地上から5cm上の溝

(デビサバ・憂ヤマ。本編の少し前)

 

 

 

 
 時折子供の頃の事を思い出す。
子供だった頃、当たり前の様に転んだことがあった。それは何でもない段差だったり、何でもない小石だったり、何でもない場所だった。何の不思議もなく、さも当然の様に転び、膝を打ち、掌を擦り剥いたことがあった。
 当時の私は子供だったのだから、そこで泣いても良かった、そう思う。事実私はその時、漸く小学生になろうかという年頃の、幼い子供だったのだから。
 子供ならば泣いたって良い。
 だがその時は泣かなかった。
 いやその時だけではない。記憶している限りで、人前で泣いたことなど、ほんの僅かだ。それもとても幼い頃の、たった数回。それ以外では、泣かなかった。泣いてはいけなかった。
 そしてその時泣かなかったのは、そこに自分以外の誰かが居たからに他ならない。
 擦り剥いた掌からは血が滲みだし、じんじんと熱を持ち痛みが広がっていた。湧き出そうになる涙をぐっと堪え、泣くことは悪い事だと言わんばかりに唇を噛んだ。
 今になって思えば、子供が泣くのは当然だったとういのに、私は泣かなかった。
 拳を握り、滲んだ血から目を逸らし、肘を付き上体を起こす。
 顔を上げた目線の先に、影があった。
 影は赤く黒い縞模様をして、目の前に立っていた。
「大丈夫かい」と影から声が降る。
 影がふわりとしゃがみ、近付いてくる。白い髪の隙間から、光が漏れ降り注いでいる。きらきらと、淡く輝いている。眩しい様な気がした。
 だいじょうぶかい、ともう一度声がする。
 その声は柔らかな声色で優しく問い掛ける癖に、しゃがんだまま私の顔を覗き込むばかりだった。
 それ以上近付かない、何もしない。
 そいつから手が差し出されるところを、私は見たことが無い。

