夜の生き物

(爆轟/ハロウィンパロ)

 

 

 

 ある日、冬の城の雪が止んだ。
 吹雪き凍えさせ生き物を惑わす、ある土地の冬の終わり。
 それは実に数十年振りだというが、誰も詳しい年月を覚えてはいない。――確か百年は経っていない。そんなことを言った奴が居た。ならば数十年振りだろうということになった。
 そういう世界の話だ。

 

「かっちゃん?」
 冷たい牢屋の石壁に、聞きたくもない声が反響した。
 身じろぎをし、重く閉じていた瞼を持ち上げる。首、手首、足首と、首と名の付く箇所全てを拘束する鎖が音を立てる。地下牢の暗闇に慣れた目に、ランタンの光はきつく目が霞む。目を細めるついでに険しく眉を寄せ、舌打ちをした。ひっそりと冷たく人気のない空間では、その音すらも大きく響く。
 白い布を被った緑の癖毛の少年が、ふよふよと浮いていた。その手に持ったランタンが近付けられる。
「えっ! かっちゃん!」
「ウッセェんだよクソデク」
 本物だ、と言わんばかりに少年、緑谷出久が明かりをさらに近づけ覗き込んでくる。本来ならば手なり足なりを振り上げ噛みついているところだが、生憎鎖に繋がれていて自由が利かない。
 あぐらを組んだ両足の間を短い鎖が繋いでおり、その上に乗せた両手の間も同様だ。それだけならばある程度好きに出来るが、首と壁を繋ぐ鎖もろくな長さがない。下手に暴れても疲れるだけだということは学習済みだった。
 この地下牢に繋がれること既に五日目。眠る体制が選べないこと以外に大した虐げは受けていない。十分な食事も運ばれてくる。捕らえた側も持て余しているのだろう。
 それでもグワと牙を見せて睨むと「ひえっ」と緑谷が体を引いた。ほぼ反射だろう。実体を持たぬゴーストのくせに。噛みついたところでなんのダメージにもならないと知っていて、この少年は毎度何に驚いているのだろうか。
「何しに来やがった、アァ?」
「なにって、魔女のお使いだよ。吸血鬼が人狼を捕らえたって噂が流れたから、真相を確かめに来たんだ」
 それがまさか君だったなんて。と緑谷がゆらゆらとランタンを揺らした。
 本日二度目の舌打ちをする。
 爆豪勝己は人狼だ。
 そしてここは吸血鬼の城の地下。これが外へ漏れたのならば、それなりに大きな問題になる。
 何せ人狼と吸血鬼の種族仲は最悪だ。
 小競り合いを繰り返しながら、それでもどうにか戦争には発展しないでいる。そういう良くない関係だ。この状況がどれほど危ういかは爆豪も承知している。
「君ほどの狼がどうして捕まったのさ」
「捕まったわけじゃねえよ。話しさせろっつうから渋々ついていってやったらこれだ。外出たら絶対にブッ殺す」
「話し合いに応じたの? 君が?」
「テメェからブッ殺すぞ」
 牙を剥くと、引っ張られた鎖が音を立てて首が絞まる。拘束されているわ、目の前にはムカつく顔があるわ、腹立たしいことこの上ない。
 緑谷は相変わらず反射のように驚いて顔を覆っている。
「俺だってなァ、種族間の情勢くらい分かんだわクソが」
 元より好戦的な生き物ではあるが、その結果戦争を起こしたいわけではない。だから話し合いに応じたというのにこの仕打ちだ。思い起こせばいっそう腹が立ってくる。苛々が募るに比例して、緑谷の持つランタンが焦りに揺れる。
「大人しく着いて行ったことにも驚きだけど、僕は君が脱走していないことにも驚いているよ」
「壊せねぇンだわこれが」
 むかつくなあと手首の鎖を引っ張り、てのひらの内で小規模な爆発を起こす。破裂音が地下に響き緑谷が顔を覆ったが、鎖には何の変化もない。
 当然破壊の末の脱走など最初に試した。不当に拘束されたのだから、勝手に脱走することも自由だろう。そういう理論だったのだが、生憎このざまだ。
 こんな面倒事に巻き込まれるのならば、冬の城など見に行くのではなかった。
「そういうことかあ。じゃあ助けを呼んでくるから待ってて!」
「ンなもんいるか! 二度と来んじゃねえ!」
 大声で怒鳴るが、ゴーストは壁をするりと抜けて姿をけしてしまう。物体に阻まれないゴーストの特性は諜報活動には有用だが、ひたすらに爆豪の癪に障る。募る苛々を吐息に乗せ、石の壁にもたれ掛かる。
 助けは必要ないと言ったが、次の手がないことは事実だった。
 鎖は破壊できず、爆豪を捕らえた吸血鬼たちが何を企んでいるのかも分からない。少なくともすぐに危害を加えるようなつもりはないらしい。帰すわけにはいかないが、処理にも困っている様子がある。ここの連中も戦争への発展へは望んでいないということだ。
 そもそも何故、出くわしたのか。
 十日前の爆豪は、冬の城にいた。
 正確には冬の城跡地と言うべきだろうか。万年吹雪き、一切の生き物の侵入を拒む冬の世界。その城には冬を司る吸血鬼が独りで住んでいるという話だった。
 吸血鬼は純血を重んじ。混血は見下される。
 そして血には固有の能力が宿り、親から子へと受け継がれる。血が途絶えることによりその能力がこの世から消えることはあれど、増えることはない。
 だというのにこれまで観測されていなかった「氷」の特性を持つ吸血鬼がこの世に現れた。夜の世界ではその吸血鬼のことを「冬の女王」という。冬の城に住むからそう呼ばれるようになったという。
 爆豪はその吸血鬼の顔を拝んでやろうと思っていた。
 吸血鬼と人狼は仲が悪い。不仲のまま牽制し合いバランスが保たれているのは、実力が拮抗しているからだ。
 爆豪はその、己の種族と拮抗する相手の実力が知りたかった。
 しかし吸血鬼は集落を形成し暮らしている。そこへ一人で乗り込むなど、考えるまでもなく愚策だ。そんな中、吸血鬼が独りで住んでいる城があると聞いた。それが冬の城だ。
 だが辿り着いた場所は噂に聞いていたものとは大きくかけ離れていた。冬の匂いの残る中に、春が芽吹きつつある城がそこにあった。
 噂は所詮噂だったのか、それともここで何かが起きたのか。それを調べようと敷地をうろついていたところ、突如吸血鬼に囲まれ、今に至る。その際「シソクはどうした」などと訊かれたが、当然一切心当たりはない。
 やはりあの時どれほど大暴れをしてでも逃げておけばよかったかと、冷静に対応した己のことを恨めしく思った。
 噂に聞いた、猛吹雪に包まれ凍てつき時の止まった冬の城。
 現実に目の前で見た、雪のやんだ冬の城。

 好奇心は人狼をも捕らえる。

 

 

