その日オフの轟は、実にゆっくりと起きて来た。
爆豪が出勤のため身支度を調え、朝食を取り、さて家を出るかという時に轟の部屋のドアが開いた。寝ぐせをぴょんぴょんと跳ねさせながら、寝ぼけ眼でぺたぺたとフローリングを歩いてくる。物音に目を覚まし、見送りに出てきたのだろう。自惚れ過ぎかと思うが、事実だった。
欠伸をしながら「おはよう」と轟が言う。
「はよ。朝飯あっから温めて食えよ。夕方には戻る」
「ん」
わかった。と寝ぼけ眼が瞬きをする。気の抜けきったその姿に笑わずにいられない。「まだ寝てりゃよかっただろ」と声にした音が、想像以上に穏やかな響きをしていたものだから居た堪れなくなる。
「飯くったらねる」
怠惰極まりない返事があった。「くあ」と欠伸をこぼしながら轟が近付いてくる。目が覚めて来たのか焦点があってきた。色違いの瞳が爆豪を見つめて柔らかに緩む。
玄関に向けていた爪先を、部屋の内側に戻す。跳ねる轟の毛先をつまんで「だっせ」と笑いながらキスをした。
「ん、行ってきますのちゅーか? 珍しいな」
「ウッセェ」
「ふは、習慣にするか?」
「……行ってくる」
「おー、いってらっしゃい」
普段やらないことを急にするものではないなと、照れくささを悪態で隠しながら家を出る。隠したところで、隠したと知られているだろうから余計にばつが悪い。それが伝わるだけ付き合いが長くなっていることはいいことだが、筒抜けというのも考えものだ。
家を出て、春の陽気を吸いながら職場へと向かった。
今日は事務仕事とトレーニングメニューをこなし、十五時には上がるつもりだ。轟は昼飯を適当に食べるだろう。一人なのを良い事に蕎麦でも茹でるかもしれない。
冷蔵庫の中身は随分と減っていた。帰りに様々買い足さねばと考えを巡らせる。どうせ家から出ないだろう轟を呼び出して荷物持ちにするのもいいかもしれない。用がある時はあると先に教えてくれる。何も言わなかったということは、一日引きこもっているはずだ。
少し時間を掛ければ歩いて行ける距離に、爆豪の事務所はある。とあるビルのワンフロアだ。地下にジムがあるところが便利で気に入っている。比較的新しいビルだ。
ビルに入ると階段を使い、五階まで上がる。
事務所に入ると早速サイドキックの一人に声を掛けられた。
「お客様が見えていますよ」
挨拶も早々に、打ち合わせブースを示される。
「誰だ」と問い掛けると「知ってる方です」と苦笑された。
内緒にしろと言われたなと目を細め、僅かに睨む。ここで怯まないのが爆豪のサイドキックだ。誤魔化す様な笑みが返る。この時点で来客が三人以内に絞られた。
デスクに荷物を置き、手帳とペンを引っ張り出す。パーティションで区切られた打ち合わせブースへ顔を出すと「よっ」と陽気な声が掛けられた。
コーヒー片手に、上鳴電気がニマリと笑っていた。
「何しに来やがった」と思い切り睨み付ける。上鳴はわざとらしく体をくねらせた。
「挨拶もなしに睨むとか酷いぜかっちゃん」
「で、本題はなんだ」
早く言えとテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰かける。じとりと視線を向けながら手帳を開くと、上鳴は感慨深そうに腕を組んだ。
「ここで変に怒鳴らずさっさと追い返そうとしてくるあたりさ、爆豪も大人になったなって思ってちょっと淋しいよな」
「死にてェんだな」
市民の望みを叶えてやるのもヒーローの仕事だ。椅子を引き左腕を振り上げ、手のひらの内で小さな破裂音を鳴らす。それを見た上鳴が「アッ!」と目を輝かせて腰を浮かせた。
「ホントに腕折れてんじゃん!」
「アァ?」
「えっ、スゲェな。服着れんだなー。普通にしてたらちょっと変なポーズの人にしか見えないじゃん。ちょっと見せて」
「近寄ンじゃねえ」
