ああまあもういいか

(ワンライ100回記念フリーお題)
  
 

 轟とケンカした。
 ケンカはこれが初めてではない。学生時代にはもう少し些細な事でケンカをしたし、殴り合いになって面倒なことになったこともあった。ただ今回は、一緒に暮らし始めてからの初めての喧嘩だ、ということが問題だった。
「ウッセェ寝る!」
 怒鳴るように話を切り上げ、バタンと個室の扉を閉めた。その時轟がどういう表情をしていたのかは見ていない。腹が立っていたので早々に目を逸らしたからだ。そしてそのまま飛び込むようにベッドに横になり、寝た。
 ケンカしようが腹立たしかろうが、今日も明日も爆豪はプロヒーローだ。あっという間に寝た。忙しい現場の合間にも休息を取れるよう慣らした体にとっては、任務中の緊迫感の中で目を閉じるよりは簡単なことだった。
 眠ると頭が整理され、いくらか感情は落ち着くものだ。
 早番用に設定されたアラームに起こされ目を開ける。寝る前ほどの苛立ちは感じなかったが、釈然としない気分は残っていた。ベッドから出て、スリッパにつま先を押し込み、朝のルーチンにとりかかる。
 思い起こしてみれば、ケンカの内容は実にくだらないものだった。疲れていたから気が立っていたとか、その程度のことだったように思う。
 たまたまお互いそんな気分だったものだから、言い争いがヒートアップしてしまった。それだけのことだ。ケンカと呼ぶにもささいなことだったかもしれない。
 言葉の応酬の中には図星も、理不尽だと思うものもあった。一方的にこちらが悪い、あちらが悪いと決められない。改善案は別途検討するとして、罪状については痛み分けが妥当だろう。
 しかしケンカをしたことに変わりない。
 ある程度の身支度とストレッチを終え、部屋を出る。一緒に暮らしているが、個室を設けている。もう一つの個室の扉へと目をやるが、当然なんの音も聞こえてこない。まだ眠っているのだと思う。運の悪いことに今日は爆豪だけが早番だ。
 舌打ちを残しキッチンへ向かう。炊けた白米を確認し、ケンカを始める前に仕込んでおいてよかったと溜め息を吐く。今日の朝食は味噌汁と昨日特売だった鮭だ。いつものように二人分支度して、一人分をよそって食卓につく。ずずっと味噌汁をすすりながら、恨めしい気持ちで閉まったままの扉をもう一度睨んだ。未だなんの動きもない。
 焼き鮭を口に運びながら、ぐうと唸る。
 ケンカなんてものは長引けば長引くだけ面倒だ。
 謝るにしても謝らないにしても、さっさと済ませてしまうに限る。今回、爆豪は謝る気はないが。お互いが密かにため込んでいた些細な不満がある、ということが分かったので別途話し合いをしよう、という方向性で進めるつもりだった。それでも謝られたならば「俺にも悪いところはあった」と言うつもりくらいはあった。
 朝食を終え、食器を片付け、最後にもう一度扉を睨む。仲直りは夜まで持ち込しかと思うといくらか憂鬱な気分になった。ぐっと眉を寄せ、は、と息を吐き出す。諦めるほかない。寝入っているところを起こしてまで優先すべきことではなかった。
 ヒーローは体が資本だ。味噌汁を温めて飲めよ、と書置きでもしてやろうかと思ったが、結局やめた。早番の爆豪が食事を残して先に家を出ることは、これが初めてではないからだ。
 荷物を抱えて家を出た。
 今日も変わらずヒーローとしての仕事が続く。コスチュームに着替えてパトロールに出て、ザコを捕えて警察に引き渡し、救援要請を受けて現場に飛び、ザコを捕えて警察に投げつける。
 問題は、今日帰ったらどうするかだ。最短での決着がつけられなかった今、夜に後から帰ってくるだろう轟に対してどういうリアクションを取るか。
 あいつはまだ怒っているだろうか。昨晩はかなり怒っている様子だった。喜怒哀楽の怒が一番顔に出やすい男だ。最終的にどういう表情をしていたのか見ておけばよかったと、少しばかり悔やんだ。
 昼過ぎのパトロールに出ながら、刻々と近付いてくる帰宅時間に焦りを覚える。
 一緒に暮らし始める前、学生時代はどうやって仲直りしていただろうか。あの頃はどうやったってすぐに顔を合わせていたし、視界に居たのでなし崩しになっていたような気もする。
