(綾主本の再録/2014/08/24発行/ 主人公名は緒張深月)
あの夜は雪が降っていた。
1章
1
はっと目を覚ますと寝室に居た。
柔らかく白いベッドの上だ。仰向けに沈んでいた体を起こすと、随分と久し振りに体を動かす様な不思議な心地がした。両腕を天井に向け、ぐっと伸せば欠伸が零れ出る。 目尻に滲んだ涙を拭い、白のカバーに包まれた毛布から出た。ベッドはナイトテーブルを挟んでもう一つ、部屋の奥側にも置かれている。白のカバーが掛けられたそれは無人だった。僅かにシーツがよれた跡が伺えるので、使いはしたらしい。けれども既に温かみはまるで残っていない。人が抜け出た後それなりに経っているのだろう。
ふと、名前を呼ばれたような気がした。
遠くから「深月」と呼ばれた気がして振り返る。寝室のカーテンは閉まっており外は見えなかった。先程の声はこちらを呼んでいたようにも、ただ呟いただけのようにも聞こえる響きをしていた。どこから呼ばれたのだろうと辺りを伺うが、それらしい場所は見当たらない。それを疑問に感じながらも何故だか納得して、腑に落ちた。
ベッド横にある、もこもこのスリッパに素足を押し込むと寝室を出る。
続くリビングに出ると、やたらと照明が眩しかった。明かりがなく、薄暗かった寝室と比べると随分と眩しい。久し振りに明かりを見たかのように目を細める。
リビングの奥には本棚という名の壁があった。棚の中にテレビも設置されており、その正面に白いソファがある。
ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら進めば、奥にはダイニングテーブルとカウンター式のキッチンも見えてくる。そしてそこにも誰も居なかった。
トイレ、浴室、クローゼットと、部屋を移動し馴染み深い扉という扉を開けて回るが人の姿は見付からない。それなのにどの場所にも誰かが通った跡がある。濡れたシンク、トイレットペーパーが垂れ下がるペーパーホルダー、空のハンガー。痕跡の主はいったいどこへ行ったのか。はて、と考えながらリビングの真ん中で立ち止まっていると体が冷えてきた。寒さに肩を竦める。
窓を見れば雪がちらついていた。窓に近寄り、開いた白いレースのカーテンの隙間から外を伺えば、一面の銀世界が広がっていた。通りで寒いわけだ。
そういえば見ていない場所が一か所あったと思い当たり、玄関へと向かう。下駄箱に入っていた長靴を失敬し、素足を押し込み外へ出る。暗い白色をした空から、綿毛のような雪が静かに降っていた。重さや時間を忘れさせる緩慢さだ。それが静かに静かに、次から次へと舞い落ちてくる。は、と呼吸をすれば真っ白な吐息が漂う。風は無く穏やかで、白い息も雪もただ重力に従いゆるゆると漂っていく。
何もかも白い。自分の着ているパジャマでさえも真っ白だった。
視線を落とすと雪の中に微かに残る跡に気が付いた。一度踏み固められた上に雪が積もり輪郭がぼやけているが、人の足跡だ。うっすらとした足跡は家の外周に沿ってどこかへ向かい続いている。それを追い掛け真っ新な雪の上に足を踏み出す。ずぼりと音を立てて埋まった。予想以上に埋まったものだから心臓が跳ねた。そうはいっても泥のようにまとわりついて抜けなくなるような物ではないので、直ぐに次の一歩を踏み出す。手をポケットに押し込もうと太腿を触るが、このパジャマにはポケットが付いていなかった。それもそうかと諦めて、せめてもの気休めにと上着の裾を握る。
薄れた足跡を辿り家の角を曲がると開けた場所に出た。何も無くただどこまでも雪だけの景色。木の一本も見えない。足跡はそんな何も無い方へ続いていて、暫くしたところで途切れていた。しんしんと降る雪の結晶に視界を遮られながらも目を凝らしながら進んでいく。足跡が途切れた辺りに、他と比べて雪が多く積もっている場所があった。
こんもりと白が盛り上がっている。周りには何の跡も無い。人工物ではないのだろう、と思いながら尚も近付く。
雪は横に二メートルほど盛り上がっていた。他がひたすらにまっ平らなだけにとても目立っている。家からの距離にしておよそ五十メートル。ふと盛り上がりの側に影が滲んでいるが見えた。そばというよりもその内側。
馴染みのある白い影が見えて、思わず叫んだ。
「綾時」
駆け寄ろうとするが、雪に足を取られて上手くいかない。もがく様に進み、辿り着くすんでのところでついに転んでしまった。それでも手は届く距離だった。体を伸ばし迷わず雪の山に手を押し込む。さらりとした水気の少ない雪を吹き飛ばすように掻き分ける。暫く無心で掘り進むと雪ではない何かに指先が触れた。
「綾時!」
もう一度呼ぶと、こんもりとした雪の山の中から人影が現れた。その勢いの良さに吹き飛んだ雪の欠片が舞って落ちる。中から現れた綾時は、羽毛布団に包まれて眠っていただけみたいにとても軽く、かるく起き上がった。
綾時の目が開き、青色の瞳が覗く。瞬きを数度し、長い睫毛の上の雪を掃うとこちらを向いた。
真っ白な世界に光る青色は美しかった。
その青が驚いて、ころりと丸い宝石みたいに輝いていた。驚いて揺れるたび雪の粒が零れ落ちてきらきらと朝日に反射した。
「なにしてんの」
呆気に取られた後、我に返りそう尋ねた。
綾時はあはは、と声を立て照れて笑った。なんだか急に気が抜けた。ぱたりと手を重力任せに落とすと、思い出した様に雪の冷たさが染みた。むき出しの指先はいつの間にか赤くなってしまっていた。
「深月くんこそ、そんな薄着で外に出てどうしたの。冷えちゃうよ」
綾時は急に慌てだし辺りを見回すと、少し悩んでから上着を脱いだ。厚手のコートに隠されていた綾時の細い体のラインが現れる。ぼんやり眺めていると「これじゃあ冷たいかもしれないけれど」と言ってふわりと丁寧な動作で脱いだコートを肩にかけられる。暖かくはないけれど、今の今まで雪に埋まっていた割に冷たくもない。
綾時の顔を見たあたりから急速に温度の感覚が戻ってきて、今とても寒いのだ。何故今まで平気な顔をしていられたのか不思議なくらいだ。何せ着ているのはパジャマと長靴だけ。対する綾時は貸してくれたこの白いコートを脱いでも、白色のシャツとそれからマフラーをしている。といっても暖かそうではないが。
コートを脱ぎ、パジャマ姿よりはまし程度の格好になってしまっては今度は綾時が冷えてしまう。掛けられたコートを返そうと考えていると突然手を握られた。白く細く長い指に、すくう様に手を取られ包まれる。
「凄く冷えてるよ、急いで家に戻ろう」
流れる様にもう片方の手も取られ、暖める様に手を擦られる。それからほうっと白い吐息を吹き掛けられた。でも指は芯まで冷え切っていて、それ位では暖かさも何も感じなくなっていた。
それよりも手を握られて、凄く凄く綾時が近くに居ることの方に驚いて仕方がない。
何の言葉も返せず口をぽかりと開けていると、顔を上げた綾時と目が合った。驚いた自分の顔に綾時が驚いた。大きく開いた目でぱちりと瞬きをする、その姿がほんの数十センチの近さにある。
「どうしたの」と問われて小さく首を振る。「じゃあ急ごう。立てる?」
優しくて手を引かれ立ち上がった。二人ともに少しずつ降り積もり始めていた雪を軽く払い、歩き出す。
前を綾時が進み雪を踏み固めてくれるお蔭で、行きよりもずっと楽に歩けた。自分よりも少しだけ大きい足跡の上を辿って進む。
家に辿りつくまでの少しの間、手は握られたままだった。
家に入り降り積もる雪から逃れると、それだけで寒さが和らいだ。服についていた雪の残りを軽く払ってから框を上がる。
足早にリビングへ向かった綾時の後ろ姿をゆっくりと追う。ずっと素足だったせいで足の指先もすっかり冷えていた。スリッパに足を入れても、床を踏む感触が分からない。空中を心許なく進んでいくようだ。足だけと言わず、体全体が余すことなく冷え切っている。コートを被っていた肩と背中と、綾時に掴まれていた右手だけが少し温かい。あんなに雪にも埋もれていた綾時の手は、不思議なことにじんわりと温かかった。
リビングの敷居を越え中に入ると、綾時が寝室から毛布を持ち出してきたところだった。
「そうだ、おはよう深月くん。っていっても今更だけれどね」とはにかまれる。
言葉に続き綾時の手の中で毛布がふわりと舞い、自分の肩に掛けられた。すっぽりと抱きこまれる様に毛布に包まれ、目の前では青い瞳が楽しそうに笑っている。空気が緩く暖まる。そよそよと足元を暖気が撫で、いつの間にか暖房が入れられていたことに気が付いた。
「おはよう」
思い出した様に返事をする。綾時は嬉しそうに頷くと、ぱたぱたとスリッパを鳴らして走って行った。その後ろを山吹色のマフラーが遅れて棚引いていき、キッチンへと消えた。対面式のカウンター越しにごそごそと動く姿が見える。戸棚を開閉する隙間、綾時がこちらを向いた。
「ソファに座っていて」
ひらひらと手を振られ、リビングの真ん中で棒立ちになっていた体を動かす。言われたまま、テレビ正面に置かれたクリーム色のソファに座った。
直ぐ目の前にはテーブルがあり、その上にリモコンが置いてある。とはいえテレビを観るという気分でもない。肩に掛かった毛布の端をかき寄せて、体を包むことに専念した。流石に足先までは毛布が届かずもどかしい。もこもこのスリッパを履いたとはいえ素肌は冷える。それでも暖房が掛かっているので先程よりはずっとましだ。いっそ足もソファの上に乗せ全身まるっと毛布に包まれようか。考えながら体を丸くしていると、コトンと音がしてテーブルの上にマグカップが置かれた。
「朝ごはんはすぐ作るから。少しの間これを飲んで待っていて」
「いや手伝うよ」
世話を焼かれっぱなしでは流石に悪いと思うのだが、綾時は遮るようににこりと笑った。
「軽い物作るだけだから。それに手もかじかんでるでしょ」
それもそうだが。
この動きの鈍い指先では、綾時の邪魔くらいしか出来ないかもしれない。お言葉に甘え、毛布の隙間から手を出してマグカップを掴んだ。
熱々の湯気が揺れ、甘い匂いが漂ってくる。柔らかい茶色をしているこれはココアのようだ。冬の寒いときに飲むココアはどうしてこうも魅力的なのだろう。口を付けながらふと、雪にすっぽり埋まっていた分綾時の方が冷えているはずではないのかと思った。
首をひねり、キッチンに立つ綾時の姿を伺う。外から戻ってきた時のままの白いシャツとマフラー姿に、どこから持ってきたのか黒いエプロンをしている。パジャマに毛布ぐるぐる巻きの自分よりどう見ても寒そうな格好だが、全くそんな素振りもなくテキパキと動き回っている。指がかじかんで動かない、なんてことも無さそうだった。
ココアを舐めながら待っていると、フライパンを熱する音と甘くて香ばしい匂いが漂ってきた。香ばしさをすんと嗅いだ時に、突然忘れかけていた空腹感が襲ってきてお腹が鳴る。
もう暫くすると、トレーを持った綾時がキッチンから出てきた。
木目の綺麗なトレーが目の前に置かれる。青い模様のお皿にフレンチトースト、それから小さなボールに温野菜、スープマグに何かのスープ。それが二組。全く軽い朝食ではない。とても凄く朝食だ。
美味しそうな見た目と匂いにいそいそと毛布から出る。でも向こうにダイニングテーブルがあるのに、こっちのソファで良いのかとちらりと視線を送る。それだけで綾時は察したらしく、笑ってソファの隣りに座った。
「今朝は特別にね」
一人分体重が増え、ソファがより深く沈む。二人座るとぴったりな大きさだった。少し動けば肩が当たる。
「いただきます」とどちらからともなく手を合わせた。
ココアの甘い匂いと打って変わって、塩気の滲む湯気に釣られてスープを飲む。小さく刻まれた野菜はそちらで温野菜になっている物の一部だった。ほうっと息を吐く。銀色のフォークを掴み、食べ易い大きさに切られたフレンチトーストを一欠け口に入れる。もしかして手がかじかんで上手く食器類を掴めなかった場合が想定してあるのだろうか。だとしたら凄い、もう凄いとしか言えない。
もくもくと咀嚼しつつ、となりに座るその凄い人を伺う。
するとどうしてか目が合った。綾時はフォークを握ったままじっとこっちを見ている。綺麗な銀色をしたままのフォークと減っていない食べ物を見るに、いただきますと言った後からずっとそうしていたのかもしれない。
見詰められたままごくりと口の中の物を飲み込んだ。
「美味しい?」
尋ねられて「うん」と頷く。なんの文句もなく美味しい。短時間でちゃっちゃと出てきた朝食とは全く思えない。
寮生活の時はほとんど全くお目に掛かれなかった、温かくて美味しい手作りの朝食。トースターで焼いたパンにジャムを塗っただけの朝食では比較にすらならない。
綾時はホッとしたように笑うと、もう一度いただきますと言って食べ始めた。
肩をくっつけながら、一口サイズの朝食をのんびり咀嚼する朝は穏やかだった。
「深月くんのさ、好きな食べ物って何」
「たべもの?」
「そう。知りたいんだ」
「えー……グラタン?」
「どうして疑問形なの」
「好きな食べ物って言うか、ふと食べたいと思った食べ物というか。まあ好きなんだけど」
「なら今度作るね」
「作れるの、グラタンって」
「勿論」
「じゃあ、楽しみにしてる」
「任せて」
嬉しそうに綾時が笑った。グラタンは家で作れるものなんだと驚きつつ、熱々のグラタンに思いを馳せる。冷めてしまう前にとフレンチトーストの最後の欠片を飲み込んだ。
「そういう綾時は」
「僕の好きな食べ物?」
「そう」
「そうだねー、フレンチトーストかなあ」
答えながらぱくりとフォークをかじると、嬉しそうに目を細めた。
「今食べてるな」
「うん」
今度作ってやるよ、と作れそうな物だったなら約束を返そうと思ったのに、まさか今食べているとは。綾時が皿を空にするのを見守って、また思い出した時に作ればいいかと考える。
「ごちそうさま」と声をそろえた後、テキパキと片付けを始められる。手伝おうと思った時には、綺麗に食器をまとめたトレーを持った綾時の長いマフラーが、ソファを離れていた。
あっと声を出すと綾時が振り返って笑った。口が小さく動いて、待っていて、と言われる。仕方ないので大人しく毛布に包まりなおす。そして未だに自分はパジャマ姿だったことを思い出した。なんだか病人みたいだ。
お腹が満たされ、暖かく緩い眠気が湧きあがり始めた頃に綾時が戻ってきた。色違いのマグカップを二つ持っている。渡された片方の中は甘めのカフェオレだった。
「僕ブラック苦手でね」と綾時が苦笑する。
「甘いのも嫌いじゃないよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
食後のひと時をゆるゆると過ごしながら、ふと窓の外を見れば雪が止んでいた。明るい日差しが射して雪原を照らしている。雪の結晶がちかちかと瞬く。
「そういえば、さっき何してたんだ」
「さっき?」
「雪に埋まってただろ」
どうしたらああやって、丸々雪に埋まれるんだろうか。寝そべっていたら雪が積もってしまったとしか思えない光景だったが、それにしても不思議だ。そんなに長く外に居たのだろうか。
綾時は肩をすくめて苦笑した。
「こんなに雪が積もっているの初めて見たから、ついね」
「つい、で埋まるもんか? 風邪ひいたらどうするんだ」
「平気だよ。それに掘っても掘っても全然土が見えてこなかったんだ。凄いよね、あの雪ってどれだけ積もっているんだろう」
「掘った?」
「うん」
「スコップなんてあったのか」
「ううん。手で」
