる。やめろというように首を振って抵抗された。うっすらと開けた瞼の隙間から、眠気に緩む瞳に見上げられる。
「爆豪って、手あったけえよな」
 何かと思えば急にそんなことを言う。耳を掴んだまま、轟の首筋に触れていた手がピクリと動く。
「……冷たかったら困んだわ」
 そういう個性だろと呆れて誤魔化すように頬をつつく。
「さっき背中にくっついてたときもすげーあったかくて、やべぇ……ねみい」
「だから、寝んなら帰れつってんだろ」
「んー」
 ぐずるようにもぞもぞと動く頭を乱雑に撫でるが、これは逆効果だなと気付く。あったかいからか余計にすり寄ってきた。
 ふーっと息を吐き、縋りついてくる額を膝で突き上げる。一瞬、轟の頭がふわっと浮いた。そして膝にゴチンと音を立てぶつかると痛みに呻いた。
「起きろや」
「……う、いてぇ」
 首根っこを掴み、ぐいっと体を起こさせる。轟は背中を丸めながらもどうにか胡坐をかいた。首の据わらない赤ん坊みたいに不安定に揺れているが一応起きた、と思われる。
「とどろき」と呼びかけると「うん」と首を振ったが、頷いたのか船をこいだのかは怪しいところだ。
 こいつは何をしに来たのか、と改めて思う。
 現状ほぼ寝ているようなものだ。そういえば持って行った雑誌はどうしたのかと振り向くと、きちんと閉じて床に置かれていた。寝落ちたわけではなく、意図的に眠り始めたということだ。
 何も理由がなくても部屋に来たっていい。
 何せ付き合っている。その上お互い人前でくっつきたがるようなタイプでもない。部屋に二人で居る時が、一番それらしい時間になる。
 だからといってこうものんきに無防備に、うとうとされていても困る。
 爆豪勝己はそれはもう大変に、目の前に居る男を大事に扱っていた。旧知の仲の人間に見られたならば天変地異を疑われる程度に譲歩していた。勘は良いくせに疎い男の歩みに精一杯合わせていた。惚れた弱み以外に言いようがない。
 今も再び背中を丸めてどんどん前のめりになっていく男をぶん殴りもせず眺めていた。
 つむじを通り越し、首筋が見えてくる。眠たいくせにベランダを伝ってわざわざ会いに来た恋人を、可愛く思わずにはいられなかった。そのような精神構造をしていたのならば、そもそもこの男をどうにか恋人にしようなど考えもしなかったはずだ。
 すっかり丸まった背中の下にある顔を、両手で掴んですくい上げる。上を向かせると、ふっと意識が浮上した様子の瞳と目が合った。今度は逆に目を開けたなと思いながら唇を押し付ける。
 触れるだけのキスをすると、重たそうな仕草で腕が背に回された。起きたわけではなく、寝ぼけながらの動作に近いのかもしれない。呆れて笑う。唇を離すと、轟はそのままもたれかかってきた。
 抱き着いてくるところを可愛いと思いたいところだが、あたたかいものにすり寄ってきているだけにも感じられる。考えを放棄し、収まりのいい体制に直して抱きとめる。人のことをあたたかいなどというが、轟も十分あたたかかった。はやり眠いのだろうなと腕の中の顔を眺める。
 本来ならばお互いそろそろ眠る時間だ。この男はこの後ベランダを伝って上の階に戻れるのだろうか。普段の轟ならば何の心配もないが、この寝ぼけた男をベランダから帰すのは不安で仕方がない。「お」と独断驚いていない声を出しながら、つるりと足を滑らせそうで気が気でない。
 このまま寝かせてやってもいいのだがと顔をしかめる。今もそれなりに、何も、考えないようにしていた。ふざけた舐めプ野郎が好き放題寝こけていやがるという事実以上のことを、考えないようにしていた。
 やはり一度叩き起こすことにした。中くらいの力で頭を叩き「いい加減起きろや!」と耳元で叫ぶ。
 びくりと体を揺らした轟が背筋を伸ばした。寝ぼけているらしく瞬きを繰り返しながら左右を確認している。うたた寝を通り越し本気で寝ていたなと呆れた。
「……お、爆豪」
「お、じゃねえわ。寝んなら帰れ、何回言わせんだよ」
「おお、そうだった」
 頷いた轟が腕の中から抜け出て立ち上がる。心底呆れた気持ちでそれを見上げる。そのままベランダに向かうのだと思って背中を眺めていれば、何故かベッドに上がって寝そべった。
 流石に理解が出来ず「ア?」としか言いようがない。
「テメェ、何してんだ」
「寝る」
「そこ俺ンだわ」
「お、今日泊まる気で来たからな」
「聞いてねェわ」
 一応気を使った様子でベッドの端に避けてタオルケットにくるまり、寝る支度を始める姿に理解が追い付かない。立ち上がることすら億劫で、座ったまま轟の姿を眺める。
 爆豪のベッドで横になった轟が、こちらを見ている。起きたとはいえ眠気の滲む瞳でこちらを見ている。
「爆豪が、俺のことすげえ大事にしてくれてんのは分かる」
 そう脈絡のない言葉を口にした。
 気付いていたのかという発見と、流石に気付くわなという納得が、頭の中で丁度半分に割れた。
「それで、やっぱ。色々我慢させてんだろ」
 分かっているような、憶測のような曖昧さで言葉を続ける。「気、使ってくれてんのは分かるけど、俺も色々、かんがえたんだ」
 ふわふわと語尾を滲ませながら話す轟の視線が、少しずつ爆豪から外れていく。
「まだあんま、ピンと来てねえけど、ばくごーとなら、良いかもって、そういうこと」
 してもいい。
 爆豪勝己はそれはもう大変に、目の前で今まさに寝落ちしようとしている男のことを大事にしていた。それこそ天変地異にも見えるほどに。喧嘩をすればぶん殴るし怒鳴りもするが、それとは違うものが確かにここにある。言葉を飲み込んで、激情をぎゅうぎゅうに押さえ付けもする。初めてキスをした時、両手を空中の変なところに置いて困った顔を見せた男に合わせて歩こうと思ったのだ。柄にもなく。
 柄にもなくだ。
 気紛れに遠ざかっていくような相手でもないのだから、ゆっくり歩こうと思っていた。それが急に向こうから飛び込んでくるなど予想のしようがない。素直に受け取って良いのか、慎重に様子を窺った方がいいのか。
 それを考えるのは結局後日になる。
「寝そうなときに言うなや」
 呆れて吐き出した言葉は誰の耳にも入らない。
 これからそこで、ぴったり瞼を閉じた男のとなりで眠らなければならなかった。