別れない二人の別れ話

(爆轟)

 
 
 
 

「悪い緑谷、泊めてくれ。爆豪と別れたんだ」
「えっ、個性事故?」

 
 
 

 真っ暗闇を街灯がぽつぽつと照らす、静かな夜更けのことだ。
 終電も間近の頃に尋ねたというのに、緑谷は快くマンションのドアを開けてくれた。相変わらずオールマイトグッズがひしめく部屋の中に「おじゃまします」と踏みこむ。これでも昔と比べると減っているほう、だという。轟としては、いつ見ても多いな、という感想しかない。
「悪いな、こんな夜遅くに。爆豪と別れたし、そういえば緑谷と最近会ってねえなって思って、ホテルも探そうと思ったんだが、もうすぐ終電だし」
「ちょっと待って、文脈がメチャクチャ」
 まあまあ座ってよと促され、来客用クッションへと誘導される。オールマイト、シルバーエイジモデルのマグカップでココアを出してくれた。緑谷の手にはゴールデンエイジモデルのマグカップがある。あちらが普段使いらしい。「よっこいしょ」と戸惑いを口から吐き出そうとしたみたいな掛け声を出しながら、テーブルを挟んだ向かいに緑谷が座った。
「それで、どういう個性事故にあったの?」
「事故じゃねえ」
「意識改変とかそういう系かな? でも僕を頼ってくれるのは嬉しいけど、先に病院行ったほうがいいよ。解除方法とか効果時間も分かるだろうし。そうだ、夜間だったらあそこの病院がいいかな、ちょっと待って紹介す」
「だから、事故じゃねえんだ」
 割り込むようにしてもう一度、はっきりと告げる。
 事故ではない。
 今日もプロヒーローとして仕事をしたが、パトロールだけで終わった。階段から落ちかけた老婆を救ったり、カツアゲされかけていた中学生を助けたり、迷子の犬を探したりした。それくらいの実に平和な一日だった。珍しくヴィラン逮捕はゼロだ。個性もろくに使っていない。
 そもそもなぜ、個性事故と決め付けてかかってくるのか。
 じっと睨んだ先の緑谷は、道を聞いた相手が知らない言語で話し始めたので、何語か当てようといる時のような顔をしていた。
「え、だってありえないでしょ。君たち別れる要素あった? むしろ絶対に別れてくれなさそうだし、轟くんも今更不満が出てくるくらいだったら、最初からかっちゃんと付き合えてないでしょ」
「そうなんだ」
 それなのだと頷く。
 かれこれ長い付き合いになる緑谷だが、これまでに見たこともない顔をしながらココアを飲んでいる。宇宙から飛来した隕石が突如語りかけてきたりしたら、きっとそんな顔をするのだろうなと思った。
「緑谷のいう通りだ。たぶん俺、この先ずっと爆豪と一緒なんだと思う」
「えっ、ノロケ?」
「だから別れ話とか無縁だろうなって思ってな。それで、別れ話ってやつ、今のうちにしてみてえって思って」
「それで直球でかっちゃんにそういったの?」
「そうだ」
「それで、えっ? 別れちゃったの?」
「おお。二週間だけ」
「にしゅうかん」
 初めて口にする言葉かのようなたどたどしさで、緑谷がオウム返しをした。
 先ほどからレスポンスが妙だが、もしかして眠かったのだろうか。寝る直前の一番疲れている時に尋ねてしまったのかもしれない。悪いことをしたと内心詫びながらココアに口を付ける。慌てて作ってくれたのだろう、底でココアがどんよりとと沈殿していた。
「今日な、事務所で後輩のサイドキックが、丁度そんな話をしてたんだ」
「……別れ話を?」
「おう。今付き合っている恋人と別れたいんだが、どう別れ話を切り出したらいいのか分からないんだと。で俺に聞いてきたんだ。たぶん今までそういう機会がいっぱいあっただろ、ってな」
「あー。世間一般からしたら、君ってそういう感じがしそうだよね」
「そういう?」
「頼みこまれて付き合ってはみたけど、やっぱり長続きしなくて別れそうな感じ?」
 それはどんな世界の俺の話なのだ、と眉をひそめる。
 緑谷は慌てて「僕じゃない、言ったのは僕じゃないよ。そういう感じがありそうなのに、現実ではかっちゃんと付き合って丸十年なんだもんね、って話を、この前」と両手を振り回して弁明した。
「別に怒ったわけじゃねえ」と首を振る。
 そうだ。後輩に聞かれた時にも思ったが、全くそのような経験はない。むしろ「別れ話」なんて言葉があったことを、その時思い出したくらいだ。
 そこでふと考えてみたわけだ。
 爆豪と別れ話をすることがあるのだろうかと。
 この十年、そのようなチャンスは全くなかった。順風満帆とは違うが、別れたいと思った瞬間もなかった。周りからはあの爆豪とどう付き合っているのか、と聞かれたりもする。怒鳴られないかだとか、直ぐ手が出そうだとか、恋人への気遣いがなさそうだとか。
 憶測が飛び交いまくった挙げ句、なぜか同情を受けることもある。しかしそこは緑谷の言う通りで「今更そのあたりに不満を覚えるくらいなら、初めから爆豪と付き合っていない」のだ。実際、怒鳴られはするし手も出るが、こちらも怒るし殴るのでおあいこだ。それに恋人的な気遣いができていないのはむしろこちらの方だ。全く申し訳ない。
「まあなんつうか、そんな感じで、爆豪に言ったんだ。俺たちたぶん別れ話とか一生しねえから、今のうちにやってみてぇ、って」