晴れやかな綾時の顔に思わず力が抜けた。「地面が見えてこなかったのはそのせいじゃないのか」
それにしてもいったいどれ程積もっているんだろうと、気にはなった。
のんびりと過ごしていると、気が付けば日が暮れていた。雪の日の昼間は短い。と言っても今は止んでいるが。
ぽつぽつと話して日中を過ごし、さっぱりとした夕食を食べ、綾時に一番風呂を譲り、自分が風呂を上がった頃にはもう真っ暗になっていた。窓の外に明かりらしい明かりは見えない。空には少しばかり星が出ていて、その微かな光が雪に反射しているくらいだ。
風呂上りのぽかぽかをまといながらリビングに顔を出す。部屋はとても静かだった。音を発生させるものは無く、雪の日の静寂にしっとりと包まれている。
部屋の中に綾時の姿が見当たらない。先に寝たのだろうかと考えながら、部屋の中ほどまで進むとソファに寝そべる影が見えた。綾時が肘置きに頭を乗せて器用に丸くなっていた。
「綾時、風邪ひくぞ」
眠る肩を軽く叩きながら、こういうのも本日二度目だなと思う。もしかして風邪を引きたいのだろうか。そんな物好きな。
ううんと唸ると綾時が目を開けた。のそりと起き上がるとへらりと笑う。
「ああ、おかえり」
「……ただいま?」
風呂上りの挨拶ってこうだっけ、と若干疑問に思って首をひねる。
綾時はソファに背を預けたものの、目がとろりと垂れ下がっている。緩慢な瞼の動きと相まって、今にも寝そうに見えた。
「もう寝るか」
「うーん」
「ほら、寝るならベッド行け」
「そうだよねえ」
言うそばから船を漕ぎ始めるので、半ば強制的にソファから立ち上がらせる。「歩きながら寝るなよ」と言えば眉間にぐいと力を入れて「起きる、起きる」と念仏のように唱え始めた。「よし」と手を打って目を開けた綾時の背中を押して寝室へ入る。
綾時を寝かしたあとリビングに戻ろうかとも思ったが、一人になってはこれといってしたいこともない。一人でぼんやりするくらいなら、一緒に寝てしまったほうが良い。ぱちりとリビングの照明を落とした。
「電気消すぞ」と声をかけ寝室も暗くする。
電気を切っても真っ暗にはならず、枕元にある小さな照明が一つぼんやりと光っていた。その明かりを頼りにベッドに潜り込む。空色のカバーの掛かった、寝室の入り口からすると手前側のベッド。
「ねえ深月くん」
さて寝ようかというところで声を掛けられた。やけに高い位置から声がするな、と見れば綾時はまだベッドに入っていなかった。お互いのベッドの間にぽつんと立ってこっちを見ている。
「一緒に寝ちゃダメかな」
「いっしょ?」
暫し考える。それはつまり、同じベッドに寝るということか。折角個々のベッドがあるのになにゆえに。とちょっぴり困っていると、それが顔に出ていたらしい。綾時が悲しそうに眉を下げていた。
窓の外ではまた雪がちらつき始めていた。これでは冷えてしまう、と毛布に包まれた体をベッドの端に移動させる。
「分かった」と空けた場所を叩くと、途端に綾時の顔が明るくなった。分かりやすいにも程がある。
「お邪魔します」
礼儀正しく頭を下げると、いそいそと潜り込んでくる。幸いベッドは広く、二人寝そべっても狭くはない。お互い仰向けになると少しだけ肩が触れる、ソファと同じくらいの距離感。つまり、居心地はそう悪くない。
「僕ね、こうして一緒に寝てみたかったんだ」
そうやって無邪気に笑われると胸がきゅんとした。きゅんなんて感覚がこの胸にあったことに驚きながら、どことなく懐かしい気持ちに包まれて、無性に綾時の頭を撫でたくなった。
「それにね、君としてみたいこととか、話したいこととかまだまだ沢山あるんだ」
「うん」
「明日も沢山話そうね」
「……うん」
綾時が青色の瞳を瞼の内側に隠したのを見計らって、そっと手を伸ばして頭に触れてみた。黒い髪の表面を撫でる。思ったよりも柔らかで、つるりとしていた。
「なんだか子供になったみたい」
綾時は目を閉じたままくすぐったそうに笑って、切なそうに呟いた。
2
部屋の中にまだ香しい匂いが残っている様な気がした。すんと鼻を鳴らす。匂いが本当に残っているのかもしれないし、美味しかった記憶が脳内から溢れ出ているだけかもしれない。
今日の昼食にと綾時が作ってくれたグラタンはそれはもう実に美味だった。
ホワイトソースは滑らかで、表面はパリッと香ばしく、マカロニは程よい硬さだった。非の打ちどころがない。グラタンの類は難易度の高い料理だと思っていたのだが、実に見事なものだった。思い切り胃袋を掴まれた感がある。これだけスペックを盛りに盛れば、そりゃ女子だってごろごろごとごと落ちるのも分かる。
しかし綾時がいったいどこでそんな技術を身に付けてきたのか甚だ疑問だ。自分の料理スキルを思い起こしても、まあフレンチトーストくらいなら焦がさずに作れるだろう、と言ったところだ。グラタンを食べようと思い立ったら外食をするか、冷凍食品コーナーに向かうかの二択しかない。元々これくらいなら自分で作ろう、の基準はとても狭い。食べに行った方が早い。もしくは作ってもらった方が早い。寮生活の時に綾時が居てくれたのなら、どんなに食生活が充実していただろう。
そのシェフ望月は現在も台所にいる。
台所からは途切れず水音と、陶器の立てる音が聞こえてくる。洗い物をしているのだ。ご飯を作ってもらったのだから洗い物は自分がする、と言ったのにやらせてくれなかった。水で手が冷えるだの、お湯を出せばいいだのという全く身の無い問答を繰り返した末、洗い物をする権利を取られてしまった。奪い合う程のものでもないのだが、なんとも腑に落ちない。
流石に何から何まで任せっぱなしでは悪い。手始めに晩ご飯でも作ろうかと、献立に思いを馳せながら壁を埋める本棚を覗き込む。料理本でもあれば参考にしたいところだ。
本棚には上から下までぎっしりと中身が詰まっていた。分厚いハードカバーの小説から、ぺらぺらな文庫本、写真集、エッセイなどなどまとまりがない。どれも見たことがあるようなないような、読んだことがあるような、ないような。
まじまじ見詰めていると、目の高さのところに教科書が混じってた。混じるとしか言えないほどの違和感。古文、現代社会、数学Ⅱ。他の本がインテリアとしての役割も担う中、教科書だけが異質で浮いている。どれもこれも見慣れた高校二年で使う教科書だ。
その直ぐ横に目を滑らせると、今度はCDが並んでいた。こちらはCD用に棚の高さが調整されていて、ここに収まっていることが正しいと分かる。それでも教科書の後に目にすると「何でも詰め込んだんだな」という気がしてしまう。
CDは良く知ったラインナップだった。どれも持っているし、普段から音楽プレイヤーに入れて聴いているものばかりだ。そういえば今はヘッドフォンも何も首から下げていない。どこに置いたのだったか。まあここでは使うこともないけれど。
「僕勉強苦手だったんだよね」
気がつくと直ぐ側に綾時が立っていた。驚いて顔を上げると、不思議そうに首を傾げられる。綾時の指が棚から数学の教科書を引っ張り出した。ぱらぱらと中を捲り、適当なページを広げて中を覗き込むと顔を困らせた。
「問題文とか見ても全然ピンと来なくてね。数学用語って聞いても想像がつかない言葉が多いでしょ」
「そうか?」
「問題文だってどう考えても日本語じゃないよ。もうさっぱり」
そう言われるとそんな気もする。気にしたことは無かったが、この一文を現代語訳しろだの、この地形の名前を答えよだのに比べたら日本語っぽくはないかもしれない。
「でも数学以外なら得意かって言うと、そうでもないんだけれどね。君は勉強得意だったね」
「程々に」具体的に言うならばテストで学年の上位十名に入るほどだ。
「良かったら教えてくれないかな」
「なにを」
「勉強。教科はどれでも良いんだ」
今綾時が言ったことを頭の中で反芻する。
その間青い瞳とまじまじと見詰めあってしまった。じいっと見るとはにかまれた。はにかむだけで人の気持ちをほわりとさせるのは才能だと思った。
「勉強したいのか」
「そんなに変かな。折角だし、って思ったんだけど」
勉強は折角だからでしたくなるものだったのか、と思わず感動する。順平が居たならば聞かせてやりたい。追い詰められて嫌々勉強すると見せかけてあまりしない順平に。
「だめ?」と眉をハの字に下げられては断ることも出来ず、元々断る理由もさしてないので首を縦に振った。それだけで嬉しそうに微笑まれて、気温が一度上昇したような気がするなら安いものだ。
「教科どれでも良いって言ったけど、特にないのか」
「出来れば色々見て貰いたいけど、折角だしこれにしようかな」と綾時は持っていた数学の教科書を掲げた。
「分かった」と頷いて答える
「ところで君はここで何を見ていたの。探し物の途中だった?」
そう訊かれて、そういえば料理の本が無いか探していたことを思い出した。けれど素直に「晩ご飯は俺が作ろうと思って、綾時の好きそうな食べ物が載ってる料理本を探していた」というのは躊躇われた。ので目の前にあった物を指差した。
「CDも置いてあるんだなって思って」
「そうだね。この棚ってなんでも詰め込まれてる。君って音楽好きだったよね。この中に好みの物は」
「ここにあるのは全部好きだよ」
「そうなんだ。結構ジャンルばらばらに見えるけれど」
「こだわりないから。気になったら何でも聴いてる」
なるほどね、と綾時は数学の教科書を抱えたままうんうんと頷いた。
「じゃあさ、CDかけながら勉強ってどうかな。僕も君の好きな音楽聴いてみたいし」
「いいけど、CDかける物は」
「ちょっと待ってね、探してくるよ」
わざわざ探さなくても、と思ったが綾時はあっという間に部屋から出て行った。どこに探しに行ったんだろうか。そしてどうしてリビングにCDがあるのに音楽再生機器が無いのか。
綾時の戻りを待つ間に勉強用の筆記用具を探した。リビングにある棚という棚、引き出しを覗き込んでノートとペンをなんとか見つけ出した。それをテーブルに並べる。
頭の中で曲を再生しながら、勉強中に流すならどのCDが良いだろうかと見繕っていると、綾時が戻ってきた。凄く久し振りに目にしたような気がする懐かしいCDラジカセを抱えている。青くて丸っこい形をしていた。それをテーブルの隅に置き、わくわくと目を輝かせる綾時に急かされてCDを入れる。
「コンセントは」と問えば「乾電池式だよ」と言われる。しみじみと懐かしい。
再生ボタンを押し、流れ出したクラシックに耳を傾けながらソファに二人で並ぶ。ノートを開いてシャーペンの芯を押し出した。
「どのへんまで分かる?」と数学の教科書を綾時に渡し捲らせる。
少し考えた後に「全く」と真顔で答えられた。
全曲流し終えたCDを別のものに入れ替える頃には、外は雪になっていた。今朝起きた時からずっと晴れていたのに、ここは天気が代わり易い。直ぐに降り出すし、気付けば止んでいる。山の天気は、というがここは山っぽくなければ木すらない。
教科書を読み進めながら例題を解かせ、分からないところを質問されているのだが、中々難しいらしい。綾時は頬杖をついてううんと唸り、シャーペンの芯がノートの上に黒い点を作っている。
「分かんない」と言った拍子に芯がパキリと折れて飛んだ。
「休憩するか」
「うーん、もうちょっと」
「甘い物でも食べたら頭冴えるかもよ」
「なら、ちょっとだけ」
言うや否や綾時が机の上に伏した。両手を投げ出した姿は、机に貼りついてしまったみたいに見えた。頭をぽんぽんと撫でて立ち上がる。ココアでも淹れようかとキッチンを目指す。
「冷蔵庫にプリン入ってるよー」
後ろからそう気だるげな声が飛んできた。
聞いた通り冷蔵庫を開けると、中段に白い容器が二つ入っていた。なんて出来る奴だ。手作りプリンだという感動と、いつ作ったんだろうという疑問に震えながら取り出す。朝起きた時には朝食が出来ていたから、その時だろうか。いったい何時に起きていたのか。
プリンがあるならココアはやめ、紅茶を淹れた。戸棚に入っていたティーパックを拝借する。どうも台所は綾時の領分なところがあって、勝手に物を使うのが躊躇われる。だが二人しかいないのに遠慮してどうするとも思うので、堂々と使うことにした。
紅茶とプリンを持って戻ると、綾時が飛び起きた。
「休憩は大事だね」と掌を返した発言を残してスプーンを握った。
プリンは滑らかで甘さも控え目で美味しかった。もうずっと美味しいとしか思っていないような気がする。でも美味しい。きちんと底にカラメルが入れられているあたりも抜かりない。これまた文句のつけようがない。
「今日はこの後ずっと雪かな」
舌鼓を打っていると、綾時は窓の外を見ていた。雪は静かに確かに降り続いている。
「さっき降り出したところだから、そうかもな」
「じゃあ外には出られないね」
「そうだな」
出る用事も無いので困りはしないが。
ぺろりとプリンの容器を空にして、熱い紅茶に口を付ける。寒い時の熱い飲み物は至福だ。爽やかな香りのする湯気が揺れる。ほっと暖まった息を吐きだす。
「どうかしたのか」
隣りでそわそわした空気を出している綾時に向けて尋ねる。目を見ると、何やらもじもじとしていた。思わずトイレか、と聞きたくなるが絶対に違うので黙っておく。
「あのさ、明日晴れたら外で遊ばない?」
「いいけど」
「いいの?」
そんなことかとあっさり承諾したことが、綾時には驚きだったらしい。目を丸くしながらまだそわそわしている。
「雪遊びしたいんだろ」
「うん、でも良く分かったね」
「外に雪しかないのに他に何するんだ。明日までに雪でなにするか考えとけよ」
にまりと笑ってみせると、やっと表情が明るくなった。遊びに誘うだけでどうしてそんなに不安そうにするんだか。女の子をデートに誘う時はあんなにぺらぺら饒舌だったくせに。
「そうだなー、雪合戦もしてみたいけれど二人だと難しいよね。雪だるまも作りたいし、かまくらも作ってみたいし」
嬉々として指折り数え始めると、外が明るくなってきた。窓を通過する雪の粒が少なくなって、やがて無くなる。
「止んだけど、どうする」
窓の外を指差して笑うと、綾時が机の上の教科書見比べて慌てた。
「あ、明日にする!」
3
クローゼットの中を覗き込めば、洋服がぎゅうぎゅうと詰まっている。
中を掻き分け、一番あったかそうなコートを探す。紺色のダッフルコートにしよう。フードがついているというだけで、他の物より温かそうに見えるので不思議だ。着てみると心なしか袖が長い様な気がしたが、ほんの僅かなので気付かなかったことにする。
それからマフラーと手袋、あと厚手の靴下もあったほうがいいなと思って、それらを全て引っ張り出し身に着ける。欲を言えば貼るホッカイロがあれば完璧なのだが、流石にそこまでは見付からなかった。
鏡を覗き込むと全身もこもこで、とても重装備な自分の姿が目に入る。ここまで来たらニットの帽子も被るべきかと考えるがやめておく。まあこれだけ着込めばそれなりに持つだろう、と外へ急ぐ。
綾時はもう随分前に外へ飛び出て行ってしまっている。何せ朝に目を覚ました時には既にほぼ準備万端だった。朝食をとり、歯を磨くと一目散に出て行った。勿論きっちり「僕は先に行くけれど、急いで支度をしなくても良いからね」と言い残してだ。
長靴を履き、玄関から出る。
雪の代わりに穏やかな日差しが降り注いでいた。雪は昨日の昼ごろに止んだきり降っていない。空一面が青色で、全くもっていい天気だ。
それでも雪が一昼夜で溶けるわけもなく、見事に積もったままだ。溶けてしまっていたら雪遊びをしようといった綾時が落ち込むだろうから、それはいいのだけれど。
