レンジに卵を入れるな!

 
 
 
 
 

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
 うっすらと反響するように迫ってくる。それが雑音の隙間から耳に届いた。
 一帯は人でごった返していてやたらめったら騒がしい。すすり泣く被害者と、邪魔なだけの野次馬と、交通整理をする警察官と、片が付いた頃にやってきたヒーロー。
 爆豪はそれを、ガードレールに腰かけ顔をしかめて眺めていた。
 ポケットから取り出したスマートフォンを操作し、登録するだけした「発目明」の連絡先を呼び出す。
 十コール待つが出ない。切ろうかと舌打ちしたところで「ハイ! 発目です!」と明朗な声が耳に響いた。
「爆豪だ」
「……爆豪さん!」と一瞬考えるような間を置いたのち、閃いたように声が弾んだ。
「ギプスですか、どうですか? 良いでしょう最高でしょう私のベイビーは」
 耳元でまくしたてられるとどうにもうるさい。顔をしかめ、尚も濁流のように聞こえてくる声を怒鳴り声で遮った。
「ウルッセェ! こっちの話を聞けや!」
「え、ギプスの話じゃないんですか。コスチューム改良の方でしたか」
「ギプスの方だ」
「まさか不具合ですか?」
「ちげぇ、これ日本刀はじきやがったぞ」
 本当にギプスか、人の腕に何を付けた、と問い質す声は随分と低い音になった。虫の居所が悪い。
 先ほど、爆豪が腕一本の犠牲を覚悟した次の瞬間のことだ。
 刀身がギプスに当たると、ヴィランの方がよろけて日本刀を取り落とした。よろけたのは純粋な筋力差だと思うが、まさか刃こぼれのない日本刀を弾くなど予想出来るわけがない。その上ギプスには傷一つついていないときた。
 ガシャンと地面に落ちた日本刀を見て驚愕したのは、ヴィランも爆豪も同様だった。
 ただヴィランの方が戸惑ったことだろう。爆豪の頭には瞬時に発目の顔が浮かんでいた。そうして生まれた隙を衝き、ヴィランを蹴り飛ばし拘束した。あとは直後にやってきたヒーローに引き渡し、けが人の手当てを依頼し、抱えて居た少女の親を探して仕事は終いだ。軽い事情説明を方々に行い、ようやく一息ついた。
 そして電話を掛けた。
 問い質した相手、発目は実にけろりと答えた。
「言ったじゃないですか、ガントレットを作っていたって。刃物くらい弾けないとお話になりませんよ。耐久性はそれはもうバッチリです。無いのは柔軟性ですね。おかげでギプスになってしまいました」
 呆れて言葉も出なかった。
 確かにガントレットを作っていた副産物だとは聞いた。だがまさかこれ程の強度を有しているなど思うだろうか。だが発目が携わっている時点で、予想出来たのかもしれない。どれほどの耐久性があるか、確認すべきだったのだろう。
 それを落ち度と呼ぶならば、爆豪の落ち度だった。実際先程の行動は、良い判断だったと言い難い。ギプスに助けられたことも事実だ。
 どっと疲れた。
 別れを覚悟した右腕は、ギプスにはまったまま無傷で体にくっついている。振り抜かれた日本刀がぶつかった衝撃で、折れた個所の周囲がじりじりと痛んでいるが、それだけだ。 人の気苦労など微塵も知らぬ様子の発目は「あ、爆豪さん今から病院に来られますか?」と訊ねてきた。
「……行ける」
