レンジに卵を入れるな!

 
 
 
 
 

 改めていうと恥ずかしい話だが、爆豪の初恋の相手というものが轟だった。
 誰にも譲る気がなく、絶対に手に入れたい。そういう意味での初恋。
 幸い、誰かに取られる前にきちんと捕まえられた。計画性と焦りとの板挟みの中駆け抜けたのも、今思えば若さとしか言いようがない。捕まえたからには大切にしたかった。そしてこれもまた若さだった。
 車を走らせること一時間。
 地図アプリが目的地への到着を知らせた。行き先を知っている爆豪が往路を、轟は復路を担当することになっている。
「意外と空いてるもんだな」と、ガラガラの駐車場を眺めた轟が呟いた。
「ガイドブックとかに載るような山じゃねえからな」
 いかにも土地だけはあるといった趣の駐車場に、車を停める。停まっている車の数は少ない。隅には冬の名残か、落ち葉が積もっていた。
「春だし、もっと混むもんだと思ってた」
「もうちょい後になりゃ増えるだろうな。今は桜の名所に人取られてる。それに平日だぞ」
「この山、桜咲いてねえのか?」
「咲いとるわ。観光地みてーに並んでねえだけでな」
 へえ、と感心する轟の頭にキャップを被せる。「要るか?」ととぼけたことを聞いてくる顔に「要るだろ」と呆れて返す。
 支度を終えると早速山道に入った。
 この山は大して高くもなく、道も比較的安定している。三時間もあれば山頂に着くだろう。登山経験が数回程度の轟でも上り易いだろうと考えもしたのだが、きっと要らぬ世話だ。プロヒーローにしてみれば、この程度の山道など悪路に入りもしない。ふと高校一年の時に走らされた、あの森のことを思い出した。
「登山なんて久しぶりだよな」
「俺もなんだかんだ、二年振りだ」
「二年って、俺と最後に行って以来か? 独立で忙しくなる前に行くって言ってた」
「それだな」
 あれは実際正しい判断だった。この二年「山に登りに行くか」という時間的なゆとりと、精神的なゆとりが爆豪にはなかった。その余裕が生まれた切欠が、骨折による休業とは皮肉なものだ。
 となりを歩く轟の様子を伺う。瞳を瞬かせながら興味深そうに景色を眺めていた。
 まだまだ麓で珍しいものはない。山道といってもせいぜい散歩道だ。駐車場に止まっていた車の持ち主たちの大半も、頂上を目指しに来たのではなく、麓を散歩しに来たのだろう。実際そういうコースもある。それを外れ、上を目指すコースに入った。
 踏み固められた土の道と、緩やかな斜面に配置された丸太の段差をざくざくと登っていく。穏やかな春の風が吹く。木の葉が擦れる音が通り抜ける。ざわざわと大きな音で辺りが満ちる。それでも静けさを連想させる。
「あ、爆豪」と轟に呼び止められた。
 振り向くと後ろ姿が見えた。コースを外れて藪の中に突っ込んでいく姿を、慌てて追いかける。この男が突如勝手をするのは昔からだが、声を掛けるようになってくれただけ進歩したというのものだ。人を見失うと憤慨するくせに、自分はすぐどこかへ行こうとする。もう慣れたものだが。
 追い付いた先で轟はスマートフォンを構え、山桜の写真を撮っていた。青々とした木々に囲まれて咲く薄桃色の花びらの、一番きれいな姿を模索するように奮闘している。その後ろ姿は少し間抜けだ。片足を前に出し中腰になりながら、空と山桜を同じ画面に収めようと試みているらしい。その様子をパシャリと一枚写真に収める。撮れた写真を確認しながら小さく吹き出すと、興奮した様子の轟が振り向いた。
「桜咲いてるぞ」
「そうだろうな」
「けど綺麗に撮んの難しいな。色んな木とか草が映り込んじまう」
「もうちょい登りゃ見やすいところあんぞ」
「ホントか? つか爆豪、この山初めてじゃないんだな」
「……まあな」
 実はこれは三度目だ。
 一度は今のように、桜の咲く時期に登っている。だからどこで綺麗に写真が撮れるかも覚えていた。春は人が少ないというのもこの目で見ている。話せば「行ったことないところじゃなくていいのか?」と言いそうだったので黙っていた。
 当然、初見の山はそれだけで楽しい。だがどういった場所で、どれほど人が来るのかが分からない。今回は人の少ない場所の方が良かった。轟と二人、人目を気にせずのんびり出来る場所。