玄関先から外に向けて、まっさらな雪の上を一つの足跡が走っている。勢いよく駆け抜けたのだろうと分かるくらい間隔の広い足跡が外壁を伝い、遠くまで伸びていた。流石にこの足跡の上を歩くことは難しいので、新雪を踏み潰して進む。ぎゅっという独特の音と感触が足裏に伝わってくる。長靴越しに雪の冷たさが滲む。
雪を踏み鳴らしながら足跡を辿り、家の角を曲がると倒れている綾時の姿が見えた。
仰向けで倒れて目を閉じている。前に埋まっていた前科があるので慌てて駆け寄る。放っておいたらまた埋まってどこかへ消えてしまいそうな気がした。
そんな心配をよそに、音に気が付いた綾時はあっさりと目を開けた。そしてむくりと起き上がると振り返り、雪が人型にへこんでいるのを見て満足そうに笑った。
「一回やってみたかったんだ」
その笑顔のあまりの輝きっぷりに、呆れてため息が出た。
「寒くないのか」
「全く。むしろ少し動いてぽかぽかしてきたところだったんだ。いい感じに冷えたよ」
「それは何よりだ」
「君もやってみたら。思い切り倒れても痛くないし面白いよ」
「遠慮する」
「そう言わずにさ」
ふわりと微笑まれ、手を取られた。
流れる様な動作にうっかり感心していると、勢いよく手を引かれた。急なことで体勢が崩れ、綾時の胸に倒れ込む形になる。足場も悪かったのだと言い訳じみたことを考えていると、綾時のもう片手が腰に回されするりと動きを誘導される。ボールルームダンスの中にこんな動きがあったような気がする。ターンを促されるような動作に導かれる。
結果から言えば、雪の上に優雅に投げ飛ばされただけなのだが。
ぱっと手を離され、背中から雪の上に倒れこむ。なす術もなく、綾時の青い瞳が嬉しそうに細まるのを見ながら雪に埋まった。言うとおり全く痛くは無かったが、倒れた拍子に舞った雪が顔に降りかかってきて冷たい。すっぽりと埋まる感触は悪くないにしても、それよりなにより兎に角冷たい。
飛び起きると「ね、面白いでしょ」と無邪気に言われて返答に詰まる。振り返れば大の字型に綺麗に雪がへこんでいてなかなか滑稽だった。
「それで、何して遊ぶんだ」
まさかこれがしたかっただけなんて事は無いだろう。綾時はそうだったと笑った。
「凄く悩んだんだけど、今日はかまくらが作ってみたいんだ。出来上がったら中でお餅焼いたりできるんでしょ」
「うん?」
そんなに立派な物が出来るんだろうかという疑問と、餅なんてあるのかという疑問で頷きながら首を傾げた。時間だけはあるから、かまくら自体は作ろうと思えばできるのかもしれないが。
「必要そうな道具も揃えておいたよ」
ほら、と綾時が指差した先を見る。バケツやスコップが家の外壁に立て掛ける様に置かれている。必要そうな、と言っただけある。必要になるのかどうなのか、使い道の分からない道具もあった。少なくともパイロンは要らないと思う。
「ねぇ深月くん」
突然今までの自信にあふれた声から一転、悲しそうな声で呼ばれた。振り向くと綾時がもじもじと、悲しいというよりは恥ずかしそうにマフラーに顔を半分埋めながらこっちを伺い見てくる。
なんだ、と思わず身構える。「どうかした」と努めて優しく問い掛けると、綾時がおずおずと口を開いた。
「僕から言い出しておいて恥ずかしいんだけれど、かまくらってどうやって作るの」
雪国生まれでもない自分の、うろ覚えな知識だけを頼りにかまくら作りは進んだ。
といってもひたすら雪を集めて高く積んでは固めるだけだ。そうは言ってもこれがまた重労働だ。見渡す限り白銀の世界で、汚れていない雪を集めることには苦労しない。好きなだけすくえるし、すくってもすくっても土は見えてこない。土の茶色に汚れることがないので、長靴で歩き回っても雪はずっと白いままだ。汚れなんて何もない。もしかしてこの雪の下に土なんてないのかもしれない。
雪を確保することには困らなかったが、ふわふわで柔らかくて軽そうに見える雪でも集めれば重い。それが何より厄介で、少しずつ疲労が溜まってくる。疲れ知らずに走り回っている綾時が羨ましいほどだ。雪にはしゃいでいる姿は、見ているだけなら微笑ましい。
それにこれだけ動いても、外から冷やされる方が勝って体が温まらない。長靴と厚手の靴下に守られているとはいえ、雪に常時埋もれている足の指先から真っ先に感覚が消えた。もう足首から向こうがどんな形をしていたかもあやふやに思える。本当に足の指が五本もついているんだろうか。ちょっと不安だ。
「ねえ、高さってどれくらい?」
雪の山をスコップで叩いて固めていた綾時が振り返った。目が雪の結晶に負けず劣らずきらきらしている。目から光の粒があふれて風に乗って飛んできそうだ。
「綾時が入れるくらい」
「えっ、どれくらい」
「かがんだぐらいでい」いんじゃないか、と言おうと思ったのだが言葉の前にくしゃみが出た。
へっくしゅんとくしゃみをすると肩が震えて、一段と寒くなったような気がした。幸い鼻水が垂れてくるようなことは無かったが、綾時が目を丸くしていた。そんなにくしゃみをしたのがおかしかっただろうか。誤化す様に「寒い」と呟く。
すると額に冷たい物が落ちてきた。あんなに天気が良かったのに、いつの間にか空は曇っていた。ほんのりと暗くなり、雪まで降ってくる。
「寒いの? 大丈夫、風邪引いちゃわない?」
スコップを放り投げて綾時が駆け寄ってきた。大袈裟だなと思うが綾時は酷く慌てていた。
「寒くない訳ないよね、雪だもんね。どうしよう僕気付かなくて」
「いやそんな慌てる程じゃ」
「だってくしゃみしてたし。風邪だったらどうしよう」
「平気だって。ちょっと冷えただけ」
「でも冷えちゃってるじゃない。雪も降りだしたし、家に戻ろう」
「まだかまくら途中だし」
「君が風邪ひくよりいいよ。それにかまくらはまた今度作ればいいし」
ね、と手を引かれる。
過保護だと思うが、降る雪の量がゆっくりと増えてきていた。ここで帰る方が賢明なのかもしれない。せめて道具を片付けてから戻ろうと提案するも「誰の迷惑になる訳でもないし平気だよ」と言われる。それもそうだ。
家の中は暖かかった。暖房が点けっぱなしになっている。
雪に濡れてしまった服を玄関で脱いだ。マフラーにコート、それから靴下。素足でフローリングに触れるも感触は全く無い。触れているのかも分からない。
コートを脱ぐときにも指先がかじかんで上手くいかなかった。結果、半分ほどは綾時に脱がせてもらうことになった。同じように外に居たのに、どうして綾時はそんなにも元気なんだろう。
「さ、お風呂に入って暖まっておいでよ」
「綾時先に入れば。そろそろ昼だし、昼飯作って待ってるから」
いっつも作ってもらっては悪いのに、台所に立とうとするとさっと退かされてしまう。綾時を風呂に入れてしまえばその間に作れる、と考えたのだがそう上手くはいかなそうだ。綾時の顔が分かりやすく「不満です」という色になる。
「手がかじかんでコートも脱げない人が何を言っているの」
「温めれば平気だし」
「だったら君が先にお風呂に入った方が効率的だと思うよ。僕はかじかんでないから」
「だっていつも綾時ばっか料理してるだろ。たまには俺が作る」
「僕は好きで作ってるんだからいいの」
押しの弱そうな顔をしているのに綾時は意外と頑固だった。まだリビングにすら入っていないというのにこの押し問答っぷり。そのうちに暖房の風に暖められて寒さを忘れるんじゃないか。
緩く睨みあっていると、突如綾時が閃いたように顔を明るくした。
「一緒に入ろうか」
「なにが」と思わず聞き返すが、すぐに思い当たった。
案の定「お風呂」と爽やかに答えられる。
「一緒にお風呂に入って、それから一緒にお昼ご飯を作れば、僕の意見と君の意見の折衷案にならないかい」
「……まあなる、ような気がするけど。でも二人で入ったら狭いだろ」
「平気平気。僕たち華奢な方だし」
綾時はにこにこと笑った。
華奢とは失敬な。これでも鍛えている方なので、少なくとも綾時に比べたら間違いなくがっしりしているはずだ。そうはいっても見た目で分かる程ごつくなるタイプではないので、細いと言われれば細いが。
なんだか腑に落ちない。でも綾時はにこにこずんずん浴室へ向かっていってしまう。そんなに拘るようなことでもないかと、頭を切り替えて後を追う。
脱衣所に入り服を脱ごうとしたのだが、今度はボタンが外せなかった。コートすら脱げないのだ、より小さいシャツのボタンなんて外せるわけがなかった。
「貸してごらん」
もたもたしていると、あっという間に全裸になっていた綾時に襟を軽く引かれた。細くて白い指に摘ままれて、ボタンが外されていく。
ボタンを見詰めて視線を下げた綾時の顔が直ぐ目の前にあって、睫毛の一本一本どころか瞳の中を走る虹彩の輝きさえも見える。それがやっぱり不思議で、じっと見詰めていると下から金属の擦れる音がした。ベルトを外されて、綾時の手がシャツとの隙間に潜り込んできたところで慌てて制した。
流石に下着くらい自分で脱げる。
冷え切った体にお湯は熱かった。
手や足の末端は特に。熱いを通り越し痛いくらいだ。桶にすくったお湯に浸け少しずつ慣らしていく。
熱い熱いと呻く傍ら、綾時はあっさり浴槽に収まっていた。特に熱いとかいう顔もせず、浴槽の縁に腕を乗せこっちを見ている。
「さすろうか」と声を掛けられ、丁重にお断りした。
少し温まってきたところで湯船につかる。まだ少し熱いが直ぐ慣れるだろう。
寒いときに入るお風呂というのは、どうしてこうも幸せな気持ちになるのだろうか。肩までどっぷりと浸かるとほわりとした溜息が漏れる。
二人で入ると窮屈かと思ったが、思いの外狭くはなかった。ゆったりと足を伸ばせるほどでもないが、軽く足を曲げればぶつからない程度で窮屈さは無い。肩を並べぬくぬくと浸かる。お湯は乳白色をしていた。綾時がいつの間にか入浴剤でも入れたのだろう。
「あったかいねえ」と呟く綾時に同意しながら、ぼんやりと瞬きをする。濡れて貼りつく前髪が邪魔になって、後ろに梳いた。
末端の冷えもきっちり温まり、お湯の熱さが馴染んで丁度良くなってくる。浴室の中は独特の静けさで、時折水面の揺れる音がするだけだ。
一人でのんびり静かに浸かることが好きなので、大浴場だとか他の人と一緒に入る風呂はあまり得意ではない。でもなんとなく、今のこの空気は嫌いではなかった。
望月綾時という人は、何処からともなく言葉が沢山湧いてきては、それが口から余すことなく零れ出て、その言葉で次から次へと女の子に声を掛けていく、騒がしいタイプだと思っていた。それが静かに湯船でうとうとしている姿は少し不思議で、妙にしっくりきた。懐かしい様な気もする。吸い込む呼吸の一部の様に染みて馴染んだ。
「……りょーじ」
凄くうとうとしているけれど、もしかして寝ているのではなかろうか。心配になって小さく名前を呼んでみると、ぴくりと反応して目を開けた。湯気に滲んだ青色がとろりとしている。
「寝るなよ、危ないから」
「うーん」
眠たそうに瞬きを繰り返し、湯船につかったまま身を乗り出すと蛇口をひねって顔を洗った。「冷たいー」と呻き声がする。
「温かくて気持ちよくって……ついね」と少し目が覚めたらしい綾時がはにかんだ。水気を含んだ前髪が額に貼りついていた。濡れたせいで前に降りてきたようだ。いつも全て後ろに撫でているから、それが凄く新鮮に見える。
「綾時って、髪を下ろすと印象変わるよな」
「そう?」
「ちょっと幼くなる」
「そういう君も、お風呂に入ると前髪が邪魔になるんだね。かき上げて後ろに流してると雰囲気変わるよ」
「そう?」
「うん。両目が出てると印象的になるね」
まじまじと見詰められながらそう言われると、何とも言えなく恥ずかしい気持ちになる。
お世辞でもなく本気で言っているというのが、ありありと分かるものだから余計にだ。綾時に話し掛けられて、ころりころりと落ちていく女の子達の気持ちが何となく分かった気がした。
すっかり温まって風呂を出ると正午を少し回っていた。ついつい長風呂してしまったらしい。まだ昼間なので、一応ちゃんと服を着こむ。流石にこの後の半日以上をパジャマで過ごすのは憚られた。この前似たようなことをしたところだけれど。
ニットのカーディンガンのボタンをするすると止め、タオルで髪を拭く。水気が取れさえすればいいという雑な拭き方だ。こんなものかというところで手を止めると、まだ髪から水を滴らせたままの綾時にじいっと見られていた。
まさかまだ眠くてぼんやりしているのかと、タオルを手に取り綾時の頭にかぶせる。早く拭かないとどんどん水が垂れて服が濡れるし、最悪風邪をひくかもしれない。
自分よりも少し高い位置にある頭をがしがしと拭く。その間も綾時は大人しくされるがままになっている。
「ねえ深月くん」
そんなに眠いのだろうかと思っていたのに、存外しっかりとした声色で呼ばれた。
タオルと頭から手を離すと、綾時はぼさぼさになっていた髪の毛を手で梳いて軽く後ろへ流した。それだけでいつもの見慣れた姿になる。
「君の髪を僕に乾かせてくれないかな」
「なんで」
「……だめかな」
その言い方はずるい。人の髪を乾かしてなにが楽しいのかと尋ねたのに、小首を傾げて悲しそうな目をおずおずと向けてくるあたりもとてもずるい。意味もなく断ったらこちらが罪悪感を覚えそうだ。なんでとは聞いたが、嫌な訳ではない。
「いいよ」と言うと嬉しそうに笑われた。
洗面台の近くにあったスツールを寄せ、そこに座る。綾時はドライヤーをコンセントに繋ぐと、後ろに立った。スイッチを入れる音がし、温風の吹き出す音と空気の揺れが聞こえてくる。
髪を人に乾かしてもらうなんて、いったいいつ振りだろう。少なくとも記憶がはっきりしているうちには無い。
ずっと小さいこどもの頃、それこそ両親の生きている頃が最後かもしれない。こうして触れるくらい直ぐそばに誰かがずっと居ることすら凄く、凄く久し振りなのだと思う。
ドライヤーの電源が入っている音がするのに、いっこうに温風が頭に当たらない。洗面台の鏡に映った綾時の姿を見ると、凄く難しい顔をしてこちらの頭の天辺を睨んでいた。意を決したように手を伸ばし、後頭部の髪を触る。それも指先でほんの少しだけ。恐る恐ると言ったふうに髪を指の腹ですくった。それからやっとドライヤーの風が当てられる。首筋を温かい風が撫でる。
綾時はずっと真剣な顔をしていて、髪にはほんの少ししか触れない。触ったところから溶けて崩れて消える雪の山か何かだと思っているのかという程ぎこちない手付きだった。
「平気だって」
声を掛けると、驚いた綾時と鏡越しに目が合った。「髪くらいもっと雑に扱っても大丈夫だから」
綾時は苦笑して頷くと、掌全体で頭を撫でる様に髪に触れた。そうやって触れられて、意外と綾時の手が大きいことに気が付いた。
「電気消すぞ」と声を掛けて一日が終わる。
はーいという眠たげな返事を待ってスイッチを切る。入れ替わりに綾時が枕元のランプを付けた。真っ暗だと寝られないと言うのだ。むしろ夜目が利きそうな気さえするのに、おかしなことだ。自分は明かりをつけて寝る習慣が無かったものだから、初めは明るいことに違和感があったが、意外と直ぐ慣れた。
ベッドに入ると、同じように綾時も潜り込んでくる。これもすっかりいつもの光景になった。部屋に入れると癖になるからやめるように、と言われていたコロマルのことを思い出さないでもない。
一度良いよと言ったら次の断り方が分からなかったし、やっぱりこれといって断る理由もなかった。綾時のお願いに無理難題はなくかわいげがあるものが多くて、それくらいならと頷いていくと大体全てになる。
