(五夏/転生)
私たちの子どもが、パパとママの次に発したのは、知らない言葉だった。
どこかのメディアから漏れ聞こえてくるような、ありふれた単語ではない。なにせ私も妻も知らなかったのだ。
偶然かと顔を見合わせたが、しばらくすると忘れてしまった。泣き声がたまたま言葉らしく聞こえただけだったに違いない、と結論付けたとも言える。
しかし数年後、再びその言葉を聞くことになる。
寝返りを自分でうてるようになり、はいはいできるようになり、つかまり立ちができるようになり、たどたどしく会話ができるようになったころ、知らない単語を発するようになった。
まさかと思ったのだが、妻にも覚えがあった。
その時私が感じたのは、得体のしれないものを覗き込んでしまったような、一抹のうすらざむさだった。だが妻は私と違い、朗らかでポジティブで気立てがよく「天才かもしれないね」と笑い、その単語を検索窓に打ち込んだ。
結果がヒットする。
日本の、とある地方の地名だった。
またなぜ、と訝しむが、妻は諸手をあげてはしゃぎ、我が子を抱きあげてくるくると回った。「偶然かなあ。どうかなあ。ねえ他にも喋ってみて」ときゃらきゃら笑う。私は彼女のそういうとこを愛し、救われてきた。
妻の期待に応えてかどうか、次第にいろいろと、知らないことを話すようになった。
繰り返し口にするのは、初めに発した地名。それから本当に聞き覚えがなく、検索しても分からない言葉。そしてその言葉を口にすると、決まって困ったように眉を下げる。
悲しそうな我が子の姿に胸を痛めながらも、今話しているのは本当に私たちの子か? という恐ろしい考えが、どうしても頭を過る。
そんなことはない。確かにこの子は私たちの子だ。妻の出産にも立ち会っている。目鼻立ちは彼女によく似ていた。眉毛の形は私に似ている、なんて言われる。
知らない言葉を話し、ぐずぐずと泣き始め、今は妻の腕の中でゆらゆらと揺れている。そうなっても妻は穏やかに笑っていた。
そしてふいに、妻がパチンと指を鳴らした。こういう時は大抵「名案じゃない?」と言い出すときだ。私と貴方、恋人になったらとってもうまくいくと思うの、どうかな、名案じゃない? と言われたときのことが思い出される。
「前世の記憶ってやつじゃない?」
そんなものが実在するのか、と思ったが、どうやら稀にある症状のようだった。
また妻がネットの海を漂い、情報を集めてきて教えてくれた。生まれ変わった最愛の妻だという少女と、結婚式を挙げる老人の画像を眺める。それは眉唾であったが、信憑性のあるものもいくつかあった。共通するのは「知らないはずの情報を語る」というところだろうか。
今そこで、帽子をかぶって散歩に行く準備をしている、我が子にも当てはまる。ともいえる。
小さな手を握って外へ出る。無邪気に笑い、狭い歩幅で一生懸命に歩く姿を微笑ましく思う。きゃらきゃらと笑う顔は愛らしく、妻によく似ていた。
けれど時折、空を見上げて眉尻を下げる。寂しそうに。
年不相応に。
だがその理由を、上手く説明できないようだった。ぽつりぽつりと単語を漏らすが、それをどうしたいのか、どうすべきなのかは分かっていないのだろう。
「地名が分かっているのだから、行けばいいじゃない」
そう妻が言った。
簡単に言うものだなあと思うが、その気楽さに支えられてここまで来た身でもある。それに確かに、歯がゆそうな我が子の姿を見続けることも心苦しい。
私は長期休暇に合わせ、飛行機のチケットを二人分手配した。
発案者の妻は、実家に用ができ、同行できなくなったのだ。心細くはあるが、道中を思うと留守番していた方がいいようにも思えた。
なにせ行き先は、山奥だった。
妻が根気強く聞き返し続けた結果得られた情報が、地名と、山の名前だったからだ。その地域にその山がある、と分かった時は、さすがにぞわりとした。
そして、ああ前世の記憶というものは、本当にあるのかもしれない、と思った。だから来た、ともいう。
衛星写真を見る限り、ハイキングコースではなさそうだ。調べてもあまり情報が出てこなかったのだが、山に入るには手続きが必要らしい。大したものではなく、簡単な記帳をするだけらしいが、管理する程度には厳しい道のりなのだろうか。念のため、登山装備を整えてきた。
