(爆轟/十年後入替り系世界滅亡匂わせ)
恋人をベッドに押し倒すことに、大した理由は必要ないだろう。
何もこれが初めてではない。
初めての時には、それなりに理由が必要だという気がしたし、色々な心構え が必要だったと記憶している。だが既に数度目ともなれば「そういう気分だった」というだけでも良いように思う。逆に「そういう気分になってきた」という理由でベッドに押し倒されて乗られたこともあった。当然、承諾すると同時
にひっくり返したが。
押し倒したこの男は相当、我が強い。
そもそも乗り気でなければ肩を押してもひっくり返らない。体幹の意地も強く、易々とマウントを取られることを良しとしない。だから今日はつまり、それなりに乗り気だ、ということになる。
黒いシーツに体が沈む。心の支度をするように、見上げられる。
どうやら初めからそのつもりだった、という訳ではないようだ。だが拒むほどの理由はなく、提案にのってもいい。ただその為には少し、支度がいる。
このまま適当に時間を浪費してぬくぬくと眠る予定から、そういうことをする気分を受け入れるための支度が。
轟が小さく息を飲んだ。それから唇の端でかすかに笑う。
心臓が跳ねた。いくら堂々と振る舞ったところで、平然を装ったところで、高校生の体におさまる鼓動の速さは知れている。こいつが良い、と選んだ相手の無防備を見下ろすことにはまだ慣れそうにない。だがそれを悟られたくはない。これは意地だ。
ピリッと、光のようなものがこの時走った。
上鳴が放つ電気にも似た、一瞬の明滅。
瞬きにも満たないような時間、部屋の灯りが消えたような気がした。訪れた暗闇と閃光はごく短いもので、ただのまばたきだったのかもしれないと思う程だ。
それが気のせいではなかったと分かったのは、突如顔面が掴まれ、砂と鉄の匂いが肺いっぱいに広がった時だった。
轟を押し倒していたはずのベッドに、背が押し付けられている。視界には天井の色しか見えない。その上四肢まで拘束されているときた。動くのは手首くらい。顔を押さえ付ける手のひらのせいで口が塞がり、言葉も発せられない。
何が起きたのか。
押さえつけられることは性に合わず、体を起こそうと試みるがぴくりとも動かない。微かにベッドが軋んだが、それだけだ。
「どけ」「離せ」「ふざけんな」という言葉一つも出ていかず、ただただ唸り声のように空気に漏れていく。
今この体を押さえ付けている相手は、轟以外に居ない。
とは思うのだが、如何せん先ほどの謎の閃光が気がかりだ。誰かの個性か、ヴィランの襲撃か。はたまた何だ。
その上、のしかかっている体が轟にしては重い。これが妙だった。
「お」
きき馴染みのある、間抜けな声が聞こえた。ただ知っているそれよりも、少し低く掠れている。
顔を押さえ付けていた手が外された。そこでようやく、のしかかっている犯人の姿を拝むことが出来たのだが、予想と予想外の、丁度中間のような光景がそこにあった。
髪色が真ん中で赤と白に分かれた、オッドアイで、顔面の左側に火傷痕のある男が、そこに居た。
これを轟焦凍だと断じるには外見年齢が合わない。だがこのような外見の男がこの世に二人もいるとは思えない。
「ア?」と戸惑い混じりに唸ると「爆豪、か?」と断定するようでいて、微かに疑いを含んだ声が下りて来た。
「当たり前だろうが」
「……ぽいな」
離せ退けともがく。轟のような人物は再度こちらの顔をまじまじと覗き込んだ後、探るように部屋の中を見回した。
「寮か」と勝手に納得したのち、上から退く。
解放された体を起こし、警戒するように膝を立てる。
砂と鉄の匂いがした男は、その匂い通りに薄汚れていた。
そしてよく知った轟より体格が良い。背は伸び、丸みを帯びていた輪郭はすっとして、大人の装いを見せている。カーキの作業服のような服はところどころ破けており、雑に縫い合わせた穴も見て取れる。
「もしかして爆豪、今十六か?」
「十七だわ」
「ああそうか、爆豪は十七になるのか」
なるほどな。とまたも勝手に納得する。その男の背中に「おい、轟」と呼び
かける。
男は振り向き目を丸くして、二度まばたきをした。
「俺が轟焦凍だって分かんのか」
「ンな派手な頭した野郎が他に居てたまるかよ」
「分からねえだろ。こんな世の中だ」