眠るときもそうだ。綾時はいつも丸まって大人しく眠る。寝相が酷くて蹴り飛ばされるとか、布団を奪い取られて寒いとか、寝言が煩いとかそういうことも無い。寝ている時にちょっと暖かったり、起きた時に目の前に人の姿があってちょっとびっくりしたりと、それくらいだ。嫌な事はなにもない。
小さな明かりをつけて寝ることと同じように、誰かと同じ毛布に包まって寝ることにもすっかり慣れた。
今日も眠くなるのが早い綾時と一緒にベッドに寝そべって、目を閉じて一日がお終い。
さて寝転がろうか、というところで肩を突かれた。振り向くと頬にキスをされた。一緒に寝るのはもう何度目かだが、これは初めてだ。驚いて触れられた頬を手で覆う。
「おやすみの時にはキスするんでしょ」
綾時は形のいい唇できれいな弧を描き、優しく目を細めて微笑んだ。おやすみのキスなんて間違いなく今初めてされた。なのに綾時の仕草がとても自然で、まるで毎日の習慣だったかのようだ。
突然おやすみのキスなんて言い出したのは、どう考えても先程まで見ていた映画のせいだろう。
壁一面の棚の中には小説や教科書にCDでは飽き足らず、映画のDVDも沢山入っていた。その中から気になる映画を選んでは観て今日の午後を過ごした。
ソファに並んで座って、綾時がたまにつまめるものを台所から持ってくる。映画はホラーにアクションにSFにとジャンルはばらばらだったが、綾時の心を掴んだのは最後に見たホームドラマだったようだ。
おやすみのキスなんてくすぐったくて恥ずかしいものでも、綾時がすると当たり前のように感じるし様になっていた。
「おやすみ」
まぶしさに中てられて少しばかり疲れを感じつつ、言葉を返して毛布を捲った。のだが無言と期待のこもった眼差しに晒されて毛布にもぐれない。
きらきら輝く星屑が零れて飛んでくるような視線を向けながら、綾時はどことなく頬を突き出している。その顔はすごく嬉しそうで楽しそうだ。早く早くと全身から溢れ出る空気が伝えてくる。
これを無視して背中を向けて眠ったらどうなるのだろうか。待って待ってと肩をゆすって起こされるのか、諦めてそのまま綾時も眠るのか。どちらにせよ眉がハの字に下がっている姿は想像に難くない。
むむ、と決意を固めようとしてもそんなことをしたことがない。勿論されたのだってさっきが初めてだ。いったいどうしろと、そしてどうすれば。
腕が触るほどに近付いて、さてここからどうしたものかと考え綾時の肩に手を置く。そこに少し重みを掛ける様にして近付いて、頬に唇を寄せた。
ほんの少し触れてから「おやすみ」と言うと今度は「おやすみなさい」と軽やかな返事があった。
4
朝食を食べた後の皿を綺麗に洗い終え、水を止める。雪に埋もれたここでも、蛇口から温水が出るおかげで苦もなく洗い物が出来るのは有難いことだ。
食器乾燥機のスイッチを入れリビングに戻ると、綾時が窓にくっ付いていた。窓枠に頬杖をついて外を見ている。吐き出した吐息で時折ガラスが曇る。そばに寄り、綾時の目線の先を追いかけて眺めた。まじまじと見詰めるも、これといって何かが見える訳ではなかった。
外はずっと雪景色だけれど天気は良い。このところずっと晴れていて、日差しが絶えず降り注いでいる。そのおかげか積もっている雪の量が減った気がする。初めはもっと寒々しい場所だったはずなのに、今では暖かくて穏やかに感じる。
「何か見える?」
綾時が何を熱心に見ているのか結局分からず、素直に尋ねた。自分の目では、見れども見れども何も見えない。着眼点が違うのかもしれない。
「いい天気だなって思って」
「それだけ?」
「うん」
頻繁に雪が降ったり止んだりするここでは、確かに長く晴れ間が見えるのは珍しくて嬉しいことかもしれない。そうは言っても、外の晴れ間を見ているだけで嬉しそうにできるのは才能だ。元々綾時は何を見ても何をしても大体楽しそうにするし、そこが良いところだ。
でも本当はそうではないことに気付いているけれど。
天気がいいから嬉しい訳じゃない。綾時が嬉しいから天気がいいのだ。
「雪が減った様な気がするでしょう」
「確かに、もっと積もってた気がする」
「ね。このまま晴れの日が続いて、雪が無くなったら春になるのなか」
窓の外はもうずっと晴れている。暖かくて穏やかでいい天気だ。綾時の言う春の事を考える。雪の下から土が覗いて、草が芽生えて、白いだけだったこの場所に色が着く。
暫しゆっくりと考えてから綾時の顔を見つめた。日差しを取り込んだ青い瞳が輝いている。見られていることに気が付いた綾時が顔を上げた。どうしたの、と言う様に首を傾げられ言葉を促される。
「綾時はいつまでここに居たい」
「変なことを聞くね。どうかしたのかい」
はぐらかす綾時に対し、答えてと眼差しで訴えかける。少し考えるように俯いた後、綾時は視線を遠くへ投げて微笑んだ。
「いつまでも」
綾時は確かに、確かにそう答えた。
静かに穏やかに夢見心地に。
一度深呼吸をする。冬の冷えた空気を吸い込んで、唇の隙間から少しこぼす。雪ばかりのここは寒い。たとえ外がどんなに眩しくて暖かそうに輝いていても。
「大晦日の約束をしたのに?」
自分も確かにそう問いかけた。
2章
1
窓の外はみるみる曇っていった。
重々しく黒い雪雲が空の端から湧き出ては、青空をもくもくと飲み込んでいく。光は遮られ昼間とは思えない暗さになる。今にも世界が終わってしまいそうな、そんな寂しく恐ろしい光景だった。
暖房の利いた部屋の中に居るはずなのに、突然外のように寒くなる。それが気のせいなのか、外で吹き荒れはじめた雪のせいなのかは分からない。ごうごうと風が吹き、窓ガラスが揺れ、雪で景色が曇っていく。ガラス一枚内側が冷えない訳もない。けれどやはり、それだけではない様にも思える。内側からも冷えていく、そんな気がした。
嬉しそうに外を見ていたはずの綾時の瞳は、丸く見開かれていた。
信じられないとでも言いたげだった。恐怖と焦りと、それから上手く言葉にできない何かが沢山混じった色を顔に浮かべている。青い宝石みたいな瞳は今にも零れ落ちて無くなってしまいそうだった。ぽかりと開けた震える唇からは今にも叫び声が漏れてきそうだった。
なんとなく予想していた通りだった。寒くなっていく室内で、そんな綾時の姿を見守った。
ただあまり気分は良くない。こっちだって悲しいし苦しい。それでも二人ともが叫んで暴れ出す役割を選んだら何にもならない。
落ち着いて覚悟を決めて、話す時をずっと黙って待っていた。けれどやっぱり上手く行かない。もうちょっと上手い切り出し方があったのかもしれない。もうちょっと綺麗で優しい声のかけ方だってあったのかもしれない。
予想していた反応は二つあって、そのうちの悪い方が当たった。「そうだよね」と困ったように笑う、良い方の予想はさっぱりと外れた。
その返事がもらえる様な状況だったなら、そもそもここでこんな風になっていなかったのに。
人の気持ちを慮るのは難しい。そう言うことが得意だったならどんなに良かっただろう、と思ったのはこれが初めてだった。初めてだったものだから、きっと上手くいかないのだ。
「みつき、くん」
呼ばれて、出来るだけ穏やかに頷く。そうだよという気持ちも込めて少しだけ笑う。綾時は恐ろしい物でも見た様に息を飲んだ。分かっていてもそんな顔をされると悲しい。
幽霊でも見たみたいな、そんな顔。
「うそ」と綾時の唇が言った。
「嘘じゃない。本当は、綾時がどうしたいのかを察して、どうにかしたかったんだけど。そういうの得意じゃなくて」
だから直接聞くしかなかった。時間には限りがあった。時間はあまり多くなくて、大晦日が来てしまえば全て終わってしまう。かたかたと風に揺れる窓から一歩、後ずさるように離れた綾時の目をじっと見詰める。
「綾時はどうしたかった」
問い掛けると小さなこどもがこちらを見ていた。
返事は無かった。逃げるように巻き戻るようにファルロスの姿に変わった綾時の背中が見えた。
家の中の照明が落ちる。暗闇に包まれた部屋の中を、小さな足音が走って遠ざかって行く。だが姿も何ももう見えない。ブレーカーが落ちたみたいに真っ暗だ。それとも電気が無くなったのかもしれない。急激に寒くなる。
重たい物をぶつけた様な音に続いて、玄関が開いた。風が吹き込む音がする。ファルロスが外へ飛び出していくのが薄っすらと見えた。
「綾時!」と叫ぶが届かない。
後を追い慌てて外へ出る。外は思っていたよりもずっと吹雪いていた。白く大きな粒をした雪が絶えず吹き付けてきて視界が悪い。
玄関の扉を閉める。一歩目を踏み出す。吹雪が行く手を阻むようにまとわりついてくる。寒い、重い。もっと着込んでくるべきだったかと後悔が過った。だがそんな事をしていてはこの雪の量だ、小さなファルロスの足跡ではあっという間に消えて見えなくなってしまう。そうなれば追いかけられない。直ぐに思考を振り切って、歩みを再開する。等間隔にぽつぽつと真直ぐに走る足跡を辿っていく。
昼間だというのに外も随分暗かった。もしかしたらもう昼ではないのかもしれないと思う程に暗い。分厚く暗い雲から白い雪が零れ落ちてきて止まらない。目を開けていることも辛い。頬に吹き付ける風も雪も痛い程に冷たい。吐き出した白い息は直ぐに景色に紛れて見えなくなる。
そうしてどれだけ歩いたかは分からない。
ふと振り返ると家は見えなくなっていた。
正面に向き直り小さい足跡を追い直す。自分ではもうどちらに家があるのかさえ分からない。戻りたいと思ったところで仕方がないし、どちらにせよ綾時を、ファルロスを見付けられなければ死んだも同然だ。今更だ。
とっくに足も手も感覚は無くなっている。進んでいるのか止まっているのかも分からない。足跡が埋もれて見えなくなる前に追いかけられていることが奇跡のようだ。
轟々と煩い風の音に混じって、産まれて来なければ良かったというか細い声が届いた。顔を上げれば、遠くに人の影が見える。うずくまっているモノクロの人影が吹雪に埋もれていく。もう色が無い。
「綾時」と名前を呼ぶが届かない。
風は向こうから吹き付けている。あとちょっと、あとちょっとと思うのに体が動かなくなっていく。
急に膝に力が入らなくなって転んだ。寒い。顔面から雪に埋もれ、冷たいのに動けない。口の中に雪が入り込んでくる。声は泣いているようにに聞こえたから、早く行かなくては。行って、前みたいに掘り起こして手を掴まなくては。せめて名前を呼ばなくては。
なのにもう指一本の動かし方さえ思い出せない。瞼も重い。このまま息の仕方も思い出せなくなるのではないかと思った。
「こんなことになるなら、十年前に殺されていたかった」
最後に泣きそうな声を聞いた気がする。
2
「緒張くんっていっつも一人なのね」
そんなことを言われたのは、確か中学の頃だったと思う。学ランを着ていたような記憶があるから、きっとそうだ。
放課後だったか、いつだったか。教室で自分の席に座っていると、目の前に女子が立っていた。そしてそう言われた。その女子の顔は思い出せない。セーラー服を着ていたんだろうな、というくらいの曖昧な記憶しかない。ただそう言われたということだけは良く覚えていた。
その時初めて、自分は一人ぼっちに見えるのだと気付いた。自分自身にその感覚は無かった。両親を早くに亡くし、親戚の家を点々として転校も多ければ友人もいない。積極的に誰かと一緒に居ることもない。言われてみれば確かに一人ぼっちだった。
それなのに自分自身には不思議なことに一人だという感覚は無かった。だから一人で過ごしていても悲観的な気持ちは無かったし、そもそも疑問にも思わなかった。
上手くは言えないが、ずっと誰かがそばに居るような気がしていた。
それが誰かは分からない。死んだ両親がいつも見守っていてくれるとか、そういう抽象的で精神的な慰めではない気がした。
もっとずっと直ぐ近く。目に見えないほど近いところ。例えば背中とか、そういうところに誰かが居るような気がずっとしている。だからこれと言って寂しいと思ったことも、一人だと思ったことも無かった。
なのに今年の十一月、突然その誰かが居なくなった。
ずっとあった誰かの存在感がなくなった感じがあって、初めてそれがなんだったのか、誰だったのかに気が付いた。
居なくならなければ気が付けないとは皮肉な話だ。
「前に僕とどこかで会ったことない?」
そう声を掛けられたのは、放課後の教室でだった。顔を上げれば目の前に帰国子女の転校生が立っていた。後ろに撫で付けた黒髪に青色の目、左目の泣き黒子。整った顔立ちに高い身長。更には家がお金持ちらしく、女子がやたらと噂をしていた。同級生も下級生も上級生だろうと、女子ならば話題のトレンドがこの転校生だ。
改めてまじまじと彼の姿を見る。
「望月、だっけ」
「名前覚えていてくれたんだね。光栄だなあ」
「おーいリョージ、そういうのは女子に言えよな。ナンパみてえじゃん」
近くにいた順平が近寄ってくると、望月の肩に手を掛けて首をすくめた。
「うん。でもなんていうのかな、初めて見た時から気になっていてね。だからどこかで会ったことがあるんじゃないかなあと思って」
「あれ、じゃあもしかしてお前ら知り合い?」
「いや……」とやんわり言葉を濁す。
望月、と会ったのはあの転校初日の女子をきゃあきゃあ言わせていた挨拶の時が初めてだ。
困惑するこちらをよそに、望月は首を左右に傾けながらまじまじと覗き込んでくる。そうやって凝視されることには慣れていないので、どうにも尻のすわりが悪い。もしこれが本当にナンパだったのなら、この態度は失礼にあたるんじゃないだろうか。相手が女子だったなら引かれやしないか、それともこの容姿ならそれすらも許容されるのか。
ぼんやりと思考を逃がしている間にも、どんどん顔が近付いてくる。流石にこれ以上はと制止しようとしたところで、望月の顔色が変わった。突然不安そうな顔色になって青い瞳が揺れて泳いだ。ぱっと顔が離れていく。
「そ、そうだ。僕約束をしていたんだった。そろそろ行かないと。ごめんね、変なこと聞いて。気のせいだったみたいだ」
困り顔で笑うと、望月は鞄を抱え上げてぱたぱたと教室を出て行った。順平が不思議そうにその後ろ姿を見送りながら、思い出した様に「その約束ってオレッチだよ!」と慌てて追い掛けていく。
ぽつんと一人取り残されたところで、のんびりと席を立つ。今日はこの後特に用もない。真直ぐに帰ろうと、教室を出たところで他学年の女子とすれ違った。
「望月くんってもう帰ったの?」と聞かれたので「たぶん」とだけ答えた。教室を出て行ったが、帰ったのかは知らない。なあんだ残念、あんたが支度遅いから、だって化粧がと話し声が聞こえる。人気者は大変だ。
望月に「会ったことがあるか」と聞かれたことには驚いた。てっきり綺麗に忘れているんだと思っていた。姿も印象もどこか違うけれど、雰囲気がファルロスと良く似ていて、初めて目が合った時すぐに気が付いた。
ファルロスが、望月が、ずっと自分の背中のあたりにいた誰かだということに。
けれど、そんなまさかとも思う。まさかそんなに都合よく、転校生として現れるものかとも。幾らなんでも都合がよすぎるだろう。
その後やっぱり気になった自分は、望月が本当にファルロスなのか確かめようと思った。
けれど中々一緒になる機会がない。なにせ学校では噂の転校生で更にはナンパ性で、気が付けば女子に囲まれている。同じクラスの女子は勿論、他のクラスから上級生に下級生。かと思えば中等部からも見学者が現れる始末だ。その隙間をぬって順平などの男子ともつるんでいる。実に多忙だ。
