(五夏)
起き上がろうとして、無性に体が痛いことに気が付いた。
ふかふかで寝心地が良さそうに思われたベッドも今や無残なもので、あちこちべたついていて至極不愉快だ。全裸のまま寝落ちてしまって良かったのかもしれない。溜め息を吐いたところで、そもそもシーツを替えれば良かっただけではないかと思い直す。それすら諦め、昨晩の私達は気絶するように眠ったらしい。
しかし記憶の最後はあいまいだ。昨晩ですらなく早朝だったのかもしれない。そう考えたところで、げんなりとうなだれた。年甲斐もなく羽目を外したことに激しく呆れた。
うつ伏せのまま呻いて、ゆっくりと腕の力で起き上がる。腰が痛い。他のところも痛い気がする。長い黒髪が背中から滑り落ちて視界を妨げる。しごくだるい体を引きずり、どうにかベッドの縁に腰掛けた。膝に頬杖を突き、床で散乱している服の様子に目を細める。
ひとまず服を着なければと立ち上がったところ、内側からどろりと垂れてくるナニかの感触に気付き、ついにてのひらで額を覆った。内ももを伝うぬるい感触に今更羞恥を覚えはしないが、あの野郎だとか、本当に良い歳をしてだとか、舌打ちをしたいような気持ちになった。とにもかくにもシャワーを浴びたい。
げんなりと雑に後処理をして、ひとまず服を着た。だぼつく黒いTシャツに袖を通しながら、ところでこれは誰の物だろうかと一瞬考えたが、まあささいなことだ。
寝室のドアを開けると、とたんにいい匂いが漂ってきた。
コーヒーの匂いだ。それから鼻歌が聞こえて来くる。
見ればキッチンに悟が立っていた。じゅわじゅわとフライパンが何かを焼く音も聞こえる。朝食を作る甲斐甲斐しさがあったことに驚きながら、くわと欠伸をこぼす。
「おっはよー傑」と振り返らないまま、軽薄にはねる挨拶がこちらを向いた。
「おはよう悟」
答えて、寝起きで絡まった髪をざっくりとまとめながら近寄っていく。洗面所に行けば櫛があるだろうか。一つにくくってしまおうとして、ヘアゴムがないことに気付いた。「あ」と声をこぼして手を放す。晒した首元を毛先が撫でた。
なかなか広いキッチンにはトースターとコーヒーメーカーが並べられている。焼き上がったトーストがぴょんと飛び出ていて、コーヒーはポットに溜まりきり静かにしている。つまりあとは悟の手中にあるものが焼き上がれば朝食は完成ということだ。なんて優雅な朝なのだろう、昼かもしれないが、と窓の外へ視線を向ける。燦燦と陽の光が降り注いでいて、実に眩しそうだった。
聞いたことがあるようなないような、変な鼻歌を聞きながら悟のとなりに並ぶ。じゅわじゅわと音を立てているフライパンの中身をのぞく。
悟はハムエッグを作っていた。
「え、それだけでそんなに陽気に鼻歌をうたってるのか?」
せめてスクランブルエッグくらい作っているかと思った。目を丸くすると、悟はフライ返しを掴んだまま腕を組んだ。ちなみにそのフライ返しは未だなんの仕事もした気配がなく、銀色にぴかぴかと輝いている。
「一応好き放題しちゃったなー、って罪の意識はあるんだ」
「君も罪の意識なんて言葉を知っていたのか」
「めちゃくちゃ腰が痛いだろう傑の暴言、今日は甘んじて受けよう」
「本当にね」
これ見よがしに首をすくめると「とはいえ傑もノリノリだったから、本当はイーブンだと思う」などと言うので肩を殴ったところ「いて」と言いながら受け入れた。
確かに昨晩の二人はどうかしていた。頭が馬鹿になったのかと思う程興奮していて、今思えば寝室まで辿り着けていて偉いなと思う程だ。中高生じゃあるまいしと呆れるほど夢中で食らい合った。さきほどは詳しく確認しなかったが、このTシャツの下にはどんな痕が残っているのか分かったものではない。反動のように今、やけに静かな気持ちだった。
「ああそうだ、先にシャワー浴びてもいいかな。ベタついて気持ち悪い」
「えー、冷めないうちに俺の手料理食べてよ。もう出来るから」
「そういう君は私が寝ている間にシャワー浴びただろ」
「まあね」
じとりと睨むと、銀色のまつ毛に縁どられた涼し気な青い瞳が見つめ返してきた。目元を隠すものがないと、この男はずいぶんと幼く見える。お互いもう三十になろうというのに、時折いたずらな少女のような視線を向けてくる。そういうところは十年前から変わらない。
「はいはい、分かったよ。先に食べようか」
「もっと五条悟の手料理を有り難がってくれないかな。めちゃくちゃレアだよ。朝起きたら俺の手料理出てくるって、この世で傑くらいなもんだ」
「それは有り難いね。朝食の準備出来て偉いな悟は」
