レンジに卵を入れるな!

(190506発行爆轟本の再録)
 
 
 
 
 
 
「全治一か月ですね」
 念を押すように「もちろん、きちんと静養した場合ですが」と目の前の医者が言った。
 右腕が妙なギプスで固定されている。
 肘を曲げた格好で、肘から指先までがガチガチに固められていた。鎮痛剤のおかげで痛みは感じない。だがそこに貼られたレントゲン写真が「ボッキリと折れた骨」という現実をまざまざと突き付けてくる。
「じっとしていて、一か月ですからね。職業柄じっとしているのは性に合わないでしょうが、短くて一か月ですので。当然、延びる可能性は存分にありますよ」
 人を何だと思っているのかと疑うほど「いいですね」と念を押された。
 これまでの自分ならば、短い導火線はとっくに燃え尽きていただろう。椅子から腰を浮かせ「舐めてンのか」と睨みつけていたかもしれない。しかし医者相手に怒鳴ったところでどうにもならないなど、さすがに知っている。二十四年も生き、場数を踏めば、様々抑えこむ術も身に付くものだ。
 だが今はそれよりも、漠然とした焦りや己への落胆で、胸の内が埋め尽くされていた。休業という言葉が、すとんと心に落ちる。これから一か月、なにもできない。実際やることはあり休業はしない。だが、ヒーローとしての活動はまず出来ないだろう。
「そっすか」
 口から出た音はすんなりとしていて、諦めにも似た色をしていた。怒鳴ったところで骨はくっつかない。
 ある春の日、腕が折れた。

 
 
 

 
 
 
 
 

