必ず帰るよ

(五夏)

 
 
 
 
 
 

 ベッドの上で、じたばたと足を跳ねさせる。
 イヤだイヤだと繰り返していたところ、はて何がそんなにイヤだったのかとうっかり忘れそうになった。長い両足を投げ出しぴたりと動きを止める。ついでに両手も投げ出し、うつ伏せのまま枕に顔をうずめた。
「イヤダー」と呻いた声がくぐもって、どこかに消える。
 そんな時、盛大な溜め息が聞こえて来た。真面目にも勉強机に向かい、なにやらしていた傑の声だ。こんな夜更けにご苦労なことだ。思い起こしてみれば、課題などが出ていたような気がしないこともない。顔だけ起こすと、こちらを向いている傑と目が合った。
「いつまでそこを占拠しているつもりだ」
「え、なんか問題ある?」
「知らないのかもしれないから教えてあげるが、悟が我が物顔で寝ているそれはね、私のベッドなんだ」
「そんくらい知ってるっての。ここ傑の部屋だし」
 つまらないことを聞くなよと、ごろりと体を転がす。傑は心底呆れた様子で肩をすくめていた。そんな顔をしてみせるくせに、表情ほど呆れてはいないと既に知っている。いわゆるポーズというやつだ。気にせずピンと張られたシーツに皺を作る。
「夜中に人の部屋に押しかけてきただけでなく、ベッドまで占拠するのはどうかと思うよ」
「そうだ! そうそう」
 それそれ、と先ほど喚いていた理由を思い出す。がばりと体を起こし、胡坐をかき腕を組んだ。
「なんでオマエ、俺と一緒の任務じゃないわけ」
「私が決めたことではないのだが」
「大体さあ、俺達最強だろ、一緒に行った方が早いじゃん」
「任務地が真逆で、急を要するからだろう」
 分かり切ったことを聞くなよ、と傑が足を組む。
 そんなありきたりな返事をするなよ、舌を出す。
 げえと呻くと「おい」とたしなめられた。再びぼすんとベッドに逆戻りする。「寝るなよ」という声に続いて、本日何度目だったかのため息が聞こえて来た。
「さっきも言ったが、悟は青森、私は広島だ。移動だけで」
「一日かかるってんだろ。聞いたっつーの」
 腕を上げて追い払うように手首を振る。そうだそうだ、部屋を訪ねて真っ先に聞いたのだった。それでげんなりしてベッドに転がって、少々うたたねをしたりしていたら、記憶が飛んでいた。
 新年一発目の任務は面倒事の始末になった。年末年始に積もった鬱憤が早速噴き出してきたらしく、あちこちに呪術師が飛ばされていっている。束の間の帰省から解放されいざ新学期、と思ったところにこれだ。
「だいたい広島って京都の向こうじゃねーか。京都校の奴らに行かせろよ」と喚けば「人手不足だからね」とこの世界の常套句が返ってくる。
「クソくらえだ!」と両手両足を上げると笑われた。吹き出しかけたところを堪えた結果、中途半端に鼻で笑ったみたいな音だった。むかつくような釣られて笑ってしまうような間抜けさがあった。
「お土産買って来てあげるから」
「……もみじ饅頭」
「ははっ、ベタだね」
「あと八つ橋と」
「私に京都で途中下車しろと?」
 あやすような声色から一変、低く喧嘩腰になる。この鮮やかな切り替わりがわりと好きだった。「リクローおじさんも」と言うと「一駅ずつ降りさせる気か」と怒りを通り越して呆れられてしまった。
 体勢を涅槃像のポーズに変え、傑を見る。
 眠る前だからか、長い黒髪は低い位置で簡単にまとめらているだけだ。いつもきっちりと髪を結っているから、夜の傑は何度見ても新鮮だ。優等生っぽい振る舞いがほつれて、油断が垣間見える気がする。まとめている時には分からないぴょんと跳ねる毛先の癖だとか、スウェットの襟から覗く首元だとか、パンツの裾から覗く足首だとか。
 じっと眺めていると、傑が首を傾げた。
「で、そろそろ帰ってくれないか。荷支度の邪魔なんだ」
「こんなにスリムな俺でも?」
「悟は長いから嵩張るんだよね」
 層は言っても荷支度するだけなら邪魔にならないだろう。堂々と寝そべり続けると、傑が先に折れた。こちらを無視して椅子から立ち上がり、クローゼットの中を探り出す。それはそれであまり面白くない。なんの抗議にもならないが、ベッドの上で大の字になる。傑はきっと一泊用のボストンバックを取り出しているのだろう。面倒な任務とはいえ、スーツケースが必要になるほどではない。
「君も明日からだろ。支度しに戻ったらどうだ」
「行きたくねえー」
「ここに来た時は行く気満々に見えたけれど?」
 全く意地の悪い問い掛けだ。答えは簡単で、その時は傑も一緒だと思っていたからだ。何度言わせれば分かるのだろう。ぶすっと唇を突き出して横へと転がる。
 つい一時間ほど前、夜蛾に呼びだされた際には「明日から二人で青森に行ってもらう」と言われただけだった。それがまさか、補助監督と二人という意味だとは思わないだろう。二人と言えば相手は傑だと、すでに宇宙の法則で決まっている。そんなこんなで意気揚々と傑の部屋のドアを叩き「青森で何食う?」と聞いたところ「私は広島だけれど」と言われた。その時の衝撃について散々文句を言ったというのに。
「何が嬉しくてオッサンと二人で青森まで行かなきゃなんねえの?」
「オッサンじゃなくて補助監督ね」
