レンジに卵を入れるな!

 
 
 
 
 
     

 勝手にニュースチャンネルが起動するように設定しているワードがあったりする。
 骨折から早二週間。
 サイクロン式の掃除機を持って自室をうろついていたところ、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
 カーテンも窓も開けた部屋の中には、春らしい匂いを含んだ風が吹き込んできている。もうすぐ桜の季節だ。暖かで命らしい匂いがする。そうした時に、冬とは静かでそれらしい匂いのしない季節だったのだなと思い至る。ついでに誰かの横顔を思い出す。
 指紋認証でロックを解除したスマートフォンに、ニュースが映し出されていた。生中継の文字に引っ張られるようにして部屋を出る。テレビはリビングにしか置いていない。部屋で一人で見る理由などないからだ。
 うるさい掃除機の電源を切りながら、スマートフォンを操作しテレビの電源を入れる。手元の画面にあったニュースチャンネルが乗り移ったようにテレビに映し出された。
 掃除機を充電器に戻しながら、目を画面に向ける。
 銀行とそれを囲むヒーローの姿。
 テロップに踊る、ショートの文字。
 ソファに腰を落ち着け、スマートフォンでニュース記事を追う。本日のヴィラン犯罪は銀行強盗らしい。
 犯人の人数は不明。ヒーローが駆け付けたことにより立てこもりへと移行し、現在は膠着状態。
 人質の有無には触れられていない。報道陣が駆け付けたのも今し方といったところだろう。
 大した情報は得られそうにないスマートフォンをテーブルに置き、テレビへと視線を向ける。
 視点は遥か上方にあり、俯瞰で銀行を見下ろしている。ヘリコプターでの中継のようだ。あれはうるさいから嫌いなんだよなと頬杖を付く。見る側としては情報が追いやすく便利であるところがまた腹立たしい。
 ショートの姿は銀行の正面にあった。
 対処のしやすい距離を保ちながら、大きなガラス扉を睨むように立っている。他のヒーローの姿もある。ショートと同じ事務所のサイドキックだ。丁度近くをパトロールしていたのだろう。
 ヴィランも近隣のヒーロー事務所のパトロール範囲とルートくらい下調べしろよと思うこともあるが、そういう下調べにも対処できるようなスケジュールを組んでいる。
 特にショート所属の事務所はそういったノウハウが豊富で対処が上手い。参考にしたいと思う部分でもある。
「既に十五分ほど経過していますが、まだヒーローに動きはありませんね」
 じれたリポーターの声がテレビから聞こえてくる。
 銀行名と銀行強盗犯が立てこもっている、という情報を繰り返し口にすることに限界が来たのだろう。その理由くらい推察して待っていろよと呆れて立ち上がる。
 目を離した瞬間に動くような状態ではないと判断し、冷蔵庫へ向かう。戸棚からマグカップを取り出し、冷えていた緑茶を注いで戻る。
 爆豪ならば、ショート相手に籠城など絶対にしない。建物ごと制圧されて終わりだからだ。
 それがなされていないということは、中に人質がいるか、建物を氷漬けにするなと駄々を捏ねている責任者が居るかのどちらかだろう。
 ショートが立っているのは、いつでも建物ごと制圧できる限界の距離だ。それでいて辺りの様子が見渡せて、急にヴィランが飛び出してきても対応の出来る距離。何にしてもきっかけさえあれば、一瞬で終わるような仕事だろう。
 状況が動いたのはそれから五分後だった。
 焦れたニュース番組がスタジオに映像を戻し、ワイプで中継を流しながらどうでもいい話をしていた時だ。
 銀行から一斉に人が走り出て来た。人質だ。
 押し合うようにしながら逃げ惑う人質達の誘導をヒーローが始める中、ショートだけ別所を見ていた。
 同時に銀行の中から何かが放り投げられる様子が見えた。
 四角いそれが爆発物であることに気付いたのは、ショートだけのように見えた。
 走りだしたショートの右手の指先が地面を掠めるように大きく振り上げられ、指をさすように氷の柱が伸びる。爆発寸前で爆弾は氷に包まれたが、殺しきれなかった勢いが弾けて飛び散った。