 自分のくしゃみの音で目を覚ました。
 緑谷が来てから三日。特に良くも悪くもならない環境の中、暇を持て余して眠っていた。
 妙な肌寒さに目を開ける。ここは暑くも寒くもなかったはずだ。それなのに急な冬の訪れのように冷え込んでいる。誰かが地下牢への扉を開けっ放しにでもしたのだろうか。だが今はこれほど冷える季節でもないはずだ。
 首を竦め、あたりの様子を窺う。
 その時微かな羽音が耳に届いた。おびただしい数の何かが空気を切って移動する音だ。蝙蝠だと気付いた時には、それは既に目の前までやってきていた。
 黒い靄のような群れが集まり、その中から男の姿が現れる。
 コツンと音を立て、ブーツのつま先が牢屋の石畳を踏んだ。黒いマントがふわりと降りる。全身真っ黒で、髪だけが白い男の横顔が見えた。
「ンだテメェ」
 体を蝙蝠に変えられる存在。この男が吸血鬼であることは間違いない。だが爆豪を捕らえた吸血鬼の中にこの男は居なかった。初めて見る顔だ。あれらの仲間なのか。だとしたらどうして体を蝙蝠に変えて飛んで来たのか。
 様子を探っていると「お」と軽い声がその口から発せられた。白だと思っていた髪は、丁度真ん中から赤色に替わっている。紅白の髪に合わせるように瞳の色も灰と雪の二色だ。二つの存在をちょうど真ん中でくっつけたかのよう。顔の右側を覆う傷跡も相まって、余計に左右を別の存在に見せるている。
「緑谷、こいつか?」
 その言葉で概ねの事情を察した。
 何を考えているのか知らないが、魔女はこの男を爆豪救出のために送り込んだようだ。魔女が吸血鬼を従えているとは思わなかった。その上吸血鬼の根城に吸血鬼を送り込むとはどういう了見か。それを受けるこいつもこいつで分からない。
 警戒を怠らずに構えていると「まってまって」と慌てた様子ながら、この場に似つかわしくないのんきな声色が聞こえて来た。爆豪の背の壁をすり抜けて、緑谷が姿を見せる。
 吸血鬼の視線がそちらに向けられた。
「すごい早いね。壁すり抜けてる僕より早いや」
「俺は飛んでたからな」
「ア? 何のんきに会話してんだよテメェら」
 牙を剥いて睨み付けると「あっ!」と緑谷が慌てた。そして吸血鬼の男を見遣り、爆豪の首に繋がる鎖を指さした。
「そうだ、この鎖壊してもらえる? 急いで急いで」
「わかった」
 吸血鬼は短く頷くとしゃがみ、首に繋がる鎖を手に取った。そして溶けるような熱とも、砕けるような寒さともとれる温度を感じ、鎖が粉々に崩れた。
 繋がれること十数日。
 長く爆豪を捕らえていた鎖がこうもあっさり破壊されるとは思っていなかった。擦りきれた縄のように崩れた鎖の端を眺める。
「手と足のも壊した方がいいか?」
「ア? いらねえわ。誰がテメェの施し受けるかよ」
 かけられた声を振り切り跳ね起きる。首が自由になればあとはどうとでもなる。それに、自分では壊せなかった鎖をいともたやすく壊されたことは、どう考えても屈辱だった。
 だというのに「いるよいる、壊して!」という緑谷の声が被さってきて、吸血鬼はそちらの要望を採用した。パキンと音を立て、手足を繋ぐ鎖が壊される。
「これでいいか?」
「有り難う!」
「オイ、無視してんじゃねえ!」
 怒鳴って吸血鬼に向け大きく腕を振るも、触れる寸前崩れる様に蝙蝠になり避けられた。
「あぶねえな」とのんきな声が、明後日の方向へと向け吐き出される。それが更に腹立たしさを募らせた。自由になった体で低く身構えると、間に緑谷が割って入ってくる。全てすり抜けるくせに何の防壁になれるというのかと睨み付ける。
「騒ぎになる前に逃げないといけないんだってば! 早くして!」
「お、そうだな。俺もあんま見られるとまずい」
「じゃあ魔女のお城でね」
「おう」
 なに無視して話を進めているのだと苛つくが、言い分は理解できる。こいつらが力業で乗り込んできたということは、上の吸血鬼とは一切話がついていないということだ。魔女め、やるならもっと上手くやりやがれ、と舌打ちをする。
 緑谷は入ってきた時と同じ場所から姿を消した。そして吸血鬼と二人取り残される。じとりと睨む。それに気付いたからどうかは分からないが、男がこちらを見た。
「ンだよ」
「上、階段上がって右に行ったところの壁が壊してある。後は好きに逃げてくれ」
 余計なお世話だと言ってやりたかったが、敵の居城の事情が分かることは正直に有り難かった。舌打ち一つで済ませ走り出す。
 階段を目指し一直線に走った。その背を追い越す様に蝙蝠の群れが飛び去っていく。いちいちムカつくなと顔をしかめると、不意に蝙蝠の群れが集まった。そして上半身だけ元の姿に戻るとこちらを見る。
「伝言、忘れてた。魔女が呼んでる。お前も魔女の城に来い」
「ウルッセェ!」
 再び蝙蝠に分散し、あっという間に吸血鬼の姿は消え去った。
 むかむかと煮えたぎる腹の内を抱えながら、階段を駆け上る。右に曲がると言葉通りに崩れた壁があった。その周りは何故か凍っており、先ほど感じた肌寒さの出所を現しているようだった。

 

