(五夏/「悪友」の番外編)
家に帰ると『しばらく家出します』という書き置きが残されていた。
「え、俺、一昨日帰国したところなのに?」
思わず独り言が口から転がり出た。マジ? と、まず傑の個室のドアを開けた。誰も居ない。風呂場、も誰も居ない。悟の部屋、にも居ない。トイレ、でもない。
海外で仕入れをしていた二か月の間に、傑も退職を済ませていた。つまり時間ができたのだ。よーし一緒にいっぱい遊ぶぞ、と意気込んだところでこれだ。
もう一度書き置きを見る。
家出したという以外に、なにも分からない。ぺろっとめくって裏側も見ても、コンロで軽く炙ってみても、他の情報が増えることはなかった。
スマホを取り出し、電話をかける。
『お掛けになった電話はただいま電波の――』
切る。
「え」と声に出す。
しばらく、ってどれくらい。
□
「ふう」と吐きだした息が、湯気に混じって消えていく。
見上げた先には青い空があり、ほんの少しの雲が流れていた。他に視界に映るのは、木造の屋根と、木とその葉だけ。ビルもない。電線もない。悟もいない。
ううんと腕を伸ばすと、ぱしゃりとお湯が跳ねた。
ゆっくり浸かれる温泉は最高だ。ほあ、と気の抜けた声が漏れるのも仕方がない。
財布と電源を切ったスマホと、わずかな着替えを鞄に詰め、今朝家を出てきた。
悟が仕事で家を空けた隙にだ。
「納品してくる。三時間くらいで帰るよ」とピースサインを両手で作り、いってきますのキスをせがんで出かけて行った。
まさか帰ったら家出されているとは、さすがの悟も予想できないだろう。
くっ、と喉の奥から笑いがこみあげてくる。
仕事を辞めたこともあり、時間があったことが幸いした。いや逆か、仕事をやめて時間が出来たので、はたと気づいたというべきだろう。
悟はどうも、私は恒久的にあそこにいる、と思い込んでいるらしいのだ。
なにをしてもどう振る舞っても、家に帰れば私が待っていると思っている。
学生時代はお互い一人暮らしだったため、そんな印象はなかった。就職と同時に同居を始めたあとは、私も仕事があったためか、違和感を抱いていなかった。お互い仕事をしているな、というだけだ。
だが辞めてはじめて、おや、と思う瞬間があった。
前回海外へと飛び出していった時のことだ。
朝起きると『ちょっと地中海あたりまで行ってきます』というメモを残していなくなっていた。
おかしな話だが、そこでようやく「事前の相談は無しなのか」という発送に至った。
そもそも悟は、一緒に会社をやろう、と誘ってきたのだ。今の仕事をやめて海外飛び回ろう、と言ったのにこれだ。ちょっと行ってきますで地中海だ。二か月帰ってこなかった。
さすがの私も、ふざけがやってこの野郎、くらい思った。
なのでこれは、正当な仕返しだ。
まず狙いをつけていたこの温泉旅館に電話をかけ、露天風呂付きの個室を二泊三日で予約した。
予約が取れると荷物をまとめ、書き置きを残して家を出た。そろそろ悟も家に帰ってきたころだろうか。どういう行動にでるのだろうか、と思うと多少ワクワクしてしまうので、全く私もどうしようもない。
せっかく悟も居ないことだ、灰原や七海を誘う案もあった。だが悟に居場所を突き止められた時、その場に居合わせさせるのは忍びなかった。絶対に面倒なことになる自信がある。
なので結局、一人で来た。
だがこれはこれで新鮮でいい。思えばどこに行くにも悟がいた。旅行に行こうかなと思えば、悟の予定を確認していたし、逆に誘われることも多い。記憶の中のどこにでも悟の姿があって、呆れるほどに一緒に居る。それでも飽きないのだから、しょうがないけれど。
そろそろ出ようか、と浴槽から立ち上がる。ざぶりとお湯が揺れる。ぺたりと木の床を踏む。音はそれくらいだ。
悟がいないと本当に静かだ。世界中の人間が消えてしまったのではないか、と疑うほどに。
バスタオルで体を拭きながら、温泉のあとはどこへ向かおうかと考える。一週間は帰らないつもりだ。
ああそうだ、ソーキソバを食べに沖縄に行こう。スマホの電源を切っているから、ウェブでの予約ができないところは面倒だが、まあどうとでもなる。
思えば、声も一切聴かないのは、これが初めてかもしれない。離れているときは電話にメールに、なんだかんだと連絡を取り合っていた。二日以上開いたことはない。
奇妙な感覚に包まれながら、浴衣に袖を通し、部屋へ戻った。
□
「ただいま」