「そういう傑もオッサンと二人旅だろ? 広島まで何時間だよ。何時間もオッサンと新幹線で並んで正気でいられんの? 俺達高一だぞ、青春真っ只中だぞ」
「今日の悟はやけに駄々っ子だな」
 クローゼットからひょこりと顔を出した傑が目を丸くしていた。てっきり「任務とはそういうものだよ悟」などと言ってくると思っていたので少々面食らう。
 ぱちんと見つめ合っていると、気が抜けて来た。どろりと溶けるようにベッドに沈む。こういうくだらない応酬も、たかだか五日ぶりだというのに、酷く懐かしく感じてしまう。
「……だって正月明けだぞ?」
 そうぼやくと、傑は一拍考えた後「ああ」と納得したように細い目を細めた。
「悟も帰省してたんだよね、五条家に」
「くっそつまんなかった。拷問かと思った」
「君も実家じゃ大人しくするのか」
「してねえけど」
「ああ」
 だろうね、という笑い交じりの声を残し傑は再びクローゼットの中に消えた。
 三箇日のことを思い出すだけで息が詰まって失神しそうだ。高専に入ってからの日々はなんだかんだと楽しく退屈する暇もなかったなと、走馬灯を見た始末だ。走馬灯の大半は傑がしめていた。この九か月、よく飽きずに愛想も付かさず一緒に居たものだ。飽きる隙などなかったが。
 それに比べて、と顔を歪める。
「新年のあいさつだけならまだしも、見合い写真とか持ってこられんの厳しくね? この国じゃ高一の男はまだ結婚出来ねーっつの」
 このお嬢さんは器量も家柄も良く、と漫画で読むようなセリフを浴びせられるとは思わなかった。と両手を突き上げたところ、クローゼットから傑が吹き出した音が聞こえてきた。続いて噛み殺そうとして殺しそびれた笑い声が、喉を伝って漏れ出てくる。ふくくと笑うその音からは、肩の揺れまで想像できた。
 必要物資を引っ張り出し終えたらしい傑が姿を見せた。扉を閉めながらも口元を手の甲で押さえている。振り向いた黒い瞳には涙が滲んでいた。
「ックク、悟がお見合い? 出来るのか?」
「しねーッよ!」
 枕を掴んで投げつければ、華麗にキャッチアンドリリースされた。手加減無しの返球を無限で受け止め、再び頭の下に押し込む。
「かわいい子とかいなかったのか?」
「言うけどな傑、ジャンプ一ヶ月分積んだのと同じくらいの高さ積まれてみろよ。中身とか見ねえだろ」
「あー、それは怖いな」
「だろ? つか、どーせまた数百年生まれねえって。俺が頑張る理由なくね?」
「そうだろうけど、他よりは君の方が、多少確率高そうじゃないか?」
「ウゲェ」舌を出して露骨に嫌そうな顔を作ると、傑は肩をすくめた。「まあ、それも何代にも渡って試しているだろうし、その上での数百年に一度なのだろうね」
「だろー」
 なにが嬉しくて好きでもないどころか、家柄目当ての相手を押し付けられなければならないのか。これでも一応健全なる男子高校生なので、恋人関係だのセックスだのには興味がある。しかし、おまけのように付いてくる本題が重すぎる。この手のお見合いなど、一に跡継ぎ、二に跡継ぎだ。寒気がするあまり風邪でもひきそうだった。
「確かに俺は強いし? イケメンだし?」
「家柄もいいし?」
「家柄も霞むだろ?」
「ブハッ」
まあねそうだね、と投げやりも良いところな相槌をうちながらも、傑は着々と荷造りを進めていた。着替えが小さく丁寧に畳まれていく。物を格納できる呪霊を捕まえれば全て解決するのにな、と四次元ポケットを夢想した。
「つか、勢いが怖ぇ」
「あー、容易く想像できるね。ただでさえ呪術界は古風なところがあるから」
「俺は牧場物語じゃねえから、プレゼント渡してたらそのうち結婚できるわけでもねえのにな」
 挨拶がてら渡された品の数々を思い出しても気が遠くなる。とはいえ食い物に罪はないため甘い物は食べた。だが誰が持ってきたかは一切覚えていない。
 ちらりと傑が意味ありげに視線を投げて来たと思えば、ついと逸らされた。追い掛けるようにじとりと睨む。
「なんだよ」
「恋人でも作れば、ひとまず落ち着くんじゃないか?」
「ははあ、それはありだ」
 指をパチンと鳴らすと、それはそれで変な顔をした傑がこちらを見た。
「傑、俺と結婚しねえ?」
「……、君に人と付き合う甲斐性があるのだろうか、と言ってやろうと思ったのに、色々すっ飛ばしてきたね」
「ほら、俺は将来有望だろ」
「まあ、呪術界で君ほど将来有望な人材もいないだろうが、それはあくまで呪術師としてじゃないか?」
「長生きもする」
「悟は殺しても死なないというより、殺す段階から骨が折れそうだ」
「どう?」
 ざっと考えてみたところ、メリットしかなく驚いてしまった。実際名案ではないか。反るように上半身を起こし傑へ視線を送る。熱視線といってもいい。しかし傑は応急セットの中身を確認しながら首をひねっていた。
「君の家、姑関係が面倒くさそうだから嫌かな」
「絶対家出るし、二世帯住宅にもしない」
「リアルな響きだな」
 包帯を補充して蓋を閉じると、傑がうーんと唸った。
 実際傑との結婚は、メリットしかないように思われる。鼻息荒く突き付けられるお見合い写真を全て蹴ってあまりあるし、毎日こうしてろくでもない話をして時間を食いつぶすこともできる。そして最強夫夫として呪術界に名を馳せるのだ。問題は現状この国だと同性では籍が入れられないということだが、大人になり呪術界を牛耳る頃には、法律の一つや二つくらい変えられる気がする。