   1

「は、ンでテメェがここに居んだよ」
 魔女の城、通された客間の一つに入ると、そこに半分カラーの吸血鬼が居た。
 十日前に一度見た限りの姿を睨む。一瞬視線がこちらを向くもすぐにそらされた。ふかふかで真っ赤なソファに腰をかけて、優雅にティーカップを掴んでいる。綺麗なドレープを描いて垂れ下がるマントは美しいカーテンのようで、まさに澄ました吸血鬼という装いで無性に苛ついた。
「無視してんじゃねェ」
 大股に近寄れば、歩く度にチャリチャリと鎖が鳴る。腹立たしいことに拘束具は残ったままだ。この吸血鬼が千切ったから動けるだけで、外れた訳ではない。
 ぐるぐると威嚇をするも全く気にされない。すました顔で紅茶を飲んで、添えられたクッキーを食べている。のんきなものだ。近付き視界に入るよう睨みつけていると、客間の扉が開いた。
「ごめーん、遅くなった!」
 明るい声の少女が慌てた様子で入ってきた。こいつもあいつもなに間抜けた声を出しているのかと、その姿を振り返る。
 魔女のシンボルである黒い三角帽子をかぶった、麗日お茶子が一応申し訳なさそうに手を振っていた。それに続き緑谷も入ってくる。二人が敷居を越えると、扉はひとりでに閉まった。
「ていうか爆豪くん、十日もどこ行ってたん? 二人一緒に戻ってくると思って待っとったのに」
「テメェに関係あんのかよ」
「あるに決まっとるやん。爆豪くん救出指示も私だし、お仕事の依頼しようと思っとたのに。全然帰って来ないからまた捕まったのかと思ったよ」
 失礼極まりない魔女を睨み付けると、何故かその後ろの緑谷が驚いて目を丸くした。魔女は先に到着していた吸血鬼の方を向いて「お待たせ」と笑い、向かいのソファに腰を下ろした。
「ほら、爆豪くんも座って」
 どうぞ、と示されたのは吸血鬼のとなりだ。
 部屋にはテーブルが一つあり、挟むように三人掛けのソファが二脚置かれている。舌打ちし、壁際に置かれていたチェアを掴んでくる。少し離れた場所に陣取ると魔女が苦笑した。緑谷はその魔女の頭上を漂っていた。
 そもそも魔女とは、この世の仲介人だ。
 世界には人間の他に、夜の生き物と分類される、人間ではない種族が居る。太古の昔に世界を別ち、住み分け不干渉を貫くことで合意したという。人間は人間ではない知性のある生き物のことが嫌いなのだ。だが一応地続きの世界であるからして、全ての接触を断つことはできない。
 そこで仲介人を立てた。それが魔女だ。
 人間の世界と夜の世界の接触が希薄となった今では、夜の生き物を監視しすることが主な仕事になっている。夜の生き物にとっても、楽に上手く生きるために魔女は必要な存在だ。言うことを聞いておけば色々便宜を図ってもらえる。魔女の承認があれば人間の世界に行くことも可能だ。
 だがこの魔女は代替わりして日が浅い。
 つまり夜の生き物からの信用は皆無に等しく、舐められている。この魔女だからというわけではなく、代替わりの度に起こる恒例行事のようなものだ。数百年に一度、夜の世界は少し揺らぐ。それが丁度今だった。
「早速だけど仕事の話しするね。どっかの誰かが十日も帰って来んかったから、時間ないんよ」
「早く帰ってきてやった方だろうが」
「二日で帰ってくると思ってたのに、五倍かかってるんよ」
「ごめん麗日さん、僕がちゃんと見張っておけばよかったね」
「いや、デクくんが見ててもダメだと思う。爆豪くん一切デクくんの言うこと聞かんやん」
「……帰んぞ」
 声を低くして唸ると「それは困る!」と魔女が膝を叩いた。
 麗日が仕事を振ったところで、受けるヤツは未だ少ない。魔女就任と共に組んでいる緑谷を筆頭に、各種族一人いればいい方だ。現在人狼族からは爆豪のみ。爆豪とてこの魔女を信用しているというわけではなく、ただの利害の一致によるものだ。
「それでね」と麗日が話し始める。「今回はある人狼の村へ調査に行って欲しいの。なんか徒党を組んで妙な動きをしてる気配があるんだけど、それがね、何か分からなくって」
「人狼って耳と鼻が良いでしょ、僕じゃ近付くにも限界があって」
 そう緑谷が話に入ってきた。偵察ならそいつが行けばいいだろ、と言おうと開いた口を閉じ、膝の上で頬杖を突く。
「それに何か集めてるっぽい噂もあるし。ヤバい物だったら持って帰ってきてほしいんよ」
「僕はほら、持てないし」
「ヤベェこと企んでたらブッ潰して来いってことか」
「そこまでは言うてないよ」
 麗日は遠回しに「あまり派手にやられると困る」という顔を見せた。
「それを同族の俺に頼むとかいい根性してんな」
「爆豪くん同族とかあんま気にせんやん。それに人狼の村に入るなら人狼の方が疑われにくいでしょ」
 まあな、と目を細める。どの種族も余所者を煙たがる。
 それは分かった。ならば何故コイツはここに居るのか。吸血鬼へ視線を送ると、またクッキーを口に入れていた。魔女の顔を見ているので話は聞いているようだ。
「あ、轟くんの紹介してなかったね。会うのは二回目、でいいんだっけ」
「この前の地下牢振りだ」と吸血鬼が肯定した。
「ア? 轟だァ?」
 ぴくりと眉を動かす。「そう、轟焦凍くん」と麗日が吸血鬼を示した。フルネームが知りたいわけではないと眉間にしわを刻む。
「吸血鬼の轟つったら、純血の家系だろ。んでこんなとこ居んだ」
 そもそも吸血鬼というのは気に食わない種族だが、中でも純血はお高くとまった奴らばかりで鼻につく。夜の生き物の中で己の種族が一番偉いとすら思っているのだ。だから魔女の依頼もろくに聞きやしない。
 それが何故。それも先日は人狼救出という、本来ならば絶対に受けないであろう仕事をこなしている。じとりと轟を睨むと目が合った。
「まあ、家の事情ってやつだ」
「そうなんよ。それでちょっと前からこの城に居候してるの。仕事も手伝ってくれるし、爆豪くんの言う通り純血の家出身だし強いよ」
「かっちゃん助けに行ったあの城も大きく言えば轟くんの家の敷地でね、だから入れたし」
「助けられてねえわ」
 一言吐き捨てると緑谷が肩をすくめた。轟家の敷地はもっと別の場所だったはずだが、あそこの土地も持っていたのだろうか。冬の城には吸血鬼が住んでいると聞いていたが、それが轟家の者だとは聞いていない。
 考え込んでいると「で、今回二人でお仕事に行ってもらうからよろしくね」と麗日が爆弾を落とした。
「ハ?」と顔を上げ、そして吸血鬼を見る。轟は初めから話を知っていたのか、一切表情を変えていなかった。