「やあ」
 局長室、というプレートの下がる部屋へと足を踏み入れると同時に、その声が響いた。柔らかで優しく、絶対的な距離を感じさせる声。
 眩暈がした。同時に顔を顰める。
 ここは「局長室」だ。そして他でもない私が「局長」だった。
 なのにそいつは其処に居た。
 局長室とは名ばかりの、広いだけのお飾りの様な部屋に。
 無駄としか思えない面積の室内。その中には、馬鹿でかいデスクと重厚感のある黒い椅子、壁に沿うように並ぶ天井まで届く本棚、収納力とは無縁のデザイン重視のサイドテーブルがあるだけだ。どれもこれも通常のそれより大きく作られていたが、それでも床はがらんと空いている。
 その局長室に、用の無い他人が入ることを許さないこの局長室に、そいつは堂々と居た。
「広い割に、殺風景な部屋だね」
 失礼ながらも的を射た感想を述べながら、そいつが笑った気配がした。
 窓辺から差し込む西日のせいで、ここからでは顔は逆光になっていて見えない。だが二度目の声を聴いて、やはりそれが初めの予想と寸分違わぬ人物だと確信する。
 部屋に入った瞬間に、一人きりになったと思ったことでほんの少し緩んでしまっていた気持ちを、引き締め直す様に腕を組む。
 気持ちを切り替える様に一度ゆっくりと瞬きをする。息を吸い、不遜な態度を取り戻す。
「こんなものはお飾りだ。馬鹿共にも分かり易い権力の象徴のほんの一部でしかない。執務室としての価値など無い」
 事実、そこにあるデスクは私の執務用だが、あそこでした仕事など大したものは無い。精々書類を並べ判を押し、来訪者に対してあの向こうから指示を飛ばす程度だ。
 そうか。とゆっくりと呟く声が聞こえた。それに返事はせず、部屋を横断しデスクへと近付く。皮張りで重厚感があり、無駄にクッションの効いている椅子を引き、腰掛ける。背凭れに体重を全て預けると、ぎしりとどこからか音がした。
足を組み、その上で指を組む。椅子をぐるりと半回転させ、未だ窓辺に佇む人影に向き直る。
「何をしに来た」
 じろりと睨む。
 だが動じた様子は全くなく、そいつはこちらへ向き直る様に少し体の向きを変えた。逆光で見えない眼差しが、私を見る。
 ふっと視線が外れた。窓辺に寄り添っていたそいつが動き、音もなくするりとこちらへ近付いてくる。
 影がふわりと浮く。白い髪が風を受けて揺れた。一歩を踏み出す事も無く、そいつは私の方へと近寄ってくる。それが気に入らなくて眉をしかめた。
 逆光でなくなったことで、初めて姿が見えてくる。赤と黒の縞模様の衣服、白色の僅かに癖のある髪。髪と同じ色をした、長い睫毛。記憶の中の姿と、寸分違わない。
 デスクのすぐ横、私の目の前まで移動してきたそいつはそこで止まった。そして私の姿を爪先から頭の上、髪の先までをじっくりと眺めると、はあ、と息を吐き、口元を手で覆うように隠した。それはそいつの癖だった。
 値踏みする様に体の上を往復する視線に臆することなく、視線を逸らさずに睨み返す。
 もう一度「何をしに来た」と問う。
 そいつは一度頷くと、顔を上げた。
「そのコートかな。まだ着なれていないようで、どうにも背伸びをしているかのような印象を受けるよ」
「……成程、わざわざ私を馬鹿にしにきた訳か」
「そう聞こえたならすまない。そういうつもりではないんだ。ただ、あっという間に成長していってしまうな、と思ってね」
 そいつは私の顔を見ながら目を細めた。白い睫毛が瞬きに合わせ揺れる。その隙間で揺れる風の流れが見える様な気がした。
「局長に就任したそうだね。そう訊いたものだから、祝いの言葉でも、と思ってやって来ただけだよ」
「……随分と久し振りに顔を見せたと思えば、そんな用か」
 くだらない、と眉を寄せると、そいつはほうと感嘆した。「そんなに久しく顔を見せていなかっただろうか」
 私は更に眉を寄せた。
「そうだね、そうかもしれない。見違えた様に感じるのも、その所為かもしれない」
 成長期なのか、と呟きそいつは少しばかり憂えた。私はそれに少し腹が立った。苛々とする。じくじくと内側から何かに蝕まれる。
「用はそれだけか」吐き捨てる様に言えば、そいつは眉を下げた。
「ああ、祝いの品でも持ってきたら良かったかな。正直なところ、祝いにかこつけて少し、顔を見に来ただけだからね」
 だから用という程の事はないんだ、とゆっくりと瞬きをしながら目を伏せた。伏せた目に長い睫毛が影を落とす。口元はうっすらと笑みを湛えていたが、どうにもその表情のままには見えない。
 かといって、こいつが何を考えているかなど、分かりやしないが。
 椅子から腰を浮かし、立ち上がる。立つとこいつよりも目線が高くなった。知らない間に、追い越していたらしい。今の私からは、頭の上しか見えない。目を伏せたこいつの、瞳の色も、ここからでは見えない。