 このところずっと、そのようなことを思っている。
 案の定轟は「来たことあるところで良かったのか?」と聞いてきた。しかし直ぐに何かに思い当たり「あ」と自己完結したような声を出した。
「人目を避けてんのか」
 初見じゃ分かんねえもんな。と笑いかけてくる顔を、目を細めて見つめ返す。
 しかし「休業中に遊んでるとか言われたら、面倒クセェもんな」と若干見当違いな回答に着地した。それはどうでもいいと思ったが、実際そのようなことを言われたら面倒であることに違いはない。
「爆豪、腕が治ったらすぐ復帰すると思ってた」
「……元々一か月休業するつもりで動いてたから、多少変わりねえわ」
 元はそのつもりだった。だが思うことがあった。この休業中、様々考えた。だからこうして轟と休みが被るまで待って、登山をしに来た。これで何が変わるというわけではないが、爆豪個人としては必要な区切りだった。
 轟を連れての登山。
 この先、生きていくために必要なもの。大切にすべきもの。
「明後日から復帰だよな」
「おー」
「その前に趣味の山に登っとこうってことか」
「まあな」
「誘ってくれてありがとな」
「おー、ア?」
「爆豪って趣味が登山だろ。それに連れてきてもらえんの、実はすげぇ嬉しい」
 そういう距離を、許してくれているってことだろう。そう轟が言う。
 爆豪は素直に、こいつは今更なにを言っているのかと思った。そういう距離も何もない距離だろうと思ったのだが、やけに嬉しそうに空を見ていたので何も言えなかった。
「あ、鳥」
 という、何の情報もないつぶやきがもたらされる。
 スズメやカラス、ハトではないのだろうなということしか分からない。当然山には様々な鳥が居るだろう。「爆豪、鳥だ」と再度言った轟が空を指差すが、その先になにも見つけられなかった。飛んでいる鳥を示されてもどうしようもない。
 ウグイスの谷渡りが響いた。
 その後も有益か無益かと言われたら、無益としか言いようのない、中身のない会話をぽろぽろと続けながら山を登った。
 轟は昔から、必要なことからどうでもいいことまで、やたらと爆豪に話しかけてきていた。「うるせぇ」だの「話かけんな」だの言ったところで、分かった顔をするのは一瞬だけだ。三歩歩いたら忘れるどころか、息を吸い込んだら忘れて、そのまま吐息と一緒に声を掛けてくるような奴だった。
 それらに不要な前置きをせず、言葉を返すようになった頃から、爆豪は轟のことをそういう意味で気にするようになっていた。元よりずっと、気にはしていた。
 気にするの意味も、いつしか変わる。
「あれ、頂上か?」
 生い茂る木々の向こうに、開けた空が見えた。そうだと知っているが、答えずにいた。山道を登り終えた先で、急に視界の晴れるあの気分を知っているからだ。
 肩を並べていた轟が、一歩大きく踏み出す。三時間山道を登っていたとは思わせない、平時と変わらぬ足取りで軽く駆けていく。
 転ぶなよ、なんて声を掛けたくなるような光景だった。転ぶわけがないと知っているのに。
 最後の木の間を通り抜けた先で轟が足を止めた。伸びた背筋が大きく息を吸う、その様子が分かる。
 そして振り向いて、名前が呼ばれた。
「爆豪」
 そう、呼ばれる。二色の瞳をちかちかと瞬かせて。感嘆を唇に乗せて。勿体ないほどの光景だった。
 大して高い山ではないが、視界を大きく遮るものがほとんどなく、頂上の景色は良い。からだ。眼下には街も見える。
「結構簡単に着いたけど、思ったよりいい景色だな」
「だろ」
 なだらかな斜面は途中で崖に変わり、奥には裾野が見える。青々とした緑の中に混じる桜色を通り越し、更に遠くへと目を向ければ街がある。ろくに知らない街だ。空は青く、白い雲が疎らに漂っている。春の陽気が心地よい、最高の日和だ。
 山頂は少し開けている。標高を示す看板があり、丸太を半分に切って適当に放置したようなベンチが置かれている。そこに荷物を下ろす。腕時計を確認すると丁度良く十二時だった。荷物を開けつつ、そわそわと歩き回る轟を呼び戻す。
「轟、景色見ンなら飯食いながらゆっくり見ろ」
「おお。頂上っていったら弁当だよな」