冗談だろうと鼻で笑ってやれば、気の抜けたような笑みが戻って来た。知った轟からは見たことのない顔だ。
「で、どういうことか説明しろ。勝手に納得してんじゃねえ」
「おお。まあ簡単に言えば、十六の俺と二十六の俺が入れ替わったってやつ
だ。どいつがキーを握ってんのか知らねえが、何かの個性だろ」
「テメェの方じゃねえのかよ。こっちは何もしてねえぞ」
「俺も心当たりがねえ。さっきまで寝てたしな。入れ替わったなって分かんのも、俺が十六の時に十年後に飛ばされたことがあるからってだけだ」
「つーことは、元に戻るんだな」
「ああ。一時間くらい経ったら勝手に戻ってた」
ただ俺が見た未来はこれじゃなかったけどな。と小声で一言付けたされた。その言葉の意味を問おうとしたが「おっ」と覗き込んできた視線に阻まれた。
「十六の俺がどうなってるか心配か?」
「誰もンなこと言ってねえだろうが」
「大丈夫だ。俺と入れ替わってんなら、今は安全なところに居る」
今は、という言い方は引っ掛かるが、戦場の真っただ中にいるかのように薄汚れているのだ。何かしら任務の最中なのかもしれない。砂と鉄の匂いの隙間から、微かに嗅ぎ慣れない香辛料の匂いも漂ってくる。国外だろうか。
だがこの戦い慣れたヒーローの貫禄を見せる男が、大丈夫だと言い切ったのだから、事実なのだと信じる他ない。
改めて観察すると、腹が立つほど大人の装いをしていると分かる。十六と二十六の間にある十年は長いと知れる。
プロヒーローとして現場に立つようになり、八年経っているはずだ。プロを目指すために勉強を始め、たった二年の子どもとはわけが違う。
それにしても、落ち着いたように見える。あのどこか抜けて油断した様子のある轟も、十年でこうなるのか。渡り歩いた戦場の数が違うのか。
今から十年後の間に起きるだろう。ヴィラン連合との戦いは、やはり熾烈なものになるのだろうか。
様子をうかがいながら思案していると、轟がベッドに腰を下ろそうとしたので慌てて止める。阻むように体を押し返すと「なにすんだ」と至極驚いた目を向けられた。
「テメェ汚ねえんだよ! 風呂入ってこいや」
「こんくらい普通だろ、みみっちいな」
「ンだと」
「でもまあ、風呂か。いいな、入りてえ」
「入ってねえんかよ」
「風呂桶は流石にな」
「どこの国行ってんだよ」
呆れながらベッドを降り、クローゼットからバスタオルを取り出す。真っ白でふかふかなそれを投げつけると、男は片手で受け取った。
「場所は覚えてっか」
「おう。一階だろ」
「あとバレんなよ。上手く隠れろ」
「お、だよな」
それは抜け目のなさそうな男の、初めての油断に見えた。
「見付かったらややこしいことになンだろうが」と眉をひそめて睨む。男は本当に分かっているのか怪しい顔で、バスタオルを両手で掴みふかふかと撫でている。「おい」ともう一度声を掛けると、探るように床を見た。
「ここ、緑谷とかも居るんだよな」
「アァ?」
「会いてぇな」
その名前が轟の口から飛び出てくることに、慣れたつもりだったが、未だ決して気分がいいものではない。その上未来から入れ替わり遣って来たと言った口からも出すとはどういうつもりなのか。苛立ちが伝わったのか、ただの偶然かは知らないが男は顔を上げて首を振った。
「でも、ちゃんとやめとく」
「ンだそれ」
「じゃあ風呂行ってくるな。見つからねえようにするから安心してくれ」
「ハッ、どうだかな」
「隠密行動には自信がある」
自信たっぷりに答える男に、轟にそのような特技があっただろうかと目を細める。これから会得するのか。じとりと睨んでいると「あっ」と声を上げた。
「爆豪。悪いんだがもう一個頼み事してもいいか」
「軽く飯が食いたい」と言い残して部屋から出て行った男から、五分ほど遅れて一階へと降りた。わざわざ頭に「軽く」と付けたことには何か理由があるのだろうか。
そんなことを思いながらおにぎりを二つ作った。具を作ってやるほどの時間はなかったため、梅干しと鮭フレークを詰めた。味噌汁は辛うじてインスタントを免れた。
轟だ、と思う人物に食べさせる飯としては思うとあまりに味気なく、不本意だという気持ちもあったが、やりようがなかったこともまた事実だ。
部屋に戻る。男の姿はまだない。