「うわ、さすが対極の個性を使えるだけあって温度差激しい攻撃するね」
「なんだって?」
「さすがにかっちゃんに同情するなあ。ええとそれで、別れたんだよね。二週間」
「ああ、一週間で良いって言ったんだが、やるなら徹底的にだって一ヶ月を提示されたから、間をとって二週間になった。徹底的についでに、とっとと出て行けって追い出されちまってな。なにもそこまでやらなくても良くねえか?」
「いやまぁ、かっちゃんらしい……っていうか。あれ、そうだ、別れ話で済まずに別れちゃったの?」
「おお。別れるのもやらねえと思うから、ついでに」
「ついでで別れちゃうの?」
 かっちゃん、さすがに。と言って黙祷し始めた緑谷の様子を見守りながら、ココアの上澄みをすする。スプーンがないので混ぜようがない。最後に溶けたチョコレートのようにどろりとした、粉っぽいなにかを飲み込むことになるのだと思う。
「別れたってことは、素直に聞いてくれたの? かっちゃんが?」
「宇宙人見るみてぇな顔されたけどな」
「まあそうだろうね。般若のお面みたいな顔をされなかっただけ凄い気もするなあ」
「俺に対しては意外としねえぞ、般若のお面」
「君はちょっと耐性が高いからね」
 般若のお面への耐性が高い、とはなんだろうかと首をひねる。どんよりとした気配を感じたココアを諦め、テーブルに置いた。
「とりあえず、別れたっていうのは内緒にしておいたほうがいいかな。僕でもびっくりしたし、君がフリーになったって勘違いした人が殺到しそう」
「さすがに吹聴はしねえよ」
 爆豪も言いふらすタイプではないので、別れたとはいえど大したことは起きずに二週間が過ぎるはずだ。誰かに気付かれることもないかもしれない。
 十四日を待ち、そこで晴れて爆豪と別れ話と別れてみるを済ませたことになる。
「今日は急に押しかけちまって悪かった。明日はホテル探して泊まるから安心してくれ」
「えっ、いいよ二週間いても。なんか心配だし」
「さすがに俺も一人でホテルくらい泊まれるぞ……?」
「いやそうじゃなくてなんていうか、ううん。ええと、僕も家事とか手伝ってもらえると助かるし、どうかな?」
「そりゃ、ありがてぇが」
「じゃあ決まりだね。来客用の布団出すから手伝ってよ。あとお風呂は?」
「入ってきた」
「入った後に別れ話したの?」
「おう、寝る前だ」
「わあ」
 しばらくかっちゃんの管轄区域に近付かないようにしよう。と祈るようにマグカップを掲げた緑谷と立ち上がり、テーブルを部屋の隅に避ける。クローゼットから布団を取り出す緑谷の邪魔にならないように部屋の端に立つ。
 持ってきていたボストンバッグも抱えて移動した。それを見ていた緑谷が「そうだ着替え」と声にした。
「えーっと、轟くんそれ、なに持ってきてる?」
「コスチューム」
「わあさすがヒーロー。僕の部屋着、着れるかな」
「いけるだろ。つんつるてんになるかもしれねえが」
「ブッ、まあ肩幅とかは大丈夫だろうし、ダメだったら明日買いに行こうか」
「取りに戻るか?」
「徹底的に別れてるなら、部屋に入れてくれるかな……」
「たしかに、たった一日しか経ってないのにそれはねェよな」
「少なくとも怒るだろうねえ」
 元々服をたくさん持っているほうでもなかったので、この機に買い足してしもいいかもしれない。「この近くのお店案内するよ」という緑谷の好意にも甘えることにしよう。
 友達との買い物は純粋に楽しみだ。爆豪と服を買いに行くことは既に、生活、という気分だからだ。さすがに十年も付き合っていると、色々なことに慣れて生活になる。
「よっこいしょ」
 再びの掛け声と共に、緑谷が布団を敷いてくれた。
 一緒に「これなら着れるかな」と部屋着を渡してくれたので、早々に着替える。着ていたシャツとスラックスをさくっと脱ぎ捨て「ハンガー借りてもいいか」と尋ねる。
 緑谷はクローゼットからハンガーを取り出しながら「僕、二週間後くらいに殺されないかな」と急に不思議な心配を始めた。未来予知まで使えただろうかと首をひねりながら、借りた部屋着に身を包む。袖や裾は足りないが、他に困る要素はなかったので素直に礼をのべた。
「あとそうだ、合い鍵渡しておくね。好きに出てって好きに帰ってきてくれていいから」
「お、合い鍵か」
「どうかした?」
「いや、爆豪とは結局、合い鍵渡す間もなく一緒に住んじまったなって思って」
「たしかに、卒業と同時だったもんね」
「そうなんだ」
 少し勿体ないことをしてしまったかもしれない、と思いを馳せる。
 いつかの誕生日に爆豪がくれたキーケースには、一緒に住む部屋の鍵が今もぶら下がっている。徹底的にと言われたが、鍵は回収されなかった。
 がさごそと机を漁っていた緑谷が「あったあった」と鍵を掴んで持ってきてくれた。ころりと手の中に銀色の鍵が落とされる。それをつまみあげ、二週間不要になった爆豪と同棲する部屋の鍵と一緒のわっかに通す。
 そしてふと、思いつく。
「これ、浮気になるか?」
「ならないよ! 怖いこと言わないで!」
 そう叫んだ緑谷は、今日一番泣きそうな顔をしていた。