「ではギプス見せてください。日本刀受けて無事だったベイビーの姿を、一刻も早く確かめたいんですよ。ちょっと待ってください先生の予定確認しますから。あ、先生今宜しいですか? この後時間貰えませんか、そうですね一時間後がいいですね。私も移動があるので。あ、わかりましたでは一時間後に。もしもし? 爆豪さん聞いていましたか? 一時間後に病院でお願いします」
「……分かった」
 真面目に取り合うことすら面倒だ。ヴィランの引き渡しも状況説明も終えている。病院へ行くと言えば解放してもらえるだろう。
 救急車が到着したことでまた慌ただしくなり始めた現場を眺める。状況確認をした救急隊員の一人がこちらに向かってくる。スマートフォンから一度顔を離し「俺は無傷だからいい」と追い返す。「さっさと他の奴見てやってくれ」
 再度スマートフォンを耳に当てると、また発目は誰かと連絡を取っていた。はいはい、と頷く声が漏れてくる。
「おい、まだなんか用あんのか」
「はい! 治癒課の予約どうにかねじ込めましたので、骨くっつけてギプス外しちゃいましょう! さすがに日本刀を受けたとあっては劣化が見られる可能性もありますからね。解析にもかけたいですし! 新しく付け直してもいいんですが、再度プロトタイプを付けて頂くというのも……。あ、治癒課は時間外に無理やり入れたので夜遅くなりますが、大丈夫ですよね? では病院で」
 言うだけ言って電話は切れた。
 治癒課にかかれるという点は助かる。いくらヒーローと言えど易々と予約は取れない。願ってもないことだが、どうにも腑に落ちない。次第に押さえ込んでいた、様々な腹立たしさがこみ上げてきた。顔が引きつっていく様が分かる。
「ンの野郎」
 時計を見ればもうすぐ十七時時になる頃だった。空はうっすらと夕暮れの色を滲ませている。今からスーパーに行って家に戻って再度病院に出向くのは時間的に厳しい。
 舌打ちをこぼすと、噂を聞きつけて集まってきたマスコミの姿が目に付いた。リポーターが爆豪の姿に気付き、カメラがこちらに向けられる。再度舌打ちし、ガードレールから降りる。人混みに紛れるように歩き出す。
 そして急いで轟の連絡先を呼び出した。
 呼び出し音が鳴る。四コール目でつながった。
「お、あっもう夕方か」
 そんなすっとぼけた、眠気に滲んだ声が聞こえてきた。帰りを待っていたのに寝てしまったのだろうかと予想する。気が抜けて笑ってしまった。苛立ちが解れて霧散する。
「発目に呼び出し食らったから、今晩遅くなる」
「そか、分かった」
「言っとくが俺は無傷だからな」
「なんだ、事件に巻き込まれたのか」
「まあな。何時に帰れるか分からねえから、夕飯適当に食っとけ」
「わかった。何か作っとくな」
「おー」
 人混みを抜けタクシーを探していると「え?」という轟の声が耳元で聞こえた。まさか肯定すると思っていなかったのだろう。失礼な奴めと思う反面、当然の反応だろうなとも思った。
「でも無理して作らんでも良いからな。外食しても、出前とってもいい」
「え、おお。じゃあ作る」
「帰りが分かったら連絡する」
 タクシーを捕まえ「じゃあな」と通話を切る。
 その夜あっさりと骨はくっついて、ギプスも外れた。
 家では轟が蕎麦だけ茹でて待っていた。

