放っておけない/無自覚

 (爆轟/ワンライもどき)

 

 

 うだるような暑さの、夏の夜のことだった。
 急に腕を掴まれた。寮の外へ出るためドアを押し開けた右手ではない方を、左腕を、掴まれた。
 振りむけば轟が居た。やけに驚いた顔をした轟だ。
 その奥には照明の切られた共有スペースと、そこに集まるクラスメイトの姿がある。光源は、テーブルにぽつりぽつりと立てられた蝋燭しかない。人の動きに合わせゆらゆらと揺れている、随分と曖昧な景色だ。
 轟の顔を照らしているのは、寮の外から差し込む光だった。
 真ん丸になった瞳に、白い街路灯の光が映り込む。
 爆豪どこ行くんだ。怪談怖いのか。轟もどこ行くの。一緒に。珍しいね。なあ。
 がやがやと茶化す声が、随分と遠くから聞こえてくるようだ。
 聞こえている。聞こえてはいるが届いてこない。全くそれどころではないからだ。
 空調が効いていても暑さを感じるほどの夜。何
 もせずとも汗が噴き出す夏の日。
 誰が言いだしたか怪談をしようと集まったクラスメイト。
 開けたドアから流れ込んでくる熱気。
 べったりと暑い夏の空気。
 対照的な、腕を掴むてのひらの冷たさ。
 外野の声を無視してドアをくぐると、引っ張られるようにして轟も外へと足を踏み出した。バタンとドアが閉まれば、内側の喧騒は聞こえなくなる。ふっと電源を落としたように、世界が静かになる。
 そして目の前の、轟だけになる。
「……ンだよ」
 未だに腕を掴んでいる姿を睨むと「あ」と珍しく、確かに驚いている表情を見せた。掴んでいたことに初めて気付いたように、冷たいてのひらが離れていく。
 うだるような暑さの夏の夜。暑いから怪談をしようなど、酷く馬鹿馬鹿しい。
 真っ暗な空には雲もなく、だが眩しいほどの街路灯の光で星など何一つ見えない。僅かにひぐらしが鳴いている。立っているだけで汗の噴き出す夜だ。
「たぶん、なんでもねえ」
 随分と曖昧な言葉で、轟はそういった。
 分かりやすく困った顔を見せている。きっと爆豪が怒ると思っているのだろう。今にでも声を荒らげると思っているのだろう。そして本人は、今どうして手を伸ばしたのか全く分かっていないのだろう。いや、理由くらいはは分かっているのかもしれない。だがそれがどうして今だったのか、どうしてそれを実行に移してしまったのか。それが分からないのだろう。
 特に何も声を掛けないまま歩き出すと、轟はついてこなかった。一つ分の足音が舗装された道を進む。

 怪談でもしたくなるような、暑い夏の夜だ。

 

 