 
 

     ◇◇◇

 
 

「あ、切島くん」
 風呂から上がると、ニュース映像を眺める緑谷がそうつぶやいたところだった。
 こちらに話しかけたのか、元々一人でも喋っているのか、少し気になるが堂々と聞くこともはばかられた。これが空気を読むということだろう、と思いながら定位置になったクッションの上に座る。
 緑谷の部屋にテレビはないが、代わりにパソコンにつながる大きなモニターがあった。その横にはよくあるサイズのモニターもある。そちらで仕事をこなして、となりの大画面でヒーローの活躍をチェックしている、のだそうだ。二日目に嬉々として熱烈に解説してくれたのだが、生憎その日は眠くて眠くてほとんど覚えていない。ちょっと奮発して買ったいいモニター、らしい、くらいしか記憶がない。
 大画面に映る旧友こと、切島の姿に目をやる。『烈怒頼雄斗、新幹線ホームでの大捕り物。凱旋パレードかのような活躍っぷり』というテロップの下で、照れくさそうにしながらも快活に歯を見せて笑う男の姿があった。
「こっち戻ってきてんだな」
「そうみたいだね、仕事かな」
「緑谷でも知らねえんだな」
「さすがに公表前の情報を掴むのは、僕でもむずかしいよ」
「そうなのか?」
 いつの間にか様々な情報を掴んでいるので、情報通なのだと思っていた。単純にあちこちの現場を飛び回っているからかもしれない。
 思えば緑谷はこの家にいないことも多い。運が良かったなと思いながら、ぼんやりとくつろぐ。泊まり込むこと一週間。緑谷の部屋にいることにも随分と馴染んできた。
 はじめの数日は友達の家に泊まるということで少しはしゃいだりもしたが、今では勝手に冷蔵庫を開けてちくわを食べたりもしている。一昨日一緒にスーパーに行ったのだが、その時改めて爆豪はスーパーでの滞在時間が短いなと思ったりもした。手際がよく迷いがないので、さっさと買い物を済ませてしまう。ちょっと目を離したすきにレジを終えていたりする。
 緑谷との買い物は和気あいあいとして、要らない物をそこそこ買い込んだ。なのでつまみ食いという名の消費活動が捗っている。
「お」
 電気ケトルで緑茶を淹れ悠々とすすっていると、ニュースが切り替わり爆豪の姿が映った。
「あ」と緑谷も声を出して、ちらりとこちらを見た。
 モニターには強盗が人質を取り逃走を試みる様子が映し出されていた。
 そこに爆豪が映ったかと思えば、爆破の光を残して姿が消えた。慌てたようにカメラが振られた先には、人質を担いでいる爆豪と、その足元で倒れている強盗犯がいた。
「かっちゃん、相変わらず早くて見切れてるね」
「かっこいいよな」
「カメラが追えていないのが惜しいね……人質がっちり掴まれてたと思うけど、救出しながらヴィランを倒してる。それをこのスピードでやってると思うと、」
 インタビューを受ける爆豪の様子を眺めながら、顎に手を当てた緑谷が延々と喋っている。頭の中身を整理するために口に出しているのかもしれないなと思いながら、毎晩の恒例行事のようになってきているこれを聞き流す。
『とっととこいつ病院に連れてけや、こっちはまだ仕事が残ってンだよ』という、そっけないコメントを食い入るように見つめる。
 そういえばこの一週間、会っていないのは当然だが、声も聴いていなかった。ニュースサイトで写真くらいは見たが、動画は見ていない。
 話がしたい。なんて思った時、不意に緑谷が推察をやめてこちらを見た。
「え、さっきノロケた?」
「おう、ちょっと電話してくるな」
「えっ、うん?」
 スマートフォンを掴み、そそくさとベランダに出る。