 振り向いた顔は子どもみたいにチカチカ光っていた。単純な奴と笑いながら、駆け寄ってきた轟と並んで座る。
 このベンチをここに置いた人物はなかなか分かっている。座っても十分に眺めがいい。
 食べる前に腕まくりをし、ウエットティッシュで手を拭く。轟に手渡すと同じようにしながら、じっと見られた。視線は右腕を見ている。丁度骨折していた部分だ。
「綺麗に治って良かったよな」
 そう、しみじみと呟かれる。
「治りゃいいんだわ」
 綺麗にかどうかはさておき、弁当の蓋を開ける。
 中身は今朝二人で作った、ベタにベタを重ねたような弁当だ。サンドイッチにからあげに卵焼きにポテトサラダ。
 凝ったメニューを作った時、轟は喜ぶ前に何か分からず首を捻る傾向にある。こういうい露骨なものの方が受けがいいことが多い。とはいえ今回は轟からのリクエストだ。「弁当って感じの弁当がいい」という分かりそうで一切分からないオーダーを受け、これを仕上げた自分を褒めてやりたい。
 何を入れたかを知っているくせに、弁当の蓋を開けて「おお」と感動していた。「弁当だ」と、そうだなとしか返しようのないことを言う。
 手始めに轟が作ったたまごサンドを手に取る。一緒にハムとキュウリのサンドイッチも入っている。ベタの極みだ。
 あ、と大口を開けてばくりと噛み切る。咀嚼していると、となりから熱視線を向けられた。唇を引き結んだまま、どうだどうだと感想を求め、視線がうるさく問い掛けてくる。眉間にしわを刻めば、焦ったように目が丸くなるのでおかしかった。
「フツー」
「よし。駄目出しからじゃねえ」
「駄目出しは朝に特大のしただろうが」
「……あれか。まさかレンジが裏切るとは思わねえだろ」
「怖ェこというな」
 電子レンジに卵を入れるに留まらず、まだ都市伝説のようなやらかしをする可能性を感じてしまいぞっとする。他に何があるだろうかと考えるが、案外直ぐには思い当たらない。
 暖かな日差しの元、背筋にどことない寒気を感じながら弁当を食う。
 からあげを口に運んだ轟が「ほんとだ、冷めても美味い」とこれまた当然のことを言っている。もくもくと食べ進めていると、急に腕を触られた。轟がサンドイッチ片手に、爆豪の右腕を撫でている。
 眉をひそめると「腕、斬れるかもしれなかったんだろ」と言われた。
「くっついてて良かったな」
「……誰に聞いた」
 爆豪はギプスのおかげで無傷だった、としか話していない。ニュースにもそこまでの情報は出ていなかったはずだ。ならどこから伝わったのか。そう考えるが一人、犯人に心当たりがある。
 答え合わせのように、名前が告げられた。
「上鳴だ。あの後会ったんだ」
 陽気に笑う黄色い姿が思い浮かび、つい舌打ちが零れた。爆豪も轟も、結果的にあの事件の関係者となった。その流れで話が伝わっていてもおかしくはない。だからと言って要らないことまで言うなと目を細める。ムッと表情を歪ませると、対照的に轟が笑った。
「怒んなよ。そりゃ、聞いちまったからちょっと心配もしたけどな」
「心配されるようなことじゃねェわ」
「かもな。でも、心配すると思ったから、あの日先に連絡くれたんだろ? 少し嬉しかったな」
「……ンのことだよ」
 図星を付かれると、どうにも照れくさくていけない。
 それを知ってか轟もそれ以上追及はしてこなかった。代わりに腕をもう一度愛おしそうに撫でられる。触れていた高くも低くもない温度が、するりと離れた。
「ヒーローやってる爆豪のこと好きだからな、良かった」
 無事でよかった。そう声が囁く。
「辞めんなよ、ヒーロー」
「辞めるかよ」
 呆れように言葉を吐く。
 引退する日など、当分来やしない。ああやはり、怪我だの病気だのは勝手に人間を弱らせるものだなと、数日前の自分を思った。
 空にした弁当箱の蓋を閉めながら「でも」と轟が呟いた。
「家に帰ったら爆豪が毎日出迎えてくれるってのは、結構嬉しかったな」
「へえ」
「怒んなって。ヒーローやってる方が好きだって先に言ったじゃねえか」
「怒ってねえわ」
 唇を尖らせると「やっぱちょっとムッとしただろ」と指摘された。半分ほど正解だ。確かに出迎えることは気分がいい。甘やかしたり構ったりする時間をゆっくりとれるのもいい。