 それにきっと、傑と進む人生は楽しい。
 傑は黙りこくっていたかと思えば急に笑った。どうやらなにかシミュレーションが終わったらしい。こちらを向いたくせに、どこか遠くを見ていた。
「喧嘩の度に家を壊しそうだ」
「傑が呪霊で壁ブチ破ったせいで、通りすがりの窓に通報されんだろ? 勘弁しろよ」
「なんだと。言っておくが私が任務以外で呪霊を出すのは、ほぼ悟のせいだからな」
「人のせいにすんなよ」
 ぴりっとした空気が一瞬、部屋の中を走った。早速壁をぶち抜いて窓、ではなく夜蛾の鉄拳制裁を食らう羽目になるか。と思われたがそうもならなかった。喧嘩してアラートを鳴らし鉄拳を食らうことは度々あるが、まだ部屋を壊したことはない。そのあたりの分別は付いているのだ、たぶん。
 ボストンバッグのファスナーを閉めながら傑が口元を緩める。その横顔を眺める。黒い瞳は夜の色に似ていた。
「というか、君のそれ、ルームシェアじゃないか?」
「結婚じゃねえと追っ手を撒けねえだろ」
「追っ手って」
 くっくっと喉を鳴らした傑は支度を終えたらしい。「偽装結婚じゃないか」と可笑しそうに話す声から察するに、存外機嫌が良さそうだ。「本気本気」とぺらぺらの返事をするが、結婚もありかなと思う相手など、今この宇宙の中では傑くらいに思われた。傑には五条家など必要なく、跡取りも必要ない。なにより一緒に居て退屈しない。
 傑は壁に掛けた制服の下にボストンバッグを置くと、こちらへ近付いてきた。決して低くはない身長の男にじとりと見下ろされる。漠然とムカつき睨み返せば視線がかち合った。これは帰れと言われる流れだなと察し、無視するようにベッドに埋もれる。枕を抱えてだらりと伸びると、ため息が降ってきた。そして頭の横近くがぎしりと沈む。ひっそりと顔を向けた先に、ベッドの縁に腰かけた傑の尻があった。
「はいはいダーリン、いい加減出ていってくれないか。私はもう寝る」
「イヤダ」
「何度もいうが、君は支度もまだだろ」
「パンツさえあればどうにでもなる」
 呪霊退治などこの身一つあれば十分だ。しかし青森で何を食べるかくらいは考えておいた方がいいかもしれない。頭を上げれば、丸まった傑の背中が見えた。
「いってらっしゃいのキスでもしてやろうか?」
 茶化すような呆れ切ったような、しかし唐突なその言葉に「えっ!」と飛び起きる。
「されたくなければ」という言葉と「する!」と勢いよく頷いた言葉が被った。起き上がった勢いそのままに正座をし、振り向いた傑の顔を覗き込む。奇妙に眉を寄せた顔が面白い。
「え?」と今度は傑が言った。
「する」ともう一度頷いて、ずいと顔を寄せる。
 されたくなければ出て行ってくれ、と言おうとしたのだろう。とすれば肯定は予想外のはずだ。案の定傑は目を丸くしていた。話が通じているのか探っているかのようだ。
「ほら早くしろよ」
 困惑が溢れる黒い瞳を覗き込むと、実に楽しそうな様子の空色が映り込んでいた。本気かと探るような様子から、言い出したら聞かないからなと諦め始める、その移り変わりがありありと見て取れた。楽しくなってにんまりと口の端を持ち上げる。
「術師との縛りを破んなよ」
「縛りどころか口約束にすらなっていないと思うのだけれど」
 そうは言いながらも、傑の瞳がちらりと斜め上を向き、天井を見た。キス一つで出ていくならさっさとしてしまった方が早い、という結論にでも至ったのだろう。そういう思い切りの良さも好きなところだ。
 ベッドに正座をする体に、もたれ掛かるようにして傑が身を寄せる。肩と肩が触れた。頬に顔が近付いてくる。その時ピンと閃いて、勢いよく傑の頬を両手で挟み込んだ。「ハ?」という声が聞こえた気がしたが、唇を塞いでしまったのでうやむやになった。
 かさついた冷たい唇が触れあう。
 はて、ここからどうしたらいいのだろう。無難に済ませられては面白くないと口にキスしたは良いが、この後どうしようか。
 考えているうちに、思い切り拳が振り上げられた気配がした。ぱっと手も唇も離し、ベッドから大きく飛び降りる。「ほっ」と両手を広げ、フローリングの床に華麗に着地した。
「君なあ!」という怒鳴り声に振り向くと、傑が見たことのない種類の面白い顔をしていた。一応悪いとは思ったが堪え切れず、素直に吹き出してしまった。
「ブハハハッ変なツラ!」
「ふざけるなよ!」
 呪霊は出さなかったようだが、拳は振り被ったまま空中で止まっている。驚いているのに怒りきれず困惑して、それから少し照れたらしい傑は、目を丸くしてぽかっと口を開けながらもじんわりと耳を赤くしていた。初めて見る顔だった。
 いたずらの成功に大満足し、ドアへと向かう。廊下に出る前に振り向き、未だ間抜け面をしていた傑に指先を向けた。
「じゃーな。ちゃんと帰って来いよ!」
「っ、君こそな!」
「誰に言ってんだよ。ヘマも怪我もすんなよ」
「うるさいなぁもう! さっさと寝ろよ」
「おー、おやすみ」
 じゃ、と手を振り部屋を出る。ドアを閉める寸前、吐き捨てるような「おやすみ」という声が追いかけて来た。大満足でにんまりと笑い、部屋を訪ねた時と同様の軽い足取りで自室へと戻る。

