(五夏)
頬に雪玉がぶつかった。
そこで私は目を覚ます。
うなされて起きる、朝のような目覚めだった。ぱっと視界が開ける。瞼を持ち上げた、という感覚すらない。急に視界に世界が飛び込んできて、まぶしさに眉をひそめた。
だがここはベッドの上でもない。私は立っていた。頬に当たった雪玉が、ずるりと滑り、襟の隙間から鎖骨に落ちる。見えていなかったはずなのに、どうしてそれが雪玉だと分かったのだろう。そんな疑問も一瞬のうちへどこかへ行く。それよりももっと、不明な現象がそこに広がっていたからだ。
一面の雪景色。
雪以外に何も見えない、真っ白な世界だ。雪玉がぶつかった衝撃で、頬はじわりと痛み、それから冷たさと寒さが全身から染み入ってくる。足袋と草履では身を守るにまるで不十分で、爪先はじんじんと痛んでいる。さらした指先も、首筋も、顔も、寒さが突き刺さる。は、と吐いた自身の息の音が聞こえ、ふわりと白く煙のように口元からたなびいた。吸い込んだ空気は刺すように冷たい。
ああ、なぜ。
なぜ私はこのようなところに。
私は――。
そう考えたとき、声が聞こえた。
「傑!」
それは軽快で、やたらと耳に馴染む、懐かしい音をしていた。
それが横から、ちょうど雪玉の飛んできただろう方から聞こえた。そちらを向いたのは、当然のことだ。覚えのない景色、定まらない意識、まとまらない思考。そこに声が聞こえた。だから振り向いた。それだけのことだ。
そこに再び、雪玉が飛んできた。
今度は額に命中し「ぶっ」と間抜けなうめき声が漏れる。愉快そうな笑い声が響いてくる。腹でも抱えて笑っていそうな声に、じわりと苛立つ。しかし不愉快ではなかったので、不思議なものだ。
睨むように持ち上げた、瞼の向こう。視線の先に、男が一人立っていた。
黒い目隠しをした、長身で銀髪の、よく知った男だ。
ずるりと額から崩れ落ちてきた雪玉に、思わず目を閉じる。「くそ」と唸って手の甲で払いのける。
「ただの雪玉避けらんねーとか、鈍ってんじゃねーの!」
再び目を開いた先で男は、サングラスを掛けた姿に変わっていた。大きく手を振りけたけた笑う姿は、学生服に身を包んでいる。どちらも黒いため、見間違えたのだろうか。
確かめるようにゆっくりと、瞬きをする。そこにはやはり、学生服姿の五条悟が立っていた。
気付けば、自分の姿も変わっている。十年自分を装っていた袈裟は消え、足袋も草履もなくなっていた。たった二年と半年身を包んでいただけの学生服だ。首の後ろを、冷気がふっとなでる。
なぜ。
思考に沈む間もなく、目の前の悟が振りかぶった。知らない間に雪玉をつかんでいる。素手じゃないか、寒くないのか、学生服だけじゃ冷えるだろうに、せめて手袋くらいしたらどうだ。と脳みそは勝手に、やたらと懐かしい思考パターンをはじき出してくる。
三度目の正直で、雪玉を避けた。
雪合戦のつもりなのか。ならばこちらも武器が必要だ。だが雪玉を作る時間はくれないらしい。間髪入れずに悟が投球の構えを見せる。事前に用意していたのだろうか。卑怯ではないか。ならばそれを奪ってやろう。そう考える。
結局、投げるものは雪玉だ。悟の身体能力が如何に高かろうが、雪玉に変わりはない。出る速度も威力も限られる。中に石を仕込んだり、水をかけて一晩寝かせて氷の玉に変化させたりしていなければ、知れたものだ。
受け止めて投げ返してやろうと、軌道を読み手をかざす。
だが予想外のことに、雪玉は手に当たった瞬間、パサリと崩れて散った。粉雪に戻った雪玉が、顔面に降り注いで冷たい。「うわ」と口を開けば雪が飛び込んできた。ぺっと吐き出すと「ひっかかったな!」という声が聞こえてくる。まつ毛についた雪のせいで、にわかに滲んで光る視界の中、雪玉を手の中で転がす悟の姿が見えた。
雪合戦などしたことがなさそうな顔をして、雪玉のかたさ調整をしてくるとは。
「雪玉握る時間くらいやるよ」
「四発も投げてきた後の気遣い、痛み入るよ」
「ぼーっとしてるみたいだったから、景気づけ」
「それはどうも、おかげで目が覚めたよ」
顔についた雪を袖で拭い、しゃがみこんで雪を集める。素手ですることではないな、という理性がわずかに働くが、売られたけんかを買う方に忙しかった。短気だなんて、悟と一緒にいるとき以外に言われたことがあっただろうか。
雪玉を作る仕草はどうしても間抜けになるな、と頭の片隅で思いながら、ひとまず五発分の玉を用意した。丁寧に握り固め、つるりと丸くする。呪霊の色と正反対だ。
「またせたね」と立ち上がる。悟は準備運動でもするように、肩をぐるりと回した。
「制服真っ白にしてやるよ」
「その言葉、そっくり返そう」
いったい私は何をしているのだろうな。と、雪の上に転がりながら思った。
仰向けに倒れこんだ体は、柔らかな雪に包み込まれた。青空が見える。年甲斐もなく全力で走り回った体は火照っていて、雪の冷たさが心地よいほどだ。
想像以上に疲れる遊びだったな、と振り返る。悟は雪玉を投げる手を休めないくせに、ひょいひょい避ける上、ここぞというときには無下限を張る。こちらは手持ちの呪霊全てを使い切ってしまった後で、すっからかんだというのに。
雪玉を握って投げて、避けてまた投げて、の繰り返しはなかなか疲れた。それに走り通しだった。雪合戦も奥が深いものだな、などと一瞬思ったがきっと、絶対に違う。二人でやることがそもそも間違いなのかもしれない。
それに、乱入してくる相手がいないと、止め時が分からない。夜蛾の鉄拳制裁はきっと、あの日の私達に必要なものだったのだろう。などと少し思った。
はあ、と深く息を吐きだす。体は火照っているはずなのに、指先や爪先は冷え切っていて感覚があいまいだ。飛び交う雪玉が消えた空は、やけに澄んでいる。
ぼんやりと見上げていると、ざくざくと足音が近づいて来た。そしてすぐそばにボスンと倒れこむ。顔を横に向けると、悟がうつ伏せに寝そべっていた。頬杖で頭を持ち上げ、にまにまとこちらを見ている。
「今日は俺の勝ちだな」
「……負けを認めたわけじゃないよ」
ただ急に我に返ってしまっただけ。
顔面を狙う雪玉を避けたら足元がずるりと滑って「おっ」と思ったところで「何をしているのだろう」と思ってしまっただけだ。
そのまま仰向けに倒れこんでこうしているのであって、負けたわけではない。確かに被弾数はこちらの方が多いけれど。
良い歳をして雪ではしゃぐなんて、と思う今の私は学生服に身を包んでいる。なら学生なのだろうか。
そもそも私は、今そこで、雪にまみれて笑っている男に、殺された覚えがあるのだが。
享年二十七。まあまあ短い人生だが、呪詛師としては生きた方かもしれない。さてどうだろう。呪詛師の平均寿命なんて知らないものだ。下手をすれば、呪術師の方が平均寿命が短そうだ。
ならばこれはなんだ。夢か、それとも走馬灯の類か。なにもこんなところまで出てこなくても、と手を伸ばす。かじかんだ指先では、そこにいる男に触れたのだかもわからない。
「よりによって君か」
ため息を吐いて手をおろす。黒い袖に包まれた腕が、白い雪に埋もれる。あれだけ暴れまわったというのに、雪は真っ白のままだ。思えば雪玉を作る途中にも、土を見た覚えがない。