自分が中学の頃に「一人なのね」と言われたことに対して、今の綾時はというと「一人でいるところを見たことがないね」だ。
そういうわけでさっぱり話す機会がない。
女子に囲まれている中に入って行って「こいつを貸してくれ」なんて言った日には何が起きるか分からない。そもそも大人数で形成されている輪に後から入っていくのは得意ではない。
どうしたものかな、と眺めているとたまに目が合うことがある。だけれど直ぐに逸らされてしまう。目を合わせたくないのだろうか、と思うこともある。でも望月がこっちを見ている時もあるのだ。なんとなく視線を感じて振り向くと目が合う、そして逸らされる。そんなことが良くある。どういうことだかさっぱり分からない。
それはこの修学旅行でも同じだった。
一日目ももう終わりだが、望月とはあまり話していない。順平と三人で居る時に少し話すことはあったので、全く無かったわけではないが。
そんな事を思い出しつつ、風呂上りのぽかぽかとした温度に包まれ、男子の部屋がある二階の廊下を友近と並んで歩いていた。廊下には小田桐や見知った顔があった。だが望月の姿はない。
「そんじゃ、俺この後予定があるから」
「予定?」
友近に肩を叩かれ振り向けば、ついでと言わんばかりに荷物を押し付けられた。
「深月このまま部屋に戻るんだろ。それも一緒に持っててくんない? 適当に置いといてくれたらいいからさ」
「いいけど、貸しな」
「後でジュースおごるわ」
「やっす」
にこにこと去っていった友近の背中を見送る。
さっき露天風呂に浸かりながら「眠いから部屋戻って寝たい」とは言ったけれど、こうあっさり荷物係として放り出されると少しばかり悲しいものがある。まあ友近の顔がどちらかというとにこにこではなく、にやにやだったような気もするので下世話な予定なのかもしれない。どうしてか下世話な予定に自分は呼ばれない。
二人分の荷物を抱え、割り当てられた部屋の襖を引く。誰も居ないだろうと思っていたのだが、中には望月が居た。一人ぽつんと座椅子に座ってぼんやりしている。襖の開く音にぱっと顔を明るくして顔を上げた後、慌てた様な表情に変わって、また直ぐに微笑みに戻った。
「深月くん」
「望月、一人なのか」
「そうなんだよね。順平くんどこか行っちゃってさ」
ふうんと相槌を打ちながら、友近の荷物を適当に放り、自分の荷物を鞄にしまった。周りには順平の物らしい鞄が転がっていて中身が散乱している。鞄だけでも順平の部屋の様子に良く似ていた。
壁沿いにこの部屋のメンバー全員分の鞄が並べてあるが、こうしてみると個性が出ている。望月の鞄が整頓されているのがなんだか意外だった。
「望月はどこか行かないのか」
「えっ、ああうん。そうだね」
振り向くと、望月は背筋をぴんと伸ばしてかしこまった。風呂に入りに行ったのは望月たち方が先だったので、浴衣姿だし髪も降りていた。軽く後ろに流しているとはいえ、いつものオールバック姿とは随分差があって変な感じだ。マフラーもしていないから別人のように見える。それでも目の青さと泣きぼくろは独特で存在感がある。
じっと見詰めてしまっていたからか、望月は落ち着かなそうに首をすくめて視線を泳がせた。
「どうかしたの」とついに問われて、慌てて誤魔化す。
「いや、望月はてっきり女子の部屋とかに行ってるんだと思ってたから」
「そんなことしないよ、女の子のフロアは基本男子立ち入り禁止だからね」
「望月ってそういうの気にするんだ」
望まずとも女子に招かれついて行っていると思っていたので、その「どうして」という顔をされたことが意外だった。あまりに純粋に不思議そうな顔を向けられて、そんな勘繰りをしたことが申し訳なくなる。
「じゃあ、この後望月はどうするんだ。もう寝る?」
「うーん、まだ眠くは無いよ。それに寝てしまうのが勿体無い気がして」
「なら順平でも探しに行くか」
「行先知ってるの?」
「まあ、なんとなく」
友近と同じ行先だろう、と考えればこの部屋の並びのどこかには居るはずだ。具体的な部屋までは分からないが、片っ端から開けていけばどこかに居るだろう。いきなり開けられて困ることになっている部屋は無いと信じたい。
「なら行こうかな」
望月が愛想笑いをして腰を浮かせた。が、立ち上がることはなく、浴衣のすそを踏みつけて転んだ。
「アウチ!」と言って額を畳に打ち付けるものだから、驚きつつも思わず笑ってしまう。「今望月が帰国子女なんだなって初めて思った」
「うう、酷いよ」
「悪かった」
笑いをこらえて転んだ望月に向けて手を差し出す。望月は手を一瞬だけ見て、それから自力で立ち上がった。ぱたぱたと裾を叩き、襟を正すとにこりと笑った。
「行こうか」
順平と友近を探しに廊下に出て、片っ端から部屋を開けていくつもりだったのに最初の一つ目でいきなり当たった。というか隣りの部屋に居た。そんなに近くに居たなんて、と望月が肩を落としている。これだったら待っていないで探しに行けば良かった、とでも思っているんだろう。
部屋の中には順平や友近の他に、クラスメイトが何人か居た。全員が座って輪になっている。
その真ん中で浴衣姿のままあぐらをかいて、色々と見えかけている順平が顔を上げた。望月の姿があることに気付くと目を丸くする。
「あれっ綾時何してんの?」
「なにって酷いよジュンペーくん。僕の事置いてみんなでこんな楽しそうに」
「いやー、てっきりお前女子の部屋に連れ込まれてると思ってオレッチ気を使ったんだぞ。それなのになんで深月と」
「望月一人で部屋に居たけど」
「まじか」
聞けば露天風呂から戻る途中、望月は女子の集団に囲まれ、何やらお誘いを受けていたのだとか。それで順平は俺にはチドリというたった一つの星があるからなんとか(このへんでクラスメイトの一人にヘッドロックを決められていた)広い心で望月は女子に譲ってやろうと先に戻ったのだという。そういう望月は先ほど聞いた通り、女子のフロアは男子は立ち入り禁止だからと丁寧に断って、部屋に戻れば誰もいなかったのだそうだ。
「女子の部屋に入るチャンスをドブに捨てるとは、望月って意外と漢だな」
「バッカお前入り慣れてるから今更なんだろ」
「そんな、僕女の子の部屋とか入ったことないよ」
「おい望月が何か言ってるぞ」
「部屋にはないってことだろ。部屋なじゃいところだ」
馬鹿なやり取りを溜息ひとつで流し、この集りの首謀者らしい順平に声をかける。
「で、みんな何してるんだ」
「折角来たんだしお前らも混ざってくか? 今から大富豪すっけど」
「何賭けてるんだ」
「おまっ、どうしてわかった」
「友近が下世話な顔してた」
「な、なんだよ下世話な顔って!」
「まあ当たりだけどな」と順平が後ろから紙袋を取り出すと輪の中心に置いた。「最初に上がったやつが最初にこの中を見る権利を得る」
わざとらしく神妙な顔を作っているが、この流れなら十中八九中身はエロ本だろう。
「しょうもな……」
「しょうもない言うな! 泊まりでトランプって言ったら鉄板だろ。んでもって賭けとかバツゲームが無くてどう盛り上がれって言うんだよ!」
「てかそれどっから持ってきたわけ」
「真田さんに貰った」
かなり予想外の名前が出てきて思わず言葉が消える。修学旅行にそういうものを持ってきて喜ぶタイプではないと思っていたのに、と考えていると順平が「違う違う」と真田の名誉のために両手を振った。
「真田さんも押し付けられたらしいんだけどさ、持ってるのを万が一桐条先輩に見つかったら処刑されるからってくれたんだよ」
「それ、処刑先がこっちに変わっただけじゃないのか」
「まあまあ、つかお前らいつまでも突っ立ってないで座れよ。始めるぞー」
それは大丈夫なのだろうかと気になりながら、空いているスペースに腰を下ろす。隣になったクラスメイトが顔を覗き込んできた。
「やっぱ緒張も気になるのか、中身」
「そうでもないけど暇だし」とあっさり答えると、「ああ、そう」と少しがっかりされた。
「望月には必要ない景品だろうけどさ、早く座れよ」
誰かがそう声を掛けた。振り返ると望月はまだ後ろに立ったままだった。ぼうっとこっちを見ていて、目が合うと慌てて輪に混ざるように隣りに座った。
順平が紙袋を再び背に隠し、代わりにトランプを取り出す。それぞれの足元にトランプが配られてくる。
「まだ罰ゲーム決まってなくね」
「そういやそうだったな。何にするかなー」
自分と綾時の間には、人一人分くらいの隙間があった。
3
気が付けば十一月も下旬になっていた。
結局望月と話しこむことが出来るタイミングには恵まれないままだ。たまには学校外で出会ったりすることもあったが、そういう時は上手くかわされて、長く話しこむようなことにはならなかった。
素っ気ないとか避けられているとか、そういう訳ではないのだが意図的に話を短く切り上げられるよう、上手く誘導される。それに気付いて器用だな、と思った時には「じゃあまたね」と去っていってしまう。それの繰り返し。一番話したのは間違いなく修学旅行のあの時だと思う。今になってあの時に話しておけば良かったと思う。
生徒会の手伝いを終えて寮に戻ると、中には望月が居た。驚いた顔と目が合うと直ぐににこりと微笑まれる。気付かないくらいの一瞬で顔色を困惑から戻していた。
ラウンジのソファにはゆかりの姿もあった。
「あって緒張くん、お帰りー」
「ただいま」
軽く手を振られ、挨拶を返す。そのまま視線を望月に移せば、「お邪魔してます」と微笑まれた。
「望月、来てたのか」
「うん。さっきまでジュンペーの部屋で遊んでたんだ。もう帰るところだったんだけれど、ゆかりさんが見えたから少しお話させてもらってたんだよ」
「綾時くん的には私が見えたから、っていうか女の子が見えたからじゃないの」
「そんなことはないよ。ゆかりさんだからこそ」
「そうは言うけど、学校内でまだ声掛けてない女の子なんて居ないくらいなんじゃないの」
マニキュアを塗った指をひらひらと揺らしながらゆかりが言うと、望月は苦笑した。否定はしないらしい。
「大概にしないと刺されるぞ」
「そんな、深月くんまで酷いよ」
「冗談だよ」
そう笑い掛けると望月は下を向いてしまった。顔が半分程マフラーに埋まり表情が隠れる。俯いたというより、顔を隠したように見えた。目尻を困らせている。
「それじゃあ僕そろそろ帰るね。深月くん、ゆかりさん、また明日学校で」
「気を付けてね綾時くん」
「ありがとう」
にこにこしながらマフラーを引き連れ扉から出て行く後姿を見送った。ぱたんと閉まると、入替る様に二階から順平が降りてきた。
「よっ深月、おかえり」
「ただいま」
「なんだ、順平。綾時くん今帰ったよ」
「あれ、あいつまだ居たのか。ほんと女子ってみると直ぐ声を掛けるなあいつ」
「やっぱりそうなんじゃん」
マニキュアを塗り終えたゆかりが嘆息した。うっすらとマニキュア独特の匂いが漂ってくる。順平はいそいそとゆかりの向かいに座ると手にしていた雑誌を広げた。何でわざわざここで読むわけ、とゆかりに言われ、わかんだろー誰かが帰った後ってさみしーんだよ、と口を尖らせている。順平がそんな顔をしてもさっぱり可愛くはない。
「望月って、良く来るのか」
「あー寮に? ケッコーな」
「そうだねー。私も良く見るよ」
一緒に遊ぶ順平だけでなく、ゆかりにもそう言われるくらいなのだから相当立ち寄っているんだろう。その割に自分は見掛けたことがない。むしろさっき初めて見た。もしかして会わない様にかわされているのか。だから入って目が合った時に一瞬変な顔をしたのか。
「やっぱり避けられてるのか」
「リョージが? お前を?」
頷いて返す。違うと思っていたが、流石にここまでくると避けられているとしか思えなくなってくる。でなければどうしてこんなに、自分だけ会わないのか。
そう思ったが順平は「まさか」という呆れ顔をした。
「たまにお前の話しもするしなー。深月がどうのこうのって綾時が言い出すくらいだし、避けてるとかそんなんじゃねえと思うけどな」
「でも、こう。喋っても会話が続かないっていうか」
「マジかよ。話題が無尽蔵に湧いてきて女子を飽きさせないと評判のリョージと会話続かねえってなにごとだよ」
「なんだその評判」
「逆に特別じゃね?」
「いやそれ嬉しくないし」
「って言うかさ、私としては緒張くんが綾時くんと仲良くしたそうなのにビックリなんだけど」
言ったゆかりに視線が二人分刺さった。その内の片方、順平の視線がゆっくりこちらへ移動してくるものだから、目が合ってしまった。「お前綾時と仲良くなりたかったわけ?」と言われている気がして首を竦める。
そういうわけでは無い、とも言い切れない様な。
十二月三日に綾時の告白を聞いた時には、ああやっぱりと納得した。
綾時はファルロスで、自分のそばにずっと居て、背中にあるようなあの存在感だった。そう分かった時、凄くすっきりと気持ちが落ち着いていくのを感じていた。
世界の終わりだとか、綾時がシャドウに近い存在だとか、綾時を殺して記憶を手放し穏やかな終末を手に入れるか全てを覚えていて戦って死ぬかだとか、色々な話を聞いた。
そのどれにも悩むことはなく、すっきりと納得した時同時に、覚悟みたいな物が固まっていた。自分の根源のような物が突然形を得た。今まで戦う理由もなにも全てぼんやりとしていたものが、急に後追いで理由付けされていくのが見えた。
だから部屋を出て行く綾時のことを追い掛けた時には迷いは無くて、なんの躊躇いもなく手を掴んだ。
冷たい手をしていた。綾時の手はこんなに冷たい物だっただろうかと凄く凄く疑問に思った。
そしてそこで意識が途切れた。
目が覚めた時にはあの家で眠っていて、外は雪だった。
たまに誰かの声が聞こえる時がある。名前を呼ばれる。早く起きてとか、なんでとか、死なないで、とか。代わる代わる声がする。現実に存在する自分は病院のベッドの上で眠っていた。広い個室で点滴に繋がれて目を閉じている。四月にもこんなことがあったと思う。
ベッドのそばには今、順平が座っていた。怖い顔をして、寝ている自分を睨んでいる。脱いだ帽子を握り締めて、ため息をついて、淋しそうに目を伏せた。
早く起きろよ。お前まで居なくなるなよ。
そう呟く声が聞こえていた。
4
はっと目を覚ますとまた寝室に居た。
見慣れた天井と、見慣れた水色のシーツ。
ただ視界がうるうると滲んであまりよく見えない。それにやたらと体が熱い。体中が汗ばんでいて気持ちが悪い。べたべたする、けれど起き上がるのも面倒だ。寝返りを打つことも暫し考えるほどに体が重い。呼吸をするのも億劫で、深呼吸をするのに莫大なエネルギーを消費したような気がする。空気を吸い込むと喉がいがいがとして痛かった。
これはどうも、風邪をひいたらしい。
咳き込んで目を閉じると、涙が勝手に目尻から出て行こうとする。泣いてるみたいになるのはちょっと恥ずかしい。風邪とはいえ泣くほど辛くはない。
再度目を開くと、視界に綾時の姿が増えていた。
小さなファルロスの姿から、綾時の姿に戻っていた。
そう言えばファルロス姿の綾時を追いかけて行った後の記憶がない。歩いた末、吹雪のど真ん中で倒れた様な気もする。だが自力で家に戻ってきてベッドに寝そべった覚えは全くない。四方を吹雪に囲まれて視界も悪く、家がどの方向にあったかさえ分からなくなっていたのだ。とすれば綾時が運んでくれたのだろう。それでファルロスじゃ抱えられないから、綾時の姿に戻ったのかもしれない。