 翌朝は傑の方が早く、会うことはなかった。

 
 
 
 
 
 

「ぶえっくしょい!」
 新幹線のホームに出てみたは良いが、あまりの寒さにくしゃみが出た。「さっみー!」と喚いて腕をさする。話のネタにでもしようと飛び出てみたが、早速後悔しそうだった。
 幸い任務中に雪に降られることはなかったが、本州も上の方、青森ともなると東京よりもずっと冷え込む。はーっと吐いた息は白くなびき、風に吹かれ流されていく。
 移動、丸一日。
 呪霊退治、十分。
 青森といっても東京から新幹線で三時間半だ。もっと早く帰れると見積もっていたのだが、まさか新幹線を降りてから更に三時間も移動するとは予想外もいいところだった。
 そのあたりの詳しい説明も夜蛾が行っていた可能性があるが、傑が聞いているだろうと思って聞き流していたのだろう。永遠に目的地に着かないのではないかと思ったほどだ。
 昨晩目的地近くのホテルに到着し、今朝呪霊を退治し、三時間かけてここまで戻って来た。寝坊しなければもう少し早く帰れたかもしれないと、痛いほど冷たい風に吹かれながら思う。高専への到着予定時刻は二十一時だそうだ。あっという間に夜になってしまう。白い息を吐く。
 雪は降らなかったとはいえ、目に映る景色には白が多い。山の陰はどれも雪に覆われていた。傑は広島なので、ここより暖かいかと思うと羨ましい。しかし日本海側だからどうだろうか。行き先によっては海風が厳しいだろうが、きっと青森の山奥よりは温かいに違いない、と決めつける。除雪されることのない山の中で、ぎゅっぎゅと踏み固めた雪の感触がまだ足の裏に残っている気がした。
「へっくしょい!」
 二度目のくしゃみとしたところで「あ、土産」と唐突に思いついた。丁度寒さに耐えかねていたのでそそくさと屋内へと戻った。
 ふらふらと、新幹線乗り場特有の土産の並びを眺めて歩く。結局青森で食べるものについては調べ損ねてしまった。そもそも寄り道する時間もやる気もなかったが、と移動ばかりの退屈な道のりを思い返す。
 次はもっと観光しよう。その時は傑も連れて来よう。そうだ傑の分の土産も買って、部屋に持ち込んで一緒に食おう。やはりリンゴを使ったものが多いものだな、と考えながら適当に土産物の箱を積み上げる。