 だがその日々に焦りを覚えずにいられない。
 今回は骨折という、出口の見えている負傷だったからまだいい。いつ治るとも知れない状況だったならば、もっと腐っていただろう。
「一緒に居られる時間も多く取れたし、それも嬉しかったな。治ったから言えることだけどよ」
「だろうな」
 サンドイッチの最後の一欠けを口に放り込む。眉をひそめる。一緒に居られて嬉しいと直球で告げられては、照れずにいられない。誤魔化すように膝の上で頬杖を突き、景色を眺める。本当にいい天気なものだ。
「でもやっぱ心配するから、あんま怪我すんなよ」
「てめぇもな」
「おう。そんでいつか、一緒にヒーロー引退しような」
 もたらされた言葉に、はっと顔を向ける。その先で轟は「あっ、鳥」とまた明後日の方向を見ていた。
 本当にこの男はどうして、こうも人の心をめちゃくちゃにすることが上手いのだろう。
 引退するほど先の時間まで一緒に居てくれる気があるのか。意図して言ったのか、なにも考えていないのか。
 洪水のように言葉と考えが、頭の中を通り過ぎる。ごうごうと吹き荒れる嵐のように騒がしく、何一つ言葉が喉から出てこない。
 ただただムスリとして、能天気な顔を眺める。「そうだな」とか「どんだけ先の話してんだよ」とか。いくつか言葉は思い浮かぶ。だがそれだけだ。
 轟の中では既に、この先ずっと爆豪がとなりに居ることが決定事項なのかもしれない。爆豪とてそのつもりだが、こうもあっさりと先に、似たような言葉を言われるとは思っていなかった。
「爆豪、あの鳥なんだった?」と間抜け面を晒しているので、深く考えての言葉ではないのだろう。重大な意味など何もなく、ただ当然のことなのだ。きっと、轟の中では。
「見てねぇから知らねェ」
 溜め息を吐いてリュックを漁る。弁当箱を沈めながら代わりにコーヒーミルとコーヒー豆、簡易のポットにカップを取り出す。ポットは地面に設置し、マッチで火をつける。何もかもコンパクトになっていくおかげで持ち運びが楽でいけない。とりあえず持って行っても良いかと思えてしまう。
 轟を誘う時はいつも、コーヒーを持ってきている。しかし二年振りの出番とあってはこいつも可哀想なものだ。
 ガリガリと豆をひいていると轟がくっついて来た。存外くっつきたがりなところも悪くはないが、邪魔なものは邪魔だった。肩で押し返すと何故か余計にくっついてくる。肩に顎を乗せられる。すぐそこで、曇り空と同じ色の瞳がちかちかと光っていた。白い睫毛に縁どられた目が、ゆっくりとシャッターを切るように瞬きをしながら、爆豪の手元をじっと見ている。
「爆豪が山で淹れてくれるコーヒー好きだな」
「家で淹れんのに比べたら大したもんじゃねえだろ」
「外で飲み食いするとなんでも美味いことねえか?」
「ハッ、お手軽野郎」
「適当な呼び方すんなよ」
 鼻で笑うと轟は唇を尖らせた。しかしむすりとしたのは一瞬で、すぐに目元を緩める。昔を懐かしむような、そんな顔をしていた。何を考えているのか。
 まさか思ったが、そのまさかだった。
「最初に登山に誘ってくれた時も、コーヒー淹れてくれただろ」と、随分と懐かしい話を持ち出された。
「よく覚えてんな」
 ぶっきらぼうに答える。その話題は照れくさいからだ。
 轟でもさすがに覚えているかと、渋々視線を向ける。
「あん時告白されたからな」
 満面の笑みを向けられては最早恨めしいくらいだ。嬉しそうで何よりだが、恥ずかしくないわけではない。
 挽けたコーヒー豆をドリッパーにそそぐ。二人分のお湯ももうすぐ沸きそうだ。初めから二人分淹れられるものを選んで買った。あの時もそうだったと、芋づる式に青い日々のことを思い出し、どうにも居心地が悪い。
「高二の春だったよな。爆豪に一緒に登山行くか、って誘われた時嬉しかった。さすがに俺も爆豪の趣味だって知ってたからな。それに誘われるって、特別扱いってことだろ」
「轟のくせにそこまで気付いとったんか」
「いや、割とさっき気付いた」
「テメェふざけてンのか」
 誘った時のことを、爆豪は鮮明に覚えている。轟の表情を確認し、まんざらでもないようだと思ったことも覚えている。