好奇心で目を輝かせた上鳴がテーブルを回り込んでくる。追い払うように左腕を振り上げるも、右側に回りこまれて避けられた。腹が立つ。徐々に苛立ちが募ってきた。
「大人しくしてないと骨くっつかないゾ、かっちゃん!」などと煽ってくるので、本気でブン殴ってやろうかと思った。
そんな時に「喧嘩するなら地下のトレーニングルームを押さえるので、いつでも呼んでくださいね」とサイドキックが爆豪にコーヒーを持ってきた。
上鳴を追い払いながら渋々着席する。「お前も座れ」と威圧すると、上鳴も渋々元の席へと戻った。コーヒーを飲み込むことで、一緒に留飲を下げようと試みる。
「つか、ギプス見たいのはホントなんだって。ちょっと見せてくんね? 発目が開発に関わってるって聞いて気になってたんだよ」
頼むよと手を合わせられる。好奇心ではないのなら、これ以上断る理由はなかった。舌打ち一つと引き換えに袖を捲り、ギプスのはまった右腕をテーブルに載せる。「おお」と感嘆の声が漏れた。
「デザインも良いな。流石発目って感じだ。ちょっと触ってもい?」
「余計な真似をしたら殺す」
「サンキュー」
ニッと笑った上鳴が覗き込んでくる。「近くで見るとほんとに薄いな」と感心しながら、材質を確かめるように指先を弾いた。
「固ッ、これ素材なんだ?」
「知らねえ。新素材らしいが」
「へえー。実はこれ、うちの事務所も開発に絡んでんだよ。出資とか色々。俺は関わってないけど」
「まあテメェの頭じゃ無理だろうな」
「えっヒド」
「つか自分とこの案件なら、ンで材質知らねえんだよ」
「管轄違うし」
実にあっけらかんと答えられた。呆れてものも言えない。結局こいつは野次馬をしにきただけということだ。それもあまりに今更だ。
「折れてからどんくらいだっけ、半月?」
「ああ」
「半月も現場出られねえのはキツイよな。ホントはもっと早く見舞いとか、ギプスの実物見にとかきたかったんだけどさ、別件が忙しくて遅くなっちまったな」
「二度と来んくていいわ」
見舞われるほどでもない。第一見舞いも何も持ってきていないだろうと指摘すると「まー本題は別だし」とケロリと言われた。
「ほら、三日前に轟が銀行強盗捕まえただろ」
「あの武器か」
「いやー相変わらず話が早いな」
上鳴はあの日轟の言っていた「近くであった摘発」の方に関わっていたということだ。武器の密売組織が検挙されたとヒーローネットワークに速報が上がっていた。まだ詳細のレポートは出ていない。
「サポートアイテムの密売が横行する現代で、クラシックな武器の密売してたレア組織よ」
「摘発してんのに何武器流されてんだよゴミが」
「そこなんだって。検挙はしたけど武器のほとんどが流出しちまってるって失態っぷりでさ。だからまだレポートまとまってないわけ」
「雑な仕事してんじゃねえ」
吐き捨てると「ごもっとも」と上鳴が大人しく唸った。
「轟にも迷惑かけちまったな」
「ニュースの割にあいつピンピンしてっぞ」
「知ってる知ってる。会ったしあの日」
「ア?」
「顧客名簿に載ってる名前が速攻ニュースになってたからな。当事者に話聞いたりしたわけ」
「どうりで帰りが遅かったわけだ」
後処理にしてはやけに時間がかかったと思っていたが、こいつが犯人かとジトリと睨む。「いやいや俺が呼び付けたわけじゃねえし」と、両手と首が振られた。
かと思えばにやにやと嫌な笑みを浮かべる。ろくなことを言いださない前触れに顔をしかめれば、予想は的中した。
「相変わらずお熱いようでなによりですねえ」
「用は済んだか」
「えっもうちょっと構ってくれてもよくね? 折角久しぶりに会ったんだしさあ」
「用は済んだンか」
「……まだだけど」
首を竦めた上鳴が手元のコーヒーを口に含んだ。爆豪とて何も全く雑談をしたくない訳ではない。ただ意味もなく予定が押すことが嫌なだけだ。テーブルを指先で叩く。諦めたように上鳴が肩をすくめた。