 緑谷の部屋は狭いながらにベランダがある。からりと引き戸を開けて外に出て、ぴたりと閉じる。通話履歴の中から爆豪を選び、電話をかける。別に緑谷になら会話を聞かれてもいいのだが、それでも少し照れくさい気がした。声が聴きたくなった、だなんてセンチメンタルだ。
 コール音が響く。爆豪はなかなか電話に出なかった。
 ニュースは夕方のものだった。後処理もとっくに終わっているはずだ。
 真っ暗らな空にぽつぽつと光る星を見上げる。なにもなければ今頃部屋に戻ってきていると思うのだが、あのあとまた何かあったのだろうか。
 そろそろ諦めて切ろうか、という頃ようやくつながった。
 スピーカーからざわざわと喧騒が漏れ伝わってくる。居酒屋だろうか。誰かと会っているのかもしれない。なら電話に出るまで時間がかかったのも仕方がない。むしろ邪魔をしてしまっただろうか。
 そわそわとした心持ちで、息を吸う。
「爆豪」
 一週間ぶりに名前を呼んだかと思うと、やけにこそばゆい。勢いで電話をかけたは良いが、話す内容を全く考えていなかった。なにから話そう。今日の活躍からか。この一週間どうしていたかも知りたい。そもそも今、話をしてもいいだろうか。
 スマートフォンを耳に押し当てながら一言目に思いを巡らせていると、はーっと息を吐き出す音が聞こえた。
「フッた相手に連絡してくンじゃねぇ」
「え」
 そしてブツっと通話が切れた。
「ハ? おい」
 暗闇に向かって声をかけるが、当然返答はない。スマートフォンの画面をのぞき込むと、通話終了と表示されていた。「え」ともう一度声を出す。意味が分からないのでリダイヤルしたところ『電波の届かないところにいるか、電源が入っていないためかけりません』という事務的な音声が聞こえてきた。
 目を丸くして画面を眺める。
 ひとまずとぼとぼと部屋の中に戻ると、巨大な不発弾が見つかったと知らされた時のような顔をした緑谷が、こちらを見ていた。
「……どう、したの? 電話、かっちゃんにじゃなかった?」
「そうなんだが、振ったのに電話してくるなって切られた」
「えっ、うわ……」
「俺たち別れたふりだよな?」
「ええーっと、徹底的にの部分じゃないかな?」
「二週間後、俺、帰っていいよな……?」
 言葉にしながら、じわじわと不安になってきた。
 背中を丸めてクッションに座ると「ほら、かっちゃん完璧主義だから、中途半端はダメなんだと思うよ」と緑谷が必死に話しかけて来た。
 普段ならば「絶対大丈夫だよ僕が助けるからね」と人々に勇気を与えるヒーローデクですら、半端に慰める他ない状況らしいと自覚させられる。
「爆豪、怒ってんのかな」
「いやまあ、別れ話してみたいから二週間別れてほしいって言われたら、僕なら反応に困るかな。意図がよくわからないしね。ちゃんと捌ききったかっちゃん凄いなって、ちょっと感心しちゃったよ」
 これが傷口に塩というやつなのではないかと思っていると、スマートフォンが着信を知らせて震えた。緑谷と二人飛び上がる勢いで驚き、慌てて画面をのぞき込む。
 爆豪かと思ったが、あいつはそれほど都合よく優しい男ではなかった。
 切島だった。
「もしもし」と出ると「お前らなにがあったんだ!」という大きな声が耳に突き刺さった。
 キンと響く音に顔をしかめる。緑谷も目を丸くしていたので、そちらまで聞こえたようだ。
「別れたってマジか? 爆豪フられたとか言ってスマホの電源切っちまうし、聞いても説明すんのもダリィとか言って全然教えてくれねえんだ。お前らそんな感じ全くなかったじゃねえかいったいどうしちまったんだよ!」