 がさがさと音を立てる土産物の入った紙袋を下げ、窓越しに視線を外へと向ける。寒気がするほど真っ青だった空の色も、気付けば夜の気配を滲ませていた。
「五条君、時間ですよ」
 そう背後から声を掛けられ振り向くと、今回付き添いの補助監督が立っていた。はーいと適当な返事をしながらその背中に続いて歩き出す。道案内と帳を下ろす役目としてついてきた、だけの相手だ。十歳ほど年上らしい男は、こちらと会話するという気はないらしい。振った雑談もことごとく「はあ」で済まされさすがに飽きてしまった。結果この二日の間に交わしたのは、必要最低限の事務的な言葉だけだ。その上五条家の嫡男という存在の扱いに困っている様子が伝わってくる。隠しきれていない態度にげんなりとして舌をだす。だが残念なことに、ここからまだ道のりは長い。
 人の少ない新幹線に乗り込み、ぼうっと窓の外を眺める。
 補助監督は後ろの列に座っている。となりに座っても仕方がないと、行きで察してくれたことは有り難かった。頬杖をついて眺める景色は、すっかり夜の色に変わっていた。真っ暗闇の中をぽつぽつと明かりが星のように流れていく。
 早く帰りたい。
 そう思って、帰りたいという言葉への馴染みのなさに笑ってしまう。家に帰りたいとはどういう感覚かと思ったものだが、こういうものかもしれない。瞬きをする度に、瞼の裏に記憶が明滅するようだ。ごうっと音を立て、車体がトンネルの中に滑り込む。窓の外は黒一色になる。
 傑よりも先に戻ったなら、帰ってきた時におかえりって言ってやろう。そんなことを考えて、その可笑しさに「はは」と声を漏らして笑う。土産物を入れた袋の中から一箱を適当に選んで取り出し、包装紙を破いた。飲み物を買い忘れたな、と再び外を見る。
 トンネルを抜けた。

 
 
 
 
 
 

