一分一秒

(爆轟)
 
 
 

 どうにも抑えが効かないことがある。
 掴んだ男の腕が熱い。だが自分の頭の中身はもっと熱く、駆け出さないよう理性で抑え込むだけで精いっぱいだった。早く、早くと欲望が急く。
 走り出してしまわない限界の速度で、足を進める。その後ろを、掴んだ男が付いてくる。引きずるように歩いているせいだろうか、時折つんのめるように、腕が引かれる。だが気遣ってやれるほど、ゆとりがない。転びはしないだろうと、高を括る。
 それでも無言で、腕を振り払うこともなく、ただ、ついてくる。それが同情なのだか、あきれなのだか、諦めなのだか、はたまた別のものなのか。確認してやるほどの余裕もなかった。
 ついてくるのだからいい。それだけが事実だ。
 体の中でとぐろを巻く熱に、ひたすらに急かされる。家に戻る時間すら惜しかった。タクシーを探すほど、電車を待てるほど、悠長ではいられなかった。車でもあればよかっただろうか。どちらにせよ家までは数十分かかる。それほど、待てやしない。
 掴んでいる腕が熱いのではなく、己のてのひらが熱いのだと気付いたのは、ホテルのドアノブに触れた時だった。
 冷たいドアノブを、煮えるように熱いてのひらで回す。開いたドアの隙間から、体をどうにか内側へと押し込む。
 その時すでに、男の腕は掴んでいなかった。
 ホテルのチェックインを行う際に、掴んだままでいるわけにはいかなかったからだ。姿が見えない程度の距離へと遠ざけ、エレベーターの前で合流した。狭い箱に二人きりで並び、目的の階まで上る。ごうんと音を立てるエレベーターの緩やかな動作を、これほどもどかしく思ったこともなかっただろう。ふっと意識が数年前、高校時代に飛ぶが、それも一瞬のことだった。
 パチン、と部屋が明るくなる。
 部屋へと入り込んでいた轟が、電気のスイッチを押していた。
 背後でドアの閉まる音が聞こえる。空気を押し出すようにドアが閉まれば、ここは密室になる。もう誰の目に触れることもない。
 ならもう、いいか。
 もう、いいだろうか。
 振り向いた轟と目が合う前に、その腕を掴んだ。グラスになみなみと注がれた本能が、今にも溢れ出そうだった。限界だと、グラスに蓋をしている理性が呻いている。
 それらをどうにか押し留めて、足を踏み出す。
 生存本能と、性的欲求を、混同した体が喚く。早くこの男に噛みつきたいと騒ぐ。本能に振り回される体が恨めしい。それでも床でことに及ぶような趣味はなかった。この後じっくりと付き合わせることになる相手を、労わる程度の思考はまだ残っていた。
 無言で引いた手を、空色と曇り空の色をした瞳が見ている。そんな気がした。
 気配には敏感な方だ。当然、視線にも。だからきっと、轟はこちらを見ているのだろう。それを無視し、狭い部屋の中を大股で三歩、進む。視線を返す余裕などない。目が合ってしまったら、理性が焼き切れてしまうに違いない。必死に足を前に出し、つま先で地面を蹴る。
 体の内に渦巻く熱を、一秒でも早く、この男にぶつけたくて仕方がない。遅れて現場にやってきて、後始末に付き合っただけの、この男に。戦闘の高ぶりなどない、冷静で平然として、それでいてなにも言わずについてきたこの男に。
 掴んでいた腕を大きく前へ振り抜き、ベッドに轟を放り投げる。当然のように男は受け身を取った。肘を突いて、あっさりと体を起こす。そして少し、驚いた表情をみせた。ベッドに向かう途中、肩に掛けていた荷物を、適当に床に放り捨てる。その様子に驚いているのだろう。どうせ大したものなど入っていない。これからの行為には、ただ邪魔なだけのものだ。
 ぎしりとベッドに乗り上げ、轟の肩を押す。白いシーツに体を押し付けると、二色の髪が散らばった。それを不思議と、珍しい光景だと思った。だがそんな考えが過ぎるのもまた、一瞬だ。
 顔を寄せる。触れ合う寸でのところで、轟が笑った。
「ここまで切羽詰まった爆豪、珍しいな」
「ウッセェ」
 そのまま余計な言葉を続けそうな口を塞ぐ。触れた体はひやりとしていて、どれだけ自分の体が熱いかを思い知らされた。
 組み敷いた体は未だ余裕そのものだ。
 噛みつくようにしてねじ込んだ舌に、やわく歯が立てられる。その唇の隙間から、ふくくと可笑しそうな声が零れてくることが腹立たしい。対照的に自分の口からは、確かに切羽詰まった呼吸が漏れていた。
 荒い息と水音を響かせながら、轟のシャツのボタンに手をかける。その指先に、一切余裕を乗せることが出来ない。丁寧とは程遠く、ただはぎ取るような、もどかしい動きになる。普段ことさら柔らかく触れる分、いっそう粗が目立つ。
 手荒に扱ったところで、どうにかなるような男ではないことは知っている。だからといって、そのように扱うかどうかは別の問題だ。
 この衝動に付き合わせることに、わずかな罪悪感を覚えすらする。それでも、他に付き合わせる人間も、付き合わせたいと思う人間もおらず、そしてこの男はきっと、受け止めるだろうという甘えもある。
 サービスのようにわざとらしく、轟が甘い声をあげてみせる。要らぬ世話だと思う反面、余裕のない体は、それすらも馬鹿正直に拾って熱を上げる。舌打ちしてやりたい気分だったが、生憎舌は轟の唇の間にある。
 眉間に力がこもる。それを轟は感じ取っているのだろう。触れ合った唇から笑う様子が伝わってくる。どうにも、腹立たしい。
 熱く昂った下半身を押し付けるように揺すってやると、ようやく艶めいた声が上がった。胸のすく思いがしたが、そんな気分も一瞬で消える。本当にもう、理性が焼ききれそうだった。まだ大事にこの男を暴かねばならないというのに。
 水音を立てて唇を放す。はっと息を吸い込み顔を上げれば、腕の間には轟がいる。二色の髪、二色の瞳。唇をてらりと濡らしながらも、まだ余裕のある瞳が見上げてくる。
「そんなに抱きたいのか」
 そう、問い掛けられた。
「悪ィかよ」
 答えながら今度こそ舌打ちをすれば、轟はにんまりと笑う。開いた唇の隙間から、白い歯がのぞく。手が伸ばされて、髪をかき回すように撫でられた。それを腕で振り払う。轟はなおも笑いながら「いいぞ」と触れるだけのキスを寄越した。
 その、余裕を見せる態度が気に食わない。どうせ直にぐずぐずになるくせにと、既にどろどろの脳みそで思う。
「ああでも」と轟は呟き、顔を下に向けた。組み敷いて押さえつけた体が、ばたりと跳ねる。ギッとベッドが鳴る。後ろを振り向くと、轟がベッドの下に下ろしていた足を上げていた。白いブーツのつま先を揺らしている。
 再び轟の、顔を見る。
 いつの間にかべったりと情欲に濡れた瞳が、こちらを見ていた。
「靴くらい脱がせてくれ」