 
 
 
 
 
 
 

     

「待て、オイ、轟」
 こちらに背を向けた轟の肩を慌てて掴み、引き留める。不審な動きをしたように見えたからだ。とてもではないが見逃すことのできない行動だ。
 二人は今、キッチンで並んで料理を作っていた。そして轟が手にしたはずの物と、向かう先が問題だった。
 嘘だろう。そう思った。
「テメェ今、何しようとしてる」
 まさかそんなことをする人間が、まだこの世界に存在するはずがない。爆豪はそう信じていた。これはさすがに考えすぎの、心配しすぎだと思いたかった。
 爆豪は轟に対して少しだけ、心配症だ。
 ドキドキさせられっぱなしだといえば、上手くいっている恋人同士のような響きだが、正確にはハラハラさせられっぱなしだった。
 ビルボードチャートを勢いよく駆け上がる優秀なヒーローでいながら、時折やけに抜けていて爆豪の心臓を鷲掴みにする。もしも己の死因が心停止になった日には、こいつが犯人に違いないと思う日もある。
 エプロンを身に着けた轟が振り向いた。買うだけ買ってほとんど出番がなかったものの、ここ三週間で登場頻度がぐんと上がった黒いエプロンだ。
 轟は手に、卵を持っていた。
 生卵だ。茹でてはいない。先程冷蔵庫から取り出した様子を見たばかりだからだ。そして体は電子レンジの方向へと向いている。
 問題は、轟がこれから作るはずのものがゆで卵だという点だ。「たまごサンドを作る」という宣言も聞いている。爆豪の知らないたまごサンドの作り方があったとして、それを轟が知っているとは思えなかった。
 案の定轟は自信たっぷりに答えた。
「ゆで卵を作ろうとしてる」
「なにで」
「レンジで」
「本気で言ってンのか?」
 ジョークという可能性を、一応疑った。微かな希望はサクッと打ち砕かれ、轟が表情を曇らせた。
「まさかレンジじゃ出来ねェのか」
「出来ねえじゃすまねえわ」
 爆発すンぞ。と言うと「爆豪がか?」と今度こそ冗談か本気か線引きの難しいことを言った。ふざけてんなと思うが、このふざけた状態で放置し、良しとした責任は爆豪にもある。全くとんだ天然記念物にしまったものだ。
 深々溜め息を吐きたいところだが、ぐっと飲み込み務めて静かに言葉に出す。
「俺が怒るじゃ済まねェくらい爆発すんだよ。いいか、絶対に、レンジに卵を入れるな」
「……わかった」
 一度で覚えろ、絶対に忘れるな、という威圧を込めて言葉にする。轟は怯えたようにレンジから離れこちらへ戻ってきた。まさかレンジがそのように歯向かってくることがあるとは思ってもみなかった、という様子だ。
 となりに戻ってきた轟に、片手鍋を手渡す。
「やっぱ茹でるのか。水どんくらい入れたらいいんだ」
「かぶるくらい」
「わかった」
「おら、タイマー」
「有り難う」
 ピッと電子音が鳴り、タイマーが十分をカウントダウンを始めた。水の入った鍋に静かに沈んでいるだけの卵を、じっと見つめる轟に、茹でたじゃがいもを入れたボールとマッシャーを手渡す。
「茹で上がるまでやることねえならそれ潰せ」
「わかった」
 素直に受け取り頷くと、キッチンの空いたスペースでじゃがいもを潰し始める。あれは後ほどポテトサラダになる。
 黙々と与えられた作業をこなしながら、ふと轟が電子レンジを見た。やけに哀愁漂う眼差しを見せたなと思えば「レンジが居れば何でもできると思っていた」などと神妙な顔で言うので、堪えきれずに噴き出した。
 肩口に顔を押し付け、笑いを隠しながらからあげを揚げる。
「まあ、方法がないこともないがテメェは覚えるな」
「あんのか。やっぱレンジはすげぇな」
 失いかけた電子レンジへの信頼を取り戻した轟が、ほっと笑った。
 実際電子レンジで作れるメニュー数はあまりに多い。しかしそれを覚えさせるか否かは、きちんと検討した方が良さそうだ。電子レンジ信仰だけで生きていかれても困る。
 じゅわじゅわと油が音を立て、からあげがこんがりと揚がっていく。いつの間にか爆豪の手元をじっと見つめていた轟の様子に気付く。じゃがいもを潰す手は止めず、物欲しそうな視線だけが注がれる。朝飯は食っただろうと思いながら、菜箸の先でからあげを掴み上げた。
「ほら」
「あー」
 無防備にパカと開けられた口に、からあげを放り込む。途端に轟がもがき苦しみ始めた。背を丸めて震えながら「あッつい」と呻く。揚げたてほやほやではない物を選んでやったのだがダメだったようだ。目を細める。火傷するほどではないと思うがどうだろうか。