 建物ごと凍らせなかったということは、人質の総数が把握できていないようだ。
 人質の方向へ飛んだ氷の破片を熱風でいなしている中、建物内から続けざまにヴィランが飛び出してきた。
 二人だ。
 その一人が銃を持っていた。銃口は、転んで逃げ遅れていた少女の背中に向けられている。
「あ」と思うも、爆豪はその場には居ない。
 腕が折れておらず、今日も普通に仕事をしていたならば、あの現場に居ただろうか。
 ショートが分厚い氷壁を生み出しヴィランを凍らせながら、少女を抱き上げた。パン、と氷にヒビが入る。凍る直前銃の引き金が引かれていたのだろう。それでも銃弾が貫通した様子はなかった。
 もうだいじょうぶだ、と少女に話しかける様子が見えた。
 その直後、氷壁の奥から体の大きなヴィランが飛び出してきた。三人目だ。結局何人居るのか。まだ隠れているのか。
 あからさまに増強型だろうと予想できるヴィランが踏み込む。ショートに向け、大きく腕を引く。構えから見るに、なにかしらの格闘技を噛んでいるのだろう。
 とっさにショートが誰かを呼んだ。大きく口元が動く。
 それに反応し振り向きかけ寄ってくるヒーローの姿があった。「わりぃな」と口元を動かし、抱きかかえた少女に向けて微笑んだショートの顔が、画面に映っていた。
 大きく放り投げられる少女の体と、それを抱きとめる名前もしらないヒーロー、大きく吹き飛んだショートの姿。
 ショートをクローズアップしていたカメラが、画面外へ消えた姿を探すように大きく揺れた。
 画面に未だ逃げ惑う人質の姿と、その対応に追われる警察官の姿、それから裏口から上がる火の手が映り込んだ。裏口からも逃げた奴がいるのかもしれない。
 ドクドクと全身に血が巡る。妙な気分だ。
 これはきっと、あの現場に立っていたならば感じなかったものだ。断言できる。あそこに居たならば、ショートの吹き飛んだ方向を振り返りもしなかった。
 吹き飛ぶ寸前体の熱を上げている素振りがあった。熱波を生み出し打撃の威力を弱めたのだろう。見た目に反して本人に入ったダメージは少ないはずだ。
 画面を見ているだけでもそれが分かる。
 だというのに落ち着かない。
 無事に決まっているという断定の他に、無事でいてくれと願う気持ちがじわりと滲んで混じる。
 カメラが吹き飛んだショートの姿を捕らえた。
 近くのビルの壁面に張り付いている。足裏と壁を氷で固定した姿はまるで、ビル側面に座っているかのようだ。
 今の轟は氷を作り出すことも、それを炎で消し去ることも、あまりにも滑らかに行う。
 作りだした氷壁を壊すことに時間を要していた、学生時代とは違う。どれだけの氷を、どれだけの時間で溶かせるかを把握している。だからこそ、ああいう芸当を選べる。
 空いた手の甲で口元を拭う様子が見えた。きっと視線の先に、逃げるヴィランが居るのだろう。
 今とても悪い顔をした。「あのやろう」と唇が動く。一瞬で氷が溶け、落ちるように地上へ戻っていく。カメラはまたその姿を見失った。
 テレビの電源を切り、スマートフォンを掴み自室へ向かう。ふーっと息を吐き、外に出るための服に簡単に着替えた。
 きっとヴィランは程なく捕まる。本人たちは大した個性を持っていない様子だった。だから爆弾を投げ銃を使い、隙を作ろうとしたのだろう。持てる武器を一斉投入し、どうにか隙を生んだというべきだろうか。
 しかしヴィランがあのような武器を多数所持していることは、少しばかり気になる。裏に流れる武器は様々あるが、基本は個性を強化するものばかりだ。刃物を持つヴィランもいるが、それは個性との相性によるものだ。刃物を持っている方が都合がいいからだ。個性を持つ者は、少なからず己の個性への矜持がある。
 帽子をかぶりマスクをつけ軽く変装する。家の鍵を掴み上げ、窓を閉めた。
 今晩轟は、きっと傷だらけで帰ってくる。
 たまには蕎麦でも作ってやるかと頭の中で献立を練る。冷蔵庫内の食材を思い浮かべ、何を買い足すかを考える。今から出れば丁度行きつけのスーパーの特売時間に当たるだろうし丁度いい。
 スニーカーに足を突っ込み家を出る。
 ただ待つ他ないというのも、中々キツいものだ。
 