おにぎりを机の上に置き、ベッドに腰を下ろす。
十六の轟のことを考えた。大丈夫だと言っていたが、どこでどうしているのかは分からない。無事ならいいのだがと、顔にも態度にも出さず、一人きりの部屋の中で考える。
戻って来たらもう少し詳しい話を聞こうと思い、ふと顔を上げた先に、その男の姿があった。
「ア?」
何の音もしなかった。ドアは閉めていたはずだ。鍵は開けていたとはいえ、音一つ立てずドアの開閉を行うことなど出来るのか。
その上気配もなかった。勘が良いと自負している身としては、些かプライドが傷付く心地がした。
「幽霊かよ」とせめてもの悪態を吐くと「隠密行動には自信がある、つったろ」と胸を張り、ふふんと笑ってみせた。だがその後に「まあ間違っていないな」と付け加えられた言葉は気味が悪い。
男は机の上の食事を見付けると目を瞬かせた。
「これ食っていいのか」と問われ、言葉もなく肯定する。
味噌汁のお椀を片手で持ち上げると、立ったまま口を付けた。行儀の悪いことだと思うが、あまりに自然な所作だった。ゆっくりと食事も出来ないような状況化に居るのかもしれない。
一息に飲み干すと、ほうっと息を吐いた。
「うまい」
「ンな程度で喜ぶんじゃねえ」
「いや、本当に美味いぞ。久々だなこういうの。インスタントじゃねえだろ、てことは爆豪の手作りか」
やけに嬉しそうな声色にむず痒くなり「ウルッセェな」と悪態を吐く。
男はおにぎりの載った皿を手に取ると、ベッドへと近付いてきた。風呂上がりと分かる、血色の良くなった頬の色。僅かに湿っている髪。そして洗ったかのように綺麗になった作業着。実際に洗ったのかもしれない。乾いているのは個性を使ったからだろうか。服を乾かせても髪はしけったままとは、この男の器用さの匙加減は全くもって分からない。
「そっち座って食え」
近付く男を制して、椅子を指差す。
「外が見てえんだ。ダメか?」
ちゃんと服も洗ってきたから汚くねえぞ。と言われては、これ以上断る理由もない。元より、轟という男に甘い自覚があった。舌打ちを一つ投げ、ベッドを譲る。カーテンを捲ってやると、男が覗き込んできた。カラリと硝子戸も開けば、夜の空気が吹き込んでくる。
「おお」とおにぎりに齧りつきながら、男が感嘆の息を漏らした。
ハイツアライアンスからの景色がそれほど懐かしいのだろうかと思ったが、違った。
「こんな高ぇとこ久々だ。お、ビルも見えるな。懐かしいな」
「テメェ今どこに居ンだよ」
サバンナにでも行っているのか。
どかりと椅子に腰を下ろしながら鼻で笑う。男は梅干しの酸っぱさに顔をしかめた後、考えるように外を見た。
緩やかにまばたきを繰り返すその横顔は、郷愁だとか、そういう懐かしくて
物悲しいものに満ちているような気がした。
「まあいいか、話したら変わることもあるかもしれねえしな」
「んだよ」
「簡単に言や、十年後の日本はほとんど滅んでるも同然だ」
は、という音すらも口から出しそびれてしまった。
淡々と滑らかに事実を告げる平然とした口調と、話の内容が結びつかない。
残りのおにぎりに齧りつく合間、男は話を続ける。
「あー、今はなんて呼ばれてる時だ。最初だからヴィラン連合か? その、死柄木が、王様名乗ってるような世界だ」
「……ヒーローは何してんだよ」
俺も、お前も、デクも、誰も彼も。
冗談言うなよと眉をひそめるが、轟という男がこうも堂々と法螺を吹くとは、当然思っていなかった。
「あんま、残ってねえな。同期で最初に死んだのは緑谷だった。だから駄目だったんだろうな。ずるずると負け戦だ。爆豪が知ってる奴で生き延びてる奴
は、碌に居ねえぞ。俺が知らねえ交友関係があんなら別だが」
「マジで言ってんのか」
「1Aで残ってんのは俺だけだ。お前も死んだ」
あまりにあっさりと告げられた、未来の自分の死の受け止め方など分からないものだ。
ヒーローを目指すということは、それだけ死ぬ可能性が高いことだとは分かっていた。分かっていることと、お前はこの後死ぬぞ、と言われることが、こうも違うとは思わなかった。
現実味が無いのは、目の前の男があまりに淡々としているからかもしれない。
お前はプロヒーローになっているぞ。と同じように、当然の結果を伝えているかのようだった。