「ただいま!」
 勢いよく開いたドアの向こうは暗かった。カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、部屋というものの輪郭を薄ぼんやりと照らしている。その中でもぞりと動くものがあった。どうやら傑の方が先に帰っていたらしい。
「君の部屋は向こうだけれど」と不機嫌な声がする。毛布の隙間から人差し指が現れ、壁の向こうを示した。
「いや知ってるけど」
 気にせず踏みこみドアを閉める。
 どうやら眠る準備万端らしい。ささやかな気遣いとして、電気は付けないでおいた。暗い部屋の中を大股で横断する。細かな配置の違いはあれど、寮の部屋などどれも似通ったものだ。物にぶつかるようなヘマはしない。それに傑の部屋は片付いている方だ。とはいえ目が良いため関係はないのだが。
 提げていた土産物袋を、勉強机の上にどさりと置く。傑はベッドで毛布に包まり丸くなっている。上手く埋もれているのか顔は見えないが、細い目を細めて様子を窺っている気配がした。
「傑より先に帰ったら、おかえりって言ってやろうと思ったのにな」
「……それはどうも」
「チッ、サプライズ失敗か」
 居なかった居座って待ち、帰ってきたところに飛び掛かろうと目論んでいたのだが、これでは不戦敗だ。失敗として済ませてしまうには惜しいため、次回に持ち越すことにしよう。はあ、と腰に手を当て項垂れる。
「広島の方が遠いから勝ったと思ったのにな」
「……勝ち負けも何も、君の方が移動時間長かったろ。青森の山奥で」
「え、なんで知ってんの?」
「……夜蛾先生から説明されただろう」
 お互いの任務内容を。と言った傑の呆れ顔が、ついにはっきりと見えた。
 青森の山奥で発生した一級案件に悟を行かせるから、広島側には傑が行ってくれ。と夜蛾は傑に説明したらしい。「こんな山奥に行かされるって知ったら、悟は嫌がりそうだなあと思った」と傑は言う。つまり同じ説明がされたはずだが、さっぱり記憶にない。
 ううんと首を捻りサングラスを外す。土産のとなりにおいて椅子に腰かける。居座ろうとする気配を察知した傑が眉根を寄せた。残念ながらそれくらいで引き下がるような繊細さは持ち合わせていない。傑もそれくらい承知の上だろう。毛布に包まったまま「というか」と呆れて見せた。
「親しき仲にも礼儀ありだ悟。今何時だと思ってるんだ」
「十時だろ。もう寝るとかジジィかよ」
「十時は寝るには十分だろ。それにこれでも任務帰りで疲れているんだ」
「あ、傑は何時にこっち戻って来た?」
「十五時」
「昼寝しとけよなー」
「そもそも君は今日戻ってくる予定じゃなかっただろう」
 つまり戻ってくると分かっていたら昼寝して待ってくれていたのか、と顎に手を当てて考える。いや、ないな。起きていてくれるくらいはあったかもしれないが。
「つか」とポケットを探り、キーホルダーを取り出す。「合鍵渡しておいて今更じゃね?」
 じゃらりと揺れる束の中には、よく似ているが別物の二本の鍵がぶら下がっている。それを見せびらかす様に揺らせば、ぐっと眉根が寄る様が見て取れた。
「……君がうるさくドアを叩くからだろ。今は少し後悔しているよ」
「少しなら問題なくね?」
 確かにドアをノックした回数は数え切れないな、と在りし日の出来事を思い返す。なかなか傑が出てこないので、連日ノックし続けた。結果投げつけるようにして「もう勝手に入ってこい、うるさいな」と合鍵を渡されたのが数か月前。懐かしいなと頷いていると、傑が毛布の隙間から手を出した。
「やはり返してくれ」
「やなこった」
 べえっと舌を出した後、ポケットに押し込みなおす。傑も本当に返ってくるとは思っていなかったのだろう。早々に諦め手を引っ込めた。そしてまた毛布に埋もれると、寝返りをうって壁の方を向いてしまう。見えるのは黒くて丸い後頭部だけになった。本気で眠るつもりらしい。くわ、と欠伸をする音が聞こえた。
「眠いから早く戻ってくれないか。話は明日聞くよ」
「じゃー俺も寝る」
「ああ、おやすみ。きちんと鍵は閉めてってくれよ」
「おー」
 鍵ね、とドアに近寄りつまみを捻る。鍵のかかる音だけが、部屋に響いた。そのことを不審に思ったのだろう。振り向いた先で、傑が首を持ち上げてこちらを見ていた。
 どうやら眠たいというのは本当のようだ。ぐっと眉を寄せて目を細めている。睨まれているのかもしれない。ぺたぺたと室内を進みベッドの脇に立つ。体は壁の方を向いたまま、首だけ捻った傑と見つめ合う。近くに寄ったことで、気のせいではなく睨まれているのだと察した。圧力のようなものすら感じる。だが気にせずベッドの縁に膝を乗せ、毛布の端を捲った。
「ほら、つめてつめて」
「……何故?」
「寝るから」
 当然のように言えば、盛大な溜め息を吹きかけられた。抗議は無視してベッドに横たわる体をぐいぐいと押し、一人分のスペースを確保する。そこに背中から滑り込んだ。人のベッドは実に暖かく快適だった。
 毛布に首まできっちりと埋もれると、背中同士がくっついた。毛布にずっと包まっていた傑の体はいっそう温かい。背中が丸められていなければ、もっとぴたりとくっついたのにと思うと惜しかった。
 何もかも諦めたのか、傑からの抵抗は一切ない。それでも収まりのいい場所を求めてもぞもぞとしていると「鬱陶しい」と後ろ手に殴られた。「キャー、DV!」と悲鳴を上げてみたところ、予想外に傑は吹き出した。「そのネタ生きていたのか」
 そういえば求婚したのだった。
 返事は後日改めて催促するとして、目下の問題は寝心地だ。
「つか、シングルベッド狭くね?」
 なんとか男子高校生二人が納まっているが、これは二人とも細身だから辛うじて成り立っているだけだ。快適とは程遠い。どちらか一方でも夜蛾体型だったらはみ出て落ちていた。筋肉質とはいえ、傑が細身のタイプで良かったと一人頷く。しかし狭い。果たしてこの状態で眠れるのだろうか。
「狭いと思うなら素直に帰ったらどうだ」
「じゃ、俺の部屋来る?」
「どうしてそうなるんだ。そもそもベッドの大きさは変わらないだろう」
 作り付けなのだから。と呆れながらも眠気に掠れた声が言う。それを少し色っぽいななどと思った。
「出世したら広いベッド買ってやるからな」
「問題はここが寮だというところだろ」
 確かにベッドを大きくしたらした分だけ部屋が狭くなる。残念ながら出世しようが何をしようが、寮の部屋は広くならない。どの部屋も同じ作りだからだ。
 そこでふと閃き「俺の部屋と傑の部屋の間の壁をぶち抜くってのは?」と提案したところ「退去時に元に戻せるならね」と却下された。名案だと思ったのに残念だ。
「というか、この前からなんなんだ」
「なにが?」
「君。やけに甘えただな。そんなに見合いが嫌だったのか」
「してねえって言ってんじゃん!」
 心外だなと喚けば、傑は喉を鳴らして笑った。むっと唇を突き出し振り返る。肩越しに見えたのは相変わらず頭だけだ。長い黒髪を踏んでしまいそうだとわずかに心配しつつ、毛布に埋もれる。
 さて、なんだろうな。