「俺一人で十分だろうが。どうして他人と組まねェといけねぇんだ」
「今後は基本二人一組で動いてほしいんだ。最近夜の世界もあちこちで色々起きてるし。この前の爆豪くんみたく、一人で行って捕まったらおしまいじゃ困るんよ」
「喧嘩売ってんのかテメェ」
 腕を組んでうんうんと頷く麗日に顔が引きつる。わずかに腰を浮かせると緑谷がすっ飛んできて、中間地点で大きく手を振った。
「まあまあ、まあまあ!」
「確かに、片方が捕まっても、もう一人居たら連絡も出来るしな」
 のんきに言葉を発した吸血鬼へ視線を移す。コイツと組むのかと睨む。
 この吸血鬼と。
「誰かと組むにしたってな、コイツだけはねェ」
「なんでなん。ほぼ初対面やん、嫌う要素なくない?」
「コイツがどうこうじゃねえんだわ。人狼の村に吸血鬼連れて入れるかよ。テメェだって種族間の事情知ってるだろうが」
「うん知っとる」
「だったらせめて他の奴にしろ」
「それが今誰もおらんの。あちこちで色々起こってるってゆうたやん、みんなあちこち行ってて、私の仕事受けてくれんのもうここにおる二人だけなんよ」
「……吸血鬼野郎とデクで行けよ」
「さっきの自分の発言もう忘れたん?」
 麗日が驚きに目を丸くし声を荒らげる※。そこに緑谷が割って入ってきて「僕全部すり抜けちゃうから何も持って帰って来れないし」とテーブルを通り抜けるアピールをしてくる。
 こいつらの中では既に、二人が一緒に仕事に行くことは確定事項なのだろう。一切折れる気がない。行ってもらう他ない、という意思を感じる。
「それにね、轟くん最近来たばっかで仕事の経験も浅くて。その上ちょっと世間に疎くって心配なんよ。その点、爆豪くんだったら安心して任せられるでしょ?」
 仕事も慣れているし、人狼の村での立ち回りも分かるし、臨機応変さもあるし、種族間の事情とかも考慮できるし。と麗日が指折り数える。
「ンでお守りまでしねえといけねえ」
「吸血鬼ってだけで委縮しちゃう種族も多いやん、あっ爆豪くんもやっぱ苦手かな」
「んな訳あるか!」
 ぐわと怒鳴ってから、しまった、と思うも既に遅い。「じゃあ決まりやね」と魔女が笑った。
「問題はさっき爆豪くんが言ってた、吸血鬼を村に入れる方法なんだけど。どうにか誤魔化せない?」
「……基本は匂いで判断してっから、匂い付けりゃいけんじゃねえか」
 渋々考えを巡らせながら、思い浮かんだ案に顔をしかめる。やりたくない。絶対にやりたくない。苦々しい顔をする爆豪の向かいで、緑谷と麗日が腕を組んで首をかしげ、双子のように悩んでいた。
「匂いかー、花とか?」
「でも怪しくない? 露骨に花の匂いさせた人が入ってきたら、僕だったら疑うな」
「じゃあ消臭?」
「それも同じかなあ」
 案を出し合う二人はすぐに、ある結論に辿り着くと思われた。その方法以外にないのだ。こちらから提案をすることもまっぴらだが、正解について指図されることと比較すると、後者の方が気分が悪い。
 仕方なく言葉を吐きだそうとすると、派手な息が漏れた。
「人狼の匂いつけりゃいいんだよ」
「ああー、同族だと思うん?」
「違ェわ。ただ吸血鬼の匂い消すってなりゃ、ガチで全身匂いつけることになる」
「ん? 人狼の匂いって何臭?」
 能天気なことを言う二人に、ついに導火線が燃え尽きた。ぐわと大口を開けて怒鳴る。
「俺の匂い付けんだわ! ただ全身からテメェの匂いさせてるヤツなんか連れとったら、俺のつがいと間違われんだろうが!」
「なるほど、つがいだったら怪しくないね。ええやん!」
「なんも良くねえンだわ」
 お前も何か否定しろよと、目を吊り上げ吸血鬼を睨む。轟は特に関心がない様子で瞬きをして「別にいいぞ」と頷いた。
「受け入れてんじゃね!」と怒鳴ると「困らねえし」と言う。めまいがしそうだった。
「あっ、どうしようデクくん。宿二部屋で依頼しちゃった。つがいなのに別の部屋だったら怪しいよね」
「そうだね!」
「後で変えといて」
「変えんじゃねえ!」
 めまいの他に頭痛もしてきそうだった。
 勝手に納得する魔女とゴースト、当事者のくせに我関せずな吸血鬼。
 言い争うことも面倒になってきた。こうなればさっさと仕事をこなしてしまう方が早いようにも思われる。背を丸め、苛々を押さえ込むように息を吐く。
「じゃあそういう感じでよろしくね」
 にこにこと笑う魔女に対し「わかった」と轟が頷いた。爆豪は絶対に首を縦に振らないながらも、諦め半分に睨む。
「じゃあ詳細の話だけれど」と魔女が空中から地図とペンを取り出した。
 麗日は長い説明の最後を「なるべく早くお願いね」と締め括った。
「八日遅れだから、時間ないんよ」
 満面の笑みを苦々しく眺め「わーったよ」と手を振ると、手首の鎖が音を立てた。苛立ちすぎて忘れていたが、魔女の城へやってきたのは何も真面目に仕事を受けるためではない。
「オイ魔女、仕事受ける代わりにこの鎖取れ」
「あっそれオシャレじゃなかったんだ。また奇抜なカッコやなあって思ってた」
「誰が好きこのんでンなもん付けるか!」
 大声を上げる中、魔女が腰を浮かせ鎖の端を掴んだ。まじまじと眺め、拘束部分にも指を伸ばす。
「何か変な術かかってるね、これ。取れると思うけど解析にちょっと掛かるかも」
「それでかっちゃん自分で壊せなかったんだね」
「アァ?」
「ひぇっ」
「確かに単純な物理的な力じゃ壊せない……かな。なんだろうこれ。調べたいし外そうか。これ鎖千切ったん轟くん?」
「ああ」
「じゃあ出来るだけ形が残るように壊してもらえる?」
「わかった」
 頷いた轟がまず爆豪の手首に触れた。前にも感じた熱が一瞬肌を撫で、拘束具が崩れる様に外れた。
「お」と轟が驚いた声を出した。「思ったよりぼろぼろになっちまった。悪ぃ」
「あと四つあるからいけるよ!」
 魔女が興味津々で励まし、程なく全ての拘束具が外された。久々に空気に触れた首を撫でる。取れた拘束具はテーブルに並べられた。忌ま忌ましい鎖ともこれでおさらばだ。最後に舌打ちを向ける。
「良かったねかっちゃん」とのんきに笑う緑谷の顔を睨む。
「二人が戻ってくるまでに解析しておくね。あ、一応潜入やし、危ないから五日で成果が出なかったら帰ってきて」
 よろしくね、と魔女が手を振る。
 遠回しに「五日以内に成果を出せ」と要求しているのだ。深々溜め息を吐き、渋々立ち上がる。
 そして吸血鬼と並んで城を後にした。