「冷たい奴とか思ってんのか?」
「……誰もンなこと言ってねえだろ」
「そういう顔してる。あのな、いちいち泣いてたら次に死ぬのは自分だぞ」
悲しむ隙とかねえからな。と男は言う。
ぺろりとおにぎりを平らげ「ごちそうさま。美味しかった」と皿を差し出してくる。それを受け取り机に戻す。ベッドの端に座る男の姿を眺めながら、椅子にもたれ掛るとギッと音がした。
男は外を見ている。だがベランダへと出ていくわけでもなく、大人しく座っていた。
何をどこまで事実だと受け止めるべきなのか。
この男は本当に、十年後から入れ替わりでやってきたのか。
「ワリィ」と口から出たのは、最早呻きに近かった。
何に対する罪悪感なのかもう分からない。せめてもう少し良い飯でも食わせてやれば良かっただろうかと考えたのは、現実逃避に過ぎない。
「爆豪が謝るとか珍しいな」
男がこちらを向いて目を丸くしていた。純粋な驚きに満ちた表情に腹が立ち、少しばかり和む。
「ウッセェ」と睨むと男が笑った。懐かしそうで、やはり腹が立つ。
「まあ、でも、大丈夫だろ。俺が十年前に見たのはまた違う未来だったしな。
変えられるんじゃねえか?」
「適当ぶっこいてんじゃねえ」
「適当じゃねえ」
立ち上がった男がこちらへ近づいてくる。轟によく似た亡霊のような男だ。しっかりと二本足で立ち、背筋も伸びて、静かな目をした知らない男だ。だか
やはり、轟だとも思う。変な話だが。
その男が目の前まで来たかと思えば、両手を伸ばしてきた。そして急に頭を掴まれ、雑に撫でられる。髪の毛をかき回す様な乱暴さで、実に楽しそうな手付きだ。
どうにか止めさせようと「何しやがる!」ともがいて唸る。だが生憎、滅びかけの世界で生き残っているような男からは逃げられなかった。
「クソが」と呻き諦め、されるがままになる。
男が満足するまで撫でまわされた。終いに髪を整えるように指で梳かれ、ようやく解放される。
「俺は爆豪が好きだったんだ」
当然のように過去形で伝えられた言葉に顔が歪む。
それをここで言ってどうなるというのか。
付き合っていなかったのだろうか。別れてしまったのだろうか。自分ならばどうするだろうか。別れたことで轟の命が延びるとしたら、別れるのだろう
か。そんなことで延びるとは到底思えない。だったら。
「お前の未来はこうじゃないといいな」
「ンなクソみてぇな未来にしてたまるかよ」
負けてんじゃねえかよふざけんな。
吠えると轟が笑った。
「おう。よろしく頼むな」
そう言って頷いて、楽しそうに目を細めて、急に腕を掴んできた。「ハ?」と思って声にする間もなく、ベッドに放り投げられた。続けざまに男もベッドに倒れ込んでくる。となりで黒いシーツに顔をうずめながら「ふかふかのベッドいいな」と呻いたかと思えば、パチリと閃光が走る。
そこにはもう轟が居た。
寝そべる轟と、目が合う。
何故だか轟は妙にぶすくれていて「どこ飛ばされてたんだ」「大丈夫だったんか」などなと問い掛けても何一つ答えてはくれなかった。
終いには「ウルセェ」と拳で殴りかかってくる始末だ。
そこでブチリと堪忍袋の緒が切れて、大喧嘩になった。
そもそも一時間前までは、これからセックスするかという気分だったのに、その情緒はもう一ミリも残っていない。
激しい物音を聞きつけた切島が乱入してくるまで喧嘩は続いた。何があったんだ落ち着けよと諭されても、お互い理由を口に出来なかった。
十年後の世界はほぼ滅んでいるなど、とてもではないが言うつもりはないし、信じられるとも思わない。こちらが押し黙れば、轟も押し黙る。
そしてうやむやになり、それぞれの部屋に戻されることになった。だが直後
にベランダを伝って轟が下りて来たことで仲直りに発展し、まあセックスもした。
だが結局、一時間の間に何があったのかを教えてもらえることはなかった。
そんな出来事があったことも忘れ、月日は流れる。
卒業してプロになり、成人し、独立もした。轟とは相変わらず付き合っているし、なんなら同棲している。
この話を思い出したのは、付き合って十回目の記念日を祝った日のことだった。
ベランダから見た夜景には、ビルが沢山並んでいる。遠くの街頭モニターには、ムカつく幼馴染みの活躍が映り込んでいた。
未だ世界が滅ぶ様子がない。