泡沫の隙間

(五夏)

     

 ××県××村の山奥にて、特級に相当すると思われる呪霊が発見される。近隣住民ならびに観光客が失踪する事件が頻発。調査に赴いた二級術師は定時連絡を残し行方が――。
 はいはい、オッケーオッケー、いいからいいから、送迎どーも、そんじゃ解散、あ、この近くに評判のいいケーキ屋があってさ、ここここ、え、二十キロ先なんてこの山奥じゃ近い方でしょ、そういうことで、よろしく。
  
「で、なにしてんの?」
 人里離れた山奥の村という場所は、どうにも特殊な呪霊が発生しやすい。信仰心豊かで怖がりの老人たちは、たった一つの恐れを生むことに積極的だ。とはいえ街に降りれば、今度は些細な摩擦により呪霊の数が増える。結局どっちもどっちだ。
 しかし情報を集め辛い分、山奥の方がやり辛い。なのでこうして、元は手が埋まっていた五条悟が、手持ちの仕事を方々にちぎっては投げつけまくり、一人特級案件に赴くことも、なんらおかしくはない。そして今、予想通りと予想外との、丁度中間地点の状況に居た。
 腰に手を当て見上げた先に人影があった。身を隠す様に木の枝に腰かけた、夏油傑だ。真っ黒な服装で影に潜みながらも、あきれたような困ったような面倒くさそうな、とにかく愉快ではないという顔をしてこちらを見下ろしている。
「木登りが趣味だったっけ?」と首をひねる。
「隠れているのだけど」と傑は言った。
 さて、悟がこの村に到着した時、すでに特級呪霊の気配はなかった。色濃い二種類の残穢が確認できたが途中で途切れた。それがここから少し離れた森の中のこと。手前には破壊された怪しげな祠があったが、破損部に残穢はなかったため、きっと観光客か村のこどもあたりが壊したのだろう。それをきっかけに恐れが加速したのかもしれない、などと予想しながらなおも奥へ進みに進み、ここへ辿り着いた。
「きちんと痕跡が残らないように移動したのだけれど」
「それって僕を舐めてる?」
「真剣に対応してこそだよ」
「だろうね」
 呪霊に乗り空へ逃げればまず目に入る、呪霊で地上を駆けても残穢が残る。とすれば自分の脚で走って逃げるのが一番だが、どうやら負傷しているらしい。血の匂いがした。だからある程度距離を取り、樹上に潜伏することにしたのか。そう思うとなんだかおかしかった。だって今そこで背を丸めて嫌そうな顔をしているのは、世界に唯一の特級呪詛師だ。
 つまり、目的の特級と思しき呪霊は傑に取り込まれてしまった後ということになる。このところ、階級の高い呪霊が発見されると「危険なので早く祓わなければ」というよりも「呪詛師に奪われる前に祓ってしまわなければ」という側面の方が大きくなってきているように思う。何の関係もない一般人からすると、呪霊討伐RTAのおかげで暮らしやすくなっているのではないか、という気さえする。
 どちらにせよ今日は負け戦だ。両腕を持ち上げぐうっと体を伸ばす。ここまで車移動だったので少し凝っていた。
「僕さ、こんなところまで派遣されたわけでしょ。で、特級案件。つまり、三日取ってあんの」
 片道半日、往復で一日。特級ともなると何が起きるか分からないから二日は必要だ、と理屈をこねくりまわして押し通した結果の三日。本当は移動一日、作業一時間で足りる。つまりあと二日と半日、フリーだ。
「てことで、降りておいで」
 受け止めてあげるよ、と両手を前に差し出す。見上げた先の傑は細い目をさらに細めていた。今度はあきれ十割だ。しかし額を押さえてため息を吐いた後、素直に落ちてきた。鍛えられている体は見た目以上に重いと知っているので、術式で勢いを殺してから両腕の上に乗せる。
 懐かしい重みに喉の奥から笑いが漏れてくるが、お姫様だっこはこれが初めてかもしれない。薄っぺらな黒いパーカーの下に筋肉の起伏を感じる。当然のように十代のころよりも鍛えられていた。
「いつもの袈裟じゃないんだ」
「あれは目立つんだよ」
「目立つから着てんじゃないの?」
「目立っては困る時もあるんだ」
 というよりいつも袈裟だとどうして知っているんだ、やっぱり言わなくていいどうせそうだろうね。と傑が疑問を口にしながらも自己完結する。まあね、と笑って腕の中の体を抱え直し、向きを変えた。いつまでもめぼしい呪霊もいない森の中に居る理由はない。足元の小枝を踏むとパキンと音がした。
「おい、悟」そう咎めるように呼び止める声が、耳元から聞こえた。無視して話を進める。
「この近くにさ、温泉旅館があんの。知ってる? この辺小規模だけどちょっと有名な温泉があるんだよね」
「ええ……」
「予約してないけど、失踪事件続きで客足は落ちてるらしいから、飛び入り大歓迎だろ」
「それは、そうだろうけど」
 はあ、とため息が吹きかけられる。
「わかったから下ろしてくれないか。君を撒くほどの速さで走れはしないが十分歩けるよ」
「え、やだけど」
「腹立つな……」
 本当は猫みたいに撫でまわしたいところなのを我慢しているのだから、とは言わなかった。本来ならば呪術全開の殺し合いになってもおかしくない場面だ。何度目か分からないため息とともに「せめておんぶにしてくれないか」と言われる。おんぶという響きがなんとなく可愛かったので、それは聞き入れた。
 背中にのしかかる重みと体温は、ひどく懐かしい。
「君さ、補助監督はどうしたの。まさか撒いたの?」
「人聞き悪いな、置いてきただけだよ。終わったら連絡するし帳も自分で下ろすからダイジョーブってね」
「君と組まされる補助監督もかわいそうだ」
「なんで、放っておいても仕事して戻ってくるんだから、楽でいいでしょ」
 そういうところだよ。と傑の笑い声が首筋に掛かる。まあ本当は、傑が来ているとわかっていたので置いてきたのだが。傑を見つけられるかは五分五分だったが、案外あっさり見つかったものだ。やっぱり持っているな、とけらけら笑うと、気味悪いとでも言いたげに背中の傑が身じろいだ。