綾時は今にも泣きだしそうな顔をしていた。自分よりもよほど重病人みたいだ。世界の終わりでも見たかのような顔をしている、というのも綾時相手ではあまり上手くない例えだ。
本当に世界の終わりの話をした後だ。その話をすることを強いられた綾時の心中を言葉にすることはあまりに難しい。
「風邪をひけるとは思わなかった」
黙っていたらこのまま綾時が泣いてしまいそうに思えたので、何でもいいから言葉を掛けなくては思ったのだが、いざ声を出すとガラガラで酷いものだった。風邪を引いた、という意味ではとても真実味のある声だった。
「ごめんね」
謝られてしまった。そういうことを言わせたいわけじゃないと伝えたかったのだが、思い切り咳き込んでしまって言葉にならない。慌てた綾時が硝子のコップに水を持ってきて、優しく起こして飲ませてくれた。
ここに来てから綾時の手は暖かいと思うことばかりだったのに、今は発熱しているからか触れるとひんやりとしていて、今はそれが気持ち良かった。
「何か食べられそう?」
コップ一杯の水を飲み干すと、再びベッドに寝かせられる。食べ物、と考えたら途端にお腹が減ってきた。
頷くと「待ってて」と言って綾時は飛び出て行った。
頭がぼんやりする。本当に風邪をひくとは思わなかった。
綾時がどれだけ雪に埋もれてもけろりとしているものだから、もしかしてここには風邪などの病気の概念はないのかもしれないと思っていた。現実の自分は病院で点滴に繋がれているらしいので、ここに居る自分は精神体だとかそういう曖昧なものだろうと解釈していた。
それが風邪をひくなんて。それもこんな重要な局面で。
綾時と話がしたい。なのに意識がふわふわと遠退いていく。待っててと言われたから待っていたいのに、瞼はどんどんと重みを増していき、ついには目を閉じた。
次に目を開けると、綾時がまた視界に居た。どうやら少し眠っていたらしい。
「起こしちゃった?」
「いや」
起き上がり、背中を壁にもたれかからせる。眠る前より幾分か気分がましになった気がする。綾時はベッドの横に椅子を持ってきて座っていた。水が欲しいと伝えると、枕元にあった水差しからコップに移してくれた。
「おかゆを作ったんだけど、食べられそう?」
「うん、お腹空いた」
「良かった。食欲があるなら大丈夫かな」
ナイトテーブルに置かれた水差しの横に、一人用の土鍋が置いてあった。綾時が蓋を取ると湯気が立ち上る。土鍋が置いてあるトレーごと渡される寸前、綾時は顔をしかめた。目を合わせないままトレーをこちらの膝に置いて、手を離される。
今までならもっと世話を焼かれるところだったろうなと思うと淋しく思える。ここで生活をしている時の綾時は兎に角世話焼きだった。世話焼きたがりで話したがりで近付きたがりで触りたがりで、その癖たまに躊躇する。
十一月の頃とは大違いだ。目を逸らす話しは切り上げられる離れたがる。あの頃とは全くの逆。今の綾時はなんとなくその頃を思い出す。
スプーンでおかゆをすくい、息を吹き掛け冷ましてから口に運ぶ。卵粥のようだった。風邪で口の中が不味くて、あまり味が分からないのが残念だ。
「君を看病出来たらいいのになって思っていたから、嬉しいって思っちゃった」
風邪をひかせたの僕なのに最低だ。と綾時が目を伏せたまま呟いた。
外を見れば未だ猛吹雪だった。昼なのか夜なのかも分からない。雪が横に流れていくように見えるほど風も強い。よくよく見れば、窓のところまで雪が積もっていた。家まで埋もれてきているらしい。玄関の扉は外開きだったはずなので、これでは外には出られないかもしれない。
黙々と食べていると、綾時が恨めしそうにこっちを伺っていた。
「君はどうしてそんなに落ち着いているの」
答えないでいると綾時は目を逸らして、窓の外を見た。
「だってこんなの変でしょう。こんな、どこかもよく分からない場所で。外はずっと雪で。それ以外に何も無くて。何処まで行っても雪しか無くて。もしかしたらここから出られないかもしれないのに。そうしたら外の君は」
死んでしまうかもしれないのに。
そういう台詞は、皆死んでしまうんだよと語った彼には不釣り合いで、良く似合っていた。
「綾時は何かしたいことがあって、ここに居るんじゃないのか」
尋ねると今度は綾時が黙ってしまった。頭の天辺が見えるほど俯いて、手を膝の上で握り締めて何も言わなくなる。背中にだらりと乗った長い黄色のマフラーが寂しそうに見えた。
おかゆをぺろりと平らげるとそれだけで疲れた。少し良くなったところでまだまだ風邪らしい。考えこんで話しをするには脳みそがついてこない。思考がかすむ。トレーをナイトテーブルに避け、毛布に潜り込んだ。
肩まで毛布に包まって「綾時」と呼ぶと、彼は少しだけ顔を上げた。青い瞳が覗く。もう随分長い間、その色と同じ色の空を見ていないような気がする。
「手を貸して」
隙間から手を出して伸ばすと、綾時は不思議そうな顔をしながら恐る恐る手を伸ばしてきた。その手をぎゅっと掴むと、驚いて反射的に引っ張られる。だが離さない。綾時は目を丸くしていた。
「どこも行くな」と言って目を閉じる。「隣りで寝てもいいから、起きた時ここに居ろ。まあ、一緒に寝たら風邪移るかもしれないけど」
「……どこにも行けないよ」
「ならいいや。なんか、次に目を開けたら綾時消えてそうだったから」
目を閉じると本格的に眠くなってきた。綾時の手の冷たさに少し気を取られながらも、あっという間に眠りに落ちる。
ぼんやりと遠退いて行く意識の中で、握った手を握り返される感触があった。強く力を込められて、はっとしたように緩められる。
眠りに落ちる途中、誰かが何かを言っている声が夢の中に滲んで聞こえた気がした。
僕が生まれて来なければ世界も君も死なずに済んだのに。
生まれて来なければ良かったのにって思ったんだ。
だって望まれて生まれた訳じゃなかったんだ。
だったらせめて十年前に殺されていたかった。
君を死なせるくらいなら僕が死んでいたかった。
きっと僕はここで雪に埋もれて、消えて無くなってしまいたかったんだ。
5
起きた時、綾時がちゃんと居たことにほっとした。のもつかの間、綾時が泣きはらしていたのでぎょっとした。
青い空色の瞳から雨が降るみたいに涙があふれている。目元は赤く腫れているし、いったいどれだけ泣いていたのか分からないほどだ。
慌てて起き上がると、手は掴んだままだった。
「りょうじ」と呼びかけると顔を逸らされた。顔を隠すように今更肩に顔を寄せ、マフラーに埋もれようとしている。綾時からずずっと洟をすする音が聞こえたことが妙におかしかった。
「風邪はもう平気?」
「……平気だけど、綾時の方が大丈夫じゃなさそうだ」
体のだるさはまだ少しだけ残っている。それでも風邪自体はもう大分良い。熱っぽさものどの痛みもない。
「そっか、良かったよ」
綾時が手を離そうと引っ張るので、慌てて引き留める。起きた時にここに居るという約束は果たしたからと、どこかへ行く気なんじゃないかと思った。
どれだけ眠っていたんだろうと辺りを見回すが、時計を見ても寝る前の時間を覚えていなかった。外も未だに暗く判断できない。でもそれなりには寝ていたんじゃないだろうか。冷たかった綾時の手が、今は冷たいと感じない。すっかり自分と同じ温度になっている。
綾時の指は自分よりも長くて細い。初めて触ったのは、ここに来て最初の日だ。いきなり手を掴まれて近くで顔を覗きこまれて、嬉しそうな笑顔を向けられて。あの時は夢でも見ているんじゃないかと思った。
改めてその手を握り直し、一つ気になっていた事を問い掛けた。
「もしかして十年前に戻れたらとか、考えてたのか」
穏やかに話し掛けたつもりだが、綾時からの返事はない。洟をすする音が聞こえるのでまだ泣いているようだ。泣きやんでもらいたいのにどうしたらいいのか分からない。
未だ外は雪だ。
もしかしたら、話しを誤魔化して前みたいな生活に戻ることも出来るかもしれない。でもそれでは意味がない。意味がないから話を切り出したのに、なのに上手く言葉にならない。思っている物が全て、伝わってくれればいいのに。
「あの日、雪が降ってたんだ」
十年前のあの日、あの事件の夜。影時間が明けると雪が降っていた。あまり覚えてはいないが確か凄く積もったはずだ。車は燃えていて、両親は返事をしなくて、雪はしんしんと降り積もっていた。
雪を見ると、その時を思い出す。
「それにこの家、小さい頃に両親と住んでた家に似てる」
全部が同じではないが、ほとんどの空気は一緒だ。本棚の中身は違っても壁一面の棚の作りは同じ、それくらいの違いしかない。両親と住んでいた、両親の生きていた頃、十年前。綾時の生まれた頃。その時まで、住んでいた家。
そして、綾時の生まれたあの雪の日。
全部、昔の事だ。
「思うよ」と綾時は答えた。
「十年前に戻れたらって。僕が生まれなければ、きっと全て上手く行っていたのにって、あの日より前まで戻れたらって、思うよ」
「そうしたらおれの両親が死ななかったり、この後世界が滅んで皆死ぬことになったりしなかったのにってこと」
「そうだよ」
言いながら綾時がえづいた。手を握ったまま、ベッドの縁に足を下ろす。空いているもう片手で綾時の背中をさすった。綾時は何も言わなくなった。
どうしてこんなに人間らしいのだろう。この人間性が自分の中で培われたと言われて、どうして愛しく思わないでいられるだろう。いったい自分の中で何を見て、こんなに綺麗に心を育んだのか。
「人の寿命が変えられないって話。知ってる?」
綾時は首を振った。
「体の寿命とかじゃなくて、死ぬ日が決まってるっていう話。生まれた時から決まってて、その日には何をしても死んでしまうし、逆にその日までは絶対に死なないっていうやつなんだけど」
「……きいたことないよ」
「俺もどこで聞いたのか忘れたけど。でもそうだったとしたら、少なくとも俺の両親は綾時が生まれなくてもあの日に死んでいたことになるだろ。そうしたら俺は結局一人になるしかなかったし、どうしても親戚中をたらい回しにされる。でも綾時が生まれて、俺の中にいたおかげで、俺はずっと一人だって思わないで居られた」
背中の方にずっと誰かが居る気がして、一人だって思わないでいる事が出来たのは綾時が居たからだ。綾時が居なければ、どうしていたか分からない。一人だって気付いた自分がどうやって生きていたかも分からない。それこそ死んでしまおうって思ったりしたかもしれない。皆恨んでいたかもしれないし呪っていたかもしれない。
そして月光館に招かれたり、ペルソナに目覚めたり、寮に入ったり誰かと一緒に生活したり、仲間が出来たりすることも無かった。
「っていうのはどうだろう」
綾時が涙でべたべたになったままの顔を上げた。凄く不思議そうな顔をしているので、どうも上手く伝わらなかったみたいだ。パジャマの袖で頬の涙を拭ってやると顔を困らせた。そう言えばパジャマ姿だった。外へ飛び出した時はちゃんと服を着ていたのに。わざわざ連れ帰ってきてくれて、更には着替えさせてからベッドに寝かしてくれたのか。こんな時に。
消えてしまいたいって泣いているこんな時に。場違いかもしれないなと思いつつ、胸の内にふわふわと湧き上がる柔らかい気持ちを否定できない。
「少なくとも、俺は綾時が居たことで救われてたみたいだ」
「でも」
「それにファルロスに貰った助言にも結構助けられたし」
「そんなこと」
「なんでそんなに否定的なわけ」
綾時らしくもない。綾時は口をつぐんで目をそらした。元気付けたいだけなのに、本当に自分は何も上手く言葉にできない。言葉にしなくてはと気持ちだけ走っていく。
「それにさ、ファルロスのころは頻繁に話し掛けにきてたくせに、綾時になったら全然話せなくなっただろ。あれが、その、さみしかったし」
「……そうだったんだ」
「そうだよ。お前凄い避けるし」
「避け、たつもりじゃなかったんだよ」
「しってる」
「……君とね、話すのが怖かったんだ」
「そっか」
「君とね、凄く凄く話したかったんだ。でも近くに行くと何か怖いことを思い出しちゃいそうで、恐ろしくて。それも自分のせいなのに勝手でしょ。君と同じ高校生になって、ちゃんと友達になてみたかったのに。いざそうなると、この後自分のせいで君が死んじゃうことに気付いて、それを思い出すのが怖くなって」
「そっか」
「ごめんね」
「まあ十一月に話せなかった分は、ここで沢山話せたし。良かったよ」
「僕も本当に君と、いっぱい話せてうれしいよ」
そう言って綾時がまた泣きだすものだから、今度は手を解いて両手で背中を抱き寄せた。するとわんわん泣きながら謝り出すので、一体何をそんなに謝ることがあるのかと困ってしまう。謝られるような覚えは全くないのに。どうしたら上手く伝わるのだろうか。
すっかり自分より背の大きくなった体を抱きしめてみた。
「俺は綾時が生まれてきてくれて嬉しいよ」
6
綾時をあやして一緒に眠りについて、起きる頃には風邪はすっかり良くなっていた。起きたのはもう夜になろうかという時間だった。
リビングの時計を見て、外をまじまじ見てやっとわかった。もう一週間以上眠りこけた様な気持ちだったが、本当は二日くらいしか経っていないらしい。昨日の昼に雪原で倒れて、気が付いたのが夜。一眠りしての朝。綾時をあやして眠って夜。二日にしてはやたらと疲れた。でもあまり時間が経っていなくて良かった。一週間も綾時をべそべそ泣かせていたのだったら居た堪れない。
そんな綾時は号泣して以来すっかりだめだめになってしまった。
こんなに華麗にエスコートされたらそりゃ女の子なんてころりといってしまうのも分かる、という完璧超人綾時は涙と一緒に流れてどっかに消えてしまったのか、兎に角ぐだぐだだ。
流石に涙は止まっていたが、泣きはらした所為で瞼は赤く腫れている。それだけでも充分男前度を下げているのだが、ベッドから押し出す時も一苦労だった。すねているのかへこんでいるの知らないが、しょんぼりとして起きて来ない。引っ張って起こし「顔を洗って来い」と洗面所へ押し込むまで全て手作業だ。顔中が涙の流れた後だらけで、見ているとなんだか可哀想でたまらなくなる。
洗面所に押し込んだはいいものの、大丈夫だろうかと心配になって中を覗き込みそうになるのを必死に耐えていると、水音が聞こえてきたので顔は洗えているらしい。
ひと安心して台所に立つ。お腹がぐうと派手に鳴った。昨日の夜にお粥を食べて以来何も食べていないので、食事は丸一日振りだ。元気になったらなったで兎に角腹が減っていた。
冷蔵庫をぱかりと空けながら、何を作るかを考える。重い物は避けて、軽く食べられるもの。さて。サンドイッチでいいか、とハムや野菜類を取り出して並べる。
包丁は、と流しを見るとお粥を作った時の残骸が残ったままだった。無残に割れた卵の殻や、ご飯粒が少しシンクに流れている。菜箸やお玉やが散乱しているところを見ると、あの時の綾時は相当取り乱していたようだ。普段は作りながら片付けていたし、台所を凄く綺麗に使う。その綾時がこの惨状だ。今更ながらに申し訳なくなり、それから少し嬉しくなる。
寝室にお粥を食べた土鍋がまだ置いてあることを思い出し取りに行く。食べた後からずっと綾時を掴んでいたから片付けられなかったのは当然なのだが、こんなに家の中がぐちゃぐちゃなのは初めてだ。すっかり乾いてしまった土鍋を流しに付け置きする。先に片付けてしまおうかと思ったが、そんなことより腹が減っていた。