「流出した武器の大半は、まだこの近辺にあるっぽいんだよ」
「クソかよ」
「これでも一応事業拡大する前に押さえられたんだぜ。大盛況により得た資金で次の密輸を企んでいたところをーってな。まあ流出は事実だけど。で、俺はこのあたりのヒーロー事務所回って、情報交換してるってわけ」
「だったら余計な話で油売ってんじゃねェ」
「いやいやアポとかあるし。次の予定までまだ三十分もあんだよ」
「俺はアポ取られてねェぞ」
「事務員さんに聞いたら今日出勤日だって言ってたからさ。それに骨折してんだから現場でねえだろ」
アポ要らないっしょ、というアホ面を殴ってやろうかと真剣に思った。ギリギリと奥歯を噛み締めながら「情報提供ドーモ」と笑うと「顔怖ッ」と仰け反られた。
「いやでもホント、爆豪も気を付けろよ」
「言われんでもわかっとるわ」
「頼むぜー、買い物してる写真撮られて、主夫に転身か? とかスキャンダルになんなよ」
「アァ?」
予想だにしていなかった言葉に、低く唸るような声が出た。上鳴は腕を組んでうんうんと頷いている。
「まだ轟との同棲もすっぱ抜かれてないのに、通り越して主夫に転身か? とか記事にされんのウケるだろ。そん時は祝ってやるからな」
パチンとウインクをした目の前の男を真顔で見据える。
こういう面倒な絡みをしてくるクソが湧くくらいなら、轟との関係は伏せておけばよかったと今思った。過去の自分を僅かに呪う。クラスメイトくらいには知らせておいてもいいかと言った轟と、承諾した自分をだ。
ぎいこと椅子の背もたれをしならせ、パーティションの隙間から事務所を覗き込む。こうするとサイドキックの席が見えるようになっている。
「おい、今からジムのトレーニングルーム押さえてくれ」
「え、本気ですか?」
「ああ。このアホ面付き合わせてボコる」
「ちょっとかっちゃん? 聞いてないんだけど」
「半月も出動してねえからな、体が鈍って仕方ねえんだわ」
ぐるりと肩を回し、ニマリと笑って上鳴を見る。「テメェはサンドバッグな」
「あーっ、ヤバイ次の打ち合わせの時間が!」
上鳴は着けてもいない腕時計を見るように手首を掲げると、そそくさと椅子を立った。
「まァゆっくりしてけや」
「笑顔の爆豪マジでこえぇから絶対ヤダ!」
じゃあまたなと打ち合わせブースから脱走する背中を鼻で笑う。「コーヒーごちそう様でした」と事務所内に向け会釈をした後「じゃあまたあとでな!」と意味不明な言葉を残して出て行った。
「また?」とサイドキックが様子を伺ってくる。顔をしかめることで答える。
またも何も、なんの約束もない。
「またあとで」の答えがもたらされたのは、午前のトレーニングメニューを終えた後のことだった。
スマートフォンに「昼もその辺に居るから飯行こうぜ!」と陽気なメッセージが届いていたので呆れ果てた。「来ていた時に言えや」と悪態を吐きながらも、なんだかんだ待ち合わせをし、共に食事を取った。
生姜焼き定食とからあげ定食を向かい合って食しつつ、様々情報交換を行った。
口数の多い上鳴は淀みなくしゃべり、その合間にからあげを口に入れているといった様子だった。お互いのプライベートな近況報告や、その他オンオフ共に外で話せる程度のこと。
今あいつも独立に向けて動いているらしいから爆豪に話を聞きたがっていただとか、あいつらついに結婚しそうだとか、ゴールデンウィーク後に落ち着いたらまたみんなで集まろうだとか。
上鳴は午後からも引き続きこの周辺を回るのだという。
店を出たところで「ひとまず今度飯でも行こうぜ。轟も連れて来いよ」と掛けられた言葉に悪態を吐いて別れた。
事務所に戻ると書類作業に着手した。その後サイドキックたちのパトロールスケジュールとルートを組み直したところで、予定の時間を少し過ぎていた。簡単なミーティングを最後に事務所を出る。
あっという間に十六時になっていた。