  

 ぽかぽかの体を浴衣で包んで部屋に戻る。温泉旅館といえばこれ、といった様子のベタな浴衣の裾は少し短い。ふくらはぎが少しのぞいている。これは絶対傑に笑わられるな、と予想していたが、案の定だった。
 これまた温泉旅館といえばな和室で座っていた傑は「おかえり」と言い切れず吹き出した。オマエも似たり寄ったりじゃないか、と思うのだが、傑は丁度ギリギリ丈が足りるのだ。不公平ったらありゃしない。
「早かったね、もっとゆっくり入ってきたらよかったのに」
「一人で長風呂してもつまらないよ」
 いつもシャワーだし。と傑の向かいの座布団に腰を下ろす。露天風呂に行っている間に布団が敷かれたようだ。部屋の隅で白い敷布団が二組仲良く並んでいる。
 一応下調べはしていたが、いいところだ。
 背負った傑を見るなり救急箱を持ってきてもくれた。出血が多く危うく救急車を呼ばれそうになったが「見た目ほどではないですから」とこともなさげに微笑む傑のおかげで、救急箱を借りるだけで済んだ。
 しかし「これのどこらへんが見た目ほどじゃないわけ」と小言を言いたくなる程度にはざっくりと切れていた。傷跡は脛からふくらはぎまでぐるりと走っている。縫った方がいいレベルだ。けれど傑は、ははと笑って「切り落とされなかった時点で軽傷だよ」という。その口ぶりから、確かにあそこにいたのは特級だったのだろうと想像できた。
 シャワールームで血を洗い流し止血した後、傑はずっとそこでくつろいでいる。夕食に出てきた、旬の山菜と川魚を使った料理はおいしかったし、露天風呂もよかった。あとは寝るだけだ、という状況に不思議な気分になる。何もかも気のせいだったかのようだ。昨日も一昨日もずっとこうして、一緒に居たかのよう。それはもちろん気のせいなのだけれど。
「腕だったら入れたのにな。つか、足上げて入ればよかっただろ。露天風呂人いなかったし」
「私たちのほかに二組しか泊まっていないそうだからね」
「やっぱ行く?」
「シャワーだけで十分だよ」
 砂っぽくなくなっただけでも十分。と傑が手元にあったグラスを掴んだ。それも露天風呂に行く前にはなかったものだ。机には急須と湯飲みと緑茶があっただけだった。今はグラスのほかに、ボトルとアイスペールもある。酒だ。視線に気づいた傑が、そばにあった空のグラスを差し出した。
「お酒をもらったのだけれど、君も飲む?」
「弱いからいらない」
「……へえ」
「笑うな、腹立つ」
「くく、アイスでも買ってあげようか?」
 むっと唇を尖らせると、酒を舐めながらなおも肩を揺らして笑う。それが酔っているからなのかは判断できない。酒を飲める年齢になってから、始めて会った。悟は飲めなくて、傑は飲める。硝子も飲める。
「バニラアイスにブランデーを垂らしても美味しいらしいよ」とさっぱり有益ではない情報をくれたので「それならエスプレッソかける」と頬杖をついたところ「悟の口からエスプレッソなんて言葉が出てくるとは」と余計に笑われた。