「夢なら夢で、もう少しましなものはなかったのか」
それとも、それほど。と目を細める中、くんっと腕が引かれた。見れば悟に手を握られている。見たからそう分かるが、感覚は相変わらずない。何もないところに、腕が吸い込まれていくような、不思議な感じだった。
「いや、俺本物だけど」
「……なにをもって?」
「だって俺だし」
「そんな詐欺みたいな」
「オマエが言うなよ」
まあね、とあきれていると、うっすらと指先の感覚が戻ってきた。どうやら悟の手が温かいらしい。同じように雪に手を突っ込んでいたはずなのに、どういう理屈なのか。雪玉も無下限で作っていたとでもいうのか。
真っ赤になった指先に、はあ、と息が吹きかけられる。それを生暖かく感じた。
「私は君に、殺された覚えがあるのだが?」
「俺も殺した覚えがある」
「……まさか、悟まで死んだのか」
あの五条悟が? と目を見張るも、悟はわははと笑っていた。
「いや、俺は昼寝がてらの観光」
「ハ?」
「ちょっとさ、空き時間ができて」
「あの世まで観光に来るようなことが?」
世界で一番あの世送りにし難い男が、観光に足を突っ込むほどの出来事とはなんだろうか。しかし思えば、高校二年の夏、一瞬観光に行ったともいえるかもしれない。あれほどの出来事が、最強になったこの男に降りかかったのだろうか。
「ここはあの世なのか」
確かめるように口にする。
変な話だが、言葉として吐き出すと、現実味が生まれるようだった。
悟は私の手を温めるように揉み続けたまま、その青い瞳でこちらを見た。サングラスはいつ無くなっていたのだろう。
「ここはオマエのあの世だよ」
「……その割にほかに、悟以外には、誰もいないものだね」
あの世なら、もっと死者にあふれているはずなのではないか。そう、考える。天国や地獄のくくりはさておいて。
悟は「よっこいしょ」と掛け声を口にしながら立ち上がった。空には太陽など見当たらないくせに、影が落ちる。
「だから、ここは傑のあの世なんだって」
「……訳知り顔で腹がたつな。観光のくせに」
服についた雪を払った悟の手が差し出される。その手を取ると、ぐいっと引き起こされた。靴底から、ぎゅむっと雪を踏み固める独特の音が聞こえた。
「で?」と感覚がないままの方の手で雪を払いながら、となりに立つ悟の顔を見る。
「ま、こんなところで立ち話もなんだろ、中入ろうぜ」
「中、ってなに」
この何もない雪原の、いったい何処に。
そう呆れて眉を吊り上げれば、悟が両手をさっと横に出した。あちらをご覧ください、と言わんばかりの動作に視線を動かす。
その先に、見覚えのない建物があった。
雪合戦の最中にはなかったはずだ。それとも、それすら目に入らなかったのだろうか。あきれる、と何に向けたため息か分からないものを吐き出そうとした時、悟がにまっと笑った。
「ロッジ建てといた!」
「ハ?」
◇◇◇
木造一階建て、三角屋根。
丸太で組まれた建物は、別荘地やキャンプ場などでしか見ないような代物だった。前に泊まりに行ったことがあったなと、ある暑かった夏を思い出す。げとうさまここにいきたい、という軽やかな声が脳裏によみがえる。
中はその記憶と合致していなかった。夏休みの家族連れ向けといった装いだった記憶とは裏腹に、厭世の建築家が一人でくつろぐためにデザインしたような見た目をしていた。それでいてどこか秘密基地らしさがある。
「飯にしよーぜ」
一足先に靴を脱いで上がった悟の背を見上げる。気付けば教師の姿に変わっていた。見間違え、ではなく、目隠しの黒い布を取って「あんだけ一面雪だと、やっぱ眩しいね」と独り言をつぶやく。そして私もまた、袈裟をまとっていた。草履を脱いで、冷え切った爪先で木材を踏む。中はめまいがするほど暖かかった。
大きなソファとテーブルが一つ、壁にはテレビがあって、カウンターの向こうにキッチンがあり、そばにはダイニングテーブルと思しき物がある。調度品はすべて、悟のセンスだろう。目の良さが関係あるかは知らないが、いいものを選ぶことが上手かった。それを生かすか、無視して好奇心に走るかを選べるところが、実に無邪気だった。
このロッジは、全てセンスに振ったらしい。普通に暮らすには落ち着かないようにも思える。
ここは私のあの世だ、といったくせに、ずいぶんと侵略を受けているものだ。
「傑、なんか飲み物淹れてよ、温かいやつ」
「はいはい。なに淹れるの」
「コーヒーがそこのラックの中、ケトルがそっち」
ひょいひょいと長い指があちこちを指さす。ラックの中からは、インスタントのカフェオレスティックが見つかった。相変わらず甘いものばかり飲んでいるのだなと苦笑しつつ、角砂糖のつまったポットも一緒に取り出した。
電気ケトルに水を注いで電源を入れ、あの世でも電気が使えるのかと、きっと今更気にしても仕方のないことを思った。
「マグカップはあっち」
顎で示した悟は、腕まくりをしていた。青白い腕をさらしながら、キッチンに立っている。
「え、君が作るの」
思わず目を丸くすると「男の一人暮らしを舐めんな」と返ってきた。そうは言うが、五条悟ほどの人物が、自炊をする理由もないだろうに。
学生時代、料理をする姿を見た覚えはほとんどない。インスタントラーメンを鍋で煮て、溶き卵を流しいれた後目を離し、吹きこぼした場面なら、見たことがある。
疑い深い目を向けながら、沸いた湯でインスタントのカフェオレを二杯淹れた。マグカップ越しに伝わってくる熱が心地良い。かじかんだ手でもできる程度の作業で助かった。
「はい」とマグカップ一つと、砂糖のポットをキッチンカウンターに乗せると「さんきゅ」と笑う声が返ってくる。
悟は元から甘いカフェオレに、さらに角砂糖を追加した。甘み以外に何が残っているのだろうかという液体を、一気に半分ほど煽る。久々に見ると胸やけしそうだ。
マグカップを端に避け「よし」と頷くと冷蔵庫を開け、中からラップのかかった透明なボールを取り出してきた。そこにはクリーム色のふっくらとした、生地らしきものが入っている。
「さてこちらが、いい感じに寝かせた生地です」
「……料理番組じゃあるまいし」
「さすがに、生地から作るとあと何時間後になんの、って話だからね」
「そういえば、お腹は空かないな」
「まあね、あの世だし。気分、気分」
ほらお客さんは向こうに座っててよ。と悟がソファに向かって追い払おうとしてくる。「お客さんは悟の方じゃないのか」と眉をひそめる。だがあまりに自信満々なため、お手並みを拝見してやろうという気になり「がんばってね」と声をかけて離れた。
広くてやわらかいソファに腰かけ、カフェオレをすする。座って気付いたが、あれほど体は冷え切っていたというのに、袈裟のどこも濡れてはいなかった。思い返せば学生服の袖も濡れていたかさだかでない。気付くことができないのか、濡れることがないのか、はたまたすべては思い込みなのか。だから悟の手がかじかむこともないのかもしれない。
その時突然、視界に空飛ぶ円盤が映りこんだ。
考え込んでいた脳みそにはいささか刺激が強く、驚きでむせそうになった。