 

   2

 魔女の城の下に広がる町は、雑多の限りを尽くしている。
 基本的には魔女に友好的で、それでいてそれぞれの種族から微妙にはみ出した変わり者が集まっていた。この世界で一番めちゃくちゃな場所だと爆豪は思っている。
 ぐねぐねとうねる路地を進み、ねぐらへと帰る。町などと言うが、勝手に住み着いた夜の生き物たちが、勝手に開拓して出来上がったものだ。区画整備もなにもなされず、すべてが迷路に等しい。辛うじて商店街と呼べるような通りがあるくらいだ。そこへ立ち、寄り馴染みの店で食パンを買った。
 歩いていれば「天変地異みたいな取り合わせだ」と人狼と吸血鬼のペアからかう者も居た。そこで恐れず声を掛けてくるのがこの町だ。答え合わせに「魔女」と名前を出せば皆肩をすくめていた。
「迷子になりそうだ」と後ろを歩く轟が呟いた。
 振り返れば興味深そうにあちこちへ視線を送っている。
「町に降りたことねえんか」
「少しはある。けど仕事以外ではほとんどあの城から出てねえ」
 ふうん、と小馬鹿にして視線を外す。
 この様々疎そうな吸血鬼と、本当に仕事に行かねばならないのだろうか。二人組みで動くべきだと魔女は言ったが、遠回しに教育係を押し付けられたのだと疑っている。先日の爆豪救出だってなんとも雑だった。きっと魔女の予定では、二人並んで戻ってくるはずだったのだろう。
 面倒事の上に面倒事を乗せやがってと、苛々しながら帰宅する。
 石造りの建物の三階に部屋を借りている。五階まであり、ワンフロアに一部屋のみの借家。今は満室のはずだ。十分すぎるほどの広さがあり、商店街にも近い。この部屋を借りられたのはひたすらに運がよかった。
 階段を上り、部屋の鍵を開ける。土足の部屋だがずっとブーツを履いたままというのも窮屈で、部屋履きへと履き替える。
「爆豪」
 名前を呼ばれたことで、まだ轟が外に立っていることに気が付いた。
 玄関の扉は開け放たれたまま、その向こうで轟がこちらをじっと見ている。何をしているのかと睨みつけると、ほんのわずかに眉が下げられた。
「悪ぃんだが、招いてもらえねえと入れねえ」
「あー、吸血鬼っつーのは面倒な種族だな」
 そういう制約もあったかと「入れよ」と声を掛ける。「お招きいただきありがとうございます」と恭しく頭を垂れて轟が入ってきた。
「仰々しいな」
「こういうもんなんだ」
 夜の生き物の中でも随一の寿命と、けた外れの耐久力を持つ吸血鬼は、その代償のように弱点が多い。それでも並の生き物では傷すらつけられないとなれば、あの傲慢さも頷ける。
 爆豪とて吸血鬼との遭遇は数少ないが、それでも腹の立つ種族だという印象以外にないような生き物だった。その情報と照らし合わせると、轟焦凍という吸血鬼は、本当に吸血鬼なのか疑わしく感じられる。
 今も爆豪の部屋の入り口から動かず、まじまじと内部を観察している。爆豪のイメージするところの吸血鬼だったならば、勝手にソファに腰かけて尊大な態度で飲み物を要求するくらいはしていてもおかしくはない。そもそも人狼と組まされて良しとしないだろうし、魔女の使い走りなどしない。
「おい」と立ち尽くしている轟に声を掛ける。「まずシャワー浴びてこい。吸血鬼臭取れるまで出てくんな」
「無茶言うなよ」
「口答えすんな。こっちはテメェっつーリスク背負わされてんだわ」
「俺、結構役立つと思うんだけどな」
 反論してくる轟にタオルと寝巻きを握らせ、無理やり風呂場に押し込んだ。
 姿が見えなくなると、どっと疲れが湧き出てくるような気がした。しかしまだ仕事は始まってもいない。吸血鬼の匂いを隠すために着せる服を見繕うことと、作戦会議の必要性、明朝の出発が早いことを考慮し連れ帰ってきたが、まだまだ準備段階だ。吸血鬼の割に聞き訳が良さそうなところは救いだが、実際に行動を共にしてみなければどう転ぶか分からない。
 ムカムカと煮える腹の内と、どんよりとした疲労に息を吐く。
 食事を作るかと台所に立つ。メニューをホットサンドと干し肉のスープに決める。手の込んだものを作る気分ではない。
 あの吸血鬼は飯を食べるのだろうか。やはり血を飲むのだろうか。毎食血だというならば調達が面倒だ。そんなことを考えながら茹でた卵を潰して調味料と和え、ちぎった野菜と一緒に食パンに挟む。こんがりと焼き色を付け、皿の上で半分に切った。
 魔女の町は電気や水道が整備されているから良い。人間の世界から持ち帰ってきた技術と、夜の世界特有の超常とが絡み合いかなり暮らしやすい。食材の保存のために氷の魔法を使わずとも、冷蔵庫をコンセントにぐさりとさせばおしまいだ。電気は魔女と一部の夜の生き物が作り出している。
 食事の支度が終わると、丁度轟が風呂場から出てきた。
「お、美味そうな匂いがする」
「食うか?」
 テーブルに二人分の食事を並べながら問い掛ける。轟は一瞬考えるようなそぶりを見せたが、すぐに「食う」と頷いた。
 椅子の一つを轟にすすめ、魔女の城から持ち帰ってきた資料の束を持ち出す。地図を一枚テーブルに広げ、その他の資料は隅に重ねた。
「食いながらざっと仕事の内容確認すんぞ」
「わかった。いただきます」
「おー」
 そういう言葉を言えるところは好感が持てるなと考えていれば、轟はきょろきょろと何かを探し始めた。スプーンを手に取り、スープを一口飲み込み「うまい」と目を丸くして、それからまた視線を彷徨わせる。
「何探しとんだ」
「……フォークとナイフ」
「ア?」
 ぽつりとと呟いた二色の視線は、ホットサンドに向けられていた。
「ンなもんかじりつけや」
 手本でも見せる様にホットサンドを掴み、口に運ぶ。卵もいいがチーズも買ってくれば良かったと考えていると「はしたなくねえか?」と轟が、今まさにその行為をしている奴に向けて言うべきではない台詞を口にした。
「とっとと食え!」
 声を荒げると渋々と言った様子でホットサンドを掴んだ。本当に素手で掴んでいいのかと疑う様なぎこちなさだ。純血の吸血鬼である轟家の、箱入り坊ちゃんだったのだろうなと鼻で笑う。
 爆豪がぺろりと平らげるその時間を掛けて、ようやく轟は一口目を口にした。恐る恐る噛み切って咀嚼する。再び目を丸くして「うまい」と言った。さぞ良いものを食べて育っただろうお坊ちゃんの口に、手抜き料理が合うとは意外なものだ。
「仕事の話始めんぞ」
 宣言をすると、ホットサンドにかじりついたまま轟が頷いた。
 夜の世界の大部分を記録した地図の、ある一か所を指差す。「魔女の城がここ」それから別の場所へ指を滑らせる。「で、例の人狼の集落がここだ」
 移動時間は馬車でおよそ半日。丁度その村へ行くというキャラバンに話が付いていると魔女が言っていた。朝一に合流、荷台に同乗し、夜更け前には到着する見込みとなっている。
 村の詳細な地図を取り出し、上にかぶせる。
「人狼の村にしちゃ広い方だな。魔女の協力者がやってるっつう宿がここだ」
「うん」
 地図上で指を滑らせ話を進める間、轟はひたすら頷いていた。異論がないというより、口にものが入っていて喋ることが出来ないだけだろう。まだ食っていたのかと呆れもした。
 再度地図を眺める。大まかな情報は把握出来れども、やはり現地に行かねば分からない。そもそもの仕事内容が「人狼の集まりを探り、危険物を集めているようならば破棄、もしくは持ち帰ること。持ち帰る方が好ましい」という大雑把なものだ。行って確かめるしかない。
 椅子に背を預け、腕をくみ思案する。
「人狼って群れで暮らしてるんだよな」と漸くホットサンドを食べ終えた轟が口を開いた。
「そうだ。村が群れの単位と思っていい。正確にはもっと細けぇが」
「爆豪はここに独りで住んでるのか? 珍しいな」
 仕事の内容への興味ではなかったのかと眉を動かす。
「そういうテメェも相当変だろうが。吸血鬼が自分の城以外のとこをうろついてるとかよ」
「俺は、家の事情ってやつだ」
「あっそ」
「爆豪はどうして群れを出たんだ?」
「テメェに話す義理はねえ」
 邪険に言い捨てるも「それもそうか」と轟は納得した。
 正直大した理由ではない。群れというしがらみを煩わしく思ったことに、己だけの力でこの世界を進みたいという思いが、丁度よく重なっただけだ。種族間のいざこざに巻き込まれることも面倒だ。
 人狼だから、吸血鬼だから強いのではない。強いヤツが強いだけだ。
 その点この城下町の雑多さは心地よい。変なしがらみもない。
「俺は勝手してるが、人狼は基本群れで動く。同族意識も強ェ。一人に喋ったら群れに共有されると思え。誰にも気ィ許すなよ」
 特にテメェは吸血鬼なんだからな。と釘を刺す。
「分かった」
 轟は本当に分かったのか怪しい顔で答えた。
 スープの最後の一滴まで飲み干した姿を見届けて立ち上がる。ぎいと椅子を引き、寝室へむかいクローゼットを開ける。適当に数枚の服と、自分用の寝巻きを抱えて戻る。轟は椅子にシャンと座ったままだった。
「おい」と呼ぶと振り返る。「服合わせんぞ」
 ぱちくりと瞬きをするその顔は、何のことか全く分かっていないということだろう。見繕った衣服をソファに投げ、再度呼ぶ。
 ゆっくりと立ち上がった轟が、ブーツの底を鳴らしながら歩いてきた。そういえば部屋履きは貸してやっていなかった。来客などないに等しいこの家に、もう一組あっただろうか。
「テメェの服に匂い移してる暇はねえからな。俺の服を着てもらう。背格好近ぇからいけんだろ」
「わかった」
「合わせるつってんだろ。着ろ」
 つまり脱げ、と急かすと顔を渋く曇らせた。本当は嫌だが仕方がないので着ます、という顔をしている。つがいに間違われるから嫌だと爆豪が言った時「別にいい」と二つ返事で了承したのはテメェだろうと睨む。
 ジーンズは少しウエストが余ったのでベルトで締めた。上はタートルネックのニット、その上にパーカーを着せる。可能な限り肌の露出を抑えさせる。
「これでいいか」
 着替えた轟が両手を広げた。その姿に顔を寄せる。主に上半身へ鼻を寄せ、すんすんと嗅ぐ。吸血鬼っぽい匂いはほぼしない。肌の出ている顔に近付けば流石に分かるが、これほどの距離に寄らせるようなことがなければ問題ないだろう。
「まあ、吸血鬼クセェ感じはねえな」
「それを確かめてたのか。急になにすんのかと思って驚いただろ」
「そのために着せてんだわ」
 困惑たっぷりで首を竦めている轟を睨む。こいつは何をしていると思ったのだろうか。
 轟は自分の袖の匂いを嗅ぎ、ムッと眉を寄せた。
「人狼クセェ」
「ンだと、ブッ殺すぞ!」
「爆豪が先に俺のこと吸血鬼クセェつったんだろうが。おあいこだ」
「いい度胸だなァ、吸血鬼野郎」
 目を吊り上げて睨むも轟は表情を変えない。自分は悪くないという顔をして睨み返してくる。
 ばかばかしくなり舌打ちした。ガリガリと後頭部を掻き「風呂」と言ってきびすを返す。
「そこのソファ貸してやるから、寝巻きに着替えたら先に寝てろ」
「分かった」
「毛布は寝室にあんの一枚持ってけ」
「ん」
 睨み合っていたというのに、一気に空気が緩む。
 気が抜けた。風呂に行く前に食器を流しに持っていく。ざあざあと水で洗い流しながら、着替える轟の背中を見る。
 これから五日間、この吸血鬼と上手くやれるのだろうか。
 洗い物を終え風呂場へ向かう途中、寝室から毛布を抱えて戻ってきた轟と目が合った。
「色々悪ぃな」
 そう声を掛けられ、目を細め声を低く唸る。
「先のことで魔女とテメェに借りがあるから付き合ってやるだけだ。慣れ合うつもりはねェからな」
「おう」
 頷いた轟の声は微かに弾んでいて、とても爆豪の言い分を理解したとは言い難いものだった。
 この吸血鬼がなにを考えているのか、さっぱりわからない。