 まくしたてるように吹き込まれる言葉の背後から、ついさきほど聞いたものとよく似た喧騒が漏れ聞こえて来た。つまり爆豪は切島と会っているのかと納得する。緑谷も「なるほど」という顔をしていた。
「あっわりぃ、言いたくねえことなら聞かねえ。そう言ってくれ」
「いや、二週間だけだ」
「えっ、なんだって?」
「本当は別れてねえんだが、ちょっと別れ話がしてみてえって俺が言ったから」
「えっ?」
 どんどん切島の「えっ?」が険しい音に変わっていくので、いた堪れなくなってきた。
 改めて説明するとなんとも間抜けなように思えたが、これほど心配して連絡を寄越してくれた切島に対し、きちんと説明をしないのも申し訳ない。
 たどたどしく説明していると、となりにいる緑谷まで額を押さえ始めてしまった。
「えーっと、おう……なんだ。まあすげぇ喧嘩したとかじゃなくて良かったわ」
「悪ぃ……」
「あーびっくりした。びっくりしすぎて便所行くって飛び出て来ちまったから、俺もう戻るな」
「心配かけて悪い、でもありがとな切島」
「マジで心臓止まるかと思ったぜ。今度飯おごってくれ」
「喜んで」
「冗談だって。そんじゃまたな」
 ぷつりと通話が切れる。その瞬間に、爆豪が怒っている様子だったか聞けば良かったなと思ったが、今度こそかけ直すわけにはいかない。
 はーっと息を吐いてごろりと横になる。ぽいとスマートフォンを投げ出すと、緑谷が拾って充電器につないでくれた。
「来週戻ったら、かっちゃんとちゃんと話しなよ」
「おう」
 嵐が一つ通り過ぎたかのように疲れた。
 そのうえなんだか寂しくなってきた。
 ラグの上をごろごろと転がり、ふとこのまま寝てしまってもいいのではないかと思いつく。寝支度は済んでいるのだから、目を閉じてしまっても同じなのではないか。そう思ったのだが「そのまま寝ちゃダメだよ」と緑谷に肩を叩かれた。
「ちゃんと布団で寝てよ。君だってプロヒーローだろ、体調管理を怠ったらダメだよ。調子を崩したらそれこそ来週怒られるだろうし、巻き添えでたぶん僕も殺される」
「うん……」
 のそりと体を起こして布団を敷く。そういえばまだ歯磨きを忘れていた。緑谷と並んで歯磨きをしたあと、それぞれベッドと敷き布団に横たわる。
「電気消すよ」
 律儀な申告に「おー」と返して天井を見る。
 ぱちぱちと瞬きをしてみるが意外と眠くない。少し目を閉じてみると、さきほどの爆豪のあまりにそっけない声が脳裏によみがえってくるようだ。振った覚えはないのだが、別れ話をしてみたいと持ち掛けた側なので、振ったことになるのだろうか。まったくもって律儀な男の顔を思い浮かべる。
「寝付けない?」
 緑谷の心配そうな声がして、顔を向ける。カーテンの隙間から漏れるわずかな光の中で、こちらを見ている緑谷の様子が、なんとなく見えた。
「俺たちヒーローだし、一ヶ月くらい会わねえこともあるけど、なんか、全然違うな」
「そりゃあねえ、一応別れてるんだし。かっちゃんのことだから、半端にはしないでしょ」
「おう。いい経験になった」
「こういうのは、これきりにしてよ」
 あきれたっぷりの溜め息のわりに、声が笑っているので緑谷は優しいやつだ。
「そうする。どっちにしろ、やっぱ俺ら別れ話とか無縁だ」
「そっかー」
「好きだからもあるが、あいつと一緒にいると頑張れる気がするんだ」
 情けない姿は見せられない。負けてもいられない。限界を迎えた時、あの背中を思い出すともう一歩踏み出す気力が湧く。今までも幾度も、勝手に助けられてきた。
 そう考えていると、緑谷が気だるそうに欠伸をする音がきこえた。
「そういうのは、僕じゃない人に言ってほしいなあ」

