小ネタ

(虎伏)

    
「悠仁生きててよかったね」
 となりで長い脚を折りたたみ、しゃがんでいた五条悟が、そう言った。視線を向けた先に、笑った口元が映る。目を隠しているからか、表情の半分しか読み取れないような人だ。
 それでも、それが、純然たる好意から出た言葉だと分かる。「まあ」と返し、正面を向く。校庭では一、二年合同の特訓が行われていた。人数が少ないからすぐこうなる。見慣れたようで、見慣れない光景だ。虎杖が居る。
「あの、悪趣味なサプライズ、五条先生の企みですよね」
「あれ、分かっちゃった?」
 からりと声が笑うので、眉をひそめた。
 ガラガラと運び込まれたお土産という名の亡霊が、生者として箱から飛び出してくる瞬間を、数日経った今も鮮明に覚えている。当面忘れられないと思うほどだ。喜色満面の五条と、虎杖の顔もだ。
「思ったよりウケなかったね」と頬杖をついた五条が言う。「死んだはずの相手が生きてたなんて、滅多にできる体験じゃないのにね」
「滅多にどころか、普通ないですよ」
「呪術師世界に普通を求めちゃダメだよ恵」
「そもそも、死んだはずでもなく、目の前で死んだ、相手ですよ」
 死者が生き返ることは、たとえ術師の世界でもない。降霊術で呼び出すか、呪いに転じでもしない限り、目の前に現れることは永劫ない。そしてそれは、生きていた、とは呼ばない。
 ぐっと目を細める。夏の日差しが眩しい。夏だ。いつの間にか、もう。
 それを何と勘違いしたのか、五条の声が笑った。愉快そうな声に腹が立つ。
「僕にわがまま言ってまで生かしたかった相手だもんね。嬉しいよね」
 よかったね。ともう一度言う。二度目の肯定を返すことが癪で、聞かなかったふりをした。
 それでも視線を感じ、渋々顔を向ければ、先ほどよりも唇の端を持ち上げた顔が目に入る。見なければよかった。こらえきれずに舌打ちが漏れると「こら」と先生みたいにたしなめる。確かに先生だが、誰よりも先生らしくない。
 そもそもこの人はここで、なにをしているのか。
 伏黒がここに居るのは、呪具を取りに校舎へ行った帰りだからだ。そうしたら五条が居た。今日はいないはずだったので、つい声をかけてしまった。「なにしてるんですか」と訊ねたら「悠仁、やっぱりすぐ馴染んだね」と校庭に向けて指を向けたので「そうですね」なんて言ってしまったのだ。
 手の中に持っていた呪具を、影の中に落とす。とぷんと影が揺らめいて、何事もなかったかのように静かになる。それを五条がじっと見ていた。口元に笑みを乗せたまま。こういう時はたぶん、別のことを考えているのだ。それがなにかを教えてくれたことはない。知りたいわけでもないが、度々垣間見えるから、目に入る。
「暇なら混ざってきたらどうですか」
 特訓。と虎杖の立つ方向を顎で示す。五条は答えのように立ち上がり、ぐっと体を伸ばした。
「少し時間が出来たから見てただけだよ。そろそろ行かないと伊地知が怒るな」
「伊地知さんに心労かけるの、やめてあげてください」
「恵まで僕が悪いみたいに言うね」
 事実じゃないか、と目を細めているうちに「じゃあまたね」と言い残し、五条は消えるようにいなくなった。
 かわりに知らぬ間に、虎杖がこちらを向いていた。
 夏の日差しの中、立ち尽くすようにこちらを見ている。先ほどまでパンダと組手をしていたはずだが、パンダのペアは狗巻に代わっていた。
 ぱち、と目が合うと、時間の流れを思い出したように、虎杖が大きく手を振った。小さく手を挙げて答えれば、一直線にこちらに向かってくる。
「伏黒」と呼ばれ、眉間をつつかれた。
「なにすんだ」
 眉間を触る指先を払い、顔をそむける。虎杖は体ごと首を傾けた。
「なんか難しい話してた?」
「……は?」
「五条先生居たよね。伏黒むずかしい顔してるし」
 なんかあった? と問われる。言外に、聞こうか、と訊ねられているも同然だった。眉間に手を伸ばす。触られていたところに触れようとしていると気づき、誤魔化すように前髪をつまんだ。ため息を吐いて、手を下ろす。心配の滲んだ瞳を見つめ返し、あきれを含ませ逸らした。
「この前の、サプライズの話してた」
「ウッ!」
 顔をしかめ胸を押さえて背中を丸めた、虎杖のオーバーリアクションに思わずひっそりと笑う。なにもそこまで根に持ってはいない。遺影の額縁を持たされていた様には、同情だって持ち合わせていた。
 あの日目の前で死んだ男が、今ここで息をしている。
 動くし喋るし、笑いもする。話しかけてきて、冗談を言って、並んで授業を受け、向かい合って飯を食う。壁一枚隔てた隣室で、寝起きをする。朝一番には、寝ぼけた間抜け面を見る。夜には寝落ちる寸前の、緩んだ顔も見る。
 死の手触りはまだ、確かにここに残っているというに。
「……虎杖、なにしてるんだ」
 人が感傷を覚えているその横で、虎杖は変な表情を作っていた。目を細めて顎をしゃくれさせているが、それがなんなのか。眉をひそめると、パッといつもの顔に戻り、今度は慌て始めた。
「え、面白くなかった?」
 そういわれて初めて、虎杖がモノマネをしていた事実を認識した。どの流れてモノマネを始めたのかも全く見ていなかった。ウッ、からつながるレパートリーでもあるのか。少し腹が立ったので「ああ」と答える。
「グッ……」と悲しそうな傷ついたような、それでいて悔しそうな顔で虎杖が項垂れた。
 その横顔をみながら、虎杖は笑っている方がそれらしいよな、と考える。この短い付き合いの中でも、その印象が強い。術師の群れの中にいることが不思議なくらい、からりと笑う。その顔を見ていると――と考え、はて、と首をひねる。
「まあいいや!」
 急に両手を突き上げて、虎杖が笑った。今まさに頭の中にあった顔が、現実に現れる。記憶の中にだけかろうじて残っているそれではない。現実の質量を持った姿が、動く。笑って「伏黒さ」と呼んで、グラウンドを指さす。つられるように顔を向けると、宙を舞う釘崎の姿が見えた。
「俺と手合わせしない? そんで、終わったらアイス食べよ」
 昨日冷凍庫に補充しておいた、と夏の日差しもくらむような顔で言う。
「はは」と思わず笑い声が漏れた。それが妙だったらしく、虎杖は首を傾げた。それでも、すぐに笑い返してくる。
 そこに居る。