帰ったのは、実に一週間ぶりだ。予定通りの家出期間を終え、コンビニから帰っただけの気軽さでドアを開けた。
結局悟には見つからなかったからだ。
温泉巡りをしたあとは沖縄に行き、屋久島にもいった。それでも日数が余ったので、最後に香川でうどんを食べて戻ってきた。
きっと悟は急な仕事でも入り、またどこかへいってしまったのだろう。そう思っていたのだが、玄関に靴があった。
あれ、と顔を上げると、部屋の中から音が聞こえてくる。話声と音楽、テレビか。
短い廊下を進み、リビングへ続く扉を開く。
ソファに悟が、ちょこんと座っていた。
大きなクッションを抱えている。拗ねているこどもみたいなシルエットだ。
「悟、仕事じゃなかったのか」
そう声をかけると、ぶすっとほほを膨らませて、こちらを見た。
「帰ってきたばっかだから、なんもねえよ」
「そうなのか? 全然来ないから、てっきりまた急な仕事でも入って、どこかに行ったのかと思っていたよ」
素直にそう白状したことで、当然のように見つけ出されてしまうはずだ、と思っていたと気づいてしまう。探しにこない、とは考えてもみなかった。いやに恥ずかしい。
悟はムッと唇を尖らせた。
「俺のことなんだと思ってんの」
じとりと睨でくる男の、となりに座る。行きよりパンパンになった鞄は、足元に置いた。
「探しに行ってもよかったわけ? なんか怒ってたんじゃねえの。スマホ電源入ってねえし、俺なんかした?」
言うだけ言って、視線が逸らされる。
怒っているというより、素直に拗ねているらしい横顔を眺める。悟の瞳には、向かいのテレビに映っている映画の内容が、反射して映りこでいた。
「全然わかんないから、うどん打ったりさぁ、蕎麦打ったりしてさぁ。だからしばらく麺料理しか出せないからな。で、冷凍庫パンパンになっちゃったから、仕方ないから映画見てた。仕事とかする気になんなくて、全部予定ずらしてもらったし」
それは悪いことをしたかな、とも思う。だがこれは正当な仕返しなので、謝る気はない。仕事の予定を変えたのは、悟の都合だ。
だがそれよりも、うどんや蕎麦を打ち始めたことが不思議で、気になって仕方がない。もしかして、一人で時間をつぶすのが下手なのか。それは知らなかった。なにせずっと一緒に遊んでいた。
「悟、変に可愛いところあるよね」
「ッ、ハア?」
「ああ、あと怒ってはいないよ。ムカついただけ」
「なんか違うの、それ」
「まあね。それでどうだった? 書き置き一つで急に居なくなっていたらびっくりする、って分かったかい」
せめてもっと事前に言ってほしいものだね。と肩をすくめる。
悟は絶句したように口をぽかっと開けて、こちらを睨んでいた。相変わらずクッションを抱えたままなので、面白くて仕方がない。「ふは、」と笑うと首を傾げられた。
「もしかして傑、俺のことすげぇ好き?」
「未だに愛想を尽かしていない自分に、驚くくらいにはね」
ムカつくし殴ることもあるが、結局それだけだ。
家出という名のバカンスを楽しんだら気も済むし、素直にここに帰ってきてしまうし、拗ねている悟をみたら機嫌も良くなる。
笑いが抑えきれなくて、くくっと喉を鳴らしながら荷物を開ける。
「はい、お土産」
テーブルに紫芋タルト、ちんすこう、温泉まんじゅう、と並べていく。クッションと一緒に不機嫌を横に放り出した悟が、興味津々で覗き込んできた。機嫌は直ったらしい。
「え、沖縄いいな。今度俺とも行こうよ」
「次は北海道がいいな」
「ならフルーツサンド食いたい」
「海鮮も食べさせてくれ」
笑った唇に、キスをされた。
白いまつ毛がすぐそばで揺れ、青い瞳がこちらを見ている。一週間ぶりという感覚は、ほとんどなかった。
「傑、晩ご飯はうどんがいい? それとも蕎麦?」
「……うどんかな」
「明日の朝も同じこと聞くから」
「悟を一人にしておくと、麺類しか食べられなくなるのか」
「次は素麺を習得してやるからな」
「どうして麺ばかりなんだ、パンでもいいじゃないか」
なにかこだわりがあるのか、とため息を吐く。
すると、キッチンへ向かうべくソファから立ちあがった悟が「あっ」と口を開けてこちらを見た。
「忘れてた。ピザも焼こうと思ったんだよ。でも家のオーブンちっさくてさ。入んなかったから、倍デカイの買った」
「え」
「たぶん、そろそろ届く」
そんなもの何処に置くんだ!
思わず叫んだ時、ピンポンと宅配到着のベルが鳴った。