近隣スーパーのチラシの内容をぼんやりと思い出す。それから、改めて轟に料理を教えてやるのもいいかもしれないな、などと考えた。
簡単でさっと作れる献立の候補を思い浮かべる。料理に対して凝り性を発揮しているのは、爆豪のただの道楽だ。少し手間をかけ、その分美味い飯を作る。食べて満足することはもちろん、美味しそうに食べる轟を見ることが好きだった。ただ、それだけではいけないのだろう。そういった考えが、この数日の内に何度も頭をよぎった。
言わば爆豪は、自分がいるから良いと思っていた。
行き先を決め、轟に連絡を入れようとスマートフォンを取り出す。今呼び出せば爆豪が歩いてスーパーに向かう間に、轟も車を出してスーパーにたどり着くだろう。
耳をつんざくような悲鳴が聞こえたのは、丁度メッセージアプリを立ち上げた時だった。
背後で聞こえた悲鳴が伝搬し、こだまする。
ただの雑踏だった道路が一変した。叫び声の上がった場所を中心として、恐怖と困惑が波のように広がる。
「ヴィランだ!」
そのひと声が決定的だった。
メッセージアプリを落とし、緊急通報を掛ける。ボタン一つで近隣に居るヒーローに位置情報が通知されるようになっている。ここ数年で導入されたシステムだ。轟も開発に噛んでいたなと、ふわりと記憶が浮き上がる。その時、保須市の事件の話を聞いたんだったな、とも。
振り向き、事件の発生源を探る。
逃げ惑う市民の波を逆走しながら「直にヒーローが駆け付けるから落ち着いて逃げろ!」と怒鳴りつける。この地域に爆豪の事務所があることを、市民は知っている。
声が聞こえたことで、わずかに動揺の波が治まる。駆ける爆豪の姿を見止めた者から順に、止めていた息をはっと吸い込むように周囲に視線を巡らせた。連れが居なくなっていないか確かめるように、逃げる方向を確認するように、確かな足取りで走っていく。
中には「骨折してるんでしょ!」と声を掛ける者もいた。
「ハンデやってンだよ!」
大きく叫び「さっさと行け!」と追い打ちをかける。
混乱の中心部に向かっていくと、光るものが見えた。人の波を抜ける。
日本刀を振り回す男の姿があった。
その奥で腕を押さえへたり込む人影たあった。じわりと滲む血の色が見える。更に後方には、野次馬のように事の顛末を見守る人の群れもある。
上鳴の忠告が思い出される。
何も同じ日に事件を起こさずとも、と数日前に聞いたばかりの言葉も過ぎる。スマホを操作しヴィランの情報を追加送信するとポケットにねじ込んだ。
ヴィランは周囲を威嚇するように刀を振り回し、蛇行しながらこちらへと走ってくる。走る度背負ったリュックからジャラジャラと何かが飛び散り、道路に落ちては瞬くように光る。アクセサリーのようだ。すぐそこに、宝石店があったはずだ。
「銀行強盗の次は宝石強盗かよ」
呆れ、吐き捨てる。他に仲間の姿はない。日本刀を手にしたことで自信を付けた単独犯か。めちゃくちゃな太刀筋が小物っぷりを発揮していた。素人の扱う得物ではないというのに。他に選択肢がなかったのだろうか。
片手で制圧できると踏み、数パターンの迎撃方法を頭に浮かべる。
だがそれも、小さな叫び声ですべて吹き飛んだ。
「たすけて!」
逃げ遅れた子どもが、爆豪とヴィランの直線上に居た。小さな体が立て看板の影から這い出てくる。今まで隙間に隠れていたのだろうか。迫りくるヴィランの姿に、ついに恐怖が限界に達したのかもしれない。
子どもの姿に気付いたのは爆豪だけではない。ヴィランの定まらない視線もまた、子どもの方を向いていた。
舌打ちすると同時に足を速める。
ヴィランの方が子どもに近い。今まで無差別に振り回していたくせに、どうして今ばかり標的を定めるのかと思わずにいられなかった。
それでも錯乱している相手よりは、爆豪の方が早い。
日本刀が振り降ろされる瞬間、間に合う。
