三月、麻婆豆腐

(爆轟)

 
 
 
 
 

 じゅわ、とフライパンが音を立てる。
 だれもかれもが出払った日曜日、昼。寮の中はあまりに静かだ。クラスメイトは各々のインターン先へと赴いている。いつも通りならば、夕方まで誰も帰ってこないだろう。
 爆豪はたまたま予定が空き、一人ここに居た。午前中は掃除のあとトレーニングをこなし、昼になったので寮に戻ってきた。
 食事の申請はあえて出さなかった。寮という性質上、静かに好きなものを作るチャンスは滅多にない。キッチンに居ると、誰かしらが絡みに来るからだ。
 目の前にあるフライパンの中で、麻婆豆腐がぐつぐつと煮えている。もう少ししたら片栗粉を流し込み、と考え、ふっと息を吐いた時、足音が聞こえた。誰も居ないはず、だったのにだ。
「誰だ」と振り向く。「おっ」という間抜けな声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
 轟が居た。
 思わず「ア?」と声が漏れる。
 向こうも同じように驚いていた。
「爆豪、インターンじゃねえのか」
「エンデヴァーんとこは、今日休みだろうが」
 俺もお前も一緒だろうが、と吐き捨てる。エンデヴァーはミーティングに呼ばれているそうだ。大方、ヴィラン連合の件だろう。
「そうなんだが」と言いながら、轟がキッチンへ踏み込んでくる。「緑谷は、リューキュウのところに飛び込みで行っただろ。だから、爆豪も一緒だと思ってた」
 そう言われ、思わず「それはこっちのセリフだカス」と言いそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。
 ぐっと喉が絞られ、それから「ハァ?」という叫び声に似た呆れが飛び出る。
 緑谷がリューキュー事務所に一日だけ行っている、とは知っていた。
 知ろうとせずとも、あれだけ大きな声で話されれば、クラスメイト全員の耳に入るというものだ。そしてその時、轟も同じ輪の中にいた。なのでてっきり、轟もそちらに行っている、つまり今日は誰も居ない、と思っていたのだ。
 まさか轟に同じ思い込みをされていたとは思わなかった。
 げえ、と舌を出し、フライパンに向き直る。
「で、なにしに来やがった」
「なにって」と言った轟の腹が、ぐう、と音を立てた。
 こいつ腹で返事しやがった、と思うと笑いがこらえきれなかった。ぶっと吹き出して口元を押さえる。堪えきれなかった笑いが、唇の隙間からシシと漏れ出た。
「そんなに笑うなよ」
「ッシシ、昼だもんなァ」
 腹減るよなあ。
 横目に見た轟が、不満そうに唇を尖らせていたので、余計に笑えてくる。顔を背けてなおも肩を揺らせば「爆豪の笑いのツボ、良く分からねえよな」と困惑した声色が聞こえてきた。
 ヒッと息を吸い込み、涙の滲みそうになった目で瞬きをする。
 笑った笑ったあほらしい、と息を吸う。
「で、飯は」
「蕎麦を茹でようと思ってたんだ」
 ほかに誰も居ないと思って飯頼んでなかったから、と付け加える。「んなことだろうと思ったわ」と鼻で笑う。轟はスリッパでぺたぺたと近づいてくると、爆豪のとなりに並びフライパンの中身を覗き込んだ。
「お、麻婆豆腐か」
「蕎麦の付け合わせにはやらねーからな」
「……チッ」
「ンだと」
 コイツ繊細そうなツラして図太いんだよな、と氷側の横顔を見る。
 押し退けたところで食い下がることも多い。今日も戸棚から蕎麦を出しに行くポーズを見せながらも、未練たらしく視線がフライパンを覗き込んでいた。交渉説得駆け引きが不得意な直球タイプなりに、相伴にあずかる方法でも考えているのだろう。
「……一人分だから足んねーンだよ」
 轟から視線を外し、そう言う。
 背後でぴたりと足を止めたと、気配で分かる。背中越しに、爆豪の様子をうかがっている、とも分かる。
 ばれないように息を吐く。いったいいつから、コイツにこの距離を許すようになってしまったのか。
「蕎麦以外なら考えてやる」
 小さく投げやりに言えば「ほんとか!」と轟が視界に舞い戻ってくる。
 色違いの瞳をぱっと輝かせたあと、一瞬、逡巡するように上にそらした。それから「分かった」と頷く。
 こいつ、でも蕎麦も惜しいな、と考えやがったに違いない。そのまん丸頬っぺたをつねってやろうかと思った。
「蕎麦を名残りおしく思ってんじゃねェ!」
「い、いや、そういうわけじゃねえ」
「図星だって駄々洩れだわ。蕎麦はいつも食ってんだろうが」
「そんなにいつも食ってねえ」
「ほざけ」