「ほっ!」
軽快な掛け声とともに、悟がクリーム色の円盤を空中で受け止める。
それが、先ほどの生地だ、ということは直ぐに分かった。だが指の先で器用に回す光景は、どうにも奇妙でなんとも言い難い。クリーム色の生地が、波打つように宙を回り、丸く広がっていく。
思い出したように「え」と声が漏れた。よく見れば、キッチンの端には石窯があった。本格的なピザ屋でしかみないような窯だ。
「え、ピザ?」と口に出すと「うん」と返事があった。
「そのために石窯も用意したし」
「ええ……ピザが先なのか」
自炊なんて出来たのか、と思っていたところからまさか、ピザが出てくるとは思わなかった。驚きとも呆れとも困惑とも取れないため息が、勝手に口から出ていく。
「休みに、暇だったから、思いつきで焼いたことあって」
「ピザを?」
「そう。生地から作ってさ。でも家には石窯ないからね。まあオーブンもなかったから、学生寮に忍び込んで焼いたわけ。居合わせた生徒に半分食べられたけど、評判良かったし、安心してよ」
突っ込み切れないな、と目を細める。再び「ほっ!」と掛け声を口にして、薄く丸く伸ばした生地を下した。
こちらの反応が悪いとみた悟が「え、ピザ嫌? うどんとか蕎麦も打てるけど」と不思議な譲歩を試みてきたので「ピザでいいよ」と答えてマグカップを置く。うどんも蕎麦も家で打ったのか、とは聞かなかった。
目がいいからか、悟は大半のことをそつなくこなす。その高スペックに天上天下唯我独尊を足した結果、人としてプラスマイナスゼロくらいに落ち着いているところがある。つまりピザの支度も予想以上に手際が良く、感心するような、意味もなく腹が立つような、妙な気分だった。
不釣り合いなほど大きな冷蔵庫の中から、具材が取り出される。包丁さばきにも危うい様子は一切ない。トマト、チーズ、サラミ、バジル。
「その冷蔵庫、いったい何が入っているんだ」
そう、出来心で問いかけた。一人暮らしには確実に不要で、二人だったとしてもあまりに大きい。
悟はピザの上にトッピングを並べる手を止め、空にも澄んだ海にも似た色の瞳で、こちらを見た。
「傑が入ってると思うもの」
「なに、それ」
「シュレディンガーの猫と似たようなものだよ。開けたら確定する」
「悟が今開けただろ」
「傑は見てないだろ」
まあさすがに、二人ともが見たら中身も確定するだろうけど。と悟はチーズを散らしながら答えた。数学のような、頓智のような、詭弁のような。
マグカップに口をつける。不思議と温くなっていないように感じたが、気のせいかもしれない。
「やけに詳しいね」といえば「ちょっと試したし」と当然のことのように答えた。
かと思えば、またどこからともなく大きなヘラのようなものを取り出してみせる。ピザを窯へと入れるための物のようだ。トッピングを終えた生地をすくい上げる。長い柄を構える姿がやけに様になっていた。それにしたって本格的なことだ。いつの間にか石窯には火が入っていた。
「傑ー、なんか付け合わせ作っといて」
「結局私も作るのか」
「冷蔵庫、開けてみたいでしょ」
「……で、何が良いの」
「スープとかかな。サラダって気分じゃないし、寒いし」
寒いとは思っていたのか、と驚きながら腰を浮かせる。空になったマグカップをシンクに置き、悟の背後に立つ。丁度ピザが石窯へ送り込まれていった。やけに手慣れた様子だが、石窯でピザを焼くことは初めてではなかったのか。
スープか、と頭を悩ませる。冷蔵庫の中に何が入っているのかにもよる。食材というよりは、調味料で決めればいいだろうか。悟が「昔飲んだあれ、結構うまかったよね。お歳暮に送られてきた、あれ」と鼻歌交じりに言った。
あれ、しか言っていないじゃないか。と思うのに、それが何か分かってしまうのだからあきれる。高校一年生の冬、任務で助けた誰かから送られてきた、贈答用のスープパック。年の瀬に温めて、硝子と三人で飲んだ。あれも寒い日だった。
業務用のごとく大きい冷蔵庫の、ドアを開ける。ぴたりとくっついていたクッションが離れる、独特な音がした。内側から冷えた空気がこぼれてきたが、さほど寒いとは感じなかった。部屋の中が相当暖かい。知らぬ間に、爪先の冷たさも和らいでいる。
冷蔵庫の中には、まあいろいろと入っていた。ヨーグルトにプリンにゼリーに、各種ケーキの名前が書かれた四角い箱、ハム、サラミ、チーズ、めんつゆ、ソース、しょうゆなど各種調味料、積み重ねられたプラスチックの密閉容器。
数えればきりがない。少し、寮にあった冷蔵庫の中身に似ているな、と思った。そしてぐるりと見まわした中に、先ほど話題に上がったコーンポタージュが見つかった。
「あっ」と口から出る。
誘導された。
「へえー」と、誘導した犯人が背後から顔を出す。
長い腕が伸びてきて、プリンを一つ摘み上げた。顎を上げるように悟を見る。にやにや笑っているかと思いきや、意外にも目を丸くしていた。それに驚くと、目が合う。
「傑、これ僕の冷蔵庫だと思ってるんだ?」
「は」
「お、コンポタあるじゃん。これ温めよ。そのころにはピザ焼けてるだろうし」
「……ああ」
考えすぎだったかと息を吐き、コンポタージュを二袋取り出す。熱湯三分。湯を沸かす方に時間がかかりそうだ。鍋を探して視線をさまよわせていると「ほい」と視界に鍋が現れた。「どうも」と受け取ったその向こう、スプーンをくわえた悟が、にやーっと笑っていた。
やはり誘導されたのだ、と確信を得てしまう。「くそ」と悪態を吐くも、けらけらという笑い声が返ってくるだけだ。それとも何か、作ってとは言ったが温めるだけでいいように気を回されたのか。
どちらにせよ、変に体温の上がる気分だった。
指先はもうかじかんでいない。
焼き上がったピザからは、良いにおいがした。減っていない腹が減るような錯覚さえ起こしたほどだ。
実際、美味しかった。
生地は均等に薄く伸びていて、端はカリッとしているが、もちもち感もある。噛み切ると、とろけたチーズが伸びる。スライスされたトマトの酸味でさっぱりとしていてかつ、サラミの油のまろやかな甘みが、と思いながら目を細めていく。「あ、美味しい」とうっかり呟いてしまったので、向かいに座っている悟が満面の笑みになっていた。なんだか悔しい。先ほどからずっと転がされてばかりだ。
「でしょ、もっと褒めたたえてもいいよ」と胸を張る姿に「そうだね」と頷く。
ダイニングテーブルとベンチは、ロッジといえばこれとでも言いたげな、丸太を半分に切ったデザインのものだ。背もたれはないので、偉そうにのけぞっていった結果、そのうちひっくり返るのではないかと思う。
ぐうっと眉を寄せれども、ピザが美味しいことは事実だった。デリバリーでは味わえない、本格的で焼き立てのピザ。これは悟の腕なのか、石窯の功績なのか。けれどただの素人があれほどきれいにピザ生地を伸ばせるわけがないな、とくるくると円盤を回す姿を思い返す。
チーズの油でべたつく指先をウエットティッシュで吹き、コンポタージュを入れたマグカップに口をつける。温かい甘みが染み入るようだ。
「それで、そろそろ聞こうか」
「なにを? 僕のピザの師匠?」