    
「爆豪!」
 叫びにも近い声が飛び込んできた。
 慌てふためくそれが家の中に転がり込んできたのは、長くなってきた陽も落ち切った頃だった。
 がちゃがちゃと騒がしく鍵が開き、ばたばたとうるさく靴が脱がれ、広い歩幅で短い廊下を駆けてくる。リビングに続くドアがこれまたけたたましい音を立てて開かれた。
 珍しく息を切らせた轟が、髪をぼさぼさにしてそこに居た。
「おかえり」
 キッチンから顔を出しその顔を見て「ハッ」と笑う。
 変装用の帽子をどこで取り落としてきたのか、めでたい色の髪があちこちにぴょんと跳ねていた。野暮ったい黒ぶち眼鏡のレンズの奥で、目が真ん丸に見開かれている。
 色違いの瞳が爆豪の姿を捕らえると、詰めていた息が大きく吐き出される音がした。風船が萎むように肺から空気を押し出し、気が抜けた様子で床にへたり込むと背中を丸めた。
 膝を抱えて丸くなった轟の内側から「病院、運ばれたってきいたから」とくぐもった声が聞こえた。
「スゲー焦った」
「腕折れただけっつーの。メッセ飛ばしたろ」
 診察が終わってすぐ、轟にメッセージを送った。「腕折れただけ」という短い言葉には既読が付いていたはずだ。それにも関わらず、なにをそれほど慌てて帰ってきたのか。いっそ呆れてしまう。「それほど心配するとはかわいいなあ」などという感性では、プロヒーローなどやっていられない。いちいち心配していては心労が馬鹿にならないからだ。
 轟はがばりと立ち上がると、背負っていたリュックを下ろした。派手に開け放ったドアから一旦出て行き、変装用の帽子を拾って戻ってくる。「はあ」と誤魔化すような溜め息を一つ吐くと改めて爆豪を見た。
「ただいま」
「おー」
「てか爆豪、何してんだ」
 暗に「お前怪我人だろう」と言いたそうな声だった。
 爆豪は今、キッチンで鶏もも肉を切り分けていた。利き手の可動範囲が著しく狭められているため、かなり作業をし辛い。しかし全く出来ないという程でもない。持ち前の器用さでどうにか出来る範囲内だ。
 つまり夕飯を作っていた。
 端的に「飯」と伝える。
「いや、腕折れたんだろ」
「まぁな」
 鶏肉をまな板の端に避け、次は玉ねぎの皮をむく。動かし辛い右手で掴み、左手で皮をめくればどうにか出来る。利き腕をギプスで固定された時には慌てたものだが、日常生活を送る分には問題なさそうだ。
 アウターをソファに放った轟が、キッチンカウンターへと回り込んでくる。シャツの袖ボタンを外し、腕まくりをするとシンクで手を洗い始める。
「おい、折れたの利き手じゃねえか」
「まぁな」
 タオルで手を拭いた轟に、満を持して登場だといった顔つきで見つめられる。それを横目に睨む。予想通り、自信たっぷりに首を縦に振った。
「飯作んの代わる」
「イラネー」
「ア? 何言ってんだ、骨折ってるくせに」
「骨折れていようが、テメーよりはうまいこと作れるわ。向こう座ってろ」
 いつもみたいに。と顎でカウンターの向こうにあるソファを顎で示す。
 ソファは壁に掛けられたテレビの方を向いている。あそこに座ってくれたら、ここからは横顔が見える。まじまじ見つめ合うことは性に合わないため、のんびりとしている横顔を眺められるくらいが丁度いい。
 本人には絶対伝えることのない、ささやかな楽しみだ。当然知らない本人は、爆豪の邪魔をせんとくっついてくる。包丁を握る相手に対し、急に手を出さない気遣いだけは褒めてやりたい。だがそれ以外は一切褒められない。
 左肩にぐーっと押し付けられた体温は甘やかだが、今は左手で包丁を握っている。慣れない作業に慎重になっている今はただただ邪魔だった。それが狙いなのだろうが。
 しびれを切らし、舌打ちを一つ向け「オイ」と顔を向けると白い髪に頬をくすぐられた。
「ん?」と目を丸くした轟と、拳一個分の距離で目が合う。
「邪魔」
「お、隙あり」
 一旦、玉ねぎと包丁をまな板に押し付けたところ、微妙な手刀に左手の甲を叩かれた。「ハァ?」と苛ついた声を漏らしている間に、包丁が奪われてしまう。
「玉ねぎ切ればいいのか?」
「何やる気出してんだよ」
「爆豪器用だけどよ、流石に左じゃ包丁使いにくいだろ」
「舐めんな」