 

 ちかちかと緑のランプが光り「もうすぐ帰る」というメッセージが届いたのは、二十一時になろうかという頃だった。
 それから十五分後、玄関からかすかな物音が聞こえてきた。
 スリッパの裏を鳴らして短い廊下を進み、玄関へ向かう。ガチャンと鍵が回る様子を確認した。分厚い鉄の扉がのったりと開き、紅白のつむじが見えた。視線は地面を這っている。玄関に置かれた靴を数えているかのようだ。疲れ切ったその人影に向け、声を掛ける。
「おかえり」
 轟がはっと顔を上げた。不思議なものを見るような眼をしている。当然だろう。玄関で出迎えたのは、これが初めてなのだから。
「え、おお。ただいま」
 珍しいと言いたげな丸い眼差しに、鼻で笑って返す。
 見える範囲に大きな怪我はないようだ。頬や鼻や指先には小さな切り傷がみえるが、そんなものは日常茶飯事だ。その程度で済んでいることの方が大事なことだった。
 あれだけ派手に中継された事件に関わっておいて、顔に絆創膏の一つも貼らずに帰ってきたことは褒めてやりたい。
「ん」と両手を広げると、靴を脱いだ轟が飛びついてきた。
 遠慮ない勢いに一歩だけよろける。
「おつかれ」と声を掛ければ「ふくく」と妙な笑い声が漏れてくる。どうも腑に落ちないが、元気そうでなによりだ。
 ギプスに固定された右腕を可能な限り背中に回し、左手でパサつく髪をかき回す。事務所のシャワーで、適当に洗って適当に乾かしてきたようだ。あえてぼさぼさに乱れるように撫でまわす。轟はついに耐えかねたといった様子で声を上げ、笑った。
「ふはっ、なんだ爆豪。もしかして中継見てたな」
「何ヴィラン逃がしてんだよ」
「んー、今日別のところで摘発があったらしくって、人員そっちに取られてたんだよなあ。タイミング悪い時にやってくれるよな」
「言い訳してんじゃねーわ」
 頬にキスをすると更に笑う。心配したことが筒抜けているようで据わりが悪い。轟から唇にキスをされ「ただいま」ともう一度言われた。
「なんか、良い匂いするな。だしっぽいやつ」
「まだ飯食ってねえよな」
「うん」
「じゃあ着替えてこい」
 轟の顔から変装用の眼鏡を奪い取る。「あと夜だからってこの程度の変装で済ますんじゃねェ」
「俺らがここに住んでんの、マンションの人は知ってるからいいだろ。駐車場までは車だし」
「甘ェ」
 背中を突き飛ばすように押せば轟は「細けェ」と文句を残して自室へ吸い込まれていった。閉まったドアを横目に、爆豪はキッチンへと向かう。
 鍋で湯を沸かしながら、だしを温め直す。蒸し器の蓋を開け茶碗蒸しを取り出し、先にテーブルに並べて置く。
 蕎麦を湯がいていると、部屋着に着替えた轟が出て来た。真直ぐに向かってくると、カウンターから身を乗り出し覗き込んでくる。
「おっ、蕎麦だ」とあからさまに声が跳ねる。
「冷たいのと温かいのどっちにする」
「え、選ばせてくれんのか。だし出来てんのに」
「どっちだよ」
 ジトリと睨むが轟は全く気にした様子がない。じっくりとキッチンの様子を窺い、天ぷらを見付ると瞳がちかりと瞬いた。きらきらとした眼差しを向けられる。
「温かい天ぷら蕎麦にする!」
「へーへー。じゃあ丼二つ出せ」
「分かった」
 途端にきびきびとした動きを見せ、戸棚を開け、褒められたい犬みたいに丼を持ってくる。そして改めて、サクサクに揚げられた天ぷらの種類を伺っている。
 桜エビのかき揚げと、春野菜の天ぷら。
 轟に選ばせはしたが、回答は予想通りだ。天ぷらを見付けたらそう言うだろうなと、ここ数年の暮らしから予想していた。轟は温かくない方が好きだが、かき揚げがあるとなれば話は別だ。出汁を吸ったかきあげの魅力を覚えさせたのは、当然爆豪だ。
 食卓に天ぷらと蕎麦と茶碗蒸しを並べ「いただきます」と声を合わせる。
 かき揚げを蕎麦に乗せ、茶碗蒸しの蓋を開ける。菜の花の天ぷらをかじった轟の口元から、サクリといい音が聞こえた。有り余る時間にものをいわせた、一切手抜きのない夕飯だ。
「んまい」
「当たり前だわ」
 茶碗蒸しをすくって口に運ぶ。こちらも文句のない出来だ。サクサクと食べ進めていた轟が、ふと首を捻った。そして爆豪の右腕を見る。未だにギプスに固定されている腕をだ。
「……なんか、器用になってねえか? その腕実は治ってるんじゃねえよな」
「治っとったら家にいねーんだわ」
「でもよ、天ぷらって結構難しいだろ?」
「この腕にも慣れたっつーの。そもそも轟が思ってるほど、日常生活で困ってねえんだよ」
 左で箸を持ちそばを啜ると「おお」と轟から感嘆の声が上がる。スプーンやフォークで食べる方が楽だが、箸が使えない訳ではない。細かい作業が難しいというだけだ。
「すげぇな爆豪」
「当然」
「利き手使える俺より料理上手いな」
「……馬鹿にしてんのか?」
 睨むも当然気にした様子はない。出汁を吸ったかき揚げを崩して口に運びながらご満悦だ。
 轟の賛辞の方法は少々爆豪の勘に触りがちだが、本人にその気は全くない。純粋に褒めているだけだともとっくの昔に知っている。それでも悪態をつくのは、照れからだ。
 当の轟は「茶碗蒸しって家で作れるんだよな」と興味を移しながらのんきに話している。
「何回か作ったろ」
「そうなんだが、なんつーか、その度にびっくりしちまうな」
「まあ、たまにしか作んねえからな」
 天ぷらを揚げながら茶碗蒸しを仕込む時間があったというのも大きい。事務所を立ち上げてからというもの流石に忙しく、まとまった時間が取れずにいた。
 仕事に出られない焦りが日々募るばかりではあるが、だからこそこうした時間が取れる。疲れ切った恋人を迎えてやるだけの時間がある。
 向かいで轟が「うまい」と茶碗蒸しに舌鼓を打っている。ヒーローをしている時には見ることのない、緩み切った顔。ショートが轟焦凍として家に戻ってくることは、純粋に喜ばしい。
 料理をぺろりと平らげると、轟はほっと息を吐いた。
「療養中なのに悪いな」と今更なことを言う。
「腕以外は元気だわ。知ってんだろうが」
 頬杖を付いてにやにやと笑うと、なんのことかと天井に視線をやりながら考えている。まあそうだよな、と思ってはいるが、何か言い方が引っ掛かるなといった顔だ。相変わらず察しが良いのか悪いのか、匙加減の難しい奴だ。
 テーブルの下、足先で轟の脚をツーっと撫でる。ついに察した轟がハッと目を見開いた。
「俺明日、朝遅いぞ!」
「シねえわ」
 今日の仕事の調整で朝を遅くされただろうに、その疲れきったヒーローを誰が抱くかと顔をしかめる。
「なんだ、違ぇのか」
 肩を落とす姿には、少しだけ、心が揺れた。疲れている男に手を出しやしないが。
 だが心が揺れるのは、また別の問題だ。