ところでこの食材はどこから出てきたのかとか、なんで腹が減るのかとか、これを食べてなんで腹が膨れるのかとか、唐突に気になってきたが今更だった。食パンの袋を開け、パンの耳を切り落とす。
洗面所から綾時が出てきた。ちゃんと顔を洗えたらしく涙の痕も消え、目の腫れも少しだけましになっていたが、前髪がべったりと濡れて少し水滴が滴っている。寝起きなので髪も乱れているし、隙だらけだ。
「男前が台無しだ」
茶化したつもりだったのだが、綾時はしゅんと項垂れてしまった。起きてから何を言ってもこの調子なので、流石に少しばかり面倒くさい。
よちよち近付いてきて、キッチンカウンター越しに覗き込んでくる。
「サンドイッチ作るだけから、向こうで待ってていいぞ」
「でも」
なにがでもなのかは分からないが、綾時は待っているのが嫌らしく回り込んでとなりにやって来た。流しに洗い物がたまっていることに気がつくと、蛇口から水を出してスポンジを取った。
「ほんとはね、お粥をふーってして冷まして、あーんっていうのもやってみたかったんだ」と土鍋を洗いながらぼやくので、もしかしてこいつは結構元気なのではと疑った。
簡単に作ったサンドイッチをソファで並んで食べると、初日の事を思い出した。あの時はすっかり世話を焼き切られた。何でこんなところに居るんだろうとか、どうして綾時がこうも優しいんだろうとか、色々気にはなりながらもそれに甘んじた。
なんだかんだ、十一月に綾時に避けられ気味だったことは悲しかったので、優しくされて嬉しかったのだ。凄く単純だった。
お腹が膨れ、さて次はどうしたものかと考える。
あまり眠くないけれど、一応夜なのでもう寝るべきか。とりあえず風呂に入りたい。最後に入ったのは二日前ということになる。
「先に風呂行って来いよ」と綾時を促すと「うん」と力なく頷いてソファを立った。とぼとぼ歩いていく後姿を見ていたら不安になってきた。
あのまま力なく浴槽に浸かって、そのままつるりと滑って湯船に沈んでいそうな気がする。もういいかこのままで、と溺死していたら目も当てられない。十二月三日に綾時が言った「俺にしか綾時が殺せない」というのが実は嘘で、あっさり死ねたりしたら目も当てられない。真偽は定かでないが、生まれて来なければ良かっただとか殺されていたかっただとか言われた後なので凄く心配だ。
洗面所兼お風呂場の扉を開けた綾時の背中を追いかけ、中を覗く。
「やっぱり一緒に入ってもいい?」
聞くと綾時は少しだけ嬉しそうな顔をして、直ぐにハッとなって目を伏せた。ダメと言われても困るので、返事を待たず扉を閉めて綾時を奥へと押し込んだ。
パジャマを手早く脱ぎ、下着も脱いで洗濯かごに投げ込む。全裸になっても綾時はまだシャツのボタンを外している段階だったので「貸して」と言ってさっさと脱がせる。これもこの前と逆だ。違うとしたら、下着くらい流石に自分で脱げると制したのに対して、綾時は最後までされるがままだったことだ。
風呂で温まり、濡れた髪を乾かしてあげたところでやっと綾時に少し元気が戻ってきた。「君の髪を乾かすのやってもいい」と言われたのでドライヤーを渡す。綾時の指に髪を梳かれるのは気持ちがいい。乾いた後でお礼を言うと、綾時が少しだけ笑った。
凄く久し振りにその顔を見た気がした。
後は寝るだけ、なのだが風呂に入っても眠くはならない。
ソファでぼんやりしながら、やっと動き始めた綾時の淹れてくれたはちみつ入りホットミルクを舐める。映画でも流していたら観ているうちに眠くなるだろうか。そう思って棚を漁ったのだが観たいと思うタイトルが無かった。
むしろこの静けさが丁度いい。外は相変わらずの雪で、音は全て白に吸い込まれる。雪の降る無音が降り積もって、お互いが吐き出す吐息の音まで聞こえる夜の時間。少しだけ影時間の静けさに似ている。
「そういえばさ」
「なに?」
「ここって星とか見えるのか。夜に外出たことないし空も見なかったから。あとオーロラとか出ないの」
「外に出たらダメだよ。風邪がぶり返すかもしれないし」
「、分かった」
外に出ようとしていたことが何故ばれたのか。もこもこ着込んで雪の上に寝そべって星空を見るのも悪くないかも、と思ったのに。無茶をすればここでも風邪をひくと分かったところなので、やめておくのが賢明かもしれない。
でもここにはこの家以外に何の明かりもない。きっとすごく綺麗な星空が見えるのだろう。残念に思っていると綾時がこちらをちらりと伺った。
「僕のベッドなら窓際だから、寝そべれば星見えるかもしれないよ」
その提案に乗り、ホットミルクを飲み終えると早速寝室に移動した。勿論家中の電気という電気は消した。流石に真っ暗では動き難かったので、寝室のランプだけ点ける。
窓に沿う様に置かれた、薄黄色のカバーの掛かったベッドに寝そべる。窓に頭が向くように寝ると、ベッドを横切る形になるので足がはみ出た。寒かったので自分のベッドからも毛布を持ってきてかける。そういえばこちらのベッドに寝るのは初めてだ。
窓の外を見るが、真っ暗で何も見えなかった。よく目を凝らせば、雪がちらついているのが見える。星どころではなく、あいにくの曇り空らしい。
「見えないな」
「残念だね」
綾時はベッドの縁に腰掛けて、空模様ではなくこっちの顔を見ていた。
「深月くん」
「なに」
「ここでさ、二人で生活を初めて一週間になるよ」
「そうか、もう一週間か」
「ここでの時間の流れが、外と一緒だったとしたら凄く心配されてる」
「まあでも、入院してるから平気」
「入院してるの?」
「うん、たぶん」
あれが夢でなければ。
多分夢ではないと思う。今もたまに名前を呼ぶ声が聞こえてくる。もし本当に夢でも、四月に意識を失った時も病院で目を覚ました。同じ扱いをされている可能性は高い。あの時は半月ほど寝込んでいたので、一週間くらいなら大丈夫だろう。と安直に考える。
外の雪は止まない。
「昨日も聞いたけれど、もしここから出られなかったら。どうするの」
「その時はその時」
あっさり言うと、綾時が眉を下げた。「何でそんなに落ち着いているの」と言いたいんだろう。そう言うが、取り乱したかったのなら初日にもう取り乱している。
「あの時に、綾時を追いかけて手を掴んだ時にはもう覚悟決まってたんだよ」
だから本当に今更なのだ。
綾時は返事をしなくて、顔を逸らして背中を丸くした。また泣いてしまうんじゃないかと思ってその背中をつつく。
「綾時は星みないのか」
「まだ、雪降ってるから見えないんじゃないの」
「そうだけど」と言いながら自分の隣りのスペースを手で叩き「折角だからこっち」と呼ぶ。少し迷う素振りをみせながらも綾時は素直に寝そべった。ワックスで固めていない髪がシーツの上に無造作に散らばる。
並んで寝転んで、もう一度空を見上げるがやはり曇っていた。吹雪ではなくなったとはいえ、雪も降り続いている。
「楽しくない?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるだろ。まだ落ち込んでる」
寝返りを打ち上半身だけを起こして顔を覗き込む。やっぱり浮かない顔をしている。眉尻が下がりっぱなしだ。それでもそんなことないと白を切ってそっぽを向く。
「あのさ気付いてないの」
「……なにが」
「綾時が落ち込んだり、楽しくなかったりすると雪が降るんだよ」
振り向いてこっちを見た綾時の目は見事に丸く見開かれていた。青い目が天体みたいだった。
「そうなの?」
本当に気付いていなかったのか。
自分も最初は半信半疑だったが、あまりに全てタイミングが良すぎた。綾時が笑ったり嬉しそうにするとぴたりと雪が止む。逆に荒れた昨日は猛吹雪だったし、降雪量だって気分に関係している。心穏やかそうだった一昨日までは積もっている量も減っていた。
ただちょっと驚いたくらいで雪は止まないようだ。窓の外ではまだ雪が舞っていた。どうしたら止むだろうかと考え、綾時の顔の両脇に肘を付いて覆い被さる。不思議そうに見上げてくる顔をまじまじと見つめる。頬では三日目ごろから毎夜でマンネリ化気味か、とか思案した結果唇を唇に寄せた。
そう言うことがしたいと今まで思ったことは無かった。ふとそんな気持ちが悪戯交じりに湧いてきて、実際に触れてみても全く嫌ではなかった。同性だし、という考えも無かった。なら自分は綾時を何と捉えているのかと問われると答えは難しい。
押し付けた唇は柔らかいし、温度もあった。昨日触った手みたいに冷たいのかと思ったが温かかい。たっぷりと時間を掛けてから離れると、綾時の顔が真っ赤だった。色が白いから良く分かる。
窓の外を見ると星が出ていた。
「たんじゅん」
笑って起き上がる。やらかしてから気付いたのだが、晴れてくれて良かった。これで猛吹雪になって外に飛び出されたりしたら、今度は追いかけられる気がしない。
窓に額を寄せて見上げれば、数えきれないほどの星が空を埋め尽くしている。良かった、晴れて良かった。
振り返ると綾時も起き上がっていて、口元を押さえてぎゅっと目を瞑っていた。そういう反応をされると困ってしまう。落ち着かない、居た堪れない。
「だって、ずっと僕は、君に触れたかったんだよ」
「いいよ触っても。何でそんなに消極的なんだ、ほっぺちゅー迫っといて今更だろ」
「ほ、ほっぺたと唇の間には空より高い壁があるよ!」
「そうなんだ」
確かに親愛と愛情では違うだろうけど。
「それに、そうだよ。君ってば全く拒まないから……だからは僕ずっと夢だと思ってて」
「それでか」あんなに十一月に距離があったのに、ここに来てからいきなり近くに来たのは。
「僕はね、雪に埋もれて死んでしまおうと思ってたんだよ。死ねないって分かっていたけれど、綺麗に埋まって無くなりたいって。そうしたら君が起きてきて、僕の名前を呼んだから。ああこれは夢なんだなって。都合のいい夢なら、我が儘をいってもいいかなって」
「我が儘いわれた覚えあんまりないけど。世話を焼かれた覚えの方が多いし」
「だって、君にしたいことって、いっぱいあったんだよ。風邪を引いた時の看病だってしたかったのに、僕にはずっと体が無かった。話したり一緒にご飯食べたり一緒に眠ったりも、十一月の時にだってファルロスだった時にだって出来なかった。それを、君、全部許しちゃうんだもの。流石に現実だと思わないよ」
「俺は全部拒みそうに見えてたのか」
綾時が否定しなかったので少しばかり悲しくなる。でも綾時に求められたのはどれもしたことのない物ばかりだった。それを端から受け入れて行ったのは確かに不思議だったのかもしれない。でも今思い返しても、やはり拒むような理由だってどこにもなかった。
「それにさ、十一月の頃は君ずっと僕を望月って呼んでたのに、名前で呼んでくれるんだ。余計に夢だと思うよ」
「それは、だって。俺だってその、名前で呼んでみたかったんだよ」
皆綾時って呼ぶけれど、初めに望月と呼んでしまったらその後呼び方の変え方が分からなくなった。
ここで綾時と口にしたらあまり違和感がなくて、綾時にも何も言われなかったのでてっきり気付かれていないと思っていたのに。
改めて指摘されると恥ずかしい。じっと顔を見られるのに耐えられなくなって、綾時の肩を突き飛ばして覆い被さるように抱き着いた。どれだけ寒いところに居ても、綾時は温かい。温かい綾時に戻っていた。ぎゅうぎゅうと抱き着いたせいで綾時がぽつりとつぶやいた「嬉しい」という言葉が直ぐ耳元に聞こえて心臓に悪かった。
「ねえもしかしてさ、君だけならここから出て行けるんじゃないの」
「なんでそう思うんだ」
「だって外から呼ぶ声が聞こえてるし、自分が入院してることも分かってるんでしょ。それに引かれるように近付けば、そのまま出られるんじゃないのかな」
「そうかも」
だったら、と綾時が言う前に否定する。「でも出てかないから」
「どうして。ここから出られなかったら最悪君は死んでしまうかもしれないのに」
「だから覚悟決めてここに居るんだってば。それにさ、ここ雪の量が綾時の気持ちと対応してたり、どう考えても綾時の世界なんだけど。そこに入れたってことは、」一緒にいる事を許されているみたいで嬉しかったから、と言おうとして突然恥ずかしくなって、言葉を濁した。
「とにかく、綾時が外に出るまで俺もここに居る」
本当はただ離れたくないだけだけれど。ずっとそばにあったから、離れていると落ち着かない。寂しいとも言う。そばに居ないことの方が不自然に思える。
ふと背中に綾時の手が回された。
「ねえ深月くん、さっき触ってもいいって言ったよね」
「言った」
頷くと、ひょいと体を転がされて体勢を入れ替えられた。頭上に綾時の顔が見える。その向こう窓の外ではきらきらオーロラが漂っていた。
「どこまで」
「好きなだけ」
「言ったね」
額にキスをされた。それから瞼、目尻、頬、唇。
「ねえ、星見なくていいの」と瞳を直ぐそばで合わせて言われる。もう一度少しだけ窓の外を見て、目を閉じた。
「またでいいや」
三章
1
起きて外へ出るととてもいい天気だった。
日差しが燦々と降り注ぎ雪を穏やかに溶かしている。家の屋根に積もっていた雪がずり落ちてきては重たい音を立てていた。
息を深く吸い込むと冷たく澄んだ空気が肺に満ちる。晴れてもまだ尚冷たい空気がぴりぴりと肌を刺した。冬だなあと全く今更なことを思う。
「あっ深月くん、またそんな薄着で外に出て」
玄関からひょこりと綾時が顔を出した。コートを抱えて駆け寄ってくる。ざくざくと雪を踏み固めながらそばまで来ると、無理やりコートを着せられそうになった。
「いいよ、直ぐ戻る」
「ダメ、風邪がぶり返したらどうするの」
「完治したから平気」
「そういうことを言う。油断大敵だよ。君って意外と風邪を引きやすいんだから」
「そうしたら今度こそお粥作ってふーってしてあーんってするのやればいいだろ」
「そんな魅力的な提案をしてもダメだから」
魅力的って思っている時点で若干心が揺れているじゃないか。押し問答の末、結局負けてコートを着せられた。仕上げに綾時の巻いていたマフラーでぐるぐる巻きにされる。これでは重病人みたいだ。対して綾時は薄着になった。ほっと吐く息が白く伸びていくのが寒々しいけれど、何故か綺麗だった。風になびくマフラーに似ていると少しだけ思う。
「何か見てたの」
「いや。雪が減ったなって」
「そうだね」
まだまだ土が見えては来ないが、一歩が大きく埋まるほどではなくなった。一度は窓の高さまで積もったことを思うと随分溶けた。
「現金だな」と綾時の顔を見ながら言う。
「据え膳なんとかは男の恥じって言うんでしょ。ジュンペーが言っていたよ」
ひょいと手を取られて指先に唇を寄せられる。「手袋までは持ってこなかったんだ」と手を握りながら綾時が微笑んだ。
「本調子になって来たな」
「うん。お蔭さまで」
「まあ良かったよ」
さくさくと雪を踏み進む。靴底の形がくっきりと残っていく。手を掴んでいた綾時がつられてついてくる。二人分の足跡が並んで、時々重なる。「あまり遠くに行くと帰れなくなるよ」と声が笑うので「それは困る」と返した。
家から少し離れたところで立ち止まると、綾時の手を振りほどいて後ろに倒れた。慌てた綾時の顔を端っこに見ながら、雪の上に寝そべる。視界には空と自分の吐いた白い息しかなくなった。
「それ、面白くないんじゃなかったの」と綾時が覗きこんでくる。
「そこまで直接的に言ってない」