 そう言い返しはしたが、作業し辛いのは事実だ。思ったよりも動かせるとはいえ、可動範囲が狭いことに変わりはない。出来ないわけではないが、やり辛い。
 鶏肉はまだ良かったが、つるりと丸い玉ねぎに包丁を入れるとなると少し緊張した。そもそも何故自炊しようとしたのかと、思い始めていたところだ。
 怪我をしたのが昼間、夕方には病院から解放され、いつもよりも相当早い帰路に就くことになった。時間があったので買い物に行き、日が暮れてきたので飯を作り始めた。体に染みついたルーチンだ。
 しかし流石に、総菜でも買って帰るべきだった。思い当たらなかったということは、上の空だったのかもしれない。
「心配ならとなりで見ていてくれ」
 自信に満ちた轟に見つめられ、渋々キッチンを明け渡す。
「……しゃーねえなあ」と、一歩となりにずれると、その分轟が踏み込んでくる。袖をまくり直すと「よし」と根拠のない自信に満ちた、聞く者を不安にさせる声を発した。
 プロヒーローショートの言う「よし」と日常生活中の轟の言う「よし」は大きく趣が異なる。
「で、何作るんだ」
「親子丼」
「なるほどな、丼物ならスプーンで食えるもんな」
 その通りなのだが、認めることはどうにも癪だ。無言で睨んでいると「そこの気は回るのに、なんで自炊しようとしちまったんだ?」とやけに鋭く切り込まれた。叩いてやろうかと思ったが、包丁を握っているため勘弁してやった。
 全身から「料理慣れしていません」という雰囲気を溢れ出させている轟が、丸い玉ねぎに包丁を入れた。変に斜めに切れた断面は、見る者を不安にさせる。
「危なっかしいなァ」
 呆れて声をかけると、轟の眉がムッと寄せられた。
 包丁を握る轟の手の甲に触れ、少し手を出すからなという意思表示する。切りやすいよ玉ねぎを並べ直してやり「こっちから包丁入れろ」と刻み方の指示を出す。
「わかった」と轟が頷く。
 ドキドキと心臓が逸るほど男らしい勢いで、包丁が振り下ろされた。まな板がタンッと音を立てる。
「お、見たことある形になった」
 切られた玉ねぎを見て轟本人はご満悦だ。早速自信を得た様子で「今までずっと爆豪にまかせっきりだったもんな、これからは俺も覚えるぞ」と訴えかけられる。
「イラネー」
 げんなりとした気持ちで答えるも、轟の自信は一切減衰しない。不規則なリズムで玉ねぎが刻まれていく。
「包丁久々に握ったが、結構楽しいな」
「こっちは全ッ然、楽しくねえわ」
「これで俺も作れるようになったら、早く帰った時、飯作って待っててやれるぞ。あれだ、ご飯にする、お風呂にする」
「こんなもん直ぐ治るから必要ねえわ」
「おい、最後まで言わせろよ」
「飯出来てんなら飯先に食うだろ、あれ」
 呆れ果て、冷蔵庫を開ける。完璧に把握している配置の中から、卵と油揚げと粉末だしを取り出す。続けて戸棚から乾燥わかめと、フライパンと片手鍋を出してコンロに置く。
「で、その腕、どんくらい掛かるんだ」
「一か月」
「……十分長くねえか?」
「治癒課の予約、詰まってんだとよ。タイミングわりー」
 社会に出たことで骨身に染みたことの一つが、治癒能力者の希少性と有り難みだ。リカバリーガールが常駐していた雄英高校が、いかに恵まれた環境だったかということは、やはり離れてこそ思い知る。
 それでも同県内の病院に治癒課があり、治癒能力を持つヒーローが籍を置いているというだけでも、十分に恵まれている。だが当然、需要は高い。
「元々予約取りづらいもんな。じゃなくて、一か月も掛かんのか。その間は事務所はどうすんだ、休業か?」
「いや。サイドキックだけで回せる範囲で仕事するつもりだ」
「そっか。ならやっぱ俺も料理」
「くどい」
 乾燥わかめを水で戻しながら、玉ねぎを切り終えた轟の手元に油揚げを置く。「これも入れるのか?」といつもの親子丼には入れない具材に不信感を抱いている。
「味噌汁用」と答えを言うと「味噌汁に入ってる油揚げの形は分かるぞ」と自信たっぷりに刻み始めた。いつもの油揚げの切り方とは違うのだが、訂正することも面倒だ。
「骨折以外には」
 包丁を置いた轟に、顔を覗き込まれる。
「なんもねえわ」
 擦り傷切り傷、多少の打撲など、怪我のうちに入らない。