 熱さの山場を越したらしい轟が、口元を手で多いながら顔を上げた。見事な涙目だ。けたけた笑うと睨まれた。しかし咀嚼が進みごくりと嚥下すると、ぱっと顔を明るくする。味はお気に召したらしい。
「ん、いつもより味濃い気がするけど美味いな」
「冷めたら丁度良くなんだよ」
「おー、なるほど。弁当だもんな」
 主夫の知恵ってやつだな。と轟が頷いた。まあな、と適当に相槌を打つ。
 二人はこのあと、弁当を持って登山に行く。
 休みを合わせたにも関わらず前夜にセックスはせず、そろって早寝早起きし、弁当をこしらえている。
 轟が主食のサンドイッチ。爆豪は副菜全般。
 轟が食パンのミミを落としてマーガリンを塗っているいる間に鶏肉に味を付け、じゃがいもを茹でた。ついでに食パンのミミも油でカラッと揚げた。我ながら感心するほどの手際の良さだ。となりでもたもたしている男が居るから余計に際立つ。
「終わったぞ」とじゃがいもが綺麗に潰されたボールを見せられた。
「んじゃ次これで混ぜろ」と調味料と具材を投げ込み、マッシャーを回収。スプーンを持たせる。
「お、カレーの匂いがする」
「カレー風味な。てめぇが手ェ抜いたら、一発で分かる」
「おお」
「味ついてねえ箇所あったら山頂でブン殴るからな」
「山頂でまで殴り合いになりたくねえから頑張るな」
 殴ったら殴り返そうとしてくるところは好きだが、自分の落ち度でも殴り返そうとするなと片眉を上げる。しばし作業を眺めてみたが、まずまず丁寧に混ぜているので大丈夫だろう。なめらかなクリーム色をしたじゃがいもに、黄色いカレーの色が広がっていく。
「けど、珍しいよな」と脈絡なく轟が言った。
「何がだよ」
 カレー風味のポテトサラダの話ではないよなと横目に見る。轟の視線もこちらを向いたことで目が合う。春の青空のような色をした瞳に、ほんのりと笑みが浮かんだ。
「一緒に飯作ろうって爆豪が言うとか。ギプスも取れただろ」
 手伝わせる理由はなくなっただろう、と言いたいのだろう。
 絡んだ視線を解き、からあげの最後の一個を油から引き揚げた。火を止める。次のメニューに取り掛かるため冷蔵庫へ向かう。
「これからは轟にも作らせる」
 ことにした。と小さく言葉を続ける。
「いいのか?」
 その問いが出てくることが異常だったなと、今なら思える。
「作れねぇと困ンだろ」
「困るほどじゃねえけど」
 卵を三つ取り出し冷蔵庫を閉める。厚焼きたまごは轟のリクエストだ。
 ピピピとタイマーが大きな電子音を鳴らした。「お」と楽しそうな声を出した轟が片手鍋へと駆け寄り火を止める。それでこれをどうするのだ、という視線が向けられた。指示を仰いでくるだけマシだなと息を吐く。
 シンクにボールを用意し、水を張ってやる。「そこに移せ」と声を掛けると「わかった」という頷きが返る。
 漠然と心配で、どうしても目で追ってしまう。
 だがさすがにゆで卵の殻は剥けるらしい。卵を剥き終えた轟に、マヨネーズとフォークを手渡す。
「どうしてフォークなんだ」という顔をされたので「フォークの背で潰すんだよ」とため息交じりに伝える。
「……思ったより俺料理できねえな」
 ゆで卵に敗北する轟焦凍の姿を知っているのはきっと、この世に爆豪以外にいない。
 呆れてしまう。ゆで卵を作らず生きて来た轟にも、それで良しとした自分にも。
「やったことねえだけだろ。教えたことは出来てるから、出来ねえわけじゃねえわ」
「そうか? 爆豪のお墨付きなら安心だな」
「だが別に、何も料理出来ねえでもいいんだよ。総菜買ってもいいし、出前取ったっていい。外食もある。死にはしねえ」
「それ、二回目だな。この前も珍しいこと言うなって思ったんだが、どうかしたのか?」
 キッチンで肩を並べている轟は、やけに穏やかな表情をしている。春の陽気のようだ。実際に外はすっかり暖かくなっており、春一番が吹き荒れ五分咲きの桜をごうごうと煽っている。
「……どうもしねえわ」
 悪態のように一言吐き出した。
 照れ隠し半分、ばつの悪さ半分だ。
 本当は、爆豪が持っているものを少しずつ伝えていくつもりでいる。轟が一人でも生きていけるように。
 上手い下手はさておき、今でも一人放り出したところで問題なく一人で生きていけるはずだ。だがそれが、少しでも上手く、楽になるように。せめて持っているものくらい渡してやろうと思った。
 何を渡して、託して、残してやれるだろう。そんなことを考えた。考え始めた。あまりに今更に。
 まあ、そんな日を迎えさせる気などないのだが。
 誰がこいつを置いていくものか。