綾時もこっち来い、と手招くとその手を取られた。起こそうと引かれたので、思い切り引っ張り返すと、力比べで負けたのは綾時だった。聞いたこともない様な悲鳴を上げながら隣りに勢いよく倒れてくる。飛び散って降りかかった雪を払いながら綾時を見れば、むすりとして同じように仰向けになっていた。きっとまた「風邪がぶりかえす」とか言いたいんだろう。
「雪の上に寝そべる楽しさは分からないけど、並んで寝そべるのは結構楽しいだろ」
「それだったらベッドの上でも一緒じゃないの」
「ベッドだと空が見えない」
「君ってそんなに空が好きだったんだ、知らなかったよ」
「綾時の目の色と同じだし?」
「そう言うことにしておこうか」
呆れ気味な綾時が起き上がった背中が見える。影が降ってくる。
「あのさあ綾時」
「なに、深月くん」
「この雪が全部溶けたら外に出られるような気がするんだ」
「雪が?」
「そ。綾時の気持ちが晴れたら」
「そっか。じゃあきっともう直ぐ出られるね」
「晴れた?」
「うん」
綾時は頷き、こちらを振り返ると苦笑した。「雲一つない訳じゃないけどね」
「でも雪は溶けると思うよ。君に言葉を貰ったから。それに、大晦日の約束もあるからね。長居はできないよ」
見上げていた空に、うっすらと雲がかかった。雪雲ではないが、快晴でもなくなる。
「あのさ綾時。もう少しだけ、ここに居ようか」
「どうして。君だって出たいでしょ」
「だってまだかまくら作ってないし」
「そういえばまた今度って言ったね」
「だからあと少しだけ」
起き上がって綾時の顔を覗き込む。綾時は困った風な顔をしながら、髪や肩に付いた雪を払ってくれた。
「いいの」と聞かれる。
「いいよ」と答えると、空にかかっていた雲が綺麗に霧散した。分かりやすいなと笑うが、綾時はどうして笑っているのか分からない様だった。
2
「焦げた」
フライパンの中身を見ながら素直に呟いた。フレンチトーストはこんがりを見事に通り越し、焦げていた。
「君ってなんでもそつなくこなしそうなイメージだったけど、そうじゃない時もあるんだね」
キッチンのカウンターに頬杖をついて綾時が覗き込んでくる。作って持っていくから向こうで待っていろと言ったのに。「手伝おうか」と言われ丁重にお断りする。断わったのに綾時はずっと向かいに立ったままで、尚且つずっとこっちを見ている。
「やりにくい」
「お構いなく」
「戻ってろって」
「お断りします」
結局出来上がるまでずっと綾時は動かなかった。
皿に盛り付けダイニングテーブルに運んで、向かい合って座って、ちょっと焦げたフレンチトーストを食べる。今朝は起きてからずっと向かい合っている気がする。正面からにこにこ微笑まれ続けて落ち着かない。視線を下げて皿と睨みあっていると「香ばしくて美味しいね」と褒めているんだか喧嘩を売っているんだか慰めているんだか分からない感想が飛んできた。まあ焦げていないところは美味しかったと思う。
「お前は向こうで待ってろ」
「お断りします」
食べ終わって洗い物をする時にもこの問答が付いてきた。
流しに立てば自然と綾時がとなりに立ってスポンジを持っていた。腕まくりもしていかにも準備万端だ。
「今日は俺がやる」
「一緒の方が早いでしょ」
「今日くらい綾時はくつろいでろ」
「僕としては二人でやって早く終わらせて、その分構って貰いたいところなんだけど」
「それを言うならこの前までのお前はなんだ。全然やらせてくれなかっただろ」
「あの時は君の世話を焼きたかったんだもん!」
「もんじゃない」
「本当に僕が、いったいどれくらい君に世話焼きたかったか……君は知らないでしょう」
「おかゆをふーってしてあーんってしたい程度に世話焼きたかったんだろ。知ってる」
「だったらやらせてよ」
「向こうで一人でぼーっと待ってる身にもなれ」
「それは寂しかったってこと? 構ってほしかったってこと?」
「この前そう言った」
「そういえば聞いたね。構ってくれなくて寂しかったって」
「そこまで直接的に言ってない」
「間違っては無いって事だね」
そうとも言う、なんてやりとりをしていたら洗い物はすっかり片付いてしまった。結局このパターンか、と横を見れば綾時は満足そうに笑っていた。
「ほら二人でやった方が早かったでしょ」
なんとも腑に落ちない。
洗い物の後は、綾時が甘めに入れてくれたカフェオレをソファで並んで飲んだ。
肩をくっつけて、ゆらゆら立ち上る甘い湯気を吸いこみながら息をつく。この場所にある白色はどうにもひやりとして無機質な印象だったけれど今はそうでもない。湯気は柔らかだし、外の雪も穏やかだ。
このカフェオレをのんびりと飲み切ったら外に行こう。それでこの前作りかけになったかまくらと、それから雪だるまも作れれば作ろう。
「あの、さ。深月くん」とぎこちなく呼ばれる。
なんだ、と綾時を見る。両手で包むように持ったマグカップに落としていた視線を上げると、青い瞳があちこちに揺れた。若干耳が赤い。
「キスをしてもいいでしょうか」
「はあ、どうぞ」
敬語の綾時というのも新鮮なものだ、とぼうっと考えながら気の抜けた返事をした。そしてなぜわざわざ訊かれたのか。突然人の手を取って優雅に雪の上に投げ飛ばしたり、おやすみのキスとか言って不意打ちを仕掛けてきた綾時の言葉とは思えない。
綾時はやたらと直線的な硬い動きでマグカップをテーブルに置くと、一度両手を膝の上に乗せた。背中は丸まっている。それからちらっとこっちを見て、決意を固める様に頷いた。綾時の白い指が伸びてきて、肩に触れる。
「なんでそんなに照れてんの」とあまりに気になってついに聞いた。「この前まであんな積極的な感じだったのに」
「だってこの前までの僕は、僕の都合のいい夢だと思ってたんだよ。だからこうね、改めて目の前にいる君が本物だと思うと、は」恥ずかしくて。
顔を寄せられ至近距離でそんな事を言われたら、こっちが恥ずかしくなってきた。羞恥って伝線するものだったっけ。慌てて顔を下に背ける。
「や、やっぱだめ」
「なんで、この前は君からしてきたのに!」
「この前のは、したら綾時がびっくりするだろうなって思ったから」
「そんな、僕を驚かす為だけにキスしたの」
「そうでもないけど?」
「なんで今疑問形にしたの」
ねえ、という綾時の顔を押し退けてカフェオレの残りを一気に飲み干す。少し冷めてしまっていた。空になったマグカップをテーブルに置き、ソファから転がるように立ち上がる。
「かまくら作ろう」
「ひどい、逃げた!」
そのまま外に飛び出て、防寒着を忘れたと家の中に戻ったところで綾時に捕まった。腕を掴む指の感触だとか、目をつむった時に瞼が震える感触だとか、ふっと顔を掠める呼吸の温度だとか。キス一つであんなに恥ずかしい思いを強いられるとは思わなかった。
外に出れば日差しの暖かないい天気だった。
こんなに防寒着を着込んでこなくても良かったかもしれないと思う程だ。随分減った雪を目の前に、解けきってしまう前にとかまくらと雪だるまを作った。残念ながらかまくらの中で餅を焼くという綾時のささやかな夢は叶わなかった。作り切ったところで疲れて家の中に戻った。
それから昼ご飯を食べた。二人で支度して二人で食べて、二人で洗い物をした。
午後からは映画を見て過ごした。
まだ見ていない物で気になったものを片っ端から再生していく。ただ集中して鑑賞するわけではなく、見ながらゆっくりと会話した。このシーンがどうだとか、好きなものの話しとか、修学旅行の時の話だとか。大富豪で見事一抜けた綾時に手渡されたあの紙袋の中身がどうだったかとか。
映画の合間に手を掴まれて骨をなぞられたりもした。骨に興味があったわけではないらしく、ただぺたぺたと触って満足していた。一回だけ膝の上に座ってみて欲しい、と映画の中でそんなシーンが出てきた時に言われた。座ってみたは良いのだけれどあまりに落ち着かないので直ぐに降りた。代わりに綾時を膝に乗せてみたが「何も見えない」というと申し訳なくなったのかこちらも直ぐに降りた。
その後はまただらだらと。
夜になったら防寒着を着込んで外へ出た。
家から少し離れた場所で、二人で寝転んで星を見た。遮るものが何も無い空は広かった。現実の星空と同じなんだろうか、と星座を探してみたがそもそも星座に詳しくなかったので分からずじまいだ。
吐いた息は白く白く棚引いて消えていく。この時間が終わればあとは別れるだけだ。どうなっても、何を選んでも、絶対に綾時は居なくなる。その後自分達だって死ぬかもしれない。夢だと思ったんだと言った綾時は間違っていないのかもしれない。
それから穏やかに雪は溶けていき、意識が遠のくように目が覚めた。
3
影時間の緑の闇の中だった。
月の灯りが照らすだけの静かな闇の中。何も無かった場所に血だまりの様な赤が滲み出ては滴っていく。世界を丸ごと飲みこんだ何かの胃の中のような時間だった。
病院のある病室のベッドに寝そべっている自分を、綾時が眺めていた。他には勿論誰も居ない。廊下や他の病室に眠る患者たちは皆棺に包まれている。
自分は点滴やチューブに色々と繋がれていた。その内の何本かは機械に繋がっている。何かを計測していたと思われるが、影時間で一切の機器類は止まっている。もしこの機械が自分の生命維持装置だったとしたら、影時間で機械が止まったら自分は死ぬのだろうか。そんなことは勿論ないが。なにせ自分はただ眠っているだけなのだ。
綾時は暫く眠っている自分の顔をずっと見ていた。何も言わず、穏やかそうに、静かに。
窓の外遠くにはそびえ立つタルタロスが見えた。
「大晦日にまた来るよ」
小さく言葉を告げ、綾時は姿を消した。初めから何も無かったように音もなく居なくなる。そうして瞬きをするように影時間が明け、非常灯がともった。
目を覚ますと白い天井が見えた。そして消毒液の独特な匂いが鼻を掠める。窓の外は晴れた夕暮れだった。窓が開いていてカーテンがなびいている。
体を起こそうと思ったのだが上手く行かない。ぱちり、と瞬きをするとあっという声が聞こえた。
「深月」
顔を傾けると、驚いた順平の顔があった。そしてゆかり。
「気が付いたのか!」
「嘘、緒張くん」
気が付いたの、と言われる。二人とも驚いて取り乱し、辺りにあった椅子やら何やらを蹴とばした。そんなに驚かずとも、とその姿を見守る。
「分かるか、深月。俺だぞ」
「なによ俺って。緒張くんここ病院だよ。倒れて運ばれての覚えてる?」
「そうだぞお前、綾時追っかけてったかと思ったら廊下に倒れて全然気が付かねえで……ほんとさあ」
順平が帽子のつばを掴み、目深に被り直した。「オレ、センセー呼んでくるわ」と言い残し病室を出て行ってしまった。後に残されたゆかりは、蹴り飛ばしてしまった椅子を直しそこに座った。
窓側を見れば花瓶に花が活けられていた。凄く新しい。もしかしたら今持ってきてくれたものかもしれない。
「緒張くん、体は。平気?」
「……まあまあ」
「なによそれ」ゆかりが苦笑した。
「でも良かったよ、目を覚まして。全然原因分かんなくて、お医者さんにはただ寝てるだけだとか言われたんだから。ほんと、どうしようかと思ったんだから」
ゆかりは項垂れて、ベッドの白いシーツの上で両手を組んだ。長い髪に隠れて表情は見えなかったが、声が確かに揺れていた。
「四月の時とは違うじゃん。皆死んじゃうかもって時に、君だけのんきに寝ててさ。起きなくて」
「たけば」
「死んじゃうかと思った。やめてよね、そういうの。心配したんだから」
泣いているらしいことに気がついて、掛ける言葉は全く見付からなくなった。自分はいったい何日眠っていたんだろうか。少なくとも一日二日ではないことは分かった。きっと綾時と過ごしただけ消費したのだ。
「ごめん」
それ以上は何も言うことが出来なかった。
「今更そんなふうに取り繕わなくてもいいから」
そう声を掛けると、微笑みを保っていた綾時の表情は零れる様に崩れた。
寮に入ってきた時から、そしてこの部屋に入った時にまで優しく穏やかに形を保っていた笑みが消えて、代わりに泣きそうな顔になる。綾時はベッドに腰掛けていて、眉をハの字に下げた後、もう一度ほんの少しだけ唇で弧を描いた。
「分かっていたけれど、殺してはくれないよね」
「あたりまえだろ。むしろこれで殺してもらえると思われてたらそっちの方が傷付く」
「そうだよね、うん。分かっていたよ」
綾時は今にも泣き出しそうなまま笑うと、ベッドから立ち上った。その正面に並ぶと、少しだけ見上げる形になる。青い瞳は涙の膜に覆われていて、こんな日でも水面みたいに綺麗に輝いていた。
「ひさしぶり、綾時」
「うん、半月ぶりだね深月」
「元気にしてたか」
「うん。ひさしぶりに会うと、深月って結構小っちゃかったんだね。もっとなんか、大きい気がしてた」
「綾時がでかいだけだ。ファルロスの頃はあんなに小さかったのに」
「それはほら、君を支えられるくらい大きくなりたかったから。でもこうしてみると、ちょっと淋しいね」
「なんだ、それ」
綾時がするりと片手を上げた。その中指で頬を撫でられる。「少し触ってもいい?」と控えめに尋ねられた。
「今更だろ」と笑って返す。
ひたりと掌が頬に押し当てられる。綾時の手は冷たかった。夜みたいだ。
「現実の君に触るのは初めてだ」
「そういえば、そうなるのか。何か違うのか」
「全然変わらないよ。半月ぶりに触ったなって思う」
「ふうん。綾時は手が冷たいけど、寒いのか」
「ごめん、冷たかった? 君寒いの苦手だよね」
「これくらい平気だけど、そうじゃなくて」
綾時が慌てて手を離したのを追い掛けて止める。冷たい手を握って再び頬に押しあてた。確かに冷たいけれど、だからといって嫌ではない。
「僕は、寒くないよ。というよりは、実は寒いとか分かってないみたいなんだ。温度が高いとか低いとかは分かるんだけれど」
「寒くないならいいけど。それより、これだけでいいの」
「なにがだい」
「触るの。ほっぺただけで」
「君って意外と積極的なところあるよね」
「だって、今日で最後だろ」
言葉にしてしまうとそれはやたらと重かった。
少しだけ笑みを取り戻した綾時の顔は、また泣きそうなそれに変わった。存外泣き虫な綾時の目元に指先を伸ばし触れる。顔も手と同様ひんやりとしていた。
頬に触れていた手が離れ、背中に回る。応えるように綾時の頭を抱き寄せた。
「こんなことなら、もっと、十一月にもっと触れていたらよかった」
「今更そんなこと言うなよ」
「だって、僕と君の間にはもう時間がない」
机の上に置かれた時計は、長針も短針も真上へと集まりつつある。ほんとうにもうさいごだ。
痛い程背中を抱き締められる。そういう気遣いが出来ない綾時というのが新鮮だった。
「まだあと少しある」
「うん、うん」
表情は見えないけれど直ぐそばで洟をすする音がする。それに混じって時々喉が引き攣って、溜息のような吐息が漏れるのも聞こえる。体温の無い丸まった背中を撫でながら、こうして触れていられるのも本当にあと少ししかないと思うと、心の準備をしていた筈なのに息が苦しくなる。
あと、あとたった数時間もすれば綾時とはお別れだ。
遠くへ行ってしまうけれどきっといつか会えるだろうということと、もう二度とどうやっても会うことが出来ないことの差は分かっていた筈なのに。こうして再び向かい合うと、やっぱり覚悟なんて出来ていなかったことに気が付いた。
暫く静かに抱き合っていると、突然綾時が声を上げて泣きはじめた。つられて泣きそうになる。鼻の奥が痛い。目が痛い。
「僕がこんなこと、言えた義理じゃないって分かっているけれど、どうか、どうか元気で」
「りょうじこそ、」
元気でとは、この後消えてしまう綾時には言えなかった。