 
 

「こっち来い」
 風呂から上がった轟を呼ぶと、二色の瞳が丸くなった。今日のこいつは驚いてばかりだなと鼻で笑う。
 確かに骨折からしてからというもの、轟が風呂から上がるのを待たずに眠ることが多かった。起きていたとしても、こうして待ち構えていたわけではない。
 右手にはドライヤーを握っている。察した轟が、ソファの真ん中にぽすんと座った。先程とは逆になる。
「爆豪に髪乾かしてもらうの久しぶりだ」
 嬉しそうに声が笑ってから勢いよく振り向いた。「出来んのか?」と失礼なことを聞いてくる。
「舐めんじゃねえ」
 こちらを向いている頭を左手で掴み、無理やり正面を向かせる。ドライヤーのスイッチを入れる。いつもに比べたらやり辛いが、その程度だ。
 風の当て方を微調整できない分、左手で普段より丁寧に髪を梳く。水気を多く含んだ髪をサラサラと指の間に通しながら、相変わらず適当に髪を拭いていやがるなと舌打ちする。肩に掛けていたタオルを奪い取り、二色の頭に被せてがしがしと拭く。
「拭いた、ちゃんと拭いた」と抗議の声が上がるので「ウソ吐け!」とドライヤーの音に負けない声量で怒鳴り返す。
 もう良いだろうというところで、タオルを轟の膝に投げつけた。
「爆豪は細けェんだよ……」という声には取り合わない。
 髪の根元から乾かすように温風を当て、柔らかく柔らかく触れる。轟の言う丁寧がどれほど雑かを教え込むように触れていると肩が竦められた。
「くすぐってぇ」
 言葉にもされたその音は、甘く穏やかな響きをしていた。
 丸い頭を撫でるように髪を乾かす。紅白の髪が風に煽られ交じり合う。
 生きていてよかった。
 口には出さないが、触れていると深く実感する。無事でよかった。生きていてよかった。轟が戻ってきてよかった。
 触れる指先からは温もりが伝わってくる。声を掛けると返事がある。作った料理をぺろりと平らげて、疲れているのは自分の方だろうに、今日も今日とて世話を焼こうと風呂場に乱入する。ヘタクソながらに人の髪を乾かそうとする。お返しに乾かしてやればくすぐったそうに笑う。
 これはきっと、ヒーローとして前線に出ていたままでは、気付かずにいた感情だ。ヒーローでも心配はする。だがそれも、このような形では湧いてこなかっただろう。
 焦りによく似た不安が胸の内に渦巻く。前線をほんの少し離れたことで、変な実体を伴って重くのしかかってくる。
 なんの拍子に死んでしまうか分からない仕事だ。
 知っていたことだ。知らなかったわけでも、本当は分かっていなかったわけでもない。分かっていた、知っていた、実感として確かに手元にあった。だがそれは、自分とそれが同じ場所にあってのことだ。
 爆豪も、轟も。二人とも。
 死なせる気はない。死ぬ気はもっとない。
 爆豪はずっと轟に恋していた。