 爆豪の言葉を聞いた轟が、思い出したようにほうっと息を吐いた。むず痒い気持ちになりながら、コンロの前を譲って次の指示を飛ばす。目分量で湯を沸かそうとするめでたい頭を叩いて計量カップを持たせる。見張っていて正解だった。
 いかにも女子受けする、柔らかく整った顔立ちをしているくせに、やけに男らしく雑なところは全く嫌いではない。だがそれとこれとは話が別だ。止めなければ粉末のだしも、適当にまく気だったのだろう。
「やっぱ、緊急速報に名前出るとドキッとするな」
「あー、中継入っとったな」
「先にそっちのニュースを見ちまったから余計な、焦った」
 無事でよかった。と、ぽこぽこと気泡の沸き上がる鍋底を見ながら轟が言う。
 その気持ちを分からないとは、とても言えない。
 ニュース速報に流れるヒーローの名前など、良い知らせか悪い知らせかの、極端な二択でしかない。爆豪の骨折とて、この程度で済んだというべきだろう。
 運が悪かった、油断した。そうとしか言いようのない状態から負った怪我だが、運悪く死ぬなどよくある世界だ。
「そういえば、それ、ギプスだよな。変わってるな」
 今気付いたという様子の轟が手を伸ばしてきた。爆豪の腕を覆うそれは、確かに見慣れない形をしている。二色の瞳に向けて腕を差し出すと、思い切りよく掴まれた。
「お、思ったよりかてえ」
「柔らかかったら困んだろうが」
 ぺたぺたと手のひらが撫で、爪の先で硬度を確かめる様に弾かれる。全く遠慮のない手つきだ。
「ギプスっつーか、ガントレットみてえだ。新しいコスって言われたらたぶん信じる」
「コスにしちゃ味気ねえだろうが」
「ああ、色とか?」
 白い帯が網目状に巻き付けられたかのようなこれは、変にデザインに拘られている気配がある。初見でギプスと見抜くことは難しいかもしれない。従来のギプスに比べてかなり薄いため、服の下に隠してしまうことも出来る。
 それでいてしっかりと固定されて動かない。だがあからさまに「腕が折れています」という格好で固定されているため、ギプスだろうと察しが付くというところだ。
「なんでも試作モデルらしいわ」
「実験台にされてんのか」
「人聞きの悪いこと言うンじゃねえ。だがまあ、んなところだろうな。おかげで明後日また病院だわ」
「明後日か。三日後なら俺休みだったのにな」
「ついて来ようとしてんじゃねェ」
 腕を奪い返し「おい、具入れろ」とフライパンを示す。「おお」と思い出したように轟が動き始めた。鶏むね肉と玉ねぎを沸騰しただし汁の中に入れる。
 後はもう大した作業ではない。元々簡単な料理だ。
 鶏肉に火を通す間に卵を溶かせる。そうこうしていると片手鍋の方が沸騰する。「次は味噌を溶き入れろ」「だから適当に入れようとするな」「その上溶けてねえのに投げ入れようとするな」「親子丼の方も気にしろ」「おい轟!」
 ああだこうだと飛ばす指示に、次第に怒気が混じってくる。並行作業させようとしたのは間違いだったと後悔が始まる。自分が作業をする手順で考えていた。慣れている人間と、慣れていない人間の処理速度が違うなど分かっていたはずなのに。
「アー」と唸って舌打ちをすると、急に胸倉を掴まれた。
 怪我人への気遣いを見せた男とは思えない力強さで引き寄せられた。そのまま噛みつくような勢いで唇を塞がれる。ぐっと押し付けられたかと思えばあっさりと、唐突に解放される。
「ウルッセェ、少し黙ってろ」
 地を這うような声で囁かれ、思い切り睨みつけられた。
 とてもキスを仕掛けて来た人間とは思えない顔だ。うるさい以外の感情を一切持ち合わせていない時の表情だ。これほど口の悪い男だっただろうか、口癖が移ったのかとぼんやりと考える。
 キスしたばかりの唇の隙間から、舌打ちが飛び出てきた。味噌を解き終えると、わかめと油揚げを投げ込み火を止める。流れる様に溶き卵をフライパンへ流し込む。一気に入れるなもっと丁寧に入れろ、という言葉は生憎口の中に押し込められたままだった。
 学生の頃はその顔のことをガン決まりなどといって揶揄われていたなと、一瞬記憶が過去へと飛ぶ。
 そのくせフライパンの火を止めると「よし、出来たぞ」と満足そうに笑いかけてくる。落差が激しい。
 爆豪は不覚にもときめいてしまっていた。