「……ここが私のあの世だというわりに、君の方が先に居たことについてだよ」
それを皮切りに、知っていることを話してもらおうか。
そう笑うように睨み、頬杖をつく。悟は唇をもごもごと動かし、伸びたチーズを吸い込みながら目を瞬かせた。ごくりと飲み込み、人のウエットティッシュを奪っていった。
「傑の世界を、僕が観測したからだよ。だから形ができた」
「冷蔵庫の話と同じか」
「ちょっと違うけど、まあだいたいそう。世界とお前の二点で線、そこに僕が加わったことで奥行きができたわけ」
「あの世も、量子の世界と似たようなものだってこと?」
「そこは坊主らしく、信仰する人間がいるからこそ神様が存在するー、とかいう話してよ」
「呪詛師らしくではなくて?」
次のピースに手を伸ばすと、悟がけらけらと笑った。「温かいうちに食べてよ。チーズが伸びるうちにね」
「全く、あまりに当然のように話すから、悟かどうかも疑わしくなるよ」
「この空間に存在する全知全能の何かが、グレートティーチャー五条悟の姿を取って話しているって?」
「そうだね」と適当な相槌を打ってピザにかじりつく。
たとえ全知全能の何かがいたとして、五条悟という存在の言動パターンをトレースすることは難しいように思われた。きっと、いや間違いなく、世界に二人といない男だ。情報が少なくて全能の存在も困るだろう。まだ、信じたわけではないが。不確定要素ばかりの況で、何を信じられるというのか。
「俺はずっと考えてたからね」
そうコンポタージュを飲んだ悟が、甘い息を吐いた。
「俺が殺したお前は何処に逝くのか。逝った先は何処なのか、どういう場所なのか」
「それで追いかけてきたのか」
「近くを通る機会もあったことだし」
なぜか悟は得意げに、ふふんと頬杖をついた。本当に、生者の世界ではなにが起きたのだろうか。
六ピースに切られたピザは、残すところあと一ピースずつだ。成人男性二人で一枚では少ないはずだが、空腹という感覚がなければ当然満腹もない。だが食べたという実感が満ちているのか、追加を望む気持ちは湧いてこなかった。
「ま、便宜上あの世って言ってるけど、生得領域に近いのかもしれないね」
「死んでいるのに?」
「人格とか記憶とか、魂がどこからきているかって話しする?」
「……今はいいよ」
肩をすくめて答え、ピザを口に入れる。悟はおかしそうに肩を揺らしていた。
食卓の上にあった物をすべて平らげると、悟が勢いよく立ち上がった。「プリン食べよう!」と宣言して、大股で冷蔵庫へ向かっていく。
「さっきも食べていたじゃないか」
「食前と食後じゃ違うだろ」
知っていたけれど、と肩をすくめる。ベンチに背もたれがあったらもたれかかっていたところだ。仕方がないので頬杖をついて指を組み、その上に顎を乗せる。そのまま顔を傾けて、細長い背中を眺める。
「午前中で完売する、あそこのプリンがあった気がする。さっき影になって見えなかったけど、ゼリーの裏あたりに入ってた気がする!」
何を言っているんだと思ったが、今悟は、シュレディンガーの猫の情報を操作しているのだ。「よし!」という掛け声とともに冷蔵庫のドアが開けられる。
「おっ、やっぱ入ってんじゃん。傑も食べる?」
「君は私のあの世で、好き勝手しすぎじゃないかな?」
「食べない? 一日限定五十個のプリンのうちの一つだよ」
そういうところも含めてだよ、と深々とため息を吐く。
「もらおうかな」
◇◇◇
「先に風呂入ってきていーよ」
その言葉に甘え、広い湯船に浸かっていた。ぽちゃん、と水面が跳ねる音が響く。ヒノキの良い香りがした。まるで新築だ。古いも新しいもあったものではないと思うが。
爪先まで伸ばしても、浴槽の壁を蹴ることはない。きっと悟の爪先も届かないだろう。二人で入っても、まだ余るのではないか。
その悟は今、寝床を整えているらしい。
ピザを食べた後は、何をするでもなくソファに腰かけ、だらりと映画を見た。壁掛けテレビの下にあった隠し扉の中から、大量のDVDが現れた時は、驚くようなあきれるような気分だった。
その中から、有名なアクション映画のシリーズものを選んだ。一作目が公開されたのは学生の頃だ。懐かしいね、という言葉はどうも安っぽい気がして飲みこんでいる。
知らなかったのだが、シリーズは六作続いた結果、駄作として幕を閉じたという。「一作目で死んだこいつが黒幕だったんだよね、もう顔も名前も覚えてなかったっていうのに」という悟の嘆きは盛大なネタバレだった。
三作目を見終わったところで、ふと動かした体がぽきぽきと音を立てた。そうしたら先ほどの言葉だ。「風呂湧いているから」というさりげない誘導。「タオルも寝間着も脱衣所にあるよ」なんて、甲斐甲斐しくて恐ろしい。あの悟がだ。
しかしあの悟だ。途中で乱入してきて、場を賑やかすのではないか。そう疑っていたのだが、今のところ気配はない。ただただ静かだ。
ほうっと吐いた息も、手のひらで水をかく音すらも、響くように広がる。先ほどまで浴びていたシャワーの音が、うるさく耳によみがえるようだ。
額に貼りつく髪をかき上げる。見上げた天井は高く、湯気にうっすらと煙っている。
一人切り離された空間に居ると、いろいろなことが頭をよぎった。悟という情報一つ減っただけで、こうも変わるものかと驚いて仕方がない。静かで涼し気な容姿をしているくせに、やたらとうるさく情報量の多い男だ。
皆、無事に生き延びているだろうか。
頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。逃げたよ、とあの日悟は教えてくれたが、その後どうなったかは分からない。最も気にかかるのは、歩み始めるきっかけになった少女二人だ。
ここが本当にあの世で、この場に居ないことこそが、息災の証明になればいいのだが。それとも、このような場所まで追いかけてくる悟がおかしいのか。
すべては推測でしかなく、答えを持つものはいない。考えても仕方がない、と息を吐く。その音も反響する。
それとも、自分を殺した相手と食事をする、私の方がおかしいのだろうか。あの世とは、それほどにちぐはぐなものなのか。
「くっ」とのどが鳴って漏れた笑い声が、こもって響く。
ここに居る、私、とは何なのか。
死とはなにか。
呪詛師の問う言葉ではないだろうが。
風呂から上がると、悟はソファに長い体を横たえていた。ひじ掛けに足を乗せ、黒い目隠しをしてじっとしている。寝ているようにも見えるが、起きているのだろう。そんな気がする。なんとなく、経験則で。
「悟、上がったよ」
声をかけるともぞりと動いた。親指で目隠しを持ち上げたことで、はっきりとした空色の瞳がのぞく。
「ベッド、そこのはしご上がったロフトにあるから、先に寝てていいよ」
「甲斐甲斐しい君というのは、少し気味が悪いね」
「失礼なやつだな。僕だって、二十八にもなれば気遣いも覚えるって」
「……悟の場合、年齢は関係ない気がするけれどね」
ああ、あれから十年経っているのだ、と今更な実感を覚える。離れていた時間の方が長いくせに、あの頃と寸分違わない場所にいるような錯覚を起こす。当然、錯覚でしかないのだが。