 
 

     ◇◇◇

 
 

 二週間という期日が明日に迫った今日、轟は喫茶店にいた。
 窓の外は夕暮れの色をしていて、がらんとした店内には少しうるさいくらいの音量でジャズが流れている。向かいにいる人物の話声は聞こえるが、となりのテーブルの会話を聞き取るためには集中しなければならないくらいの、絶妙な音量だ。
 二十人ほどが定員のこの店に今、客は二人しかいない。
 轟と、その向かいに座る爆豪だ。
 四角いアンティークなテーブルを挟むように置かれた二脚の椅子に、それぞれ座っている。二人用のテーブルは少し狭い。向かいに簡単に手が届きそうだ。
 爆豪は変装用の眼鏡をかけたまま、窓の外を見ていた。
 どかりと座る様子まで、きっちりとそっけない。今日は「話があると轟に呼びだされたので、渋々やってきてやった」という振る舞いなのだ。なにせまだ別れている。
 それにしても二週間ぶりに会ったというのに、今のところ「おー」しか言葉を聞いていない。もう少し久々の再会っぽさを期待していたのだが、まったく厳しいやつだ。律儀すぎやしないだろうか。
 狭いテーブルに置かれたアイスコーヒーが、カランと音を立てた。思い出したようにガムシロップを入れ、ストローで混ぜる。ふと気づくと爆豪がこちらを睨んでいた。
 至極面倒くさそうな赤い瞳はチリチリと熱を孕んでいるようだ。本当に怒っているのかもしれない。
「おい、話ってなんだ。はよしろや」
「お、おう」
 溜め息交じりに爆豪がアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。ガムシロップもミルクも入れない、真っ黒な液体に口を付ける。
 さすがに少しだけ、緊張していた。なにせこんなセリフ、生きている間に言うと思っていなかったからだ。
 小さく深呼吸をする。
 爆豪の喉仏が上下するさまが見えた。
「よりを戻してえ」
「ぐッ」
 慌てたように爆豪はグラスをテーブルに戻すと、背中を丸め口元を押さえて震え始めた。どういうリアクションなのか判断しかね、おろおろとそのつむじを眺める。爆豪は、げほ、と一度咳をした。
 そして上げられた顔は、先ほどと打って変わって随分と晴れやかだった。
「あークソ、笑っちまったじゃねえか。ふざけんなよ」
「え、おう。悪い」
 笑われていたのか、と気付き眉を寄せる。
 対照的に爆豪は笑いがぶり返してきてしまったようで、顔を背けて再度ふき出した。くっくと肩を揺らす、その瞳にはじわりと涙が滲んでいる。時々、爆豪の笑いのツボが分からない。
「つか何言い出すかと思えばテメェはよォ」
「だって、別れ話したし、その次は復縁だろ」
「復縁だろ、じゃねえンだわ」
「じゃあなんだよ」
 むっと唇を突き出すと、爆豪は沸き上がり続ける笑いを飲み下すようにコーヒーに口を付けた。ごくりと飲み込み、代わりに盛大な溜め息が吐き出された。
「ったく、しゃあねえな。別れるのは一日まけてやる」
「お、マジか。いいのか?」
「より戻してぇとか、面白いもん聞いたからな」
「あんま笑うなよ。一生言わねえと思ったセリフ言って、少し緊張したんだぞ」
「余計おもしれぇわ。おら、帰ンぞ」
 そう笑った爆豪が財布を取り出して、二人分のコーヒー代を払ってくれた。
 その傍らで慌ててアイスコーヒーを飲みながら、もしかしてこの代金には、よりを戻したいネタで当面笑う分が含まれているのでは? と危惧した。たった五百円で、どれほどネタにされてしまうのだろう。記憶力の良い男が、このネタを簡単に忘れてくれるとは思えなかった。