 飲み物を調達し寮へと戻る途中、ベンチにぽつんと座る轟の姿が目に付いた。どこかには居るだろうと思っていたが、思いのほかどこへも行かなかったようだ。
 寮にほど近い場所にあるベンチに腰掛けて、街路灯に照らされながら空を見ている。月もなく星も見えない真っ黒な空だ。
「おい」
 声を掛け、手に持っていた物の片方を轟に向けて投げる。
 綺麗な放物線を描き緩やかに飛んでいくそれは、はっと顔を上げた轟の手の中に吸い込まれた。「うわ」と声が上がるほかに音はない。取り落としはしなかったらしい。
 そのまま、同じベンチに腰を下ろす。
「投げんなよ、これ」と轟が呆れた顔でラムネの瓶を見せた。冷たい水滴がべったりと轟の手を濡らしている。
 爆豪の手にも同じものが握られていた。封を開け、カツンとビー玉を落とす。甘い炭酸がシュワリと音を立てて泡立ち、零れる寸前で落ち着いて水位を下げる。「おお」と感嘆の声を出した轟にそれを渡し、代わりに先ほど投げた方の瓶を奪い取る。
「凄いな。俺、絶対こぼしちまう」
「んなことだろうと思ったわ」
 コツがあんだよ、と投げやりに答えてもう一瓶を開ける。だが投げたせいで炭酸が騒がしく、予定外に少し吹きこぼれた。投げるのではなかったと思いながら手を振り、べた付く水滴を飛ばす。
「これ貰っていいのか」
 などと今更なことを訊ねられたのは心外だ。
「要らねえなら返せ」
「要る。ありがとな」
 じとりと睨んだ先で、轟は笑っていた。笑うというには少し足りない、少しの表情の変化。腹立たしいほどの暑さの中で、涼し気な横顔を見せている。
 傾けたラムネは良く冷えていて、甘い炭酸がぱちぱちと弾けた。
 購買の入り口に「ラムネ入荷しました」と手書きの張り紙がされるような季節だ。十分な数の自販機が設置された校内でも、ラムネはずいぶんと売れるらしい。爆豪と同じように、何らかの理由で急に思い出し、買おうと思うものなのだろう。
 実際いい口実だよなと、炭酸を飲み込みながら何も見えない空を見上げる。
「さっきは、悪かったな。引き留めて」
 ラムネの瓶を持て余すように見つめながら轟が言った。「どっか行くところだったよな」と既に済んだ用事の話をする。
「飲み物買いに出ただけだわ」と吐くと「自販機あるのにか」と風情もクソもない言葉が返ってくる。
 自販機に瓶のラムネは入っていないだろうにと睨むも、全くそのことには思い至っていないようだった。
「あれだよな」とからころとビー玉を転がしながら轟が言う。「怖い話、苦手だよな」
 爆豪って。
「ア?」
 苦手じゃねえわと噛みつく前に「俺も苦手だ」と、ほうと息を吐いた轟が瓶を傾けた。
 硝子の飲み口に唇が触れる。うるさいくらいの街路灯の光が、くっきりとその姿を照らしている。横目に見ても喉仏がこくりと動く様子が分かる。カランとビー玉が鳴る。
 怪談を始めるというクラスメイトの輪に取り込まれないよう、に寮を出たのは確かだった。まさかそれに、ついてくる奴が居るとは思っていなかったが。
 夏の日の夜。うだるような暑さの中で始まる怪談。
 一年前。
 なにを思い出したのかくらいは、流石に轟も気付いただろう。そしてそれを掘り起こさず、適当に散らして埋めることにしたのだろう。けれどどうして体が動いたのかまでは、分かっていないのだろう。
 一年。
 一年という時間を掛けてこいつは、こちらに向ける視線を何かしらの形へと少しずつ作り替えている。クラスメイトでもなく、ライバルでもなく、当然、友人でもなく。
 歩くよりも遅く、じりじりとじれったいほどの速度で、不器用ながらに形を探している。
 爆豪にはそう、見えていた。
 おかしなことにそれを、近いところから見ていた。振り切って走り去れるほどの距離で。動く様子が見えるほどの近さで。振り切れず、何故か放っておけず、ただ座って、見ていた。
 どこに辿り着くのかは知らない。行き着く先が思ったものではないかもしれない。それは轟にとってなのか、爆豪にとってなのか。知る由もない。
 じっと座っていても汗が滲む。タンクトップを引っ張って汗をぬぐう。
 ふと顔を上げると目があった。ぱちりとかち合う視線は偶然ではない。待ち構えていた視線に吸い寄せられた。
 じいっと見詰めてくる二色の瞳は、この暑さを忘れるような涼し気な色をしている。ひんやりとした色の瞳でじっと熱っぽく見詰められる。
「……ンだよ」
「なんでもねえ」
 眉をひそめると、轟はふっと笑った。ほっと目を伏せて、安心したようにガラス瓶を眺める。
「怪談いつ終わるんだろうな」
「しるかよ」
「やっぱ外、暑いな」
 良かった。という一言を飲み込んで、隠すようにたくさんの言葉を吐きだしているように見えた。
 適当に相槌を返し、無視もする。
 時間は流れても暑さは一向に引かず、飲んだラムネの量に見合わないほどの汗が噴き出す。何気なく見た轟の横顔にも汗が流れていた。ぐいぐいと腕で汗が拭われる。その姿を珍しいなと思った。
 暑いも寒いも、上手くいなしている印象ばかりだった。
「あちぃ」
 苦し気な吐息がこぼされる。
 この男がじりじりと形を作り替えようとしているそれが、どこへ向かうかなど知らない。知らないというのに振り切ることも、放っておくことも出来ないでいる。
 思った通りの形になるのか、また別のものを見付けてくるのか、分かりそうにない。
 それを未だ、ただ見ている。