 

  3

 林を切り開いて作ったような村だった。
 起伏も少なく、建物に遮られなければ一番向こうまで見えそうだ。森と呼ぶには物足りないものの。程よい木陰は心地よそうに見える。住み心地のよさそうな村だと、人狼としては思う。
 だがここに住みたいかと問われれば爆豪は否と答える。ごちゃごちゃとひしめき合う、魔女の城下町の方がよほど面白い匂いがする。
「へえ」と感心するような吐息がとなりから聞こえた。フードを目深に被った轟が立っている。顔を隠しているが、わずかに覗く瞳はちかちかと瞬いている。魔女の城下町と趣の違いに驚いているのだろう。世間知らず、と鼻で笑えば「魔女のところとはぜんぜん違うな」と予想通りの言葉が滑り出た。
「魔女ンところが異常なんだわ」
「そうなのか」
「ホントにどこも行ったことねえんか」
「故郷と吸血鬼の城と、あとは魔女のところしか知らねえ」
「……てめぇいくつだよ」
 好奇心に負けて尋ねると、口からツルリと三桁の年齢を吐いた。それで良く何処にも行かずにいられたなと目を丸くすれば「百年近く引きこもっていたからな」と、昨日の天気を告げるような気軽さで答えた。
 問い掛けはしたが、それ以上の詮索をする気はない。歩き始めれば轟がついてくる。
「何処に行くんだ」と尋ねるのんきな顔に「宿に決まっとんだろ」と吐き捨てる。
 キャラバンの馬車は、二人を村の入り口まで送ってくれた。ここからは歩きになる。頭の中に昨日眺めた地図を広げる。宿はこの先、村のおよそ真ん中にある。
 いざ村の敷地内へ、というところで轟に顔を寄せる。最終確認のように匂いを嗅いだ。
「匂いはしねえな」
「そうか。俺はもうよくわかんねえ」
「フードも絶対取るんじゃねえぞ」
「わかってる」
「テメェが吸血鬼だってバレたら最悪リンチだかんな」
「マジか」
「たりめえだろ、周り全部人狼だぞ。良くて牢屋、最悪杭打たれてサヨナラだ」
「気をつける」
 本当だろうなと横顔を覗くが、大した緊張感は見受けられなかった。こちらの方が不安に感じるほどだが、流石に分かっているだろう。轟にとって、ここは敵陣だ。そこへ行ってこいという魔女も魔女だ。アイツらはなにをもって大丈夫だと思ったのだろうか。
 舗装のない、踏み固められた土の道を進む。
 人狼の村と言えど、立ち入ること自体に制限はない。余所者が来たと警戒をされるだけだ。それも同じ人狼となれば、何かしらの用があって訪ねて来たのだろうと勝手に思われる。この仕事に爆豪を指名したのは最適解だろう。人狼は特に情に厚く、同族というだけで一定以上の仲間意識を抱く。
 堂々と、何食わぬ顔で村の中を進む。
 今更だが自分の匂いをべったりとつけた同行者がいることに対して、据わりの悪い気分になってきた。見せびらかしていると同義だ。あまり見付からない内に宿に辿り着いて、さっさと仕事をこなし、とっとと帰ってしまいたい。
 ぐうっと眉が寄る。
 そんな時に限って声を掛けられるものだ。
「爆豪じゃん」と全く覚えのない声が、右から聞こえて来た。
「ア?」と顔を向ける。
 路地と呼べるほどでもない道の先に、人狼が三人立っていた。
 小柄なのが一人、中くらいで丸いのが一人、細長いのが一人。声を掛けてきたのは細長い人狼のようだ。「よお」と手を振られる。
 その顔に全く覚えがない。しかし親し気な様子でこちらへと向かってくる。轟へ視線を送り、小声で「下手に喋るな」と告げた。返事の代わりに頷きが返ってくる。
「こんなところで会うなんてな」と友好的に話しかけてくる細長い人狼に向け「誰だテメェ」と唸る。
「知り合いじゃねえの?」と小柄な人狼が怪訝そうに見つめてくる。
「あーだよな。出身が同じ村ってだけだから、そっちは俺のこと覚えてないかも。親しかったわけでもないから」
「俺はテメェのこと知らねえ。もう行っていいか」
 努めて控えめに言葉を吐くも「まあまあ」と引き留められる。止めようもなかった舌打ちが零れたが、相手に気にした様子はない。それどころか懐かしそうに笑った。同郷というのは本当のことかもしれない。
「でさ、この村に何の用なんだ? よければ案内するぜ」
「必要ねえ。ただの魔女のお使いだ」
「魔女の?」と三人の一瞬表情が曇った。
 片眉を吊り上げ「んだよ」と探るように睨む。細長い人狼がはっとして、目を丸くした。
「爆豪って、魔女の言うこと聞くようなタイプだったか?」
「魔女ってまだ代替わりして浅いだろ。もう接点あんのも驚きだけどさ」
「なあ。まだ信頼できる魔女か分からなくないか?」
「うるせェな、色々あんだわ」
 睨みながらも、普通そういう反応になるよなと目を細める。
 爆豪とて、変な縁がなければ魔女の仕事など受けていなかっただろう。夜の生き物は結局、魔女の決定に従うしかない。それでも反発するのは種族としての性分だ。
「てかさ」と丸い人狼が距離を詰めて来た。「そっちのお連れさんは何? アンタのつがいか?」
 そう言って轟のフードに向けて手が伸ばされた。とっさにその手をはじき、間に割り込む。追いやるように背中に庇い、ぐっとフードを下に引っ張る。「お」と驚いた轟の声が聞こえたが無視した。
「人のモン勝手に見ようとしてンじゃねえ!」
 威嚇するように怒鳴れば、三人とも一歩ずつ後退った。
「……悪かった」と丸い人狼が手を引き、首を竦めた。
「お前何してんだよ、そんなベタベタに匂い付けてる相手だぞ。怒られるに決まってるだろ」
「なあ、どう考えたって独占欲だろ。そんなのに触ろうとすんのはお前が悪いわ」
「いやでも気になるだろ」
 好き放題話す三人に、腹の内にある導火線がどんどんと燃えて短くなっていく様を感じる。もう直に暴発し、大暴れしてしまいそうだ。ギリギリと奥歯を噛み締めて堪える。ここで暴れて大喧嘩してしまっては、この後動きづらくなる。
 同じ人狼と言えどこいつらはこの村の仲間で、爆豪は余所者だ。
 面倒クセェ! と吐き捨てたい言葉を飲み込み轟の腕を掴み大股に歩きだす。
「行くぞ!」
 半ば引きずられるようにして轟が着いてくる。もう何を言われても振り返るものか、一切返事をするものかと、煮えたぎる感情を抑えながら進む。
 その背中に向けて「爆豪、悪かった! 何かあれば言ってくれ」と声がかかる。
 あいつのことは記憶にないが、そう悪い奴ではないのだろう。