 
 
 
 
 
 

     

 轟とは、高校二年の終わりから付き合い始めた。桜が咲くには少し早い、印象的な季節の頃だった。
 そこから一年、爆豪勝己という人間にしては比較的穏やかに、それでいて順調に交際した。そして高校卒業と同時に同棲を持ち掛けた。
 どちらも実家を出るつもりだった。プロヒーローになればきっと忙しくなる。会うための時間を捻出し行き来するくらいなら、初めから一番近くに居た方が効率がいい。家事も分担できる。
 等々の理由をこれでもかと並べ立てた。断られるつもりはなかった。それでも少しの緊張を孕んで提案した。「うん」と頷き可笑しそうに笑った顔を、今も覚えている。
 サイドキックとして四年を過ごした後、独立した。事務所を立ち上げて今年で二年になる。それなりに順風満帆と言って良いだろう。
 派手な怪我もせず、別れ話が持ち上がる気配すら一度もないまま、変わらず生きている。強いて不満点を挙げるならば、趣味に割く時間が取れていないことだろうか。
 このままの日々が延々と続いていくものだろう。そう漠然と思っていた。そういう油断があった頃だ。人間そういう時期が一番危ないと知っていたはずなのに。
 一か月も現場を離れるなど、これが初めてのことだ。

 
 