 ゆっくりとまばたきをすると、じんわりと眠気が沸き上がってきた。漸くそこそこ落ち着ける体勢に辿り着けたこともだが、なにより背中越しに感じる体温が心地よい。
「傑あったけー」と笑い交じりに言うと、何故かため息が戻って来た。
「全く君は、人の気も知らないで」
「は、なにが?」
「なんでもないよ、さっさと寝てくれ」
「いや、なにが」
「よしよし」
 聞き捨てならないと体を起こそうとすると、先手を打った傑に押さえ込まれた。体勢の割に強い力で肩を押さえられ、ぽんぽんとあやすように叩かれる。こどもではないし、はぐらかそうとする気配には噛みつきたいが、傑の手がもたらすリズムが案外心地よい。今にも子守唄を歌いだすかに思われたが、さすがにそんなことはなかった。
 仕方がないと抵抗をやめれば、傑の手も引っ込んでいった。
 そのままうとうとと眠りの中に落ちていく。
 訳ではなかった。
 唐突に飛び起きる。一つ確認事項を忘れていた。派手に捲れた毛布を引き留めるように、傑の手が伸びてくる。「なんなんだ」と呻く声は困惑と諦めに満ちていた。
 しかし既に眠りの淵に居たらしい傑は実に油断しきっていた。肩を掴んで引っ張ると、あっさりと転がって仰向けになった。しっかりと鍛えられ、少々小突いたぐらいではびくともしない体も今はこの通りだ。その腰を跨ぐようにして馬乗りになる。じいっと見下ろせば、意味が分からないと黒い瞳に睨まれた。
 今更その程度のことは気にならないので、おもむろにスウェットの裾に手をかける。がばりとめくって腹を拝むと「ハッ?」という素っ頓狂な声が上がった。
「なにするんだ!」
 されるがままという様子だったが、ついに耐えかねたらしい。眠気が吹き飛んだというべきだろうか。鋭く突き出された拳を、体を傾けて避ける。その間にも寒さで粟立った肌をじっと観察する。ボタンで留めるタイプの服だったらもう少し脱がせやすかったのだが、とグレーのスウェットを恨めしく思った。
 二発目の拳は避けてから捕まえた。腕ごとホールドし、ぺたぺたと撫でまわす。袖はほとんど捲れず直に確認できなかったが、脱がせられないのでは仕方がない。
「……なんなんだ」
 げんなりとした様子で傑が顔を背けた。
「怪我がないかチェックしてる」ともう片方の腕も確認しながら言えば「してないよ。そもそも、強硬手段に出る前に確認を取ってくれないか」と振り払われた。
「傑隠すの上手いからな、抜き打ち」
「ご親切にどうも」
「それに今日ぜんぜん毛布から出てこなかっただろ? 怪しいんだよなあ」
「いや、眠かっただけだが」
「あと、行く前に応急セット念入りに支度してた」
「あれは身だしなみみたいなものだろ。君もちゃんと持ちなよ。自分の怪我だけじゃなく、他人にも使える」
「傑が持ってるからいーじゃん」
「今回は別行動だっただろう」
 ああいえばこういうが、確かに怪我は見当たらない。絆創膏の一つもだ。だが以前「大丈夫だ」と言ったくせに、十針縫う程の怪我を負っていたことがあるので油断ならない。あの時は硝子に治してもらい大事には至らなかったが。
 つまり既に治してもらった後という可能性もあるのでは、と疑い始めたところで「悟は?」と言われた。なにを問われているのか分からず「んん?」と首をひねる。
「怪我だよ。私は本当に怪我をしていない。治しても貰っていない。重いと脅されたわりに軽い任務だったよ。おかげでのんびりお土産を買う余裕があった」
「リクローおじさんも?」
「途中下車はしていない」
 舌打ちすると鼻で笑われた。「で?」と返事を促される。
「俺が怪我するわけねーじゃん」
「ハハッ」
 まあね。と肩をすくめる傑のズボンに手をかける。確かに上半身に怪我はなかったが、下半身は分からない。歩いている姿を見ていないので、足を怪我している可能性がまだ残っている。
 ぐいっとゴムを引っぱると「どこまで脱がせる気だ!」とついに殴られた。咄嗟に無下限を発動させなければ、良いボディーブローが入っていたはずだ。寝ている体勢からやるなと感心している隙に、傑は衣服を元に戻した。晒されていた腹が布地の下に隠される。
「お望み通り壁をぶち抜いて部屋に帰されるか、大人しく寝るか出て行ってくれ」
「分かった分かった」
 素直に傑の上から降りて、壁との間に体を横たえる。毛布をかぶり直して背中を向けると「おい」と肩を叩かれた。まだなにかあるのかと振り向くと「なにさり気なく壁側に居るんだ」と言われて目を丸くした。
「私は悟の寝相を信用していないからな。ベッドから蹴り落としでもした日には、君に買ってきてやった土産を学校中に配る」
「ハァー?」
 俺のもみじ饅頭をどうする気だと睨みつつ、それほど寝相が悪かっただろうかと省みつつ、そんな細かいことを気にするのかとげんなりした。狭いベッドの上でどうにか向きを変え「どけ」と訴えてくる傑に向き直る。そのまま両腕を広げるように伸ばし、がばっと抱き着けば「は?」というくぐもった声が胸元から聞こえた。
「これならいいだろ」
 抱きしめていれば落とさない。これは真理だなと自信満々に欠伸を零す。その上暖かい。背中だけ触れていた時よりもずっとだ。名案だといっそう抱き寄せたところ「良いわけがあるか」と引きはがされた。離れた隙間から空気が入り込んできて実に寒い。
「もー、仕方ねえなあ」
 追い返されることも壁をぶち抜いて強制送還されることも嫌だったので、渋々傑を跨ぎベッドから飛び降りた。壁際に寄るのを待ちって元の位置に納まる。ここで大の字にでもなって侵入を拒めば良かったというのに傑は甘い。それとも問答をすることすら面倒なほど眠いのだろうか。
 再び背中を合わせる形になる。だが抱きしめた暖かさを知ってしまった後では、シーツの上を滑る指先が寒さを覚えてしかたがない。
 もぞもぞと向きを変えたところ「寝ろ」と低くたしなめられた。気にせずその体に腕を伸ばす。腰の下から腕を差し込み、腹の前で指を組む。ぴたりとくっつくと、長い髪が頬に触れて少しくすぐったかった。
「……悟」
「なんだよ暖かいからいいだろ」
「はあ、もう分かったよ。今度こそ大人しく寝なよ」
「はーい」
 けらけらと笑いながら頷くと、傑も呆れたように笑った。それが声からだけではなく、抱きしめた腕の下からも伝わってくる。なんて暖かくて穏やかだなのだろう。
 眠気はあっという間に戻ってきた。今日はというか今日もというか、一日中座りっぱなしで疲れた気がする。それに寒かった。雪の白さを思い出し、首をすくめる。それに比べるとここはあまりに暖かい。うとうとと瞼を下ろす。
「おやすみ」と欠伸交じりに言えば、同じ言葉が返ってくる。なんだかいいな、こういう日々は。と眠気に緩んだ頭で思う。
 意識が途切れるその寸前「あっ」という声が暗闇に響いた。沈みかけた意識が薄く浮上する。瞼を持ち上げる「なに」と囁くと「わすれていた」と、組んだ指先がぽんと撫でられた。
「おかえり、悟」
 それは少しくすぐったい響きをしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 