 実際嬉しかったと告げられることは、何年越しでも喜ばしい。だが特別だというアピールを込めて登山に誘ったというのに、まさかつい先ほどまで気付かれていなかったとは思ってもみなかった。
 ぐわっと睨み付けるが、どれほど鬼のような形相で睨んだところで轟には全く響かない。そんなことはとっくの昔から知っている。だからこれは形だけだ。
「流れで気付いたんだが、あれ告白するために誘ったんだな。山のてっぺんで断ったらどうするつもりだったんだろうって思ってたが、俺が断るって思ってなかったんだな」
「……今気付いたんか」
 嘘だろという気持ちで訊ねるも、轟は「おお」と頷いた。当然と首を縦に振り、それから「ふは」と笑いだす。
「あの時の爆豪、すげー可愛かったんだよな」
「アァ?」
「すげー一生懸命って感じでさ、やっぱあん時俺たち高校生だったんだな。結構はっきり覚えてて良かった。これ忘れちまったらもったいないよな」
「今すぐ忘れろや」
「だめだ、もったいねえ」
 もたれ掛かってくる轟の顎を掴んで押し返す。頬を圧迫されながらも言葉を発するさまは随分間抜けで相当かわいい。
 鼻で笑ったところで湯が沸いた。「あぶねえから退け」と追い払うも「別に平気だ」と尚も寄ってくる。純粋に手元が狂いそうだから離れてほしいのだが、この男は変なところでやたらめったら鈍い。
 仕方がないので左手でそっと湯を注いだ。ぽたぽたとコーヒーが抽出され、香ばしい匂いがふわりと香る。
 右側にもたれかかってくる体はじんわりと温かく重い。
 予想通りこの時期に、この山頂を目指してくる人間はいないようでひたすらに静かだ。ほうっと吐いた息さえ大きな音になりそうなほど、平和だった。
「山桜って結構生えてるんだな」
 轟が眼下の山を指差した。青々とした木々の中で疎らに桜色が華やいでいる。桜並木も良いが、ああして山を彩る姿も悪くない。
「あん時も桜咲いてたよな。丸七年前か?」
 最後の最後で、派手にすっとぼけた轟に絶句した。
 大きく口を開け、肺にめいいっぱい空気を吸い込む。
「桜咲いとったんは一昨年だ! 告ったんは三月頭だ桜咲いてねェわ、バーカ!」
 高校二年の終わり、じんわりと暖かくなってきたあの日。桜には早いが、だからこそ今誘うのもありだなと画策した。
 少し遠くても大した装備が要らず、ハイキング気分で登れて、あまり人も多くない山をわざわざ探してきた。それはもう念入りに準備をした。先程轟が言った通り、良い返事をもらう自信はあった。だがそれが妥協する理由にはならない。元より爆豪は完璧主義だった。
 それをこの男は覚えていたり適当に記憶していたり、本当に人の心を乱すのが上手い。
「そうだったか?」と目を丸くする姿が信じられない。
 こういうやつだよなと呆れてやまないが、全く幻滅ができずにいた。こんな奴だから気にして、気になって、どうにもならなくなってしまったのだろう。けれどきちんと捕まえた。この先逃がすつもりは毛頭ない。
 ギリギリと奥歯を噛み締めながら、抽出の終わったコーヒーを二つのカップに半分ずつ注ぐ。「ん」と差し出せば「ありがとう」と嬉しそうに受け取られる。
 山頂でぼんやりと飲むコーヒーは格別だ。
「うまいな」
 となりの轟が笑う。
 七年前全く同じ角度で、驚いたようにその言葉を口にした姿をはっきり覚えていた。その姿に向けてなにを言ったかも、一言一句記憶している。
 いつ死ぬともしれないからこそ、一緒に居たいと今は思う。
 きっとお互い一人で生きていける。残念ながらどちらかが死んだからといって、そこで心が折れて歩き出せなくなるほど柔な精神をしていなかった。血反吐をこぼしながらも立って歩ける。二人はそういう生き物だ。
 だからこそ並んで生きていきたい。
 もうすぐ二十五歳だ。まだ早いと思っていたが、関係をもう一つ進めてしまうのもいいかもしれない。プロヒーローになって六年、独立して二年。轟と付き合うこと七年。
 改めて思えば特に早くもない。しかし今言うの無計画すぎるなと足踏みする反面、始まりと全く同じシチュエーションというのも悪くはないとも思えた。
 忙しない考えを一度収めるようにコーヒーを飲み、ほっと息を吐く。どちらにせよ、焦ることでも悩むことでもない。
 なにせ轟は断らないと、知ってしまったところだ。