思い出したように「あと」という言葉を掛けられた。
「ベッド一つしかないから、真ん中で寝るなよ」
「え、どうして」
「面倒だったから」二つ作るの。
そう言って、反動をつけて長い体が飛び起きる。ここまで凝ったロッジを建てておいて、ベッドを二つにすることを面倒くさがるのか。と文句を言ってやりたかったが、頬に贈られたおやすみのキスに飲まれてしまった。
「おやすみ傑」
くすぐったいほど穏やかな言葉を残し、悟は浴室へと向かった。その背へ小さく「おやすみ」と返す。
本当は眠くもないのだけれど。空腹もなければ、満腹もない。当然のように眠気もない。すでに生き物ではないのだから。
ならば悟は、腹が減り、眠くなるのだろうか。ここでも。私と違って。
ゆるく束ねていた髪をほどき、先ほど悟が示したはしごを登る。二段ベッドの上に登るような、小さなはしごだ。登った先は、三角屋根の形を感じる小さなロフトになっている。そこに大きなベッドが、本当に一つだけ置かれていた。
夜の一部を切り取ったような、心地よい狭さだった。リビングとうってかわってほんのりと暗く、間接照明の明かりが淡い。大人が二人寝そべっても余りあるだろうベッドには、柔らかそうなシーツが敷かれている。大きな枕が二つと、クリーム色をした毛布が一枚。それを見ているうちに、眠くはないのに眠れるような気がしてきたので不思議だった。
ベッドに上がり、シーツと毛布の間に体を横たえる。悟一人分の空間を残すように、壁際へと体を寄せる。視界はすっかり夜の暗さに包まれた。
ゆっくりと瞬きをしていると、意識が眠りの淵へと引っ張られていく。このまま目を閉じると、どうなろうのだろうか。眠るのだろうか。やはりこれは走馬灯にも似た夢で、今度こそ目を覚ますこともないのではないか。そんなことを考えながら、うつらうつらと意識を漂わせる。あの雪原で、目を開けたことの方がおかしいというのに。ここには条理も道理も何一つないではないか。
ふっと意識が途切れたような気がしたが、再び浮かび上がる。眠っていたのか、長い瞬きだったのか、区別もできないような時間だった。
もぞりとなにかが動く気配がした。なにかとはいうが、悟以外の何者でもない。一瞬持ち上げた瞼を、すぐに閉じる。なんとなく、寝たふりをした。寝息のように静かな呼吸を繰り返していると、パチンと音がする。瞼の向こうにわずかに感じていた、明かりの気配が消えた。ベッドがわずかにきしみ、となりに悟が滑り込んでくる。毛布がくっと引かれた。
「おやすみ」
かろうじて聞き取れるような声がささやく。やけに静かで、優しく淡い響きだった。そんな声が出せるのかと驚いて、つい目を開ける。けれど顔を向けた先には、悟の背中が見えるだけだった。
広いベッドでは、肩を押し合うように眠らなくてもいい。当然だなと、努めて静かに寝返りをうち、背中合わせに眠った。
◇◇◇
唐突に、寒さが全身を包んだ。
そこで私は目を覚ます。
はっと目を開けると、色素の薄い悟の顔が目の前にあった。両手で顔を包むように頬杖をついて、満面の笑みでこちらを見ている。よく見た顔だ。主にろくでもない、ささいな悪だくみを思いついた、という時に。
うとうとと瞼の重みと戦いながら、体を包んでいたはずの毛布がなくなっていることに気づく。
「おはよー傑、かまくら作りに行こ」
「……、なんだって」
体を横たえたまま、手探りで毛布を手繰り寄せようと試みるが、どこにもそんな感触がない。寒い、という感覚は消えているが、暖かいという感覚もない。
徐々に意識が覚醒してきたことで、どうやら毛布をはぎとられたらしいと察する。犯人は目の前の男に違いない。急に毛布がなくなったことで、寒いと思ったのだろう。相変わらず荒っぽい起こし方だとあきれながらも、ゆっくりと体を起こす。くあ、とあくびが漏れて、そのことをまた不思議に思った。
「朝飯作っといたから、食べたら行こう」
「……朝なのか」
「朝だと思えば朝だよ。寝起きだし」
ほらほら降りて顔洗ってこいよ。と言うだけ言い、悟がロフトから飛び降りる。私はそれに倣わず、きちんとはしごを伝って下に降りた。
部屋いっぱいに、甘くて柔らかいにおいが満ちている。洗面所に向かい顔を洗って戻ると、ダイニングテーブルで悟が待っていた。
「……ホットケーキ」
「生クリームあるよ、いる?」
「いや、いいよ」
「だと思ってバターひとかけのっけといた」
悟の指が示した先、白くて丸い皿に、ふわふわで分厚いホットケーキが二枚重ねられていた。その上で、四角いバターが熱でとろけだしている。
対して向かいの皿では、こんもりとクリームがそびえたっていた。朝と言っていいのかは分からないが、少なくとも寝起きである今、それ食べようとすることには畏怖すら覚える。
「いただきます」
用意されていたナイフとフォークに手を伸ばすと「召し上がれ」と上機嫌な声が跳ねた。
するり入ったナイフが、生地を切り分ける。口に運んだホットケーキは身構えていたほど甘くはなかった。程よく優しい甘みが口に広がる。ふかふかとして、絶妙な焼き上がりだった。
思えば、学生時代にも、こうして朝にホットケーキを焼いたことがあった。人にねだるだけねだって焼かせ、ひっくり返すタイミングに口をはさんでくる長い影に苛ついて、寝起きのぼけた頭で反射のように呪霊を呼び出し、アラームを鳴らした時のことだ。
それが、朝飯作っといた、と起こされる側に回る日が来ようとは。感慨深いような、今更なにをというべきか。
「本当に、甲斐甲斐しい君は怖いな。裏がありそうだ」
「こんなところで裏もなにもないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「美味しい? それ? 甘さ足りないんじゃない?」
「美味しいよ。甘さも十分」
流れるようにメープルシロップの瓶を取り出した悟を、てのひらをかざして制する。「そう?」と首をかしげながら、クリームまみれの白い塊を口に運んだ。美味しそうなきつね色の焼き目は覆い隠されていて、はた目にはなんの食べ物か分かったものではない。
どれほど甘いのか、出来心で舐めてみたいような気もする。だがこの出来心はすでに使用済みだ。あれはとても甘い、と経験が知っている。
「そういえば、一人称もだけれど、口調も丸くなったね」
今は教師なのだから当然かもしれない。いいことだと思う。親しみやすくて損はない。悟だって、生徒と接するときは先生の顔をするのだろう。
生クリームに添えられたホットケーキの最後のひとかけを口に入れた悟が、もごもごと口を動かしながらまばたきをしている。そういえば目隠しはしていないようだ。空色の瞳は今日も澄んでいる。ここでは映りこむものも少なく、負荷が低いのかもしれない。
「あれ、オマエ」
ごくりと喉を鳴らした悟がそう言った。
対して私はホットケーキを口に含んだばかりで、うんともすんともいえなかった。目を丸くすることが精いっぱいで、聞き間違いかどうか確認することもできない。
ようやく飲み込んだときには、なんとなくタイミングを逃してしまっていた。フォークとナイフを置いた悟が、ぱちんと手を叩く。