 以前なら見えていたそれが、見えなくなった。見上げていた時には見えた、目の色が、今は見えない。代わりに旋毛が見えた。旋毛があることが、妙に不思議だった。
 こいつはずっと、私の目線の上に居たのだ。
 並んで立っても背は負けていた。転んでもこいつは見下ろしているだけだった。子供の様に抱え上げられた事も無い。
 私はずっと、見上げるばかりだった。
 ああそうだ。そういえば、一度だって触れたことも無かった。こいつは絶対に手を差し伸べる事をしなかったし、私も手をと求める事も無かった。
 私は、こいつの手が、温かいのか冷たいのか、それすら知らない。
「おい」
「ああ、どうかしたかい」
「手を出せ」
 淡々と命令の様に告げ、さあ、と右手を差し出す。眼前へと突き付けられた私の掌を眺めながら、そいつは眉をひそめた。そして少しだけ、手を隠す様に後ろへ引いた。その仕草が、腹立たしかった。
 その苛立ちをぐっと飲み込み、平然とした顔を作る。
 この手は、と言いたげな顔に、先に要求を付き付ける。
「祝いの品が無いというなら、これで勘弁してやろう」
 急かす様に手を一度上下に振る。そいつは元より表情豊かなどではない顔を、それでも少し困惑の色に染めた。その珍しい顔色が見上げてくる。
「それは握手か何かかな」
「はっ、そんな挨拶や親愛を表すための行為などではない。お前はただ手を出せば良いだけだ」
「……峰津院大和の言わんとすることが、私には分からないのだが」
 フルネームを呼ばれた際に、じわりと心のうちに広がった得体の知れないもやを無視し、何事も無かったかのように鼻で笑う。「分からなくて結構だ」
 さあと尚も手を差し出し続ける。
 そいつが後ろめたそうにし、手を見えない角度にとそっと隠す所作が気に入らない。気を逸らし曖昧に濁すチャンスを伺っているそれが、気に入らない。
 何を、何をそんなに躊躇うのか。たかが、手ではないのか。
 何がそんなに、嫌なのだ。
 今ならば、強引にその手を奪う事も出来るかもしれない。けれどどうしても、自らその手を差し出させたかった。
 今度は苛立ちを隠さずそのままそっくりと掌に乗せ、ずいと差し出す。
「どうした。そんなに手が嫌なら顔面でも良いが」
「ふふ、そちらの方が怖いね」
「ならば素直に手を出せ。それだけで済む」
 そいつは少し笑った。私は引かない。
「私の手など、何も面白いものではないと思うが」
「それは貴様が気にすることではない」
 ぴしゃりと言えば、漸く観念したようにそいつがすっと一歩分前へ出た。何の抵抗も感じさせない平行移動。その様は異常に見えたが、そいつにとっては常だった。
 音もなく現れ、音もなく移動し、音もなく、消えている。いつもの事だ。
 白い指先が揃えられ、するりと上がり私の眼前へと差し出される。そいつの顔には苦笑と、ほんの僅かな諦めが見て取れた。それを、見て見ぬ振りをする。
「少し見ないうちに、君は私より背が高くなったどころか、変な事を言うようになったね」と茶化す様にそいつが笑った。
 その誤魔化しを無視し、差し出された指先を掴む。その指先がほんの僅かに震えている気がした。しがた、きっとただの錯覚だ。
 細くて弱そうな白磁の様な掌を、それよりも一回り以上大きな私の手が包む。存在を確かめる様に、力を込めた。
 簡単に言えば、その手に温度は無かった。
 温かくもない、冷たくもない。何も感じない。今まさに掴んでいるのに、本当にここにあるのか疑いたくなるほどだ。まるで、手の形をした、ただの空間だ。
「ほら、面白くないだろう」
 こちらの反応が分かっていたかのように、彼の声は笑った。私は奥歯を噛みしめ、これでもかと顔を歪めた。歯が軋む音が聞こえる気がする。
「お前は」と絞り出した声は思いの外低く掠れていた。
 それ以上言葉が続かず、気付いた時には俯いていた。床が見える、絨毯が見える。私の足と、足から伸びる影が見える。足と影が、離れているそいつの、足が見える。
 顔を上げると、目の前で白い睫毛が穏やかに揺れていた。先程まで顔の上に確かにあった諦めの色を綺麗に笑みで覆い隠し塗り固め、緩やかに口角を上げる、そいつの顔が見える。
「……お前は」ともう一度声を出す。「足を地に付けろ。そして歩け」
「そんな事は無意味だよ」そいつの声が笑った。
 目を伏せる。視界から入る情報を制限する。今目を開けると、余計な物が次々と溢れて出て、何かを食い殺してしまいそうな気がした。
 腹の奥でぐらぐらと揺れる黒い何かが迫り上げ、喉元まで迫ってくる。そんな錯覚に見舞われる。「お前は」と、また同じ単語を、絞り出す。
 腹が立った。
 腹が立っていた。
 足があるくせに地面を歩かないそいつに。
 肌があるくせに温度がないそいつに。
 化け物めと手を振りほどくには未だ時間が足らない自分に。

「……お前はどうしてそうなんだ」

 どうしてこんなにも違うんだ。