「やあやあ、よくお越しくださいました」
 すらすらと淀みなく活力に満ちた声色が爆豪を出迎えた。くたびれた格好を、どうにか白衣でごまかして仕上げたという様子の女性が、両手を広げている。
 呼ばれて診察室に入り、最初に目に飛び込んできたのがそれだ。爆豪にギプスを取り付けた女性医師は別に居り、椅子に座って苦笑している。そこで色々と合点がいった。
 その女性、発目明がこのギプスの発明者らしい。
 爆豪は発目と面識はあるが、連絡先は知らない、それくらいの距離感だ。在学中にコスチュームの改造等で幾度か顔を合わせたことがある。だがそれはあくまで在学中のこと。卒業してからあったのは、これが初めてだ。
 記憶の中の発目はいつも作業着姿で、油や煤で薄汚れていた。今も頬に煤の跡が残っている。見かねたそこの医者に、白衣を着せられたのだろう。
 何せここは病院だ。白い壁や床は清潔感に溢れており、油の匂いのする工場とは違う。
「ええと、どうぞお掛けください」
「どうも」
 会釈を一つし、医者に進められるまま椅子に座る。発目は椅子があるにもかかわらず立っていた。ズームの効く瞳を輝かせながらこちらを、腕を見ている。
 居心地の悪さに顔を引きつらせると、早速嫌な予感は的中した。ギプスのはまった腕を断りもなく掴まれ、勝手に袖を捲られる。
「発目さん!」と医者がたしなめるが聞く耳を持たない。それどころか言葉が届いているのかも怪しい。
 発目という人間は、止めたところで聞くようなタイプではない。放置して解放されるのを待つ方が格段に早いと経験上知っている。だからといって愉快ではないことは確かだ。険しくなる爆豪の表情に、医者の方が萎縮していく。
「優秀な方なんですよ」と眉を下げるので「知ってます」と呆れながらに返す。
 ふと視線をずらせば、レントゲン写真が目に入る。三日前にも見た、綺麗に折れた自分の腕の骨だ。
「この二日異常はありませんでしたか?」
「ないっすね」
 たった二日だ。前回から大した変化も起きておらず、話すことも少ない。
 爆豪は好き放題腕を観察され、医者はその暴挙を止められず額を押さえている。今この部屋の中で気まずさを覚えていないのは発目だけだ。
「まだ二日ですものね。今日来て頂いたのも診察ではなく、発目さんの都合でして……同級生、なんですよね」
「そうなんですよ!」
 そう声高に答えたのは発目だった。
 観察が終わったのか、たまたま耳に言葉が届いたのかは分からない。未だ腕をがっちりと掴んだまま顔を上げ、爆豪の顔を見た。
 見て「おや」という様子でまばたきをした。
 そしてふっと顔を背け、机上に置かれた爆豪のカルテに目を向ける。
「爆豪さん! 爆豪さんの腕が折れたと聞いた時はチャンスだと思いましてね! 何せ同じ同級生のよしみというものがあるではないですか」
 相変わらず人の名前を憶えていないらしい。それに、ギプスを付けられた時に発目の名前は聞いていない。よしみも何もあったものではない。他にもいくつか言いたいことがあったがそのどれもを飲んだ。ようやく腕が解放されたからだ。
「それでどうでしたかベイビーは? この軽量薄型ボディでも強度は十分、がっちりと腕を固定していたと思います。その上水没OK、水を弾くのでお風呂上がりの手入れも簡単。そしてそして、装着がとても簡単! 素材を巻き付ればあっという間に完成。問題は外し方が少し面倒という点と、素材に費用が掛かっているため高価という点ですね。……爆豪さんは検体ということで無償ですが」
 セールストークのように言葉の弾丸を浴び、医者へと視線を向ける。彼女は肩をすくめ「使用感に問題はないそうですよ」と言った。
「そうですか! そうでしょう!」
「つっても腕の骨折ったんはこれが初めてだから、従来品との比較なんざ出来ねえぞ」
「なんですって!」
「そういえば、爆豪さんは大きな怪我をされた記録がありませんね。休業はこれが初めてじゃないですか?」
「そっすね」
「従来のギプスと比べて格段に生活がしやすくなるというのがセールスポイントなのに、まさか骨を折ったことがないなんて!」
 想定外でした、と発目は心底驚いた表情を見せた。
 よくギプスで固定されていたのは幼馴染みの方だ。緑谷の方が発目と親しい。あれを基準に考えていたのだろうか。一緒にするなと言いたい気持ちも、これまた飲んだ。
「動かし辛いのは骨が折れてるから仕方ねえが、他は確かに苦労してねえな」
「そうですか……」
「勝手に人を検体に選んどいて、あからさまに落胆してんじゃねェわ」
「ごめんなさい。でも爆豪さんならきっとレポートも上手くまとめてくれると思いますし、今後の改良にもつながりますよ。ね、発目さん」
「それもそうですね!」
 さっさと立ち直った発目は手を叩くと、近くにあったアタッシュケースを開け中から記憶媒体を取り出した。
「この中にフォーマットがはいっていますので、記録よろしくお願いします!」
「……聞いてねえンだが」
「研究を助けると思って!」
 助けてと言えば良いと思っているのではなかろうか。舌打ちをしながらもそれを受け取る。「さすがに毎日とは言わないので」とさりげなく高い頻度でのレポートを要求された。顔をしかめながらも、胸ポケットに入れる。
「サポートアイテムばっか作ってるんだと思ってたわ」と話の終わりに発目を一瞥する。「そうですよ」とはっきりとした肯定が返ってきた。
「これも元々はガントレットの試作品だったんですよ。その過程で柔軟性に難ありの素材がたまたま出来てしまいまして。失敗作としていたところ、そちらの先生に声を掛けて頂ただいたのです」
「たまたま知人に誘われて、サポートアイテムの展示会に行ったんです。そこで知り合いました」
「これもヒーロー用のサポートアイテムのようなものですよ。医療用ではありますが、ヒーロー向けに作ってることにかわりはありませんよ」
 なので高価になることを気にせず、好き放題に素材を盛らせていただいています。と発目が自信たっぷりに答える。それに医者は苦笑していた。
 会釈を最後に席を立ち、診察室を出る。ドアに手をかける寸前で「アッ!」と叫んだ発目に呼び止められた。ポケットを叩き取り出した、小さなカードを差し出される。
「これ、私の名刺です。直通の電話番号も書いてありますので、もしもギプスのことで緊急事態が起きましたらいつでも構わないので連絡をください」
 などと最後に恐ろしいことを言う。緊急事態が起こる可能性があるのかと顔を曇らせていれば医者まで「あっ」と顔をのぞかせた。
「大丈夫だとは思いますが、絶対個性を使わないでくださいね。発目さんのアイテムなので強度はばっちりですが、流石に爆豪さんの個性の衝撃までは受け流せませんので。骨がそれはもう、大変なことになりますから」
 二人から受けた漠然とした念押しに、これまで飲み込んだ言葉の数々が喉元までせり上がってくる。言いはしない。怒鳴りもしない。学生時代に散々言われた。プロヒーローらしい振る舞いをと、飽きるほど聞かされた。
 発目はともかく。医者が何を心配しているのかくらい分かる。ここで無茶をして、体を壊すヒーローが多いことも知っている。
 息を吸い込み会釈を残し、静かに診察室を出た。