 昨日も食ってただろうが。とあきれて吐き出せば、轟が目を丸くしていた。
「よく見てるな」と感心したように言うので、盛大に表情を歪ませて答える。
「見なくてもわかんだろうが」
「いや、そっちの方が凄くねぇか?」
 つかやっぱ食ってんじゃねえか。と睨むと轟が目をそらした。失言を誤魔化すように、顎に手を当て考えているそぶりを見せる。その額に向け、デコピンを放った。バチンといい音が鳴り「いってぇ」とうめき額を押さえる。
「さっさと付け合わせを考えてこねェと、分けてやンねえからな」
 横目に睨むと、轟は慌てて冷蔵庫へ向かった。なにを出してくるのかと様子をうかがいつつ、焦げ付かないようフライパンを揺する。
 がさごそという音を背中にしていると「おっ」とご機嫌な声が聞こえてきた。「爆豪」と呼ばれ振り向くと、轟が冷凍餃子のパッケージを掲げていた。
「餃子はどうだ? この前テレビでみて、美味そうだなって思って買ってたやつだ」
「……採用」
「よし」
 予想よりいい案が出てきたことに感心しつつ「そのあと、野菜室にトマトあんだろ。そいつ切れ」と指示を投げる。「任せろ」とヒーローらしく力強い返答が、腕まくりの仕草と共に返ってきた。
 轟は冷凍餃子パッケージを裏返し、熱心に作り方を読み込み始めた。その姿に向け「はよ来い」と声をかける。片手間に戸棚からフライパンを取り出し、麻婆豆腐のとなりのコンロに置いた。
 近寄ってきた轟が油をひき、餃子を並べ、蓋をして、火をつける。コンロのつまみを左右に微調整しながら「自分の火力調整はうまくなってきたと思うが、コンロは難しいな」と妙なことを言った。
「次はトマトだったな」と新たな現場に赴こうとする轟の腕をつかみ、引き留める。
 まん丸な目が、爆豪を映した。物言いたげな視線の色に、そんなに珍しいか、と考える。まあ、珍しいだろうが。視線をそらすように手を離し、代わりにスプーン掴んだ。
「こっちの味見してけ」
「え、いいのか」
「辛すぎて食えねェつっても知らねえからな」
「する。味見してぇ」
 慌てながらも素直さをみせる、食い気味な答えがおかしかった。
 フライパンの中身をスプーンにひとすくいし、おとなしく目を輝かせて待っている轟に差し出す。「おら」と顎で示せば、ぱかりと口を開けた。
 そのあまりに無防備な仕草に「ハ?」と声が出た。
 なに考えているのか、と様子をうかがっていると、轟は一度口を閉じた。
「俺熱いの平気だから、大丈夫だぞ」
 個性の半分は炎熱だからな。と、べっと舌を出すものだから、めまいがしそうだった。取り落しそうになるスプーンをぎゅっと指で挟み直す。
「なに食わせてもらおうとしてンだ」
 持て、と再度スプーンを突き出せば、ようやく察したらしい。
 ぱっと目元を赤くすると「悪ぃ」とおずおずと指先を差し出してきた。天然かよ、と思わず目を細める。
 あーんしてもらおうと思っていた現実が時間差で骨身に染みだしたのか、瞬きの回数が増える。目元に続いて耳の先まで赤くなっていた。眺めていると、つられてこちらの喉元へまで熱が上がってきそうだ。視線をそらし、溶いた片栗粉に目を落とす。
「ん、うまい」
 ぺろりと唇の端を舐めながら、轟が答えた。「けど、これ」と考えるように言葉が続く。
 蕎麦ばかり食べているが、舌は馬鹿ではないらしい。言い当てられては癪だったため、先に答える。
「テメェのねーちゃんのレシピ」
「やっぱりそうか。作ってくれたんだな。今度姉さんに教えるな」
「余計なことすンな」
 そう言いながらも、唇の端が笑ってしまっていた。その事実に気付き、急いで眉を寄せる。むすっとしながら轟を見る。幸いこちらを見ておらず「あっトマト」とあわただしく冷蔵庫へと向かっていった。
 静かに息を吐く。
 味は十分。レシピの再現度も十分。
 コンロの火を止め、溶いた片栗粉を流し込んだ。

 
 
 

 白米と麻婆豆腐と餃子とトマトを置いた食卓に、轟と並んで座る。いただきます、と手を合わせて箸を持つ。早速麻婆豆腐を口に運んだ轟が「うまいな」というので「当たり前だろうが」と答えた。
 ふと顔を上げる。
 静かだ、と思った。間近に大規模な作戦が、敵が迫りきていると忘れそうなほど、なにもない日常だ。
 昼からは洗濯をしよう。ところで黙々と食事を進めるとなりのこいつは、今まで何をしていたのか。暇ならトレーニングに付き合わせるのもありか。
 そんなことをつらつらと考える。この日常を、そのうち夢にでも見そうだ。
 冷凍餃子は当然のように美味かった。