「食べた? かまくら作りに行こ」
「それ、本気だったの」
「せっかく一面の雪なのに、作らない理由ないでしょ。それとも雪だるまの方がいい?」
うーん、と唸って立ち上がり、空になった皿を片づける。洗おうと腕まくりをしたところ「昼飯作るときに一緒に洗うからいいよ。それより早く」と急かされた。気遣いなのか、欲求に素直なのか。
「私たちも良い歳なのに」
さほど乗り気でなかったので、そうぼやいてみたところ、悟が「ああ」と指を鳴らした。
「これなら気になんねぇ?」
一瞬の間に、目の前の悟が学生服姿に変わっていた。
ふふん、と長い足を開き腰に両手を当て覗き込んでくる姿に、思わず額を押さえる。ころころ姿を意図的に変化さえることができることにも驚くが、それだけでなく口調も使い分けているらしい。変なところも器用なものだ。
「うーん、少しは」と答えると、ひやりとした空気が首筋をなでる。つられるように、私の姿も変わっていた。
スコップ片手に、ふーっと一息吐く。
目の前には完成間近のかまくら、のような雪の山がある。スコップを持った悟が頭を押し込むように覗き込んで、空洞を削り出しているところだ。
外に飛び出てきてから何時間経ったのだろうと、あってないような時間経過のことを考える。
初めは悟が術式の無駄遣いよろしく、蒼で雪を集めようとして、うっかり消し飛ばした。残ったのは大きなクレーターだけだったが、それでも雪はなくならない。場所を移して、雪玉を作って転がして、大きく育てて土台にし、せっせと雪を被せて叩いて固めて雪を被せてを繰り返した。
こんな時、呪霊がいれば手伝わせることもできるのだけれど、と雪集めに向いていそうな呪霊のことを考えたが、どちらにせよ今はもう手元に何一つ残っていない。
スコップで雪をすくい、積み上げ、叩いて固める。それだけの作業だが、繰り返しているとさすがに疲れる。
それにこの寒さだ。きっと鼻先も赤くなっているだろう。悟がどこからともなく取り出してきた防寒具がなければ、すでに凍死しているのではないか。まあ、元より死んでいるのだが。
「よっ」という掛け声とともに、悟の足の間から雪が掻き出されてくる。それを避けて、顔を上げる。
視線の先、遠くには青々とした森の影が見える。昨日からあったのか、知らぬ間にこの世界の境界線を意識したことで現れたのかは分からない。きっと、私か悟のどちらかが、広さはこれくらい、とでも想像したのだろう。
考えてみれば、そう広い場所だと思っていないと気付く。箱庭のような、狭い世界を想像していた。手が届くだけの、小さな世界。果てがないとはとても思えない。
吹き抜けで行き止まりを感じさせない、そんな場所を思い浮かべることが出来ていたならば、きっと、ここには居なかっただろう。
「こんなもんだろ」
穴から出てきた悟が、腰に手を当ててそらす様に伸ばした。その背中は十年前と変わらない。たった二年と半年しか見ていなかったというのに、記憶にこびりついたままの姿をしている。
悟の横からひょいと顔を出し、かまくらを覗き込む。
「……思ったより狭いね」
「これ以上削ると穴開くんだよな」
「君が言うなら、間違いないだろうね」
スコップを置くと、悟がかまくらの中に入り込んだ。膝を抱えてちょこんと座って、それで定員、といった様子だ。頑張れば一緒に入れるだろうが、悟ともかまくらともぴったりと肩を寄せ合わせないといけないだろう。下手したら崩壊だ。ただでさえ寒いというのに、埋まるのは勘弁だ。
雪を積み上げて固めた時点では、十分な大きさに見えたのだが、全く足りていなかったらしい。その時も悟が「こんなもんじゃね」と言って、穴掘りに移行した。私も「そうだね」といったので同罪だが、お互いに多少飽きがきていたのだろう。
「中で甘酒飲むどころか、並べもしねーじゃん」
「餅を焼くんじゃないのか」
「甘酒飲んで、餅焼いて、きなことあんこ付けて食う」
「醤油と海苔も欲しいな」
どちらにせよ、夢のまた夢に終わりそうだ。
このかまくらを強化することは難しいだろうし、もう一度初めから作るかと言われたら、私は当然、悟もそこまでの執着は持ち合わせていないだろう。
何をしているのだろうな、とスコップを握った時は思ったものだし、面白かったかと問われれば微妙なものだが、それでも楽しんでしまったと今は思う。ただ馬鹿をするだけの時間、など十年ぶりだ。
「あっ、小さくなればいいのか?」
名案、と悟が指を鳴らし、初めて見るほど小さくなった。現在の半分くらいだろうか。ふくふくとしたシルエットに、ふわふわの毛先、生意気そうな顔、短い手足。まだ視界を制限するアイテムは付けていない。小学生低学年くらいだろうか。
「すーぐる」
声変わりには程遠い、高くて丸い幼い声が呼ぶ。それでも、にまーっと笑う目元口元に面影があった。幼さに上乗せされたやんちゃさに、それをも許させる天性の才能。さぞや周りは大変だっただろう。
「生意気そう」と素直な感想を口にすると「しつれいなやつ」と少し舌っ足らずに言ってむくれる。
「ほら、すぐるも早く、ちっちゃくなれよ」
「うーん」
困ったな、と腕を組み、考えるように首をかしげる。
同じくらいになろう、と試みてはいるのだが、さっぱり私の姿は変わらない。悟が小さな体で蟹歩きをし、かまくらの中に隙間を空けてくれる。同い年になれば、並んで収まっても十分足りるだろう。七輪を持ち込んで餅を焼くには足らないだろうが、甘酒くらいは飲めそうだ。
「すぐる」と急かされ「ええ……」と渋る。
この一瞬で原因をいくつか考えてみたのだが、その理由はとてもではないが教えたくない。まさか、君の姿を見ることで、その時向かいに立っていた自分の姿を思い出しているらしく、君が目の前に居なかった幼少期を思い出せない、など。
高専に入る前、出会う前、いったいどうやって生きていたのだったか。私はどんな姿をしていただろう。思い出せない、など教えたくなかった。
「どちらにしても、狭いんじゃないか」
そう濁してしゃがみ込み、中をのぞく。途中までは私が掘ったのだが、最後の仕上げは悟がやった。きれいな出来だなと感心していると、ふと、手を引かれた。私の手首を握ることもできないような小さな手ではなく、掴んで余りある長い指だ。
引かれて、前のめりになる。さく、と悟が雪に手をついた。
カチャンと音を立て鼻先にサングラスが触れ、唇が重なる。もう目の前に、生意気そうな小学生はいなかった。初めてキスをした時も、この男はそんな顔をしていた気がする。
「そういうこと、する気がないのかと思った」
昨日も素直に寝るから。そう言えば、悟はむくれた。
「あるに決まってんじゃん」
決まってるんだ、というあきれた笑いは封じられ、吸い込まれた。触れた唇は温かく、対照的に自分の体温の低さが露わになる。「さむい?」と額をくっつけながら問われる。
「つめてー」と悟が勝手に納得して笑った。手首をつかんでいた指先がするりと移動し、指先を握る。今日は手袋をしているので、その温かさが伝わってくることはなかった。
「はは」