 宿に着くとどっと疲れが湧いて出て、倒れ込むようにしてソファに腰かけた。ぎっとスプリングが跳ねる。「あー」と呻いて天井を見上げる。
 木造二階建て。少し古いが悪くはない部屋だ。
 もちろん「爆豪、部屋どっち使うんだ」と問い掛けてくる吸血鬼の男が居なければよりいっそうよかった。
 首を捻り、じとりと視線だけ投げる。
「どっちでも一緒だろ」
「じゃあ俺は右側使うな」
「勝手にしろや」
 パタンと扉の閉まる音を聞きながら、派手に息を吐く。
「あの魔女とゴースト、マジでやりやがったな」
 帰ったらブッ殺す、と呻く。
 まさか本当に一部屋にまとめているとは思わなかった。
 この共用スペースの他に個室が二部屋付いているだけマシだが、入り口は一つしかない。情報の遣り取りはし易くなるかと、無理やり前向きにとらえる。苛々が募り、てのひらの内でボンと弾けた。
 ぐわと体を起こし、そのまま背を丸める。膝で頬杖を突く。
 行動を起こすにしても明日からになる。飯を調達して食ったら風呂に入り、とっとと寝てしまおう。なにかを考えれば考えるほど腹立たしさが募ってくるばかりだ。
 借りがなければこのような仕事、絶対に受けなかった。
 その借りもほぼ無理やり握らされたようなものだ。だがあの首輪を自力で外せなかったこともまた事実。あれはどういう素材でできていたのだろう。轟は簡単に外して見せた。特定の条件があるのか。吸血鬼の作った拘束具は、同じ吸血鬼にしか外せないということなのか。
 考え込んでいると、轟が部屋から出てきた。荷物を置き身軽になっているが、未だフードを目深に被ったままだ。
「おい、部屋ん中はそれ脱いでても良いぞ」
「お、いいのか? バレねえか?」
「この部屋の中ならな。部屋の外は一応用心のために被っとけ。テメェは目立つ」
「わかった」と轟がフードを脱ぎ、爆豪のとなりに座った。
 半日振りにその紅白頭を見た。ずっとフードに納めていたせいか、ボサボサとあちこちが跳ねている。気付いていないのか頓着がないのか。
 知らず知らずの間に、ぴょんと跳ねた毛先に手が伸びていた。元の毛の流れに戻すように指を通すと、轟がこちらを向いた。
「なんだ」と問われ、はっとする。何事もなかったように手を引っ込め、上半身を仰け反らせる。
「何となりに座ってンだよ」
「他に椅子ないんだから仕方ねえだろ」
「知るか。どっか行けや」
「みみっちいこと言うなよ」
 なんだとと睨むも轟は気にした様子はない。跳ねた毛先を邪魔くさそうにかき上げ、右側だけ耳に掛けた。
 怒鳴れども睨めども、轟にはさっぱり響く様子がない。腹を立てるだけ損な気分だ。苦々しく口を尖らせ顔を逸らす。
「さっき、少し焦ったな」
「ア、さっきだァ?」
 急に何を話し始めたのかと視線を戻すと「爆豪の知り合いに声かけられた時」と轟が答えた。
「覚えてねぇから知り合いじゃねえ」
「そうなのか。顔が広いんだなと思ってた」
「いくら同郷だからって、モブの顔なんざ覚えちゃいねえわ」
 覚えられる方が圧倒的に得意だなと鼻で笑う。ああして名前を呼ばれて声を掛けられることは少なくない。だが記憶している顔などほんの一握りだ。
「そういうもんか?」と轟が不思議そうに首を捻った。
「テメェはいちいち同郷の顔覚えてんのかよ」
「……俺は、そうだな」
 そこでわずかに言い淀んだことが、少しだけ気になった。なんだと眉を動かす。ほんの少し時間を置き「覚えてないな」と答えがあった。何か別の言葉を選ぼうとしたように見えたが、別段追求するようなことでもない。
 鼻で笑い、ソファに背を預ける。
「あ、そうださっきの。本当につがいっぽい対応で凄かったな。ちょっとドキっとしちまった」
「ウソクセー」
「でもあれ良いのか、本当につがいだと勘違いされないか?」
「つがいだ、とは言ってねェからいいんだよ」
 万一勘違いした奴がいたとして、そいつには勘違いしたお前が馬鹿なのだと笑ってやればいい。
 言い様はいくらでもある。
 一度会話が途切れると、部屋の中には沈黙が落ちる。
 勝手にうるさくするゴーストや、延々話しかけてくる魔女に比べると静かでいい。
 ふと視線を向けた先の轟は、何もしていなかった。じっと座っている。特に退屈をしているようには見えない。長命の生き物は無為に時間を過ごすことが得意だが、こいつも例に漏れないのだろう。
 そろそろ飯を調達しに行くかと立ち上がると、轟も続くように腰を浮かせた。それをてのひらで制する。浮いた体がボスンと音を立てソファに逆戻りした。
「なんだ、どこ行くんだ」
「飯買ってくる。お前は来んな。どうせ喋らせらんねえんだ」
「本当に誰とも喋っちゃダメなのか」
「絶対にボロ出さねえっつう自信があんのか」
「ある」
 どうしてそれほど自信たっぷりに答えられるのか不思議なほど、自信に満ちた顔で轟が肯定した。呆れに目を細めて牙を剥く。
「その自信全く信用なんねえんだわ。テメェは留守番だ」
「んだよ、じゃあこの仕事終わるまで俺の話し相手、爆豪しかいねえってことになんだろ」
「テメェはお喋りに来たんかよ? だがまあ、この宿の奴とは話してもいい。ここの主人は魔女の協力者だからな」
「そうなのか」
 とぼけた顔をする男に眩暈がしそうだ。きょとんと見上げてくる二色の瞳を見下ろす。勝手に眉間にしわが寄った。
「夜の生き物は魔女に協力的でなければならない、って話は知ってるか」
「ああ」
「だが言うこと聞かねえやつのが多いから、協力者の印が与えられてんだよ。入り口に印が貼ってあっただろ」
 そもそも魔女が手配している時点で、ここは協力者の宿だと分かるだろう。「そうだったか」と首を捻る姿に呆れて止まない。
 あの魔女は本当に人をお守りにしたらしい。仕事のノウハウどころではない。この世の常識から叩き込まねばならないのではないか。
 深々息を吐いたのち轟に背を向けるも「人狼の村もっと見たかった」というぼやきが聞こえたので再び振り返る。
「テメェには危機感っつうもんはねェンか!」
「村散策もだめなのか」
「テメェの種族分かってんのか? ただでさえこのところ人狼と吸血鬼は気が立ってんだよ。じっとしてろ」
「……チッ、リンチにはあいたくねえしな」
 今こいつ舌打ちしたなと睨む。だがようやく分かったかと安堵もする。あきれを含んだ溜め息を吐いたのも束の間「囲まれても十分逃げられると思うんだが」と言う。
 本気で殴りかかってやろうかと思った。