左で爆破し、殴り飛ばしてしまえばお終いだ。
そう思った時また「たすけて」とか細い声が向けられた。恐怖と涙でべたべたになった子どもが、爆豪の方を見て手を伸ばしている。
小さな手だった。
きっと昔の自分なら掴まずに容赦なくヴィランを殴っていただろうなと思う、小さな手だ。
ふと轟のことを思いだす。三日前の中継だ。どいつもこいつも子どもを狙いやがって。ヒーローの弱みを良く分かっている。そういうヴィラン用の教本でもあるのかと疑う程だ。
爆豪は、その手を掴んだ。
ぐっと握り、思い切り引き寄せる。小さな体が、ぶつかるような勢いで胸に飛び込んでくる。それを抱きとめた。
ここから走って距離を取って、子どもを置いて、そこから追いかけても、十分間に合う。
そう思った。
背後の市民はほとんど逃げた後だ。それにもうすぐ、近場のヒーローも駆け付ける頃だろう。
色々な考えが頭を巡る。一瞬にも満たない時間だった。
だが刀身がコンクリートを叩く音が聞こえないことだけが不思議だった。錯乱したヴィランが勢いよく振り下ろしたはずの日本刀。寸止めをする頭があるとは思えなかった。
一回瞬きをした、その向こう。憎悪と恐怖に濡れたどす黒い視線が爆豪を射ていた。
軌道を変えた太刀筋が、直ぐ目の前まで迫っていた。
避けられる。避けられるはずだった、爆豪ならば。そう踏んでいたからこそ手を取った。だがそれは、いつもの爆豪ならばだ。
読みが甘かったなと、猛省する時間はない。「絶対個性を使わないでくださいね。骨がそれはもう大変なことになりますからね」と二週間前に釘を刺されたことが思い浮かぶ。大変なことってなんだよ。もっと、言い方があるだろう。
骨はどうなっているだろうか。二週間の間にある程度くっついただろうか。一発くらい撃っても問題ないだろうか。問題があったとして、助かるに越したことはない。
だが生憎、ギプスで固定された腕では間に合わない。動かし辛い腕をヴィランに向ける時間はない。足を振り上げる暇すらないかもしれない。
数秒もない内に刀は爆豪を捕らえる。腹部から肩に向けてばさりと斬られる軌道が見える。このヴィランは扱える得物を選んで手に取っていたのだ。良い演技だったなと、感心するほどだった。
一瞬だ。
ほんの一瞬判断を誤っただけで、人間は死ぬ。ヒーローだから死ぬ。ヒーローの敗北条件はあまりに多く、この世は不公平だ。それを覆すからこそのヒーローだ。
轟のことを思った。
今も家で寛いでいるだろう恋人のことを考えた。
死んでも泣かれないなどと自惚れてはいない。それでもきっと、轟は一人で生きていける。なにかと世話を焼こうとする爆豪を、轟は甘やかして好きにさせているだけだ。本人にその自覚はないだろうが。
一人では上手く、器用には生きていけないかもしれない。それでも生きてはいけるだろう。きっと。間違いなく。
爆豪は轟に恋をしていた。
恋をしていた。だから自分が居なければ生きていけなければいいのに、などと思うこともあった。だがそれは、何もこういう状況を言いたかったわけではない。死んだ時、本当に生きていけなくなってもらっては困る。
そもそも、死ぬ気はない。死んでは誰も救えない。今だって、この状況をどうにか出来なければ爆豪もろとも子どもも斬られる。つややかに光る刀は良く手入れされているようだった。もっと粗悪品を売りつけて稼いでおけよと、捕まった武器商人のことを思った。
切れるカードの数は少ない。無いに等しいともいえる。
だが賭けられるものがないわけではない。生き延びることが出来れば、帰ることができる。
ギプスのはまった腕を刀の軌道上に差し出した。これで勢いを殺して軌道を逸らす。運が悪ければ両断されるかもしれないが、ただ死ぬよりはまだマシだった。
にやりと笑えば、ヴィランが一瞬怯んだ様子が見えた。
しかし腕がなくなれば流石にヒーロー引退かもな。
そんなことも思った。