 
 

 その夜のことだ。
「ちょっとうまくなっただろ」
 という轟の声が、浴室に反響する。鼻歌を歌いだしそうなほど楽しそうで、自信たっぷりな声が頭上から降ってくる。
「……初日よかな」
「だろ」
 ふふんと鼻を鳴らす様子に、あまり褒めていないのだがなと呆れる。
 轟は今、爆豪の髪を洗っている。シャンプーをあわあわに泡立てて、金色の髪の間に指を滑らせている。何回同じところを洗うのかと思うことに変わりはないが、指摘しないと他の箇所へ気が回らなかった初日よりは確かに良い。その程度の進歩ではあるが。
 骨折してからというもの、構いたがりを爆発させた轟が、やたらと周りをうろついてくる。正直邪魔くさい。「髪洗うの大変だろう」と風呂場に乱入してくること今日で三回目。一緒に暮らしている家の中では撒くこともできない。「いらねェ」と言ったところで聞きやしない。袖と裾を巻くって意気揚々とやってくる姿は可愛くもあるが、髪くらい片手で洗える。
 爆豪が根負けして譲歩を差し出す相手など、轟くらいなものだ。譲歩するまで粘ってくる相手が轟だけともいうが。そのくせ本人に粘っているという自覚はない。当然という様子で迫ってくるので質が悪い。
 爆豪とて納得がいけばの他人の案に乗りもする。だが全く納得していないのに譲歩するなど、惚れた弱み以外のなにものでもない。
 垂れてきたシャンプーが目に入る前に手の甲で拭う。こういうところが雑だった。
「俺はいつもされるばっかだからな、正直楽しいぞ」
「人の怪我楽しんでんじゃねえわ」
「楽しんだら悪いとも思ってんだ。でも爆豪だって俺が怪我で休む時、いつもより世話焼いてくるだろ。お互い様だ」
「あれと一緒にすんなや」
 爆豪にだって怪我した恋人を甘やかす甲斐性くらいある。元より相当甘やかしていると思うのだが、まさか本人にその自覚はないのだろうか。
 ぐっと眉間にしわを刻んでいると「流すぞ」と声を掛けられた。シャワーのコックが捻られ、丁度いい温度に調整しておいたお湯が流れ出す。水をかけられた三日前のことを忘れていない。
「目閉じてろよ」
 断りを入れれば良いと思っている、雑な手つきでシャワーを浴びせられる。目を閉じ唇を引き結び、ざあざあと聞こえる水音を聞きながら、心底雑で大雑把だなといっそ感心していた。
 轟の髪を洗ってやる時は、もっと丁寧に扱っている。この所業と比較にならないほどにだ。泡が前に流れていかないように手で覆うし、少し上を向かせもする。そのまま無防備に見上げてくる視線が心臓に悪いと、何度でも思った。
 それのどこをどう覚えていたら、この動作になるのか分からない。覚えていないのではないかと疑う程だ。覚えていると知っているからいいが、知らなければ不安になりもしたことだろう。
 水音が止まり、キュっとコックが閉められる。
「よしできたぞ」
 満足気な声に導かれ、目を開ける。「じゃあな、出たら声をかけてくれ」
「おー」
 あっさりと浴室から出ていく背中を見送り、浴槽に浸かる。腕が折れていなければあの背中に水を掛けて引っぱり込んだのだがと、これで三回目になる考えが頭を過ぎる。片手しか自由が利かないと、そういう時に不便だ。
 ざぶりと湯に沈み、ほっと息を吐く。水に濡れても良いギプスというのは便利だ。浴槽の縁に頭を預け天井を眺める。湯気でうっすらと視界が曇っている。
 構いたがり期の轟は今、食器を洗っていることだろう。
 料理も結局爆豪監修の元、轟が作っている。その上風呂場に付いてきて髪を洗い、食器も洗う。轟は今日も仕事だったというのにだ。やらせ過ぎていると思うのだが、本人にいえども「爆豪はもうちょいやってた」と反論してくる。つまり聞く気がない。
 ほう、と息を吐く。
 十分温まったところで風呂から上がる。
 着替えてリビングへと戻ると、ソファで寛いでいた轟に手招きされた。手にはドライヤーが握られている。今日もかと思いながら、渋々従う。
 風呂から上がった瞬間襲撃された初日に比べたらずっといい。ボタンを留められないだろうと目を輝かせながら駆け寄ってきた男を黙らせ、逆に脱がせて風呂場に叩き込んで以降来なくなった。
 髪も自分で乾かせる。初日は自分でやったのだから、やらせる理由はない。つくづく甘いなと、馬鹿馬鹿しくなりながらもソファに座る。
 背後に回った轟が、ドライヤーのスイッチをかちりと入れた。首筋にぽたりと落ちた水滴を、温風が吹き飛ばす。心地よい温かさが雑に髪を撫でる。無遠慮な指がざくざくと髪をかき回す。任せたことをにわかに後悔するまで、昨日と全く同じだった。
 腕を組んでまぶたを閉じる。
「ザツ」
「仕方ねえだろ、慣れてねえんだから」
「限度があんだわ」
「だけどよ、爆豪だってこんなもんじゃねえか?」
「テメェ舐めてんのか」
 お前の髪を乾かす時、どれだけ丁寧に風を当てていると思っているのか、と声を荒らげようとしたところ「自分で乾かしてる時、こんなもんだろ」と言われ喉に言葉がつまった。
 余計なことを口走るところだった。
 確かに自分の髪を乾かす時は、轟の髪を触るときほど気にしない。そしてこの男はどうして基準をそちらに置いたのかと、疑問に思わずにいられない。参考にするのはそっちかよと溜め息を吐くも、ドライヤーから吹き出す熱風の音にかき消されてしまった。
「俺だって慣れたらもっと上手くやってやれるぞ。だからたまにはやらせてくれ」
「却下」
「ひでぇ」
 むすりとした言葉が背中に当たる。かと思えばうなじを爪の先でわずかに引っ掻くように撫でられ、背筋がゾワリと震えた。反射的に揺れた肩を見て、機嫌のよくなった笑い声が降ってきた。どうにも気に入らない。
「爆豪自分のことは自分でやる方が好きだもんな。あと世話も焼く方が好きだろ」
「別に世話焼くのが好きなわけじゃねえわ」
「お、じゃあ俺のことが好きなんだな」
 少々馬鹿にしたつもりの言葉に、思いもよらぬ返され方をした。違うと否定するにはあまりに図星で、ただただ表情を険しく歪める。
 眉間にぐっとしわを刻んでいると、温風が止まった。
「おしまい。じゃあ俺も風呂行ってくるな」
 ふかふかと最後に髪を撫でると手が離れる。ドライヤーをコンセントから抜いた轟の背中が、風呂場へと向かっていった。
 爆豪は良くも悪くも人より滑らかに言葉が口から出てくる方だと、そう自負している。わざと言わないことは増えれども、言葉が出ないなどそうない。だというのに轟と居ると、その瞬間が度々やってくる。言いたいことが喉で渋滞してどれも言葉にならない。
 今もただ静かに背中を見送ってしまった。
 全く変な話だ。

 
 
 
 
 