「……傑、時々お母さんみたいな言い方するよね。俺、マザーファッカーはちょっと」
先程よりも強い力で肩を殴ると「いって!」と喚いたが、これまたちゃんと殴られてくれた。
食器棚から大きめの白く四角い皿を二枚取り出し、ダイニングテーブルに並べる。そこに悟がハムエッグをフライ返しで乗せ、トーストを添えた。マグカップにコーヒーを注いでいると「マーマレードとマーガリンがあるけど」と言われたので「マーマレードでしょ」と甘党に向かって返事をする。
食卓を整えると、向かい合わせに座った。
「いただきます」と言えば「召し上がれ」と悟がにんまりと笑った。
マーマレードがたっぷりと塗られたトーストを、さくりと噛み切る。甘いなと思いながらコーヒーを含む。フォークで目玉焼き部分に切れ目を入れても黄身は垂れてこず、ハムはやけにこんがりしていた。だが焦げているわけではないその匙加減に逆に感心してしまう。
もくもくと食べていると、正面から向けられる熱烈な視線と目が合った。本当は、食べ始めてから一瞬も反らさず向けられ続けていることには気付いていた。気付いていて無視していたのだが、無視し切れなくなった。
「なにかな」
「どう? 美味しい?」
「うん。ちゃんと焼けているよ」
「焼き具合じゃなくて」
唇を突き出して不満を全面的にアピールしてくるが、ハムを並べて卵を落としただけだ。そもそも昨晩の無体を一応詫びているのではなかったのか。内心首をひねっていると「まあいいけどさ」と悟もフォークを手に取った。ハムエッグを一口かじると「うーん、普通!」と言って笑った。
「けど、朝食を用意してくれていたのは、嬉しかったよ」
味は普通でもこれは事実だ。伝えると悟はにんまりと笑った。朝起きた時の惨状はさておき、自分のために朝食を作る後ろ姿を見ることは想像よりも気分が良かった。
サクリとトーストを咀嚼しながら、ふと疑問が湧く。
「ところで、シャワーってまだ使えるのか」
「使えるよ。お湯も出るし。最低でもあと二、三日は大丈夫じゃないかな」
「短いな」
「えー、これでも計画的に残したんだけどな。褒めてくれても良いくらいでしょ」
「そうだね、まあ、確かに」
「ま、今は春だし。これから暖かくなる方だから大丈夫だろ」
ね。とさりげなく野宿の可能性を匂わせながら、空にも似た色の瞳が窓の外へと向けられた。
燦燦と日光が照らす外の世界には、すでに誰もいない。
世界は昨日滅んだ。
この食卓で向かい合っている二人が、この世界の最後の人間だ。つまり遠くない未来、人類は滅亡する。呪術師も非術師も居ないぼろぼろに壊された世界で、次にどういう生物が繁栄するかは知らない。今一番多く生き残っている生物が何かも知らない。だが人間だけは確かに、ここに居る二人を除き、すべて死んだ。
まあ、やったのは私達だが。
それは少し前のことだ。
『もう終わりにしよう』
なんて別れの言葉みたいなものが、私たちの復縁の言葉だった。
告げたのは悟だった。それを私は承諾した。なんてちぐはぐだったのだろう。いいや元からか。元からちぐはぐで歪な世界だった。そして今、壊した世界に一部分だけ残した日常の残滓の中で朝食をとっている。ゆるやかで穏やかで爛れて壊れきった朝。既にそのことをなんとも思わない。
焼いただけの朝食を終え、フォークを皿の上に置く。
「ごちそうさま」というと「お粗末さまでした」と嬉しそうな声がかけられる。コーヒーがまだ残っていることを思い出し、空のマグカップを掴み席を立つ。きっと悟は適当に淹れたのだろう。それでも丁度良く抽出されていたのは、コーヒーメーカーが良いのだろうか。
「悟、コーヒーもう一杯飲むかい?」
「カフェオレにしよ。冷蔵庫に牛乳入ってたし」
「はいはい。温めろってことだね」
「愛してるよ傑ー」
「それはどうも」
悟のマグカップも回収し、キッチンの戸棚を探る。ミルクパンを見つけ出すとコンロにかけ、牛乳を注いで火を点けた。ちなみにここは、二人のどちらの家でもない。悟が隠れ家として準備していたと思いたいが、丁度いいところにいい具合の家があっただけかもしれないところが少々恐ろしい。今更消えてしまったすべてのことを考えても仕方がないが。
手を組んでぐっと上に持ち上げ体を伸ばす。髪が鬱陶しいなと耳に掛けると「傑、傑」と呼ぶ声がした。見れば悟の指先にヘアゴムが引っかけられていた。
「悟が持っていたのか」
「無意識に拾ってた」
「まあいいや。探す手間が省けた」
「結んであげよう、こっちおいで」
「悟に任せると変な髪型にされるから嫌だよ」
「器用だろ」