目的地付近までレンタカーを走らせている間に、我が子は眠ってしまっていた。車に残し、山小屋のような場所で、入山手続きを済ませる。
受付の老人に話を聞いたところ、山道は思ったより険しくないそうだ。ただ入る人間は少ないという。
「こんな山に、なにをしに来たんだ」と問われて、ほとほと困ってしまった。こどもが興味があるんです、と正直に答えたが、ところで私はこの山の、どこへ向かえばいいのだろうか。
老人は「気をつけて」と私を送り、思い出したように「上にある滝がきれいだ。良かったら寄るといい」と地図をくれた。
車に戻り、我が子をゆりおこす。
眠たそうに瞼をこすると、座席に転がっていた花束を、慌てて抱えなおした。ここに来る前に「花がほしい」と急にねだられて、花屋に寄って手に入れたものだ。
青いバラが束ねられている。どうやらそれは、山に持っていくようだ。置いていったら、という助言が、首を振って却下された。小さい手で一生懸命それを握り、車から降りてくる。
装備を整えながら、滝があるんだって、と伝えると、目を瞬かせた。行きたい、というので、ひとまず行き先が決まる。
荷物を背負い、二人で歩きだす。
並んでいたのはたった十五分くらいだ。すぐに疲れてしまったようで、今はおんぶしている。それ用の装備で来てよかった。最悪野宿できる程度の荷物の上から、すうすうと寝息が聞こえてくる。
私はもくもくと進んだ。他にすることがないからだ。土を踏み、雑草を踏み、小枝を切り落とし、ただ進む。コンパスを眺めてみたりしながら、貰った地図と、GPS端末の画面を見比べて、ほうっと息を吐く。妻は少々方向音痴のきらいがあるが、私はそんなこともない。けれど、勘で進んだ先に、素敵なものを見つける才能は、彼女にあまりに負けていた。
遠くから水音が聞こえてきた時、ふと背中で目を覚ます気配を感じた。
「あ」と声がする。
滝が近いみたいだね、と話しかけると「うん」といやにはっきりした返事があった。
ほどなくして、滝の上へと到着する。
ふう、と肺から大きく息が漏れた。さすがに体がつらい。山など登ったのはいつぶりだろうか。荷物と共に我が子を下ろし、草むらに座り込む。
一息ついて顔を上げる。
想像以上に、眺めがよかった。
これほど登ってきただろうか、というほど視界が開けている。真っ青な空を遮るものなどなにもない。眼下には山並みが遥か向こうまで続いていた。そのずうっと向こうに、街が見える。なんという街だろう。地図を見ればわかるだろうか。
がさりという物音に顔を上げれば、花束を抱えた我が子の姿があった。小さな影が脇を通り過ぎ、滝へと近づいていく。危ないよ、と声をかけたかったのに、かけられなかった。
不要に思えたからだ。
川のほとり、滝の手前で立ち止まる。
その背筋は伸びていて、長く伸ばした髪が風に揺れていた。
「なにもこんなところで、一人で死ななくてもよかったじゃないか」
そう、言った。
「君は私を弔ってくれたからね。これで貸し借りなしだ」
視界に、青いバラが舞った。
小さな手から離れて、風に巻き上げられ、遠くへと、滝つぼへと飛んでいく。
そのまましばらく、時が止まったように流れていた。ふっと笑う気配がして「じゃあね」と小さく言い残すと、私の方へ振り向いた。
そこにはただ、私の娘が立っていた。
駆け寄ってくると、私の腕の中に飛び込む。「ねむくなっちゃった」と舌足らずに言いって、そのまま眠り始めてしまった。栗色のくせ毛をふわふわと撫でながら、ゆっくりと息を吐く。
私は眠った娘を背負って、静かに山を降りた。
思ったよりも短い旅路だった、と帰ってから思った。ほんの少しの観光を楽しみ、妻へのお土産を買い、再び飛行機に乗って、母国へ戻る。
「どうだった?」と妻が抹茶味のチョコレートを口に放り込みながら言った。
「滝がきれいだったよ」と私が答える。
「しらなーい」と娘は笑った。
それ以降、彼女が不思議なことを言いだすことはなくなった。きれいさっぱり忘れてしまった、と言った方がいいのかもしれない。いつかの未来で、こんなことがあったんだよ、と教えてあげるのもいいだろうか。
大きくなった彼女は「全然しらない」と言うのだけれど。