 妙な気配に目を覚ましたのは、それから一時間後のことだ。
 風呂に入った後は特にすることもなく、早々にベッドに横になった。食器も片付いているし、洗濯物も病院に行く前に片付けてしまっている。掃除も同様だ。気になるテレビ番組もなく、ヒーローネットワークで今日のニュースも確認済み。轟が風呂から上がってくるまで待つ理由もなかった。
 だから寝た。
 この家にはそれぞれに個室が割り当てられている。職業柄、寝起きの時間がずれることも多いからだ。夜勤ともなれば顕著になる。体が資本のヒーローが寝不足では話にならない。そういう意味でも寝室を分けていた。分けてはいるが一緒に寝ることも多い。同居ではなく同棲なのだから当然だ。
 はっと目を開けると同時に、毛布が奪い取られた。
 ばさりと空気を切る音を耳にしながら、ぬくぬくとした心地から放り出される。
 こんなことをするのは一人しかいない。他の誰かがこの家の中に居ても困る。
 暗闇の中で目を凝らすと、ぼんやりと白い髪にピントが合ってくる。暗がりだと余計に白い側だけ目立つななどと思っていれば、轟がベッドに上ってきた。ぎしりとスプリングが軋み、足元が僅かにくぼむ。肘を突き上半身を僅かに起こすと、制するように肩を押された。背中が再びシーツへと沈む。
「……何しとんだ」
 人の腰に無断で跨がり座り込んだ男に向け、分かり切った質問を投げかける。
 ようやく目が慣れ轟の輪郭が見えて来た。のしかかってくる体は風呂上がりだからかやけに温かく、熱いほどだった。
「俺明日休みだぞ」
 だからセックスしよう、と轟が見下ろしてくる。見下されることは嫌いだが、これは悪い眺めではないなと思うようにもなった。
「腕折れてるところ悪いんだが、治るまでヤんねーとかムリだろ。それにちゃんと準備してきたから、爆豪は寝てるだけでいいぞ」
 自信たっぷりに堂々と報告されては、全くセックスのお誘いを受けている気分になってこない。だからといってその気が起きないわけではないのだが。
 感じ入るとくたくたになる奴が、どの口でそんなことを言うのかと笑ってしまう。折れた方の腕を上手く退かし、のしかかってきた轟にキスをされる。
 ぴたりと体が重なると熱い。風呂上がりの熱が、薄いTシャツを通り抜けて伝わってくる。
 ぐいぐいと押し付け食んでくる唇に好きにさせていると、歯列を割ろうと舌先でつつかれた。いつの間にか抱き込むように頭の上に置かれた手に髪を撫でられる。甘やかすような仕草が気に食わない。
 口を開き、好き放題していた舌に吸い付く。そこへ歯を立てると重なった体がびくりと跳ねた。
「ん」と鼻にかかった息が漏れる。
 舌を絡め合わせている最中にも、轟の手が頭から降りてきて爆豪の耳をくすぐってくる。形を確かめるように撫でては揉んで、滑り降りて首に肩に触れる。
 滅多に上に乗ることがないから楽しんでいやがるなと察し、轟の背に左手を回す。あたたかい背中にてのひらを滑らせ、腰に触れる、より密着するようにぐっと体を押さえ込んだ。
「ン、あっ!」
 同時に下から突き上げるように腰を動かすと、轟が声を上げた。触れ合わせていた唇を離し、逃げるように体を浮かせる。見下ろされるような形になるが、唇を引き結んで表情を歪めている顔を見上げることは気分がいい。にやにやと笑えば、わざとらしく頬を膨らませた。
「今日は俺が動くつってんだろ。大人しくサービスされとけ」
「テメェ攻めんのなんて片手ありゃ十分だわ」
「ンだと。怪我人は大人しくしてろ」
「怪我人襲っとんのはどこのどいつだよ」
 轟を押しのけ跳ね起きる。「うわ」と色気もくそもない声を上げる体を抱き寄せて唇を塞ぐ。騎乗位もやぶさかではないが、やはりこちらの方が性に合う。
 当初の威勢はどこへやら、轟の体から力が抜けてくる。唇を放しベッと舌をだすと、色違いの眉が内側へ寄せられた。欲望まみれの目で睨まれても煽られるばかりだ。意図してやっているのかと一瞬考えるが、きっと無意識だろう。
「つか、俺は明日仕事だわ」
「え。聞いてねえ。爆豪まだ腕くっついてないだろ」
「事務処理と筋トレだけだけどな」
「なんだ、じゃあ問題ないよな」
 笑みを形作った唇を押し付けられる。すぐに離れると、背中からベッドに倒れ込んだ。乗っかると言ったのはどこのどいつだと、片眉を持ち上げる。
「早く」
 そう、両手を広げて急かされる。ごくりと喉が鳴るのを止められなかった。
 もう負けでいいかと指先を伸ばした。