沸騰した牛乳が吹きこぼれる寸前で火を止め、目分量でまぜてカフェオレを二杯作った。テーブルに戻ると待ち構えていた悟が背後に回り込んでくる。まあいいかと諦めて椅子に座ると、昨日世界を滅ぼした指先が髪に触れた。
「どういう髪型にしよっかな。ハーフアップも良かったけど、一つにまとめてるとうなじが見えていいんだよね」
「なんでもいいけど、シャワー浴びるから直ぐほどくよ」
「あ、そっか」
そう言いながらも髪が束ねられていく。指先がこめかみを掠め、うなじを撫でながら一つにまとめ上げられる。「よし」という声と共に手が離れ、毛先が首に触れた。向かいの椅子に戻っていった悟が、テーブルに頬杖を突いた。
「ポニーテールって新鮮」
「それは良かった」
うん、と頷いた悟がカフェオレに口を付けながら笑っている。二人で最強を名乗っていた時のような、のんきな顔で笑っている。正直な話、今の悟がなにを考えているのか、を的確に言い当てることは難しい。ただまるで、あの頃に戻ったみたいだ、と思う。
もしこの悟のことを「壊れている」と言うならば、私はもっと昔からとっくに壊れていたのだろう。けれど私は別に、壊れたつもりはなかった。何度考えたところで、世界の方が間違っていた。
それでも最後に守りたかったもの、というなにかがあった。それがお互いの手からすり抜けた時、きっと世界の運命は決まってしまった。何故なら私達二人は最強で、世界を壊して余りあるからだ。
いつかの夏、そんな夢を見たこともあった。けれどまさか、十数年越しに本当になってしまうとは、あの日の私もさすがに思いはしなかった。それも悟の方から口説きにくるとは。そうして世界から呪詛も呪霊も消え去って、代わりに誰も居なくなった。
カフェオレを飲み干し息を吐きだした時、今更だが喉が渇いていたことに気が付いた。それも仕方がないかと、昨晩のことをぼんやりと思い出す。昨日は本当にどうかしていた。これまで生きてきて、あれほど昂ったこともなかったのではと思う。それを全て性欲に収束させようとしたらああなるのも仕方がないな、と寝室の惨状を思う。
「じゃあ私はシャワーを浴びてくるから」
そう言って席を立つと「いってらっしゃーい」とひらひらと手が振られた。「バスタオルは」と訊ねると「脱衣所の棚にある」と答えがあった。
まだカフェオレを飲んでいる悟を残し、浴室へと向かう。バスタオルの在りかを確認したのち、Tシャツを脱ぐ。そこでふと洗面所の鏡を見てしまって、体のあちこちの残された痕を見てげんなりとした。いい歳だというのに、獣のようなセックスをしたらしい痕跡をみると居た堪れない。
ひっそりと息を吐き出し目を逸らすと「あっ!」という悟の声が遠くから聞こえた。なにをやらかしたのかと思っていると、足音がこちらへと駆けて来た。「どうしたの」と問い掛けるより早く「シャワー浴びながらヤろう!」と言われ目を細めた。
「いやだよ」
「なんで」
「なんでって、すでにこんな状態なんだけど」
呆れながら体に残る歯形だとかを示すと、悟は首を傾げた。
「そうは言うけど、俺もけっこう凄いことになってんだけど」
悟が着ていたシャツをおもむろに脱ぎ捨てると、その下から同様の有様が現れた。これには「うわあ」としか言いようがなかかった。そしてまるで覚えていない。
「それにもう今しか出来ないんだし」
「……だろうね」
まだ電気やガスが通っているが、それも遠からず止まる。なにもかも気にするには今更かと、少し高い場所にある唇に噛みついてやった。
「それで、この後どうするんだ」
動きたくない、以外の感情が消えつつある中、寝室でシーツを変えている悟に向けて声を掛ける。今すぐにでもベッドに横になりたかったが、生憎あの有様だ。ベッドメイクを任せて、仕方がなくソファに横になっていた。
「どこか行こう、ハネムーンだ」
「ハネムーンねえ」
どうしてあれほど元気いっぱいなのかと恨めしく思いながら、真っ白な天井を見上げる。行きたいところと考える。観光地は残っているのだろうか。しかし接客してくれる誰かも残っていないのだから、遺跡だとか単純に景色がいい場所がいいかもしれない。それもどれほど残っているか分からないが。
「そうだ、海行こう海」
「ベタだね」
「いいだろ」
「まあね」
ほう、と息を吐く。
悟が整え直したベッドで再び眠ったあと、残り少ない資源を食いつぶして、遠くへ行く。誰もいない静まりかった世界。男二人で滅ぼした世界を旅行するなんて、どうかしている。けれど元の世界の方が、もっとどうかしていた。
「海ね」
目を閉じると、いつかの波音が蘇ってくるようだった。