 広いベッドで目を覚ます。
 両手両足を広げても空間にはまだ余りがある。白いシーツの上をごろりと転がっていき、もぞもぞと足を床に下ろす。腕を上へと突き上げながら欠伸をこぼせば目尻に涙が滲んだ。眠気にむにゃりと項垂れて、騒ぎ始めたスマートフォンのアラームを止める。ぺたりと床を踏んで寝室を出て、洗面所を目指した。顔を洗って歯を磨きながら、トースターとコーヒーメーカーの電源を入れる。朝のルーチンで変えられるものなど、ジャムの種類くらいだ。今日は任務を後輩に横流ししたので、高専へ向かうことになっている。くあ、ともう一度欠伸をこぼせばようやく目が覚めてくる。
 ふんふんと適当な鼻歌を歌い、ブルーベリージャムをたっぷり乗せた甘いトーストをかじった。ニュースを流し見する傍ら、メールを確認する。丸投げ出来る要件は適材適所へさっさと転送する。
 そうして少しずつ、目的へと手を伸ばしていく。着実に、確実に。なにせ土産を持っていけない。とすれば土産話を用意する他無かった。できるだけたくさん貯めておかなければならない。胸を張って大笑いをしながら「もういい」と断られるまで語り聞かせなければならないからだ。
 甘ったるいカフェオレを飲み干し、着替えてカーテンを開け、家を出る。

「いってきます」