  *

 一夜明け、ふと目を覚ます。カーテンを捲り窓の外を見るもまだ薄暗い。
 その中を飛ぶ、黒い影が見えた。
 靄のような群れのような影がうねり、こちらへ向かってくる。どことなく見覚えのあるそれを確認しようと窓を開けると、一直線にそれが突っ込んできた。
 蝙蝠だ。
「げっ」と思わず声を上げる。
 微かな羽音を立てながら爆豪の体を上手く避け、黒い群れが部屋に流れ込んできた。最後の一匹が窓枠を通過したのを見届け、窓を閉める。
 振り向いた先で、轟が爪先から姿を現していた。
 蝙蝠が黒い影として溶ける様に形を変え、轟を形作っていく。ふわっと黒いマントが舞う。影の中から赤と白が現れる。二色のまつ毛が持ち上がり、曇り空と晴れの空の色が覗く。夜の生き物のくせに昼間の色の瞳だ。
 爆豪の部屋に、轟の姿が出現した。
「お、こっち爆豪の部屋だったか」
 悪いな、と轟が大あくびをした。言いたいことが多すぎて面倒になり、最低限の問いのみを唸るように口から出した。
「どこ行ってた」
 そんな吸血鬼丸出しの格好で。
 爆豪が貸した服ではない、轟の持ち物だ。黒を基調にした、夜の王を自称する吸血鬼らしい服装だ。
「偵察だ」
 そう一言答えた轟が部屋から出ていく。マントをなびかせながら歩き、共用スペースに入ると「地図、持ってたよな」と呼ばれる。舌打ちを一つ、荷物から村の地図を取り出し後を追う。
 地図をローテーブルの上に広げた。轟は眠そうに瞬きをしながらソファに座り背中を丸くする。二度目の欠伸が聞こえた。そのとなりに立ち、二色の髪の境目を睨む。
「テメェな、昨日あんだけ危機感持てつったのに聞いてなかったんか」
「聞いてた。ちゃんと風向きも見てたし、あんだけ上空にいりゃ気付かれねえよ。そのためにこっちのカッコにしたんだ」
 一応考えてはいるらしいなと腕を組む。
「それで」と轟が地図を指差した。「とっとと寝てぇから、報告だけするぞ」
 示された場所は村の外れにある建物だった。村の入り口と丁度反対側。四角が書いてあるものの名称はない。空き家だと思われる。
「夜通し村全体を見てたんだが、この小屋に人狼が数人入っていくのが見えた。周りを気にしてたし顔も見えねえように気使ってた。怪しいだろ」
「へぇ」
「言っとくが俺は絶対に見つかってないからな。誰も空見上げたりしてなかったし、騒ぎにもなってねえ。まあ人狼が堂々吸血鬼連れてきているとは、誰も思ってねえだろ」
 この時ようやく、この男が思ったより使えるらしいということに気付いた。夜の世界の情勢には随分と疎いが、馬鹿ではない。結構役立つと己を評価したことも分かる。
 爆豪の予定としては、このあと一人で探りに出る予定だった。カマをかけながら怪しいヤツをあぶり出しそれから――と考えていた。その面倒な工程を丸ごと省略できたとなれば、上出来すぎる。
 せめて行く前に報告くらい出来ないのかと思いはしたが、手柄に免じて言葉は呑んだ。
 しょぼしょぼと瞬きをする轟が「あと」と眉をひそめながら顔を上げた。
「入ってった数と出て来た数が合わなかった」
「留まってる奴がいんのか……どっか繋がってんのか」
「俺は後者だと思う。あんまデカい建物でもなかったしな」
 腕を組んで思考の海に沈む。その小屋を調べに行くとして、手順と作戦だ。思いの外使い勝手が良さそうな轟を組み込みながら、考えていた作戦パターンを順繰り練り直す。
 腕を指先で叩きながらぐるぐると考えを巡らせていると、轟が立ち上がった。
「寝る」と一言いい残し部屋に引っ込もうとする。
「おい」
 去っていく背中に声を掛けると、振り向いた轟にぐっと睨まれた。機嫌の悪そうな顔というのはこの時初めて見たように思う。普段はすこぶる無表情か、時折少し楽しそうくらいの変化だ。それが眉間に皺を寄せて目を細めている。眠くて気が立っているらしい。
「行くなら昼過ぎにしてくれ、眠ィ」
「んなに急がねえわ。そうじゃねえよ、飯は」
「いらねえ」
 寝る。と再度言い残して轟が部屋に消えた。
 バタンと閉まる扉を眺め、ソファに腰を下ろす。頬杖を突き地図に目を向けた。