思わず笑うと、悟が急にうなだれた。手が離れる。白い髪の間につむじが見える。かと思えばどいてと言わんばかりに肩を押された。しゃがんだままひょいと後ろに飛んで、それから立ち上がる。かまくらから這い出てきた悟も立ち上がると、また手を掴まれた。
「寒いし、戻ろう」
君は寒くないだろう、という言葉は飲み込んだ。指に込められた力が少し強くて、それがなんだか可愛かったからだ。サクサクと、新雪を踏む音が二人分続く。
目を離したすきに悟は教師の姿に戻っていて、私もまたつられて袈裟姿に変わっていた。同時に防寒具も消え、指先から悟の熱が伝わってくる。寒い、けれどそこだけ温かい。
きっと私も、意図的に姿を変えられるはずだ。上手くいかないのは、先を歩く男の姿に気を取られすぎているからだろうか。考えるように振り向き、残されたかまくらを見る。その向こうに森があり、空がある。
今そこにあるのは空の色というより、悟の瞳の色なのでは。などと思った。
ロッジへと戻るとまっすぐロフトに上がり、二人でベッドに倒れこんだ。
さらした肌に悟の手が触れる度、じわりと熱が移る。逆に悟に触れれば「冷たっ」と首をすくめて笑う。今日も私の体は冷え切っていて、指先もかじかんでいる。こういう時和装は、洋装より多少脱ぎやすい。ファスナーに負けるかもしれないが。
性欲など、生きるためのものだと思っていた。それともこれを性欲とくくるのは性急だろうか。
部屋の暖かさと相まって、次第に体が温まってくる。向かい合って寝そべったまま、唇を合わせる。ムードも前戯も今更じゃないかと思うのだが、そういうところを気にする姿を可愛らしいと思うので、文句はない。だから昨日は素直に寝たのかと思えば、笑いがこみあげてくるほどだ。
髪の結び目に指を差し込まれ、解かれる。ついた癖をほぐすように梳かれる。肩をとんと押され、今度は仰向けになる。
悟は体を起こして、私の足の間に陣取ると、目隠しを後ろへ放り投げた。その瞳の色に見下ろされると、反射のようにぞくりと肌が粟立つ。
「傑、最近した?」
しかしいくら気にしたところで、言葉に情緒がないのは変わらないらしい。耳に髪を掛けるように撫でる、その手つきとまるで反対だ。
腹が立ったので、膝を立てて手を伸ばし、その白い頭を捕まえて引き寄せた。キスを送った唇に、皮膚を破らない程度に歯を立てる。「ッて」と呻く姿を鼻で笑う。
「誰と? 猿と?」
ふざけるなよ、と睨むと悟が破顔した。声を立てて笑い出しそうな口元に擦り寄られる。ご機嫌とりをしたつもりはないのだが「僕もしてない、すぐるじゃないもん」と甘ったれたことを言うので、少し憐れみを覚えてしまった。置いていく相手を選んでしまうなんて、君も散々だ。
脱がせるように袈裟がぐっと引かれたとき、ふと思い付く。
「ちょっと待って」
のしかかる体を押し返すと「は?」という声が降ってきた。嘘でしょここでいまさら? とでも言いたそうだ。それを無視して、記憶を手繰る。感覚を思い起こしながら、ふっと息を吐く。「あ」と悟が声を出した。
「どう?」
懐かしいでしょ、と学生服姿の自分の体に視線を落とす。同時に結われた髪を、今度は自分で解いた。寝そべるには不向きだ。「君はそのままの姿でいいよ」と笑いかけると、悟はじんわりと顔を赤くした。
「すぐるのえっち!」
「まんざらでもなさそうな顔で言われてもね」
「さすがにいけないことしてる感じが凄くする」
「はは」
五条先生、と呼び掛けてみたところ、なぜか顔をしかめられた。「それはなんか違う」と文句を言うので「良く分からないなあ……」と両手を投げ出す。
「傑にはいつも通り呼ばれたい」
可愛いことを言うので、立てていた膝で悟の脇腹を蹴ってやった。
「しないの?」
「する、あとで逆もしよ」
「全パターン試してもいいよ」
そう言えば悟は大笑いした。
私はどうせ、することもない。悟はいつまでここに居る気なのだろう。あの世に来たのはただの観光で、死んでいないというならば、いつかは帰るはずだ。なら私はここでいつまで、何をして過ごすのだろう。死んだというのに。殺した相手と暇つぶしみたいに体を重ねて、それで。それで?
天国や地獄はあるのだろうか。いつかそのいずれかに移動するのか。はたまた来世でも訪れるのか。
じわりと上がっていく熱に引っ張られ、思考は途中でうやむやになってしまった。
◇◇◇
目を覚ますと、となりには誰もいなかった。
ここに居る、と認識してから十日目の朝だった。十日というカウントが正しいのかは分からないが、朝だと思いながら目を覚ましたのは、これで九回目だ。
起き上がり、毛布から上半身を出す。ベッドの半分は空っぽで、他人の名残を感じさせないほどに静まっている。ここに来てから、悟がベッドから抜け出したことに気付いたことはない。八回とも「朝ごはんだよ」と起こされたことで、朝を認識していた。高専の頃はどうだっただろうか。肩が触れるような狭さで眠っていたので、片方が目を覚ませば、自然に気付いていたのではなかったか。
ベッドから降り、ロフトの下をのぞく。キッチンに立っている、ということもないようだ。ここから見える範囲に悟の姿はない。はしごを降り、洗面所などの扉の内側ものぞいてみたが、そこにもいなかった。
ついに帰ったのだろうか。そう考える。
ようやく観光にも飽きたのか。思いのほか長く居たというべきか、短かったというべきか。現代最強の特級呪術師が、十日も油を売っていていいほど、今は暇なのか。そんなまさか。五条悟が、あの世の近くを通りかかるほどだというのに。
ぽつんと立ち尽くす。
昨晩目を閉じる前と、なんら変わりない光景が広がっている。観測する他人がいなくなっても、この場所は残るのだろうか。それもおかしな話ではないか。それとも一度観測したものは、揺るがなくなるのか。あの、冷蔵庫の中身のように。
まだ外があったなと玄関へ向かったところ、靴が一足減っていることに気付いた。帰るときも律義に靴が減るのかは知らないが、確かめるように外へ出た。吹き込む冷気に首をすくめる。
外は今日も変わらず、白銀の世界だった。
その中に、迷いのない足跡が残っていた。遠くまで続いているが、悟の姿は見当たらない。森にでも入ったのだろうか。それとも森を抜けると、どこかへ行けるのだろうか。
となりを歩いたかのように足跡を残しながら辿っていく。ぽつぽつと広い間隔で残る後を眺めていると、ポケットに手を突っ込み、ざくざくと大股に歩く姿が容易に想像できた。可笑しいなと苦笑する。その時急に、悟が見つかった。
雪の中に倒れていた。
仰向けに、大の字に。
さすがの私もぎょっとして、たたらを踏んだ。ドッと殴られたように心臓が跳ねる。
「……なにをしているんだい」
問いかけると、悟の大きい目が動いて、私を見た。今まで見つからなかったことが不思議なくらい、学生服の黒色が、雪に浮いている。
「考え事」
「こんなところで? 寒くないか」
「寒くないし、余計なものも見えないし、結構快適」
「そう」
頷くが、理解できたかといわれると全くだ。
確かに視界に映るものは何もないに等しい。寝そべってしまえば空だけになるだろう。人も居らず建物もなく呪霊もいない、なにもない空だ。
