(灰七)
「七海おかえりー」
ドアを開けると、灰原の陽気な声がした。それから、めんつゆの匂いが漂ってくる。思わずぐうと腹が鳴った。
「ただいま」と答え、のろのろと革靴を脱ぐ。手に持っていた物を置く。短い廊下を進むと、キッチンからひょこりと顔が覗いた。丸くて大きい黒い瞳が、七海を見ながらぱちぱちと瞬きをしている。かと思えば、ニッと笑う。
「もうすぐ出来るから、そこに座っててよ。それともお風呂先に入る?」
「出来上がるなら、先に」
いただこうか、と答えてふと顔を上げる。壁掛け時計の長針は、とっくに頂点を越していた。「おや」と振り返ると、見越したように「七海の夜食に決まってるでしょ」と陽気な返事があった。
「僕はもちろん、とっくに食べたよ」
「わざわざ申し訳ない」
「これくらい全然、なんてことないよ。疲れた七海の労いだと思うと、むしろ力が入るくらい」
だよ、と大きく頷いた灰原が、コンロの火を消した。ぱたぱたとスリッパの裏を鳴らして、戸棚からどんぶりを取り出す。せめて手伝おうとキッチンへ向かえば「立ち入り禁止!」と立てた手のひらに追い返されてしまった。
「あとよそうだけだから。あ、今のうちに手でも洗ってきたら?」と言われ、そうしよう、と洗面所へ向かった。手を洗い、ついでに顔を洗う。水滴がぽたりと落ちる。鏡に映った自分の姿を見て、まばたきをし、それから顔を拭いた。
戻るとテーブルの上に、もうもうと湯気の立ち昇るうどんが置かれていた。その向かいで灰原が組んだ指の上に顎をのせて笑っている。彼が笑顔でない時の方が珍しいのだが、と思いながら席につく。
「いただきます」と手を合わせ、漆塗りの箸を手に取った。
「召し上がれ。もう遅い時間だから、消化にいいようにくたくたに煮ておいたよ」
ふう、と息を吹きかけ、うどんを口へ運ぶ。灰原の言葉通り、たっぷりとつゆを吸い込み柔らかくなっていた。温かさとめんつゆの甘味が、疲れた体に染み渡る。これほどゆっくり食事を口にしたのはいつぶりだろうか。静かに食べ進める合間に、記憶を手繰る。はて。
「美味しい? ってきくほど凝った味付けじゃないけどね。卵と鶏肉とネギだし」
「美味しいですよ。疲れた体に沁みる」
「そっか! よかった」
灰原の周りだけ照明が一段階明るく設定されているのでは、と疑うほどの笑みに目を細める。つるつるとすすって、ほうと息を吐く。
「遅くまで待たせて、すまない」と言えば「そんなことないよ」と即答される。
「七海はずっと頑張ってたからね。うどんを煮るくらい、なんてことないよ」
「君はいつも早寝では。日付をまたいでも起きているなんて、珍しい」
「夜更かしだってできるよ」
ああ言えばこう言う、とふと笑う。灰原がどうとったのかは分からないが、一緒になってけらけらと笑った。
つゆまで飲み干してから、静かに箸を置く。腹に食べ物が溜まったからか、急激に眠気が襲ってきた。あくびがこぼれそうになり、うつむいてかみ殺すも、くあ、と空気が抜けていった。灰原に聞こえてしまったのだろう。眠気を煽る、穏やかな声色を向けられた。
「今日はゆっくり眠りなよ」
「……そうしようか」
「必要だったら子守唄もつけるよ」
「それは結構」
「えー、僕上手いと思うよ。妹によく歌ってあげていたから」
「歌ってもらうまでもなく、寝てしまいそうなので」
「ははは、もう寝ちゃいそうだもんね。ほらベッド行きなよ、洗い物はしておくから」
「それはさすがに」
わるい。もう一度あくびをかみ、どんぶりと箸を持って立ち上がる。まぶたは今にも落ちてきそうだが、どんぶり一つくらいなら洗える。そう思ったのだが、立ちふさがった灰原に阻止されてしまった。
「気にしすぎだよ。それにほら、どう見ても僕の方が元気でしょ」
元気をアピールするように力こぶを作ってみせるものだから、可笑しくて思わず笑ってしまう。そのすきにどんぶりを奪い取られてしまった。「大丈夫」「大丈夫だよ」と灰原が背を押すので、お言葉に甘えてゆるゆると寝室へ向け歩き出す。ぱたりとベッドに倒れ込み、まぶたを下す。
ああ、しまった。スーツから着替えていない。