 傑はグラスの中身を飲み干すと机の端に避けた。まだボトルの中身はなみなみと入っているし、氷だって残っている。「飲まねーの?」と指さすと傑は肩をすくめた。
「一人で晩酌してもね」
 そして机の下で足を蹴られた。蹴られたというか、突かれたというか、撫でられたというか。怪我をしていない方の足が伸びてきて、爪先でひたりと触れられた。温泉上がりの体にそれがひやりと感じる。顔を上げると、傑は悪い顔で笑っていた。
「しないの? こんなところに連れ込むくらいだから、そういうことなのかと思ったのだけれど」
「こんなって、温泉旅館だろ。それに傑怪我してんじゃん」
「そうだね。足が痛いから騎乗位は勘弁してね」
「もー!」
 全く考えていなかったか、と言われれば否だが、そう露骨に言われると図星だったかのようで座りが悪い。触ってくる足を払いのけると「はは」と傑が笑った。
「私は少し期待したから、きちんとシャワー浴びたのだけれど」
「オマエのそういうところ今はキライ」
「っはは、それはどうも」
 立ち上がると、傑が両手を差し出してきた。昼間は嫌がったくせに抱えて運べって! と思いながらも無視できない。「傑さあー」とあきれながらも手を伸ばす。ずしりと重い体を抱き上げて布団へと運ぶ途中「無下限を使えばいいのに」とささやかれた。あきれているのだかなんだか、分からない声色だった。
 ため息を吐く。そこにお前がいるっていうのに、どうして無限になんて邪魔をされなくちゃいけないんだ。
   

 翌朝目を覚ませば、となりに傑の姿はなかった。抜け殻の後も残らない布団を眺めながら枕に顔を埋める。「薄情者」という声はくぐもって恨めしく消えた。
「あ、起きた?」
 その声に体を起こすと、ふすまを開ける傑の姿があった。気のせいでなければ、浴衣に包まれた体をぽかぽかと湯気が包んでいるように見える。寝起きでぼやける視界を整えるように、目を細める。傑は察した様子で「ああ」といった。
「温泉入ってきたんだ」
「ッ、ハア?」
「誰もいなかったからね、都合がよかったよ」
 口ぶりから察するに、呪霊を出したようだ。その程度で入れるなら、昨日一緒に入ればよかったのに。傑は怪我をしているとは思えない、しっかりとした足取りで部屋へ入ってくる。目を凝らせば足を庇っているとわかるが、それでもあれだけの怪我だ。タフなやつ、とあくびをこぼしながら起き上がる。
「もうすぐ朝食を持ってきてくれるそうだよ」
「んー……」
「あ、おはよう、悟」
「おはよう」
 この状況を作ったのは自分だが、全くめまいがしそうだった。
  

 朝から豪華な朝食を食べ、身支度を整えると宿を出た。
「じゃあね」と言った傑はよく知った顔で笑っていた。お互い別々の方向へ歩き始める。少し行ったところでふと振り返ると、もう傑の姿は見えなかった。きっと呪霊に乗って飛んで行ったのだろう。
 真っ青な空を見上げながら、携帯電話を取り出す。
「ケーキ買えた? 迎えに来てくんない」