 どうにも大雑把な轟が平然と話しかけてくることも要因の一つだっただろう。爆豪が怒った場合は、わりと早々に謝るってくる。詳細はピンと来ていないが、とりあえず悪いって言っておくか、という様子は否めなかったが、今思えばありがたかったように思う。ちなみに轟が怒った場合は「何回考えてもお前の方が悪い」と謝罪を要求してくる図太い奴だ。そういう時はさすがに謝った。
 結局好きなのだ。ささいな喧嘩で冷戦を長引かせるよりも、どうでも良い時間を一緒に過ごしたい。
 ぐうっと眉を寄せながら、樹から降りれなくなっていた猫を下ろしてやった。放っておけば勝手に降りてくると言っても、飼い主の少女が泣き喚いたからだ。
「今日、心ここにあらずそうなのに、キレが良いですね」
 そう、妙なことをサイドキックから言われたのはその時だった。
「ア?」と唸ったあと、心当たりに頭を抱えたくなった。
 確かに仕事に支障はないが、話しかけられても生返事ばかりだったように思う。原因はどう考えても、朝からずっと頭の中でぐるぐると回る轟のせいだ。
 それでも仕事に対してキレがいいと言われる自分に少々感心したが、脳内の大半を占め続けている男の姿に腹が立った。大声で叫びたい気分だったし、学生の頃だったらとなりにいるこのサイドキックを思い切り投げ飛ばしていたのではないかと思った。
 そして一日の仕事を終え、誰もいない部屋に戻り、頃合いを見て台所に立った。
 無心で出汁を取り、蕎麦を茹でている時、急に我に返った。
 そして蕎麦を茹でる自分にぞっとした。
 確かに蕎麦にするかと考えた覚えはあるが、半ば無意識だったと言ってもいい。好物で先に機嫌を取るという無意識のルーチンに寒気を覚え、しかし呆れて諦め天ぷらを揚げた。丁度エビがあったからということもあるが、少し面倒な作業がある方が無心になれると思った。
 じゅわじゅわと音を立てる油の中に、衣をつけたエビをそうっと投入していく。轟と一緒に暮らし始めてから、食卓に蕎麦が並ぶ頻度は決して高くない。昼食などで蕎麦を食べがちだと知っているから、わざわざ家で出すことは少ない。でも勝手に乾麺を仕入れてくる奴が居るせいで、戸棚にはストックがある。賞味期限を盾に茹でさせようとしてくることもあれば、駄々を捏ねてくることもある。
 また轟のことを考えていたなと呆れた時「ただいま」という声が聞えて来た。
 玄関の扉が閉まる音に続き、ぱたぱたとスリッパの足音が短く真直ぐこちらに向かってくる。そのわずかな時間の間に深呼吸をした。飯は出来ているから先に風呂に入ってこい、から始めようと決めた時、轟の姿が視界に入った。
「お」と弾むような声を出したかと思えば、荷物をソファに投げ出し、大股にキッチンに向かってくる。
「蕎麦か、珍しいな。良い匂いがする、出汁からとったのか?」
 キッチンカウンターに肘をついて覗き込みながら、くんくんといった仕草で匂いを感じている。色違いの瞳は蕎麦と天ぷらを見比べてきらきらと輝いている。
 おかしい。
「テメェなに平然と話しかけてんだ、ケンカ中だろうが!」
 覗き込むように睨み付けると轟は「えっ」と目を丸くした。
「いつ」
「は」
 なんの心当たりもありません、という顔の轟に見つめられる。
 真ん丸に見開いた目が確認するように、じいっと爆豪の姿を映している。考えるようにまばたきをしたのち、腕を組んで首を傾げた。
「ん?」とのんきに戸惑う声に気が抜けた。
 頭の中を埋め尽くしていた色々な言葉が一気に霧散していくのを感じ、脱力した。最後に残ったのは「あほらし」の四文字だった。それが全く不愉快ではなく、だが「ああ好きだなあ」なんて思ってしまったのでさすがに少し腹が立った。
「もしかして昨日のあれか?」とようやく思い立ったらしい轟に対し、菜箸の先端を向ける。
「なんでもねェ! さっさと風呂入ってこい飯にすんぞ」
「おい、人に箸向けるなよ」
「うるせぇ!」
 轟はむっと眉を寄せたが、すぐに表情をゆるめてにまりと笑った。
「事務所でシャワー浴びて来たから先に飯が良い。着替えてくるな」
 そう言い残し、軽い足取りで自室へと消えていく。風呂に入っている時間で作戦を練り直す時間はくれないらしい。わなわなと体を震わせたのち、ふっと力を抜く。結局惚れた弱みとかなんとかいうのだろう。
 ただ好物を作ってやっただけになってしまった食卓を思う。