 ドアに取り付けられたベルが、カランとなる音を聞きながら外へ出る。
 夕暮れの下、まばらに人が通る道を並んで歩く。このまま家に戻っていいのはとても嬉しいが、緑谷の家に置きっぱなしにしているあれこれをどうしようかと考えた。さすがに今「緑谷のところに荷物取りに行ってくる」と言わないほうがいいことくらい、轟でもわかった。
 知らぬ間に鼻歌でも歌いだしそうなほど、ゴキゲンになっていた爆豪のとなりを進む。
「で? 別れンのには満足したンかよ」
「おー。たった二週間だったけどすげえ寂しかった。あとちょっと焦ったな」
 振った相手とか言うから。
 というと、ゴキゲンながらもバカにしたような顔で笑われた。その器用な表情筋に感動する。
「ただ二週間離れて生活するだけなら、任務と変わらねえだろ」
「そうなんだが……。やっぱ怒ってたか?」
「呆れただけだわ」
 本当に心底呆れている様子だった。緑谷にも散々言われたが、非は全てこちらにある。この程度で許してくれたことを感謝すべきなのだろう。
 ふと空を見上げると、金星がぽつりと光っていた。時々、爆豪に似ているなと思う。ふと見た先、いつも視界の中で瞬いている。
「たぶん俺は、爆豪としかしねえこと、いっぱいあると思うんだ」
 初めて付き合った相手が爆豪だった。
 キスをしたのもセックスをしたのも、同棲したのも爆豪だけだ。告白されたことは、まあ何度もあるが、頷いたのはこいつにだけ。それでこの先別れる想像が全くできないので、やはりどれもこれも爆豪だけになる。
「だから色んなこと、出来るだけやってみてえなって」
「そんで別れ話かよ」
「おう。一回で満足したからもういいぞ。よりも戻したしな」
「二回目あってたまるかクソが」
「別れ話はもうしねえけど、またなんか思いついたら頼む」
「懲りろや!」
 ぐわと怒鳴られ、太ももを蹴られた。そこそこ痛かったので「いて」と呻く。
 となりから、深々と息が吐き出される音がした。この世の中の呆れを全て一か所に集めたかのような盛大さだった。そこまで呆れなくてもと思うのだが、夕暮れに照らされながら笑う爆豪が綺麗だったので、どうでもよくなってしまった。
「ンなてめぇに付き合ってられんのは俺くらいだわ。感謝しろや」
「おう。いつも甘えちまって悪ぃ」
 なんだかんだ優しい男の譲歩によりかかってしまう。
 わがままに付き合ってくれるだろうか、お願いを聞いてくれるだろうか。そう思うこれは、甘え以外のなにものでもない。爆豪がじっくりと甘やかすから、甘え方を覚えてしまったのだ。
「だが今回は相当ムカついたから償えや」
「え」
 突如突き刺さってきた償いの言葉に、びくりと背筋を伸ばす。大層悪い顔でニヤリと笑い、こちらを睨む赤色に体をこわばらせる。なにをさせられるのだろう。腹が立ったら即座にぶつけてくる男だ。こうして改めて申し渡されることは、これがはじめてだった。
 はらはらと身構えていると、爆豪が前を向いた。空の端には夜の色が滲んできていた。
「今度の休み、指輪買いに行くから付き合え」
「え、おう」
「たっけえの買わしてやるからな」
「マジか。爆豪の高いはマジで高ぇだろ。どんくらいだ?」
 浪費家ではないが良い物にはきちんと高い金を払う男だ。いったいどれほどの高価な物を要求されるのか、まるで想像ができない。アクセサリー類はピンキリだと知っている。毎年クリスマスが近くなると同僚たちが、恋人へのプレゼントで慌てているからだ。
 今になってあの気持ちが少しわかった気がする、なんて思いながらとなりを見る。
 爆豪が、うまく言い表せない顔で笑っていた。

「テメェの一生分くらい」