「あのさ、なんで俺はここに居ると思う?」
問われ、視線を下ろす。悟は相変わらずこちらを見ていた。
「知らないけれど、死ぬに近いヘマでもしたんじゃないの」
あの世の近くを通りかかるようなことがあった、と言ったのは悟だ。
「戻らなくていいの。それともこのまま死ぬつもりかい」
「こっちとあっちじゃ、時間の流れが違うから問題ねえよ」
「君は本当に、観光というくせに訳知り顔で腹が立つね」
「ま、最初から違ったし」
何が。と問いかけるより早く、悟が腕を上げる姿が視界の端に映った。
とっさに飛び退いたところ、一瞬前まで立っていた場所を雪玉が通過した。「勘戻った?」と声が笑う。
ここにきてまだ雪合戦をする気か、と目を丸くすることで答える。「よっ」と掛け声を口にし、悟の長身が跳ね起きた。ぱたぱたと体についた雪を払う。その手にはまた雪玉が握られていた。いつ作ったのか、初めから手元に持っていたのか。用意周到なことだ。
「結局、俺に一発も当てられてないだろ!」
投げられた雪玉が、ゆるやかな放物線を描いて飛んでくる。キャッチボールの玉みたいだ。手をかざして受け止めると、今度はつかむことができた。ひやりとした雪玉が、受け止めた衝撃で少し欠けた。
「雪合戦で無下限を使うのは卑怯じゃない、か!」
足を引いて振りかぶり、勢いをつけて投げ返す。「わはは!」と笑った悟の顔面の前で、雪玉はびたりと止まった。そしてぼとりと落ちる。かと思えば「あっ!」と急な声を上げた。思わず身構えたが何も飛んでこない。
睨むように見据えた先、空中にかざした悟の手にナイフが現れていた。
その寸前、何かを掴むように手を振ったように見えた。だがそこには何があるわけでもなく、唐突に銀色に光る得物が現れたとしか思えない。まるで手品だ。今までどこにも存在していなかったはずのものが、その指の間に現れる。
だが、どこから取り出したのか、と問いかけることは今更のように思えた。悟が今そこに、あることにした、から現れただけの話だ。
やはり私よりよほど、この世界で好き勝手している。
「ちょっと刺してみて」
間にあった数歩の距離を、瞬く間に詰めると「はい」と差し出された。手のひらサイズのそれは、持って刺すよりも投げる方が勝手がよさそうだ。
何をしたいのかは知らないが、どうせ危険物の自動判別により刺さりはしない。「はいはい」と答えて受け取り、さっさと投げる。「え、顔狙う?」という困惑した声の前で、ナイフがぴたりと止まった。
「それで?」
これがなに、と聞くと、今度はてのひらを顔の横に出した。
「殴ってみて」
全く脈絡がない。しかし今更だろうと自分を説得する。
ナイフの次は素手。違いは危険度を操作できる点だろうか。ならばナイフと同程度にすべきか。拳を握り、一歩引く。腰を入れて振り抜くと、悟のてのひらに当たる。バチンと気味のいい音がした。
ので、驚いた。
「いッて!」と手をぷらぷらと振る姿に目を丸くする。拳には、人を殴った感触がじんじんと残っていた。
「あのさ、本気で来る?」
「……でないと、術式に引っかからないだろ」
それに、それは本気じゃないよ。
今度は先ほど引いた足を蹴り上げる。クリーンヒットしたら骨の一本くらい持っていけるかな、というくらい、本気で蹴った。脇腹を狙ったのだが「ふざけんなよ!」と叫んだ悟には避けられてしまった。
飛び退いた悟が、ざくりと音を立て新雪の上に着地する。私の足は、先ほどまで悟が立っていた場所を踏んだ。ふむ、と顎に手を当てる。
「ということは、今なら悟をステゴロで倒せるのか」
雪合戦なのにおかしなものだ。だが投げると防がれることに変わりないため、雪玉を掴んだ手で殴るしかないのではないか。果たしてそれは、雪合戦といえるのか。
「特別扱いだぞ、もっと喜べよな!」
考え込む私の向かいで、悟が腰に手を当て不満そうにしていた。そんなポーズをしても、別に可愛くもないのだけれど。
「はいはい、わざわざ雪合戦のために術式組み替えてくれて、どうもありがとう」
昔から遊ぶと決めた時は全力だったな、と思い出していると「ずっとこうだったよ」と聞こえてきた。
見ると、静かに笑う悟の顔があった。
表情がよく動き、感情も隠さず顔に乗せるような男だったはずだ。それが今、ささやかな笑みを口元に乗せ、緩やかに目を伏せている。さくさくと足音を立てて、こちらに戻ってくる。
雪なんて踏みしめなくても、進める男が。
「傑が触ってくるチャンスをさぁ、逃がすわけないだろ。肩組むのだっていつも俺だし、ベッドにもぐりこむのも俺。たまーに傑からキスしてくれるけど、それだって本当に機嫌のいいときだけだったし」
貴重なんだよ、俺はいつだって触ってほしいのに。
言葉がのどに詰まる。
どう答えたらいいのか分からない。あまりに今更だからだ。
君が先に触ってくるから、触りに行くときなんてなかっただろとでも言えばいいのか。私だって触りたかったに決まっているとでも言えばいいのか。指の先は無限により断絶されているのだろうと諦めていたのだとか、そういうことでも、言えば。
息が詰まっている間に、悟が目の前までやってきていた。不思議と夏の印象が強い学生服姿で、真っ白な雪の中に立っている。
背後に光る、空と同じ色をした瞳に見下ろされる。なに、と首をかしげると、顔に影が落ちた。白いまつ毛がまばたきに揺れる。
「……私はまだ、君が私の記憶の中の産物だと疑っているよ」
あの五条悟が死にかけてここにやってくるなど、そんな都合のいい出来事が、本当に起きるのだろうか。かといって、死後に君のことを考えているのだとしたら、どうにも滑稽に思えて苦い気持ちになる。
「それは、傑が俺のことすごく好きだってこと?」
「こういうこと言いそうなんだよね、悟って」
「よくわかってんじゃん」
さすが傑。と言って悟が腰を曲げた。
このタイミングでキスをするのか。
結局君はなにを考えているのだと、あきれて目が回りそうだ。額を押さえようとした手をつかまれ、腰を抱き寄せられ、がぶり、と音がしそうな勢いで口をふさがれた。触れ合い方が大型犬みたいだ、と思ったのはいつぶりだろう。ああもう、と目を閉じてやり返す。悟がのどの奥で笑う気配があった。
唇を離し、ゆっくりと目を開ける。
大人になった悟の顔がそこにあった。
「今キスしたかった?」
「……全く」
「ならやっぱり僕だよ。あの世に近いところを通るようなことが、僕にもまだあったわけ」
すこーし油断したせいで、ちょっと大変なことになっててさ、まあ大丈夫なんだけれど。と、悟は話した。
肩をすくめて笑う。「なら、それでもいいよ」
「ま、それはそれとして。そろそろ仕返しに行こうぜ。やられっぱなしは性に合わないだろ」
「なんの」
君になにか仕返しすること残っていたかと、視線をそらして考える。雪玉を当てられていないことか。雪合戦にそこまで執着はないのだけれど。
いまだ世界は果て無く白銀に覆われている。まばゆさに目がくらむようだ。
「すぐる」
そう、静かに呼ばれ、顔を上げる。
視線の先で悟が目を細め、挑発するように笑っていた。
「傑」
もう一度、呼ばれる。
「いつまで寝てんだよ」